第14話 運命を乱す者
だが、その時だった。波打ち際からバシャバシャという足音が響き、何者かが砂を踏み締めながらこちらへ向かってきた。
サイローネの目が一瞬だけ険しくなり、手元の緋色の服をさらに強く握りしめた。その指先の微かな震えに気づいた者はいなかったが、彼女自身も思いもよらない、安堵のため息の震えかもしれない。
メルクティアが声を上げる。
「誰か知らんが、遅れてご到着のようですぜ。ん、随分としなびた野郎だな?」
その声に、アルセリアは恐る恐る顔を上げた。涙に滲む視線の先に、一人の影がボンヤリと浮かび上がり、こちらへ歩いてくる。砂地をしっかりと踏み締め、したたり落ちる海水をポタポタと垂らしながら、その影はアルセリアの前で立ち止まると、ゆっくりと何か重く長い物をアルセリアの顔の前に置いた。
それは――宝剣だった。海に泳ぐに邪魔になると、海中に沈んだ筈の、自らの剣。王国の象徴たる宝剣。
「なっ……」驚きと混乱で声が詰まる。
アルセリアは顔を上げ、目をこらし、その者の顔を見上げた。そこに立っていたのは、先ほど海で自分を助けた兵――いや、違う。肌着の首元に染み込んだ黒いシミ、真っ白な髪。老齢により痩せた四肢、頑固に弾き結ばれた口、太い眉毛の下に光る空色の瞳、そう、自分には最初から分かっていた。だが、認めるのが恐ろしかったのだ。
「じい……フィデリオス……」
その名が唇を離れた瞬間、アルセリアの胸中に幼き日の記憶がよみがえった。彼を叱り、導き、そして守り続けてくれた男。その存在が今、目の前に立っている。彼の蝋のように白い顔には生気がなくとも、その眼差しにはかつてと変わらぬ優しさが宿っていた。
アルセリアは泣き笑いの顔で。「あ、あの時、言ったのは、「行け」じゃない。池、池の事だろう?あの城の庭にあった池。すぐには分からなかったが、ちゃんと分かったぞ。分からいでか!その方、若、あの時と同じですなと言って笑ったのだろう?。し、沈んでいく直前に……」
アルセリアは声を震わせながらそう言うと、フィリアデスは無言で頷き、かすかに微笑んだ。
「うう……またその方に助けられた。しかし、今度はその方は...すまぬ、私は……私は、それなのに汝を軽んじ、遠ざけたというのに……何故に、また……?」
アルセリアは肩を震わせ、地に顔を埋め崩れ落ちた。
涙が砂を濡らし、声にならない嗚咽が空気を震わせる。
フィリアデスはアルセリアの問いには答えず、静かに立ち上がると、ゆっくりとサイローネの前へ進み、一膝をついた。深々と頭を垂れ、臣下の礼を取る。
「じ、じい……?」
突然の行動に困惑するアルセリアをよそに、サイローネは目を細め、鋭い眼差しで、ずぶ濡れの老体をじっくりと眺めた。
「そうか、お前がか……よくもその老いた身で、この男を救い出したものだな。」
彼女の声には僅かな苛立ちが滲むが、それ以上に驚きと興味が交じっている。
「私の計画を乱したことは腹立たしくはあるが、しかし見事でもある。まったく、男という生き物は……時折、このような超越的な偉業を成し遂げるので、馬鹿にできぬのだ。」
サイローネが賞賛の眼差しを向けると、フィリアデスは申し訳なさそうにさらに深く頭を垂れた。
「して、何か私に願いがあるようだな?」
その問いに、フィリアデスは静かに顔を上げる。血の気の失せた顔にもかかわらず、その目には確かな光が宿っていた。彼は恐れることなく、まっすぐにサイローネを見据える。
「ほう……お前が、あれを王として立たせると?」
サイローネは微かに唇を歪めた。
「……良いだろう。やってみるがいい。ただし——失敗すれば、どうなるかは分かっているな?」
そう言うと、サイローネは緋色の服を差し出した。