第12話 サイローネの実験
王の偉さとは、誰よりも優れていることではなく、誰よりも多くの者を王とすることなのだ。私は、脇役でもよい。王であるからと言って、必ずしも主役である必要はないのかもしれない。そんな考えがアルセリアの中で萌芽した瞬間であった。アルセリアは、海から上がってくる、無数の兵士たちを見る。まだ若いもの、すでに家庭を持っているであろう壮年の男。彼らに、当たり前のようにあった日常を、人生の連続を、アルセリアは、断ち切ってしまった。彼らは彼らの人生の中で、ささやかな王国を築き、そこに君臨してた王であったとも言えた。今、彼らは死の次に来る生に向かって、ひたすらに海底を歩いて、向こうに広がる森の中へ向かっている。そこに行けば、救われるとでもいうように…
砂浜に響くのは、兵たちの無機質な足音だけだった。その瞳には深い怨念が宿り、それがアルセリアの胸を鋭く貫く。森に揺れる女物の服――鍛え抜かれた肉体にぴたりと合うように作られたその服は、奇妙なまでに美しく、そして滑稽だった。これは残酷な喜劇であり、アルセリアに対する無言の抗議のように思えた。
「兵も、実は王である…か。であるなら、私は、彼等を彼等たらしめる、事が出来ていたとはとても言えぬな…」
霧の中に消えて行く、兵達。
「武具を捨て、女の服を纏う……それによって、次の彼等の人生が決定される……」
アルセリアはその真意に気付いた瞬間、胸が締め付けられるような痛みを感じた。いつのまにか、サイローネは、メルクティアの機械縫いをやめて、手縫いの作業に入っていた。集中しているようで、声をかける事を憚られて、アルセリアが悩んでいると、「言いたい事が、あるなら言うてみよ?」とギラリと睨まれて、アルセリアは、ゴクリと唾を飲み込んでから、口を開いた。
「サ、サイローネ、いや…サイローネ様。貴女の目的はわかりました。だが……彼らは、私の兵達は、本当に女として生まれることを望んでいるのでしょうか?」
サイローネは顔を上げ、柔らかいがどこか冷ややかな口調で答えた。
「彼らの望みなどどうでも良い。私の計画に必要だから、彼らを女とするのだ。それによって、男が減れば女たちの不幸は確実に減り、世界は安らぐ。そのことで、彼らの魂も、また安らぐのだ」
「お、男を減らせば安らぐのですか?」
「そうだろう。殺したり、奪ったり、戦をするのは、いつも男ではないか。」
アルセリアは言葉に詰まった。ふと、王妃の悲しげな目を思い出す。あの目は、戦争の重みに耐えきれず訴えかけていた――まだ続けるのですか?と。だが…
「……私は領海を広げ、交易を盛んにし、民を豊かにするために戦を始めたのだ。それが……」
「男よ、自分に嘘をつくな。」サイローネが遮るように言う。
「お前たちは、あれがただ好きなだけだ。」
アルセリアは反論する言葉を持てなかった。軍を率い、号令を下す瞬間に感じる全身を駆け巡る高揚感――その甘美さを思い出し、彼は沈黙した。だが、それだけでは…
その姿に、メルクティアが冷笑を浮かべて凄む。
「もっと喜べよ、人間。いつまで経っても殺し合いの定めから逃れられない哀れなお前たちを、サイローネ様が、危険を侵してまで救おうとしてるんだからよ。」
救済――?アルセリアは自問する。それが本当に私たちが望むことなのだろうか。確かに、殺し合いは良くないに決まっている。無いのが一番だろう。争い好きの男が減り、女だけになれば、確かに大規模な争いは減るに違いない。それをサイローネは自らの能力を、十全に使って、限定的とはいえ、人間の世界を変えようとしている。だがさっきメルクティアが言ってた話では、神は人間の観察者となると言ってなかったか?どう言う事だろう。神の御心は人間には測り知れないものだ。だが、この行いは……性急すぎる。過激すぎる。何かが摂理に反しているのではないか?
「お、恐れながら、サイローネ様。あなたが我々を救おうとしてくださることは大変ありがたく思います。ですが、もしかして、その行いは、この世の秩序、摂理に抗う事になりはしませんか……。で、あるなら、それが、あなた様に何か差しさわりを与えるのではありませんか?」
手編みの刺繍に集中し、しなやかに動いていたサイローネの手が、突然止まった。彼女の目が鋭くアルセリアを睨む。その瞳がほんのわずかに揺れているのをアルセリアは見逃さなかった。
「人間よ。差しさわりなど何もない。取るに足らぬお前が、私の身を案じるだと?」
その言葉にアルセリアは息を呑んだが、サイローネはふと微笑みを浮かべる。
「だが、よい。赦そう。お前にはこれから十全に働いてもらわねばならぬからな。確かに、これは摂理への挑戦であり、試みでもある。私の父――天上の主たるお方に新しい世界をお見せする事でもある。」
「つまり、それは……何らかの実験の様なものだと?」
「最近では、そういうのか?まあ、そうかも知れぬな。」
アルセリアは呆然とした。あまりに軽すぎる。これが神の行いというのか?
「そ、それを我が国で行うのはなぜですか?」
「エステリスを救う為だと説明した筈だが?」
「エステリスを……それだけの為だけに?」
「それが一番の目的だが。父上に、私の正しさを証明するには格好の機会だと思ってな。」
その言葉を聞き、アルセリアはふと思った。これは神の娘による、親への反抗――そんな人間的な感情が背景にあるのではないかと。だがその考えを飲み込む前に、サイローネがわずかに動揺したような気がした。
「戯言はこれまでだ。」サイローネは、議論に終止符を打つかのように、静かに刺繍針を動かし始めた。その指先から生まれる糸の軌跡は、まるで何か神秘的な力を宿しているかのようだった。赤い布が光を受け、風に揺れる様子を見た瞬間、アルセリアの全身が硬直した。