第1話 序章:秋の海辺
序章:秋の海辺
それは、遥か昔の秋の中程だった。海辺の砂浜に、午後の柔らかな斜陽が、金色の波頭を照らしていた。ひんやりとした空気が漂い、さざ波の音が規則正しく耳に届く。その静寂に混じり、奇妙な音が響いていた。
「カタカタカタ…」
その音は砂浜の奥、赤や黄色に染まった葉が舞い落ちる薄暗い森の中から聞こえてくる。霧が立ち込め、秋の陽光を遮ったその場所は、昼なお暗い影の中に沈んでいた。
森の奥で、白い何かが規則的に動いていた。それは小鳥が何かをついばんでいる様に見えたが、よく目を凝らすと、金属のペダルを踏む小さな靴だった。靴がペダルを踏むたび、「カタカタ」と音が鳴り、その動きに連動するように鋭利な針が緋色の布に突き刺さる。
また良く聴くと、その音には不思議な旋律を伴った歌の様なものが混じっている。まるで誰かが遠くで静かに子守唄を紡いでいるようだった。
「カタカタカタカタ…カタカタカタカタ…」
「チク、タク、ツイ、ララ、チク、タク…」
小さな白い手が布を押し進めるたび、緋色のビロードが波のように流れていく。
そのリズムは、波の音や森を揺らす秋風と調和し、奇妙な調べを生んでいた。
ペダルから足が離れ、音と歌が途切れる。
白い指が赤い布地の縫目の出来の程を確認するようになぞっている時、重層的金属音の男の声が響いた。
「しかし、本当にやるんですかい?」
突然、作業台が声を発した。静寂を破る、心配そうな問いかけ——。
それは奇妙な姿をしていた。四本脚の動物のような体躯を持ちながら、全身が黄金色に輝く金属でできている。流れるような毛並みが精巧に彫金され、引き締まった体には緻密な装飾が施されていた。
背中は平らで作業台のような形状をしており、さらに臀部から生えた尻尾が特徴的だった。それは緩やかな曲線を描きながら胴体の下へ伸び、その先端はまるでペダルのような形をしている。
しかし、何よりも最も奇妙なのは、その首から上だった。
そこには髭を蓄えた人間の男の顔があり、頭頂には円錐形の帽子が収まっている。金属でできたその顔は、驚くべきことに唇を動かし、まるで生き物のように言葉を発していた。
それに別の女の声が答える。澄み切って麗麗とした声音には気迫と気品があり、低く抑えた響きの中には、どこか決意と躊躇が混ざりあっている。
「もう…決めた事だ。それに罪はお前には及ぶまいよ…」
最初の声が呆れたように続ける。
「でも、貴女様はただじゃ済まんでしょう…」
「…そうかもしれぬ。だが、これ以上の辛苦を強いる事こそ、私自身にとって最も耐え難い罰のように思えるのだ…」再び答える声には確固たる決意が滲んでいた。
「しかしそれで、本当に呪いが解けりゃあって事ですぜ。」「お父様は確かにそうおっしゃった。あの方のそういうところは、信頼できる。」確信に満ちた声が応える。
「はあ…それにしても、まったく向こう見ずなことですぜ。まあ、貴女はあっしの恩人だ、地獄の果てまで付き合いますがね…」
「すまぬな…」
「それで、お会いなさった王様は、どうでしたかい?聞くところによると、用兵の天才とか?」
「ああ、だが私には大した才気も器量も感じられぬ、必死に王たろうと足掻く凡夫に見えたよ。もしかしたら、呪いの影響で、生来の性質を歪められておるのかもしれぬな。それに…」
「何ですかい?」
「根は善良とも感じた。そして、私の服をじっと見つめておった。表には出さなかったが、もしかしたら、美しいものが好きなのかもしれぬな。」
「へえ、そうですかい。服をねえ…それじゃ、案外見所があるじゃねえですかい?」
「そうかもな。まあ、残念ながら、あと数刻で死ぬ運命にある者ゆえ、どうでも良い事だがな。後はただ、操り人形として働いてくれればそれでよい。」
「ちげえねえ。」
その時、霧がふわりと揺らぎ、一部が人の形をなして現れた。生気も抑揚もない声が、静かに告げる。
「……様、ご指示通りの数、縫い上げ、全て木の枝に吊るし終わりましてございます。」
「ご苦労だった。此度は数が多く、大変であったろう。しばし休んでいよ。」
「はい、ではまた後ほど……」
そう言うと、霧の形をしたものの気配はゆっくりと薄れ、やがて消え去った。
「さて、後はこれだけか……」
小さな白い手が、赤い布地を指先でなぞる。その時——。
遠くで、鈍く重い砲声が響いた。空気が震え、砂浜全体が一瞬、軋むように揺れる。
「よし、馬鹿どもが始めたようだ。」声が鋭くなる。
「さあ、これより摂理を編み直すぞ。」
再び針が布を刺し貫く音が響き始めた。そのリズムが次第に大きくなり、砲声さえも飲み込むかのようだった。