もう一人の編集者
席についた男は高々と挙げた右手をヒラヒラさせウェイトレスを呼ぶと
「レイコ1つね!」
そう言った。
聞き慣れない単語にウェイトレスが首を傾げると
「なんやぁレイコが通じんのかいな…レイコっちゅうたらな、冷たいコーヒー…略して冷コ。つまりアイスコーヒーの事やがな♪」
言われたウェイトレスは心底納得したとばかりに傾げていた首を今度は大きく縦に振ると
「かしこまりました。少々お待ち下さいね」
そう言って足早に戻って行く。
男は運ばれて来た“お冷や”を一気に飲み干すと、生え際が後退して人より広くなった額を“おしぼり”で拭い
「ったく…レイコは全国共通語にするべきやっちゅうねん!なぁ!お二人もそない思いまへんか?」
と同意を求める。
「は…はぁ…」
唖然とした顔の岩清水と草木が男女デュエットの様にハモる。
「あぁ!急に押し掛けて失礼しましたな!私こういうもんですねや」
男は胸ポケットから一枚の名刺を取り出しテーブルに置いた。
名刺ケースにも入れず裸のままポケットに入れられていた“それ”は、男の汗を吸って少し湿って皺もよっている。
それを見た草木の顔は、あからさまに嫌悪感を示している。
岩清水は心の中で諦めの溜め息を吐くと、思い切ってオヤジ成分を吸ったその紙を手に取る。
無意識にだが、汚い物を触る時の様に人差し指と親指の二本だけで触っていた。
だが男は特に意に介する様子は無い。
その名刺には「宍戸書房 宍戸豪」と記されていた。
岩清水と草木が顔を見合わせたタイミングで宍戸が口を開く。
「まぁ平たく言うたらスカウトですわ」
「あ…いや…でも…俺も草木さんも別の出版社と契約してまして…」
岩清水の言葉に草木も頷く。
すると男は運ばれて来たばかりの“レイコ”にシロップとフレッシュを入れながら
「わかってま。せやけどなお二人さん…それが問題ですのや」
そう言って真剣な眼差しを二人に向けた。
「問題…ですか…?」
「そらもう問題も問題!大問題やがな!」
宍戸は吐き捨てる様に言うと、ストローも挿さずにグラスごとコーヒーを流し込む。
1/3ほどに量の減ったグラスをテーブルに置き
「ええでっか?今から私の言う事…信じられへんかもしれまへんが、耳の穴をかっぽじってよぉ聞いとくんなはれや」
「はぁ…」
生返事を返しながら岩清水が唾を飲み込む。
「あんさん等お二人…えらい事になってまっせ」
「えらい事?」
怪訝な表情で草木が尋ね返す。
「せや!ドえらい事や!」
「もったいぶらないでハッキリと仰って下さいます?」
いらついたのか、草木が少しばかり棘のある口調になっている。
「その前に…や。お二人こそ心当たりがあるんちゃいまっか?」
問われた二人は肩を小さく振るわせた。
「図星でっしゃろ?」
そう言うと宍戸は少し顔を前に寄せ、ひそひそ話をする時のポーズで
「今、世間を騒がせとるオカルト的な事件の数々…あれアンタ等の仕業やろ?」
二人が今度は肩を大きく振るわせる。
「あ、いや…あの…」
岩清水がもごもご言っていると、それを制する様に宍戸が続ける。
「いや、これは私の言い方も悪ぅおましたな。正確には“意図せずお二人の仕業になってしまった”そんなとこでっしゃろ?」
視力が5.0ありそうな程に目を見開いた二人が顔を見合わせる。
「あ、あのぅ…その事について何かご存じなんですか…?」
探る様に草木が訊くと、宍戸は当然とばかりに大きく頷き
「あんた等を囲っとるんは甲斐っちゅう男やろ?」
今度は二人が大きく頷く。
「で、一つ確認したいんやが…契約書を書く時に指か何処かを怪我せぇへんかったかいな?」
「あ!色々とあって二回契約書を書いたんですが、二回とも指に小さな傷が出来てて契約書に少し血がついちゃったんです!」
岩清水の言葉に我が意を得たりと草木も続く。
「私も!私もそうでした!不思議な事に書いてる時には気づかなかったんですが、契約書を書き終えると血が付着してたんです!二回とも!」
興奮して早口になっている。
「はぁ~…やっぱそうでっか…」
眉間に皺を寄せた宍戸が苦虫を噛み潰した様に続ける…
「お二人さんなら…“血の契約”って聞いた事ありまっしゃろ?」
「血の契約って…ホラー作品によくある悪魔と契約を交わす時のアレですか?」
「それなら勿論私も知ってますが…まさか?」
二人の返答を聞いた宍戸は広すぎる額をピシャリと叩き、それはそれは長~い溜め息を吐き出してからボソリと答える…
「その“まさか”ですのんや」
「えっ…」
返す言葉が見つからずに居る二人へと、宍戸が更に続けた。
「ハッキリ言いまひょ。あの甲斐って男の本名は“カイゼル”…自身は直接人間界に影響を及ぼす程の力は持ってへんが、人心把握能力に長けとってなぁ…人の不安や恐怖を喰らって養分とする悪魔なんや」
「は?」
「悪魔には縄張りがあってな…奴は日本を“シマ”にしとる。で!奴が考えたんがこの狭い島国を一気に不安と恐怖に陥れる方法や。それがアンタ等を利用して日本に怪異を蔓延させる事!作家として燻ってたアンタ等の自尊心をコチョコチョと擽ってやな、アンタ等の書いた事を実現させるっちゅう契約書を交わさせたんやがな…つまりアンタ等は心の闇に突け込まれたっちゅう訳や…」
「…」
「…」
自尊心を擽られて気持ち良くなった…
図星である。二人はぐうの音も出ずに押し黙る。
「まぁまぁお二人さん、そない気落ちせんと!私はアンタ達の力になる為にここへ来たんやから」
一度小さく頷いた草木が意を決した様子で口を開く
「あのぅ…宍戸さん、貴方は一体何者なんですか?」
「ん?ハハハ♪そらぁアンタ!私はしがない出版社の社長やがな…まぁ…それプラス…」
「それプラス…?」
「シシトリアっちゅう名前の悪魔でもあるんやけどな♪」
「!!!」
「!!!」
絶句した二人は酸素の足りない魚の如く、口をパクパクさせるしか手立てが無かった。