始まり
コツコツコツコツコツコツ…
静寂の中、ペン先が机を叩く音が響く。
リズムは良い…良いが苛立ちが含まれているのも聞いているだけで判る。
カリカリカリカリ…
時折…本当に時折…短時間だがペン先が走る。が、直ぐに舌打ちと共に止まり、再びコツコツという苛立ちの音に戻ってしまう。
苛立ちの主の名は岩清水透。
本名では無い。ペンネームである。
職業は小説家…と言えば聞こえは良いが、出版も連載も経験は無い。
時々、風俗ライターの真似事をしたり、日雇いの肉体労働などで食い繋いでいる、謂わばフリーターである。
そんな彼が何故、眉間に深い皴を刻み、タバコの量を増やしながら原稿用紙に向き合っているのかと言うと、とある賞に応募しようと一念発起したからである。
年齢も32歳…決して若くはない。
大学を出てから10年、就職の経験も無くずっと文章だけを書き続けて来た。
出版社の目に留まればと複数の小説投稿サイトでも書いた。
恋愛小説、推理小説、ホラーにコメディ…時には不本意ながら異世界転生やファンタジーも書いた。ジャンルに拘ってる場合ではなかった。なりふり構ってられなかった。「ウケりゃあいい!売れりゃあいい!」その想いだけで机に向かって来たのだ。
だがやはり本来書きたかった純文学への未練が断ち切れず、名のある文学賞への応募を決意したのだった。
しかし書き始めて3日が経つが、まだ原稿用紙は2枚と埋まってはいない。
応募締切まで日数は十分にあるが、流石に自分の才能の無さに閉口する。先ほどから続く苛立ちはその表れだろう。
深い溜め息と共にペンを置き、更なる深い溜め息を吐き立ち上がる。向かった先は冷蔵庫。
食料らしき物は殆んど入っておらず、そのスペースの殆んどをビールが埋め尽くしている。
彼は一番手前の列から一本を手に取り、肩をぶつけて冷蔵庫を閉じた。
そして気分転換に…と、パソコンに落としてあったお気に入りの音楽を流す。
イントロに合わせて軽くステップを踏み、おどけた様子で腰を振った。
やがてイントロが終わり、Aメロが始まると同時にビールのプルタブを開く。
心地よい音と同時に少しだけ泡が指へと跳ねた。
それをペロリと舐め、そのまま飲み口へと運ぶ。
顔を一気に跳ね上げると、喉から内臓へと爽快感がなだれ込み、胸につかえた劣等感が洗い落とされた気がした。
半分ほどを流し込んだ時、ふと気になって過去に書いた投稿サイトをチェックしてみた。
するとその内の一つで赤い文字の通知が目についた。
「感想コメントが書き込まれました」
“マジか!?”
コメントが書き込まれるなどいつ以来だろう…
良いコメントだろうか?アンチコメだったらどうしよう…
岩清水は不安7割、期待3割でコメント欄を開いた。
するとそこには信じられない事が書かれていた…
「初めまして岩清水先生。突然のコメント失礼いたします。私共この度新たにKAI出版社という会社を立ち上げまして、私は社長兼編集者の甲斐昭三と申します。こちらのサイトにて岩清水先生の作品を拝読し感銘を受けまして、つきましては弊社からの出版を御一考いただけないかとご連絡させてもらった次第です。もし宜しければ一度お会いしてお話させていただければと思っております。弊社HPのリンクを貼っておきますので、御連絡いただければ幸いです。」
それを読んだ岩清水は、一口目の飲みっぷりが嘘の様にチビりとビールに口をつけ、生唾なのかビールなのか判らないほど小さくゴクリと喉を鳴らすと、更に小さな声でボソリと呟いた…
「マジかよ…」