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二十分間のねぐら

作者: アマザワ

「オーケー、データを入手した」

 暗い部屋。窓の外の明かりが差し込み、舞い散る埃が線を作っている。それを眺めながらマイクに話しかける俺は、何を隠そう某国のエージェントだ。そしてここはある機関の一室。俺の手には小さなメモリカードがあり、こいつに先様の持つ極秘データをコピーして持ち帰るのが今回の任務だ。監視カメラやガードマン、各種防犯システムは勿論、誰の目にも触れないうちに屋内に潜入し、パソコンの厳重なセキュリティもクリアして、短い時間で必要なものを抜き取る。少し難しいように思えるが、俺ほどの凄腕となると朝飯前だ。あとは無事本部帰るだけである。

「これより帰還する」

 カードをしまい、再度仲間に連絡して、帰路に就く。車を飛ばしながら俺は大きなため息をついた。

 実を言うとこの仕事はつまらない。最初はわくわくしたさ。映画で見るようなあんな派手な世界を想像していた。でも現実は違う。銃撃戦なんて存在しないし、ヘリでビルに突っ込まない。ダクトも這いずらないし、ビルを素手で登りもしない。どこかへ潜入して誰かの何かを盗んでくる、そんなのばかりだ。これじゃあエージェントというより泥棒じゃないか。銃や刃物より警察に怯えたほうがいいのかもしれない。まあ俺は凄腕なので警察に捕まるようなヘマはしないが。そこが単なる泥棒とエージェントの違いかな。逆に考えるとそのくらいしか違わないのだけれど。

 泥棒と大差ないのに、エージェントだからと厳しい制約があるのも退屈である。どこでも偽名、半年に一回は引っ越し、ルーティーンはなし、両親や兄弟とは極力疎遠に、恋人や新しい家族を作るのは現役を引退してから、等々。他にもあるが、一番つまらないのは恋人や家族を持てないところだ。いつ死ぬかわからないし弱みにもなるからと理由はちゃんとあるわけだが、くたびれて帰宅しても誰もお帰りと言ってくれないのがとても寂しい。あまりにも寂しくてつい、実家から犬を連れて帰ってしまった。

「ただいま」

 本部で諸々済ませて晴れて帰宅。家は本部が用意した郊外にある平屋だ。鍵を開け、ネクタイを外しながら、奥の寝室まで向かう。

「ハイ、バーナード。変わりはないか?」

 部屋を覗く。床に置いたクッションに、中型の犬が寝そべっている。そいつは俺の声に耳を少し動かすと、顔をあげた。鼻先がぴすぴす動いている。俺は上着を乱暴に脱ぎ捨て、ああ疲れたとベッドに寝転んだ。上着のポケットに入れたままの端末だのマイクだのが、床のタイルと触れ合ってガチャガチャいったがどうでもいい。どれだけつまらない仕事だろうが仕事は仕事、疲れるのだ。ベッドから落ちた指先に柔らかいものが触れる。犬用のぬいぐるみである。ピンクの体に長い耳、一見ウサギのようだがくるくるの長い尾がついている。押すとピイと鳴くそいつは、バーナードのお気に入りだ。それを拾い上げて投げる。

「そら、友達落ちてるぞ」

 軽く弾んで床に落ちたぬいぐるみを見て、バーナードがのそりと立ち上がる。ゆっくりした足取りでぬいぐるみの側まで行くと、大事そうにくわえてクッションまで運んでいった。俺はシャツのボタンを外し、普段は隠し持っている拳銃を取り出す。

「それにしても今日もつまらない仕事だったな。美味いものでも食って気分を上げたいな。買い出しに行くか、あるもので食うか。ああでもその前におまえに飯だ」

 飯という単語に、バーナードがちらっと反応を見せた。

 こいつは俺が十代の頃に家の前で拾った犬だ。誰かが置いて行ったのか、それともどこかの野良犬が産み落として去ったのか。誰かにいじめられていたらしく、体中怪我をしていた。病院に行き、家へ連れて帰って、ミルクを飲ませた。毛並みの悪いやつで、ブラシをしてもすぐに毛がもつれた。それから始終唸って愛想がなかった。だから両親はあまり歓迎しなかった。けど俺は嫌いじゃなかったから、子犬はそのままうちの子になった。名付け親は俺だ。俺は俺なりに頑張ってこいつの面倒を見た。芸も仕込もうとしたぜ。まあ何も覚えなかったけど。母親が頻繁に口にした庭に出ろだけは覚えたな。母に庭へと命じられるたび、バーナードはペットドアから器用に庭に出て、良しと言われるまで家には入ってこなかった。賢くて、ちょっと健気なやつなんだ。

 俺たちの経緯はそんなもんだ。正直、俺たちがいい友人なのかはわからない。嫌われてはないと思うが、しかし俺はこいつの尻尾が揺れたのを見たことがないし、人間が怖いままなのか、大きくなった今も俺の近くにすらあまり来てくれないから。

 そうだ。犬を連れて帰るとなったとき、本部は当然難色を示した。犬も駄目だって。でもこいつもいい歳だ、つまり老犬だ。子犬なら残していくのは不安だが、こいつはきっと俺が仕事でヘマするより先に神様の元へ行くだろう。万が一俺が先でも問題ない。少し離れた先に知り合いがいて、その人が面倒を見てくれる。その人も元エージェントなので問題ない。俺は色々言い訳を積み上げて、本部を押し切ったわけだ。

「いや、何より先にまず風呂だな」

 髪の毛をつまむ。どうもごわついている気がする。埃っぽい場所にいたのだから当然か。夕飯くらい綺麗な体で食べたいと、俺は拳銃片手にあくびをしながら風呂場に向かった。

 熱いシャワーを浴びたらズボンだけはいて腰に武器を差し込みキッチンへ行く。冷蔵庫を開けたがろくなものがない。これは買い出だ。とりあえずはとビールを出し、飲みながらバーナードを呼ぶ。

「おおい、飯だぞ」

 寝室から爪が床を叩く音がやってくる。その音を掻き消すようにチャイムが鳴った。

「バーナード!」

 誰かなんて考える暇はなかった。俺は腰の武器を構える。セイフティを外すと同時に玄関が蹴破られ、幾つもの軽い音が壁に穴を開けた。どうやらチャイムは挨拶だったらしい。

「止まれバーナード!」

 俺は叫んだ。視界の端に目を丸くする犬が映る。片足を上げて微動だにしない。いいぞ、そのまま、そのまま。

 撃ってきた方向へ撃ち込む。銃声に、視界の隅でバーナードが飛び上がったのが見えた。彼はさっと左右を見回すと、俺のいるキッチンへ矢のように飛び込んできた。その速さが非常事態を表していて、俺はごめんと内心で謝る。家中が騒がしい。襲撃されていると仲間に連絡しようとして、俺は舌打ちをした。なんてこった、マイクもイヤホンも端末も、何もかもが寝室だ。何をやってんだ俺は。なんて間抜けだ。エージェントなんだから、いつだって全てが手の届く範囲になきゃ駄目なのに。

「コルサがあるだけマシなのか」

 でもそれだけだ。弾の予備はないし、助けも呼べない。おまけに上半身は裸。敵は構わず撃ってくる。家具を盾にしながら俺は自分の甘さを悔いた。油断していた、慢心していた。若気の至りで入れたタトゥーの女神が俺を笑っている。馬鹿なやつ、恨みを買う仕事をしているくせにと嘲笑してくる。

「畜生、こんな襲撃、映画でしか見たことがない」

 バーナードをテーブルの下に押し込みつつ嘆く。家の中はめちゃくちゃだ。壁に穴が開きまくっているし、家具もめちゃくちゃ。さっき投げ捨てたビールも水溜まりを作っている。床にバーナードのボールを見つけ、俺は手に取って襲撃者のいるだろうところへ投げた。誰かの痛がる声がしたのでそちらを撃つ。多分ヒット。

 襲撃者は数人のようだった。何発かの当たりを確信したあと、俺はキッチンを飛び出て視認できた輩に体当たりをかます。体術は得意じゃない。でもそんな弱音を吐いていられない。向こうは知らないが、こちらは弾に限りがあるのだ。殴られ、殴り返す。別の誰かが撃った弾が体を掠める。むき出しの腹に熱が走る。燃えるような感覚がある、腹に彫った骸骨が男前になったかもしれない。そんな冗談を言ってないと痛くて泣き出しそうだ。

 めちゃくちゃに暴れ、どうにか銃声が止んだ頃には、俺は散々な有様だった。息が上がるのを押し殺して耳を澄ませると、ざりっという小さな足音がする。まだいるのか。まだやるのか。もう勘弁してくれよ。額に油汗が滲む。足音を頼りに撃ち込んで、怪我を負わせたと信じて襲いかかる。最後の一人はナイフを持っていて、俺は体のところどころ薄く裂かれた。それでもなんとか生き延びたのは、奇跡なのかもしれない。

 足を引きずりつつキッチンに向かう。テーブルの下を覗くと、丸い目が俺を見た。

「勝ったぜ、相棒」

 でも俺はもう駄目らしかった。寝室まで行ければ助かるのに、もう一歩も動けない。俺は冷蔵庫を背に、床へとずるずる滑り落ちた。バーナードがテーブルの下から出てくる。手を差し出すと指先をふんふん嗅がれた。いつになく近い距離だ。俺はもう少し腕を伸ばす。指にふわりとしたものが触れる。血がつくと思ったがもう遅い。俺は、いくらブラシをしても指に絡まってどうしようもない毛並みに指を差し込み、バーナードを引き寄せた。いつもと違う俺の様子を感じてか、バーナードは嫌がらない。

「バーナード、バーナード。一人にするかも、しれないなあ」

 ああでも人に頼んであるか。大人しく引き寄せられた灰色の犬がきょとんとこちらを見る。その目は少し白い。もう老犬なのだ。灰色だからわかりにくいが白髪も増えた。特に眉毛なんて真っ白だ。子犬の頃は眉なんてないと思っていたのに、眉毛が目立つようになったせいで今じゃ表情豊かな犬になった。それでも鼻だけは今も真っ黒で、いつも濡れてぴすぴす動いている。それをじっくり眺めていると、夜風が頬を撫でているのに気付いた。そうだ、この襲撃は終わったが、まだ次があるかもしれない。

「お前、散歩でもしてこいよ」

 幸いにも派手にぶち壊してくれたおかげで玄関はガラ空きだ。俺は腕の力を抜く。解放されたバーナードは、やはりきょとんとしていたが、今しがた起きた出来事を把握したくなったのか、やがて顔を上に向けて空中の匂いを嗅ぎ始め、耳を忙しなく動かし始める。そのまま低い姿勢を取ってキッチンの入り口まで様子を見に行き、そこでもまた匂いを嗅ぐ。まさに犬ってやつで、俺はちょっと笑ってしまう。

「お前には、生きてて欲しいなあ」

 俺はきっと、このままいけば朝を迎えられないだろう。このまま血を流し続けるなら勿論、第二の襲撃があったら絶対。死にゆくものに付き合う必要はない。俺はバーナードに生きていて欲しい。鉛玉で死なせるためにこいつを拾ったんじゃないし、ここに連れてきたわけでもないからだ。幼い頃の俺は子犬の世話を頑張った。ここへ連れてきたのも、自分が寂しかったと言うのもあるが、年老いたこいつを両親が荷物に思っていると知ったからだ。俺はこいつを普通に幸せにして、普通に老衰で死なせたい。誰かに殴られて死ぬのじゃなく、銃弾にやられて死ぬのじゃなく。俺は多分、こいつと家の前で出会ったあのときから、そう思っていたはずなんだ。だって俺はこいつが嫌いじゃないんだから。

 灰色の犬が戻ってくる。家の中のチェックは終わったらしい。俺は言った。

「バーナード。庭へ」

 四本の足がぴたりと止まる。まん丸い、夜空のような目が素早く俺を捉えた。

「庭だぜ、庭に行きな。お前、この命令だけは覚えたはずだろう?」

 雑種なんてと眉を顰めた母親が、あれだけ言っていたんだから。バーナードは動かない。彼の尻尾に少し力が入っている。

「まだ敵が来るかもしれないんだ、相棒。俺は、今度はお前を助けてやれない。だからお前だけでも逃げるんだ。庭だ、庭へ行くんだ、バーナード」

 幼子に言い聞かせるようにゆっくりと言う。バーナードはじっと俺の話に耳を傾けて、やがてキッチンの出入り口を見た。夜風の匂いを嗅いだあたり、俺の命令を理解したらしい。

「よしよし、いい子だな。庭だぞ」

 バーナードがフンと鼻で息をする。それからのそのそ近づいてきた。表情が少し険しく見えるのは気のせいかもしれない。やつはだらりと下がった俺の腕を鼻で確かめると、おもむろに脇に頭を突っ込んできた。

「は? おい」

 急にどうしたんだろうか。今までにない珍しい行動に驚く俺をよそに、脇に頭を突っ込んだバーナードが腹の傷を確かめている。

「怪我が気になるのか?」

 たずねるとジロリと見上げられる。やっぱり何か怒っている気がする。そういやこいつからこんなに近くにくるのは珍しいのではないか、今更ながらに気づいたが、珍しさを実感するより先にバーナードがするりと腕から抜け出した。

「ゥオン」

 犬は小さく吠え、俺に背を向けた。ぐっと前足に力を入れ、蹴るようにして駆け出す。どこへ行くと問いそうになって、庭だろうと思った。そう命令したからだ。せめてさよならを言いたかったな。バーナードには単なる命令でも、俺からしたら別れだからだ。

 灰色の犬が去っていく。俺の視界から消える。俺はより深く冷蔵庫に体を預けた。傷のせいで熱が出てきたのだろう、吐いた空気が重い気がする。やることがなくなった。人生でも振り返るか? しかし振り返るには短い人生である。良かったか悪かったかもわからない。仕事は総じてつまらなかったが、最後の最後だけ映画のようで、あの世での多少の土産話になるだろう。尚、俺の死体は明日には見つけてもらえるはずだ。なんてったって無断欠勤をするんだから。

 疲れたと目を閉じる。そこへ、チャッチャッチャッと床を叩く音がして、冷たいものが首に触れた。驚いて目を開けるとバーナードが立っていた。

「お前、出ていったんじゃなかったのか」

 堂々と立つ彼の口には、お気に入りのぬいぐるみがくわえられていた。バーナードはそれを俺の足元に置くと、またしてもフンッと鼻を鳴らす。白くなってはっきりわかるようになった眉が吊り上がっている。本当に何か怒っているようだ。口元を膨らませすらした犬が、よく濡れた冷たい鼻先を押し付けてくる。さっき首に触れた冷たいものと同じ感覚。俺が何か言うより先に、彼は再び体を翻してボロボロになった部屋へと駆けていく。そしてまた何かを持って帰ってくる。庭で使うボール、ひっぱり紐、お菓子の骨、水飲みボウル、寝室のクッション、俺のネクタイ、挙げ句の果てには俺の上着まで。たくさんの荷物を運び終えたあと、バーナードは再び頭を器用に使って俺の腕を持ち上げ、脇の下に顔を突っ込んできた。そして俺の太ももに顎を置いて寝そべり、目を閉じてしまう。どうしていいかわからない俺は、おろおろあたりを見回す。周りはバーナードの宝物だらけで、まるで巣みたいだ。そしてその中心に俺がいる。

「お前、ここを新しいねぐらにするのか?」

 たっぷり時間をかけてから、俺は尋ねた。薄目を開けた犬が、緩やかに尻尾を振る。初めて見るそれに、そうだと言われている気がした。お前を置いてどこへも行かないと怒られている気がした。そうか、俺たちはちゃんと友達だったのだ。俺はぬいぐるみに目をやる。ピンクのあいつがなんだかぼやけている。

「それとも俺を元気づけるために持ってきたのか? それなら残念だ、俺は元気ないんじゃなくて、死にそうなんだよ」

 俺は強がった。バーナードの尾がなおも揺れる。ぼやけ続ける視界に目を擦ろうとして、俺はふと、引きずられて皺だらけになった上着に気づいた。

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