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窓辺の鳥は愛を唄う

作者: 流維

鳥の声がする。


ああ、時間なのか……早く起きないと。


朝起きて、まず思う。


「このまま休んでしまいたい」


仕事に行くのが嫌というわけではないが、なにをしていても面倒くさくて、やる気になれない。もう一度ベッドに潜り込もうとしていると、また鳥が鳴いた。ため息をつきながら、俺は眠り続けることを諦めた。



いつから鳥がいたのかなんて覚えてない。遠い昔だったようにも、最近だったようにも思う。いつのまにか傍にいて、窓の外から鳴き声が聞こえてくるようになった。それは決まって俺の起きる時間で、それがわかってからは目覚まし時計を使うことをやめた。もともとあまり眠りが深い方でもなかったし、一番小さな音にしていてもうるさいと感じていたから、窓越しに聞こえてくる鳥の鳴き声で十分だったのだ。これで寝過ごすことはありえなかった。



淡々と仕事をこなし、靴を脱ぎ捨て家に入る。


「ただいま」


返ってくる言葉がないことはわかりきっているのに、どうして俺はいつも口にしてしまうのだろう。勝手に期待して落胆して、馬鹿みたいだと自嘲する。一人で住むには広すぎるこの家が、余計にむなしくさせる。いつだってガランとしていて、いつまでたっても生活感がないこの家。なぜ俺はローンを組んでまでこの家を買ったのだろう。もっと狭いところで十分だったはずなのに。そうだ、今からでもこの家を売り払って狭いアパートでも借りればいい。それなのに、どうしてもこの家を手放す気にはなれないのはどうしてなんだ。わからない……。いつだって俺にまとわり付いてくる疑問が不安で仕方なかった。



そんな生活が2年ほど続き、そのころには、俺の心をざわつかせていた鳥の声を聞くのがなんだか楽しみになってきていた。わからないことは多いままだが、毎朝規則正しく鳴く鳥の健気さに、毎日心が和まされ、元気をもらってる。


「いってきます」


鳥に挨拶なんてするやつは、俺くらいだろうか。

頭の隅でそっと考え、あの鳥を家族のように思い始めている自分に少し笑った。



「はよっ今日もはやいな!」


言葉とともに肩を叩かれ振り向くと、そこにいたのは同僚の佐藤だった。明るく口をあけて笑う佐藤とよくいえばクールな無口な俺。全然タイプがあわなそうな俺たちだが、なんだかんだで馬が合い、入社以来ずっと仲良くしている。今では立派な悪友だ。


「おはよ、そういうおまえも今日は珍しくはやいんだな」

「いやぁ今日は娘の4歳の誕生日でさ、早く仕事終わらしてプレゼント買って帰らないといけないからさ」

「そっか、もう4歳か…はやいもんだな。あの日からもうそんなにたつのか……」


ん?あの日からって、俺はなんのことをいってるんだろう。俺はなにか大事なことを忘れている……?


「おまえ……まだあの娘のこと忘れられてないんだな」


あの娘って誰だって聞きたかったが、それを告げた佐藤の顔がやけに悲しげで、苦しげで、俺はその問いを口にすることはできなかった。かわりに曖昧に笑い、明るい話題へと話題を変える。


「プレゼントって、なにあげるんだ?」

「ん?ああ、プレゼントな。もちろんクマさんのぬいぐるみだ」


少し戸惑った様子の佐藤だったが、すぐに俺の意図を察してくれたのか、さっと切り替えてくれた。普段は底抜けに明るくて結構強引なのに、こうやって人の気持ちを察するのが上手いから、俺はなんだかんだでこいつとずっと一緒にいられるんだと思う。


「また、ベタだな」

「悪いか。かわいい娘にかわいいクマさんのぬいぐるみとか最強だろ?うん、うちの娘、世界で一番かわいい」

「いってろ、ばーか」


笑いながら佐藤と別れ、自分のデスクへとむかう。


「さぁて、仕事仕事」


先ほど頭に浮かんだ疑問はいつのまにか頭から消えていた。




仕事も終え、商店街をあるく。忙しそうな主婦を横目に、ぼーっとそこらをみながら歩いていると、ふとあの鳥ににた置物が目にはいってきた。思わず店の中に入り、手にとってじっと眺めてしまう。


かわいいな、あいつもこんなの好きだったな。あの鳥と並べて見せたら双子みたいでかわいいとかはしゃぎそうだ。嬉しさを顔中に貼り付けたような顔で、ぶっさいくに笑うんだ。


“見てみて、しょーちゃん!”


俺はそれがとても好きで、そのぶさいくな笑顔がとんでもなく可愛かった。大好きだったんだ。……あいつって誰だっけ。ぶさいくだけど世界で一番可愛く見えるその笑顔は、誰が浮かべていたんだっけ。俺をしょーちゃんって呼んでいたのは一体誰なんだ。何か大事なことを忘れている気がするのに、何も浮かばない。


「なぁにいちゃん、それ買うの、買わないの」

「あ、すみません、買います」


急いでレジに持っていき、会計し終えた頃には、先ほどまで脳裏に浮かんでいた疑問は消えていた。




家に帰り、いつものようにただいまを口にして、中に入る。返事はない。そのことに少しの寂しさを感じながらも、通勤に使っているバッグからそっと先ほど買った鳥の置物を取り出し、窓際に飾る。飽きもせずに鳥はいつもの窓辺の木で鳴いていた。見れば見るほど、その鳥にそっくりな置物である。


「お前の仲間だよ、仲良くしてやってくれ」


鳥は返事をするようにピピピと鳴いた。




それからまた月日は流れ、あれからまた三年ほど経った。鳥は俺にとってすっかり家族のようになっていた。テレビの話や最近のニュース、知人の近況など他愛もない話から仕事の愚痴まで、なんでも鳥に話した。鳥は人語を喋れるわけではないが、相槌のようにいつもいいタイミングで鳴き声をあげてくれた。俺と鳥は非常に穏やかな時間を過ごしていた。



今日は仕事で遅くなってしまった。鳥ももしかしたら心配しているかもしれない。急いで帰らないと。


「おーい!」


はやる気持ちを必死に抑えながら、会社から帰っていると、後ろから佐藤が追いかけていた。立ち止まって振り向く。


「どうした?」

「どうしたじゃねぇよ。全く。最近全然話してねぇだろ。たまには話そうぜ。二年くらい前からお前表情明るくなったしさ。なんかきっかけあったんだろ。いつ言ってくれるんだろって楽しみに待ってたのに、お前なんも言ってくんないし。そろそろ言えよな」


随分と佐藤には心配をかけてしまっていたのだろうか。申し訳ないがありがたいな。そうだ、佐藤にあの鳥のこと、紹介してみるか。


「佐藤、お前さえ良ければこれから俺の家に一緒に来ないか。そこで話そう」

「よし、そう来なくっちゃな」


佐藤がご機嫌な様子で肩を組んでくるが、心配をかけてしまった申し訳なさもあり、いつもなら即座に払いのけるが、そのままにして一緒に俺の家に向かう。


「お邪魔します」

「おお、入ってくれ、散らかってて悪いな」


そのままリビングに案内し、コーヒーを入れて佐藤に手渡す。


「お、サンキュ」


コーヒーを飲んでひと心地ついたころ、早速佐藤が切り出した。


「そんで、お前がそんな明るくなったきっかけは?」

「ああ、実は家族みたいな存在ができてさ。毎朝起こしてくれるし、俺の話をいつも聞いてくれてさ、かわいいやつなんだよ」

「そっか、お前、本当に立ち直ったんだな」

「立ち直ったってなんだよ。確かになんか憂鬱な感じが続いてたけど、いうほどそんなないぞ」

「お前……そう、だな。多分それがお前にとっていいことなんだろうなぁ」


佐藤が悲しそうな顔でこちらを見る。そんな顔で見るなよ。俺は今は幸せなんだから。


「お前の言ってることが時々よくわからないけど、俺は今幸せだよ」

「それならいいんだよ、そんで、その子の写真とかないのかよ」


いつもの調子に戻った佐藤がニカッと笑いながら、身を乗り出すように聞いてくる。


「写真はないけどな、そこにいるぞ」


窓辺の木にとまっている鳥を指差す。


「ん?どこだよ」

「ほら。あそこだって、あそこにいる毛並みが綺麗な鳥」

「鳥かよ!女の子じゃないのかよ!がっかりだわぁ」

「うるさい、文句言うな、それよりちゃんと見ろよな」


俺がまた窓辺を指差すと、佐藤はため息をつきながらも目を細めて、窓辺の木を見つめる。


「鳥なんて、どこにもいなくね?」

「いやいるから、ほらこの置物にそっくりな鳥だよ」


窓辺に飾っている鳥の置物を佐藤に見せながら必死に窓を指差す。


「いないぞ」

「っ嘘つくなよ!ほ、ほら今だってピピピって鳴いてるじゃないか!」


どうしてこんなに必死になっているのか自分でもはっきりとはわからない。ただいつも側にいるこの鳥の存在を認めてもらいたくて、認めてもらわないと、自分の何かが全部壊れてしまいそうで、必死だった。


佐藤がまた悲しげな表情で言う。


「俺には何も聞こえねぇし、何も見えねぇよ」


佐藤のその言葉は俺にとって死刑宣告に等しかった。


「今日は……帰ってくれないか」


いつも通りの自分で佐藤と話す自信がなかった。


「また、職場でな……」

「ああまた、今日は悪いな。せっかく来てもらったのに」

「いや気にすんな、また明日な」


佐藤は、時々こちらを気にするように振り返りながら帰っていった。


鳥は俺の幻覚、幻聴だったのか。俺には確かに聞こえるし、見えるのに。鳥が今ピピピと泣きながら、小首を傾げている様子も全部全部俺は認識してるのに。やっぱり俺はおかしいのか。頭がおかしくなりそうだ。俺はどうしてしまったんだろう。もう何もわからない。



考えていたらいつのまにか眠ってしまったらしい。起きたら朝だった。いつもの起きる時間よりは少し遅いが、今からでも十分仕事には間に合う。しかし、どうしても今日は仕事に行く気が起きなかった。会社に連絡し、仮病で休みをとる。相変わらず俺の耳には鳥の声が聞こえるし、憂鬱だ。


「とりあえず、ラーメンでも作るか」


鍋で袋麺を使って、パパっとラーメンを作り、一人でもそもそ食べる。静かな部屋に、俺のラーメンをすする音だけが響いていた。



それからまたぼーっとし、気づけばもう夜も更けていた。結局あのラーメンだけしか食べてないし、小腹が空いたような気もするが、何かをする気がどうしてもおきなくて、また眠りについた。



夢を見た。俺は誰かの横で笑っていた。俺、いつからこんな風に思いっきり笑ってないんだろう。いつからだ。いつから…考えるだけで頭が割れるように痛い。



その日もまた仕事を休んだ。その次の日も。またその次の日も。今日は会社に連絡すらしなかった。ただぼーっとするだけの生活。


ピンポーン


玄関の方からチャイムの音が聞こえる。動くのが面倒だ。出なかったら諦めて帰るだろう。そのまま放っておくことにする。


ピンポーンピンポーンピンポーン


出るまで何度でも押すと言いたいのか、チャイムの音がうるさい。渋々と玄関の方に向かい、応答する。


「どちら様ですか」

「母さんよ」


えっ!


慌てて玄関を開ける。そこには田舎の方からわざわざ会いに来たらしい母さんがいた。


「あんたちゃんと食べてんの、顔がげっそりとしてんじゃない。顔色も悪いし」

「えっと、どうかな、覚えてない」


はぁっと母さんがため息をつき、キッチンに向かう。


「雑炊作ってあげるから食べな」

「え、材料とかないと思う」

「かってきたから大丈夫よ」


母さんが買い物袋を掲げて俺に言う。


「じゃあ、お願いしようかな。ありがとう」

「うん、そこで座って待っときなさい」


いっときぼーっとしながら待っていると、母さんが鍋ごと持って来た。ほかほかと湯気を立てている卵雑炊は非常に美味しそうに見えた。


風邪とか引いた時、よく作ってくれたな。懐かしい。


普段の食欲の無さが嘘のように、すいすい口に入っていく。暖かな優しい思い出を回想している間にあっという間に鍋の中は空になっていた。


「ごちそうさま」

「お粗末さまでした」


母さんは黙って見守ってくれていたようだ。それから食器を自分で洗い、どうしてこっちに来たのか尋ねた。


「あんたの様子を見に来たのと、あんたもそろそろ幸せになっていいんじゃないかってこれ持って来たの」


母さんがバッグから取り出したのは、お見合いの釣書だった。


「なんだよ、これ……」

「なにって見たらわかるでしょ。あれから何年経った?もう一度幸せになってもいいんじゃないの。まだ人生長いんだから」

「もう一度ってなんだよ」

「だから、笑美ちゃんが亡くなってから、あんたずっと一人じゃないの」

「笑美?笑美って…」

「あんたも辛かったと思う。あんたが笑美ちゃんのこと本当に大事に思ってたのは知ってるし、本当にいい子で私にとっても娘みたいな子だったんだから。でももう7年よ。そろそろいいんじゃないの。あんたはまだ32歳なんだから。これからまだ人生長いのよ。私たち親は先に死ぬ。そしたらあんたは一人ぼっちになっちゃうじゃない。もう幸せになってもいいと思うの」


頭が痛い、母さんの言葉が耳を通り過ぎていく。笑美という名前が頭から離れない。


“私の笑美って名前はね、笑顔が素敵な子に育つようにってつけられたんだって!お父さんが仏頂面でよく人に誤解されて困ってたみたいでね。お父さん、よく俺に似なくてよかったっていうんだよ。私はお父さん優しくて大好きだけどな、もったいないよね!”


そうやってひまわりみたいな笑顔で笑うのは誰だっけ。顔をくしゃくしゃにしてブサイクな顔で笑うのは誰だっけ。そして俺はそんなブサイクな笑顔が大好きで、たまらなく愛しくてずっと隣でその笑顔を見て見たいって思ったんだ。名前通り、笑顔が素敵な女の子、そう笑美だ。笑美だ。笑美は俺にとってどんな存在だった。思い出せ、思い出せよ!


“本当に私でいいの?嬉しいな”

“お前がいいんだよ、一生側で笑っていて欲しいんだ”

“でも私の笑顔ブサイクだよ”

“そんなお前の笑顔が俺にとっては一番可愛く見えるよ”

“ぶっ照れるならそんなふうに言わなくもいいのに”

“笑うな”

“あはは、でも嬉しいよ!しょーちゃん大好き!”

“ん”

“しょーちゃんがそんなに言うならもらってもらおうかな、ただし返品不可だよ!ね、だんなさま”


そう涙目で笑う彼女は一番綺麗に見えた。


どうして、どうして忘れてしまっていたんだろう。笑美は俺の大事な大事な愛する妻で。部屋のいたるところに彼女のいた証拠が残っているのに。どうして気付かずに入られたんだろう。お揃いのマグカップとか、全部二人ぶんの食器類、一人には大きすぎるベッド、どこにでもおかしいと思える部分はあった。全部全部見ないふりをしていたんだ。彼女のいない生活が辛過ぎて、記憶に無理やり蓋をして、彼女との幸せな生活すら忘れてしまっていた。家を手放せなかったのは当たり前だった。だってこの家は笑美と俺の愛の証で、幸せの絶頂期にいた頃の大切な思い出の家だ。この家は彼女と結婚してずっと仲良く暮らしていくために買った、念願のマイホームってやつなんだから。


「母さん、俺、無理だよ。母さんの気持ちはわかるけど。笑美以外好きになれないんだ」

「どうしても、無理なの……?」

「うん、俺さ、最近まで笑美のこと忘れてしまってたんだ。覚えてるのが辛過ぎてさ」

「それならなおさらっ」

「最後まで聞いてくれ。でもさ、俺他の誰かを好きになったりなんかしなかった。母さん、俺は一生分の恋をしたんだ。もし今後誰かと付き合ったとしても笑美以上に好きになれる人はいないと断言できるし、そんなの相手に不誠実だ。そんなこと、俺にはできないよ」

「翔太……」

「母さんも知ってるだろ、俺は笑美のことがずっと好きで、10年以上かけて初恋叶えたってくらいしつこい男なんだ」

「もちろん知ってるわよ、ずっとあんたたちをみてきたんだから」


母さんが諦めたように笑う。母さんごめん、孫も抱かせてやれない親不孝ものだけど俺は彼女以外愛せないから。再婚なんて考えられないんだ。


笑美は幼なじみだった。家は隣同士、母親は友人同士で俺たちはよく一緒に遊んだ。幼少時代、俺はどちらかといえば引っ込み思案で、いつも彼女が俺を引っ張ってくれていた。俺をからかってきた奴らも、彼女が全部追い払ってくれて、男としては情けないが彼女は俺にとってヒーローだった。異性を意識する年頃になった時には、憧れが好きに変わっていた。そうなったらもう、あの笑顔を独り占めしたくて仕方なくて、兄妹にしか見えないと言う彼女に何度も何度も想いを告げて、恋が叶ったのは、18歳のとき。それからお互い大学進学を得て、社会人となり、我慢できなかった俺は22歳ですぐプロポーズした。まだ社会人1年目で金もそんなにはなかったけど、学生時代バイトで貯金もしていたし、これ以上我慢できなかった。早く一緒に暮らしたくて仕方なかったんだ。彼女は知らなかったと思うけど、プロポーズにOKをもらったあと、彼女が泣いた以上に俺は泣いた。本当に本当に幸せだったんだ。


結婚3年目、ある日のこと、同僚の佐藤から娘が生まれたと聞いた。それを笑美と二人して羨ましがってた。それからしばらくして、彼女は次の休みの日に一緒に出かけて欲しいといった。俺はもちろん承諾した。彼女との久々のデートだ。俺だって内心ワクワクしてた。遠足前の子どもみたいに、前日はなかなか眠れなくて、彼女の寝顔を眺めたりなんかして、幸せを噛み締めてた。


でも、そのデートには結局行けなかった。当日の朝、いきなり仕事の知らせが舞い込み、職場に行かなくては行けなくなったからだ。俺は彼女に謝り倒した。彼女は寂しそうにしながらも笑って送り出してくれた。そうして彼女は俺なしでその日彼女が俺と二人で行きたかった場所に行き、帰りに事故にあった。彼女が貧血を起こしてふらついて倒れてしまった時、そこに運悪くバイクが衝突したのだ。彼女は即死だった。そんな彼女のお腹の中には1つの命が宿っていたと言うことを彼女が事故にあった時の持ち物から初めて知った。彼女が俺を連れて行きたかった場所は、産婦人科だったんだ。それを知った時、もう何を恨んでいいのかわからなかった。彼女についていかなかったことをひどく後悔した。なんの変哲もなく終わるはずの俺の日常が1日にして一変した瞬間だった。


彼女の葬式は彼女のことを思い出した今でも、ほとんど記憶にない。それほど茫然自失としていたんだと思う。母さんにも随分と心配をかけてしまっただろう、それでも今日まで何も言わずにいてくれたことに感謝しかない。


「それじゃあ帰るわ、もう無理に再婚しろなんて言わないから安心しなさい。あんたの気持ちはよくわかったから。ちゃんとまともなもの食べて、笑美ちゃんの分まで長生きしなさいよ」

「ありがとう母さん。俺は親不孝な息子だけど、母さんの息子に生まれてこれて本当に良かったと思ってる」

「何言ってるのよ。あんたは、私の自慢の息子よ。元気でね」

「うん、母さんも元気で」



そうして母さんは帰っていった。窓の方に目を向けると、やはりそこに鳥はいた。いつもと変わらず鳴き声が聞こえる。しかし、その鳥がただの鳥ではないことは、もうわかっていた。誰にも見えない鳥の姿、聞こえない鳴き声。


「ずっと、ずっと傍にいてくれてたんだな、笑美」

「思い出してくれたんだね」


その瞬間、懐かしい声と共に、鳥の姿が笑美の姿へと変わった。


「しょーちゃん、本当に私の後を追って死んじゃいそうだったから、心配で眠れなかったんだ」

「う、その通りです」


全てお見通しだったわけだ。情けないやら何やら、笑美には本当に敵わないな。


「ねぇしょーちゃん、私もうね、ここに長く留まれないんだ。ずっとしょーちゃんとね、一緒に居たかったんだけど、ごめんねしょーちゃん。あのね、子ども、子どもができたみたいなの。あの日ね、それを言いたかった。産婦人科に1人で行ったら、しょーちゃん拗ねそうだなとは思ったんだけど、だから誘ったんだけど」

「確実に拗ねたな」

「うん、だよね。でも早くはっきりさせたくて。しょーちゃんが喜んでくれるのは、わかってたから。早く喜ぶ顔が見たかったんだ。あの頃のしょーちゃんは仕事が忙しくて、きつそうな顔をよくしてたから、少しでも癒しにならないかなって、だから一人で行っちゃったの。こんなことになるなんて思わなかったの。ごめんね、ごめんねしょーちゃん」

「謝るなよ、俺の方こそ一緒についてってやれば良かった。仕事のことより、笑美の方が何倍も大事だったのに。俺がついてってやれれば、倒れたときだってすぐに支えてやれて、バイクにひかれずに済んだんだ!」


あの日から何度後悔したか知らない。たられば、を言っても意味がないのはわかりきっていたけど、それでもやりきれなくて。妊娠のことだってもっと早く気づいてやれば、いろいろ気遣ってやれた。産婦人科に一人で行ったことだって、俺が絶対についていきたいから、二人で行こうとかそんな風に強く言えば、俺の頼みを無下に断ることはしなかっただろう。


「でもそれで仕事を休めるしょーちゃんじゃないよね、真面目で責任感が強いのがしょーちゃんだもん。そういうところも好きだったから、それでこそ、私の好きなしょーちゃんだよ」


そう言って笑う、久しぶりに見た笑美の笑顔はやっぱり、とても可愛かった。俺の大好きな笑顔。ずっと隣で見ていたかった。


「長生きしてね、しょーちゃん。そしてね、あっちに来たらいっぱい教えてね、どんなことがあったとか。いっぱい聴きたいな。他の人と再婚したって、いいんだよ」

「俺にはお前以外、愛せないよ。ずっと好きでいさせてくれ」

「…ばかだなぁ、しょーちゃんは。本当に、ばかなんだから」

「泣きながら再婚していい、なんて言ってるお前には言われたくないよ。お前の方がばかだ。決まってるだろ、ずっと愛してる」

「うん、うんっ」


愛する人が泣いているのに、抱きしめられないことがとても辛い。でもきっと笑美はこんな辛さを俺が笑美のことを忘れていた7年間、感じていたに違いない。笑美を失ってしまったことが辛すぎて、記憶からもその存在を消してしまった俺を、どんな気持ちで見守ってくれていたのだろうか。どれだけ辛かっただろう、心配させてしまっただろう。情けないとこばかり見せてしまった、今度は俺が頑張る番だ。


「笑美、俺がんばって長生きするよ。先にいって、俺が大往生してたくさんの土産話を携えてやってくるのを、待っててくれるか」

「もちろんだよ、ずっと待ってるから。ずっとずっと、待ってる。大好きだよ、しょーちゃん」


最後は笑おうとおもった。涙はとまらないし、鼻水だって出て相当変な顔だっただろうけど、それでも一生懸命笑った。お別れは笑顔がいい。それは笑美も同じで、お互いぶさいくな笑顔で別れを告げた。でもこれは別離じゃない、また会おうという約束だ。精一杯生きて、その行き着く先に笑みが待っていてくれるというのなら、なにも怖いことはない。


「俺もだよ、大好きだ。だから、またな」

「うん、またね」


その言葉と共に、笑美の姿はかき消えた。鳥の姿ももう見えない。鳴き声だって聞こえない。でもそれでいい。涙は変わらずとまらなくて、息苦しいくらいだけど。今だけ、今だけ泣かせてもらおう。明日からはまたがんばるから。笑美が心配せずに、安心して俺のことをみていられるように頑張ってみせるから。笑美、笑美、大好きだ。おまえがいないとさびしいよ、子どもにだって会いたかった。絶対に可愛がる自信があったよ。可愛がりすぎて甘やかしてたかもしれない。そうしてお前に、甘やかしすぎないでって叱られる、そんな未来もあったのかもしれない。そう思うと本当に苦しいけど、辛いけど、頑張るよ。最初からこんな結末は決まっていたことだったのかもしれない。それでも俺はお前と出会えて、愛し愛されて本当に幸せだったよ。




泣きながら寝落ちしてしまったらしい。気がつくと、朝日が窓から差し込んでいた。

今日からまたちゃんと会社に行かないと。もしかしたらクビになるかもしれないが、無断欠勤したことはちゃんと謝りに行かないといけないだろう。笑美は俺の真面目で責任感の強いところが好きだったといっていた。幻滅されたくはない。


準備をするために洗面所に向かう。鏡で自分の姿を見ると、青白い顔で、頬がこけてやつれた姿の男がいた。泣きはらしたまぶたはすっかり腫れている。こんなに痩せてしまったことに、気付いてもいなかった自分が情けない。無意識で後追いするつもりだったのか。


「元気に長生き、しないとな」


自分に言い聞かせるようにそっと呟く。それから久々に朝食を食べて、目を冷やした。家を出る時刻の前にもう一度鏡を見ると、心なしか少し顔色が良くなっている気がする。目元もだいぶましだ。


「よし、いってきます!」


返事はない。鳥の鳴き声もない。でもそれでいい、それでいいんだ。


職場にいって、会社の人達に謝る。想像していたような、反応は返ってこなかった。詰られることも覚悟していたのだが、それ以上に身体のこと、体調を心配された。


「佐藤から聞いたよ、お前随分と体調を悪くしてたんだろ。気づかなくて悪かったな。おまえがなんでもこなくしてくれるから、ついつい甘えてしまっていたよ。もう大丈夫なのか?」

「佐藤が……そうですか。部長、ありがとうございます。もう大丈夫です。体調管理も気をつけますので、これからもここで、頑張らせてください」

「もちろんだ、これからも頼むぞ、頼りにしている」


肩を軽く叩かれ、激励される。部長の後ろ姿を見送っていると、同僚の佐藤の姿が見えた。


「佐藤!」


大きな声で呼びとめ、佐藤がこちらに振り返り、俺の顔を見て笑う。


「久しぶり」

「ああ、久しぶり。佐藤、俺が休んだこと、いろいろ言ってくれたみたいで本当にありがとう。おかげでクビにはならないみたいだ、本当にありがとう。世話になった」

「なんだよ、恥ずかしいだろ。お礼とかいいって。俺がなに言ったって、お前の普段の勤務態度とかがよくなかったら、誰も信じなかったと思う。だから、結果的にお前の今までの行いがよかったってことだな」


そういって笑う佐藤に、俺は本当に周りに恵まれていると実感する。そんな周り全部悲しませるところだったんだな。俺は本当におおばかやろうだ。


「それよりおまえ、なんか明るくなったな」

「ああ、笑美のこと思い出したんだ。鳥は、信じられないかもしれないけど、笑美だった。随分と心配をかけてしまっていたから、これ以上心配かけないためにも、体調管理には気をつけて長生きしないとな。」

「信じるよ、お前のその笑顔がなによりの証拠だろ。いい嫁さんだな。よし!今夜は飲むぞ!適度な酒も長生きの秘訣だぞ!」

「ははっなんだよそれ、おまえが飲みたいだけだろ」

「ばれたか、まぁかたいこというなよ。お前の快気祝いだ、ぱーっといこうぜ」

「わかったよ、お前にはいろいろと世話になったから、今夜は俺に奢らせてくれ」

「俺は特になんもしてないんだけどな、まぁそこまでいうなら奢ってもらおうかな!よし、今日も仕事がんばろうぜ」

「ああ、それじゃあまた仕事が終わったら連絡する」



それから何度も季節がめぐり、佐藤とも何度も飲んだ。娘が中学生になってパパ嫌いと言われたとか、娘に彼氏ができたとか、娘が成人して親元を離れていくのがさびしいだとか。そんな愚痴も何度も聞いた。会社では俺も部長にまでなり、部下もたくさん持った。多くの人に出会ったが、それでも心惹かれるのは笑美だけで、気持ちは一切変わらなかった。


そうして定年退職を迎え、俺なりにめいいっぱい人生を楽しみながら、土産話をたくさん用意した。もう最近は起き上がるのもつらい。94歳。男性の平均寿命はとうに超え、病気もほとんどしなかった。大往生だ。


「笑美、そろそろそっちにいってもいいかな」

「うん、しょーちゃん、迎えにきたよ。あっちで待ちきれなくて、来ちゃった」


すっかりしわがれた声で癖になってしまった独り言を呟く。いつもは帰ってこない返事が、今日はあった。最後に見た時と変わらない姿で笑美の姿がそこにあった。そうして気づくと、体が軽くなっている。俺も若い頃の姿に戻っているようだ。


「ああ、迎えに来てくれてありがとう。俺がんばったよ」

「うん、知ってるよ。ずっと見てたよ」

「これからはずっと一緒だな、たくさん土産話があるんだ。なかなか話尽きないだろうな。なにせ一生分だ。」

「うん、全部聞くよ。時間はたくさんあるから」

「なにから話そうかな、そうそう……まずはこれを言わないとな。俺にはずっとおまえだけだったよ。これまでも、これからも笑美だけを愛してる。待たせてごめんな」

「ずっと私だけを思ってくれてありがとう。私も大好きだよ、これからはずっと一緒だよ」


そうして二人の姿が消える。そこに残された、94年間という長い時間を生き抜いた男の顔は、誰よりも幸福そうに微笑んでいた。         


お読みいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言]  一人で生き抜いてきた男は立派だと思いました。
2020/09/09 08:52 退会済み
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