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きみの為に、俺の為に・・・

作者: 澤田慶次

「うわー!」男は勢いよく起きる。「なんだ、夢か」男はつぶやく。時間を確認すると、朝の5時である。(ちょっと早いけど、まっいいか)男は着替えアパートから出て行く。

男は走っていた。薄暗い景色がだんだんと明るくなっていく。この時間が男は好きであった。

いつもと同じように、その日の朝も始まった。

・・・・出会い・・・・ 

 「はっはっはっは」息遣いが大きくなっていく。朝早く薄暗い道を男は走っている。上下黒のウィンドブレイカーを着ており、時折パンチを出す素振りをしながら走っていく。男の名前は「池本 純也」(いけもと じゅんや)、22歳プロボクサーである。日課となっている朝のロードワークである。いつもの道をいつも通り走り、いつも通りにアパートに帰るはずだった。走っている途中、不意に声を掛けられる。「時々見かけますけど、楽しいですか?」声の方を見ると女性が立っていた。池本はきょろきょろする。「あなたですよ、そんなに走って楽しいですか?」(どうやら自分に言っているようだ。止まっちゃったよ、めんどい事になりそうだから逃げるか)と思っているとその女性はすぐ目の前に立っていた。「楽しいですか?」なおも聞いてくる。「息をするのは楽しいですか?当たり前にやっている事だから、楽しいとかではないですね。辛いとも思わないですけどね」「何でやってるんですか?」「何でだろうね、でも、続ける事が当たり前だからやっているかな。しいて言えば・・・、まっ、分からないだろうからいいや」「教えて下さい。何でそんなに一生懸命なんですか」「一生懸命な事が見つかれば分かるんじゃないかな」池本は答えると走り出した。朝から変な事を聞かれたと池本は思ったが変な人に会ったという気持ちではなかった。「何でやっている・・・か」池本は立ち止まり空を見上げそっとつぶやいた。「人それぞれだな」池本は少し強く言ってまた走り出した。

 

・・・・再会・・・・

 池本はアルバイト先にいた。9時からアルバイトをしている。池本の職場は花屋とコンビニである。今日は花屋で15時までアルバイトである。「池本君、新しいアルバイトの子が入ったから色々教えてやって」店長に言われて目をやると、朝声を掛けてきた女性であった。「よろしく頼むよ」店長は店の奥に行ってしまった。「お願いします。渡辺っていいます」(気付いていないかな)池本は思った。池本は自己紹介をし、仕事を教えていった。渡辺さんは仕事を覚えるのが早く、レジ等すぐにできた。「池本君、仕入れをしてきて」店長に言われた。「ごめんね、腰痛が酷くて私が難しいから」店長の奥さんが言った。夫婦でやっているその花屋には大変世話になっている。池本がアルバイトに入ったのは今から約4年前、ここの花屋がオープンして半年の事であった。奥さんが花屋をしたいとの事で貯金を貯めてオープンしたのだ。池本は決して口のうまい方ではない。だから、お客から何か言われて思っている事をそのまま答え、結果、クレームとなった事も1度や2度ではない。その都度ご夫婦はお客に謝り頭を下げる。池本は申し訳ない思いがあり、辞める事を伝えたが2人は「真面目にやっているだろう。たまにはクレームもあるさ」と言い、池本を暖かく見守ってくれている。本当に頭の上がらない2人である。「わかりました、行ってきます」「渡辺さんも連れてってよ」店長に言われ、渡辺さんと2人で行く事になった。

 仕入れ先に向かう車内で「朝の事覚えていますか?」渡辺さんが言った。「あ、やっぱり気付いてた?」「はい、分かりました。一生懸命な事が見つかれば分かるって言ってましたけど、どうすれば見つかるんですか?」「それは自分で考える事でしょう。何でも教えてもらえると思っていたら甘いよ」「学校の友達から冷めてるとか冷静だとか言われるんですけど自分では分からなくて。何か一つの事に集中する事もなくて他のみんなが一生懸命な姿を見ると羨ましいんですけど、私には分からなくて・・・」「分かる時が来るよ、嫌でも分かる時が来る。そんなに悩む事じゃないよ、今はそれより仕入れの仕方を覚えてね」

 仕入れ先について、受付で店の名前と本日の担当の欄に自分の名前を書く。半分名前の欄を開け、渡辺さんにも名前を書いてもらった。受付の女性より「今日は彼女さんと一緒ですか、羨ましい」と言われた。「新人です。からかわないで下さい」受付の女性は池本より少し年上のようだった。一言二言交わし池本は奥に進んだ。仕入れの物を持ち車に積んだ。結構な量があり、3~4回往復した、渡辺さんも手伝った。帰りに受付にもう一度挨拶をした。「彼女と帰るの?」また言われた。「新人ですって」池本は答え出ていった。帰りの車内で「受付の方は池本さんの彼女ですか?」渡辺さんが突然言い出した。「はい?なんでそうなるの。違うよ、確かに仕入れに行くと話をするけどそれだけ。特に何もないよ。第一名前を聞いた事もないよ」「本田さんって書いてありましたよ、名札に」「そういえば、気にした事がないから見た事ないや」池本の話に思わず笑ってしまった。「お、笑ったね。今日初だね。笑顔がいいよ接客業だからね」「はい、頑張ります」(以外にいい娘だな)池本は思った。

 お店に帰り仕入れた物を並べる。並べ終わると昼であった。基本、交代制でお昼は取る。店長より「池本君、渡辺さんと休憩を取っちゃってよ」「分かりました、渡辺さん休憩ね。1時間だから1時間したら戻ってきて。外出てもいいし、ロッカー室で休んでてもいいから」「分かりました。後ろで休んでます」2人で休憩に入った。池本は基本外出をする。昼食は取らないからである。プロボクサーと言っても世界チャンピオンにならないと収入は厳しい物であり、体重を管理する事も踏まえ昼食は取らないのだ。渡辺さんに「どこか出かけるんですか?」と言われたが「ちょっとね」と答え、池本はお店を出た。

 

・・・・池本の本業・・・・

 15時になり、池本は退勤する。渡辺さんは17時までだそうだ。池本はボクシングジムに向かう。池本の本業である。「お願いします」挨拶と共に中に入る。「おう、よろしく」トレーナーに言われる。「池、体調どうだ」会長より声を掛けられる。「いつも通りです」池本は答えロッカー室に入る。着替えが終りフロアに出る。「ロード行ってきます」池本は言うとジムを出ていった。30分後、池本は帰ってきてジムワークへと続く。ロープスキッピングを行いシャドーボクシングへと移る。シャドーを5ラウンド行った所でトレーナーに用意しろと言われグローブを着ける。トレーナーはミットを着けミット打ちが始まる。3ラウンド、4ラウンド、5ラウンドと進んでいく。6ラウンドが終った所で終了し、サンドバッグへと移行する。サンドバッグを何ラウンドも打ち続ける。汗も噴出している。10ラウンド打ち続ける。池本は心がけている。ジムで誰よりも精力的に動くことを、そうする事が強くなる一番の近道である事を分かっている。サンドバッグの後は筋力トレーニングを行う。その後はもう一度シャドーボクシングを行う。それはへとへとになった時でも動ける練習と鍛えた筋肉に柔軟性を持たせる為である。全ての練習が終わりシャワーを浴び、着替えをするとすでに時間は7時を回っていた。「ありがとうございました」挨拶をしジムを出ていく池本、「池本」トレーナーに呼び止められる。「はい、なんですか?」「ちょっと来い」呼ばれて会長室に行った。「試合が決まった」会長より言われる。「これに勝てば次は日本タイトルだ、しっかりいい形で勝って次に繋げよう」トレーナーは言う。「分かりました、必ず勝って日本タイトルも取ります」池本は答えた。池本はもう一度挨拶をしジムを後にする。「日本タイトルか・・・」ジムからの帰り池本は空を見上げつぶやく。「少しづつ夢が目標に変わって来たな」池本は自分のアパートに帰る。帰ってからまた着替える。着替えて走りに行く。ロードワークである。朝・夕のロードワークは日課である。多分、日本タイトルの話が出たので興奮しているのであろう、ペースがいつもより早くそんなに走っていない感覚なのにいつもの折り返し地点にいた。もう少し走ろうと思い少し先まで走る事にした。3・4㎞先まで走って戻ってくる。走っていると4・5人の女性が前を歩いていた。何も気に留めず横を通る際「池本さん」声を掛けられて振り向く。渡辺さんがいた。「大学の友達です」「ああ、そうなんだ。今日はお疲れ様」池本は答え右手を上げて走り去っていった。

 池本のアルバイトは月~金が花屋、土曜はコンビニである。アルバイトとジムワークで忙しい毎日を送っていた。試合が決まりジムワークにも気合が入っていた。その為、かなりハードワークになっていたが池本は泣き言は言わず続けた。渡辺さんは週2回のアルバイトである。2人が会ったのは次の渡辺さんのアルバイトの時であった。

 

・・・・歓迎会と迷惑と・・・・

 「池本さん、友達が池本さんの事かっこいいって言ってましたよ。彼女いるのかなって。池本さんどうなんですか?」「彼女ね、いないけど、分からない事にしておいて」「何でですか?友達、可愛いですよ」「今はいいや、ただ嘘もつきたくないしね。分からない事にしておいてよ」「池本さん、女の人に興味がないとか・・・」「アホか、それはないわ。今はって言ってるでしょ」アルバイトは楽しくなってきていた。いつも通りの業務をこなしバイトを上がる際、店長より「今日は渡辺さんの歓迎会をささやかながらやりたいんだけど、池本君来られないかな。8時にいつもの飲み屋なんだけど」「え、やってくれるんですか?うれしいです」「本人が知らないってまずいでしょ、大丈夫ですか店長?」「いや、奥が言ってくれてるんじゃ」「あなたが言うって言ったんでしょ」「あれ?そうだっけ。渡辺さんどう?」「私は大丈夫です」「という事らしいけど池本君は?」「絶対来ますよね」渡辺さんに睨まれている。「ああ、行きますよ。いつもの所ですね、分かりました」池本はバイトを上がってジムへと向かう。

 ジムでの練習は厳しい物になっていた。いつもの練習に加えスパーリングも行っていた。池本は身長183cmのミドル級である。いつもの池本のウェートは80㎏周辺である。リミットは72.5㎏なので7㎏以上の減量を行う。試合は3ヵ月後の7月21日、今はウェートより練習をし徹底的に鍛える時、池本もそれは承知している為、徹底的に練習に集中している。練習終了後、会長より「6月に入ったら合宿するぞ、4・5日山に行く。いつものペンションな」会長の知り合いのペンションである。徹底的に走り、下半身から鍛える合宿である。「分かりました、お願いします。お疲れ様でした」挨拶をして帰路につく。(合宿か、色々と現実味を帯びてきたな)そう思ってアパートに帰る途中、「やっべ、忘れてた」そう叫んで池本は走り出した。

 居酒屋に着いた池本、時間は8時15分、そっと入っていく「いらっしゃいませ」声を掛けられる。「遅ーい、池本―!」声のする方を見ると渡辺さんが顔を赤くして叫んでいる。隣には困った顔の店長とこちらに手を合わせて謝る仕草の奥さん「ピッチが速いなと思ってたんだけど、早くも酔っ払い」店長は苦笑いで言う。「遅いよ池本、早くこっち来て座れ」「大分出来上がってますね、どうしたんですか」「サワーを頼んだんだけど飲み口が良かったらしくすでに4杯目、よく聞いたら飲んだ事ないらしい」「マジですか?」「池本―、何で店長とばっかり話してるんだー、やっぱり男が好きなのかー」「うわ、最悪。これはひどいですね」池本は言った。「確かに酷いけど、池本君の男が好きはどういう事?」店長の奥さんが言う。「勝手に渡辺さんが言っているだけですよ」「今度は人妻に手を出しているのか池本ー!」「はいはい、隣に行きますよ」池本は渡辺さんの隣に座った。いつもとは違い、かなり笑っている。サワーをぐびぐび飲みながら池本をバンバン叩いていた。池本はウーロン茶を少しづつ飲んでいた。「飲め飲め池本―」終始笑って池本を叩く渡辺さん、池本は何となく楽しかった。

 あっという間に10時になっていた。「池本君、悪いけど送っていってあげて」「この酔っ払いをですか?」「一人で返すわけにはいかないでしょ、若い娘さんを」「そうだ送っていけ池本ー」「分かりましたよ、送っていきますけど、どこに住んでんですか?」「どこだったかな」「大丈夫ですよー、自分の住んでる所くらい説明できますよー、行くぞ池本!」「わっ、引っ張るなよ」渡辺さんに引っ張られて2人で出ていった。「大丈夫かよ、ふらふらだよ」「大丈夫ですよ、まだまだ飲めますよ」かなり足元が怪しい。少し歩いていると「うっ、気持ち悪い」と言って立ち止まる渡辺さん。池本はお姫様抱っこをし、近くの公園までダッシュをしトイレへ直行、背中をさすって上げた。「ゔェェェェェ!」(大分豪快に戻したな)池本は思った。少しの間吐いていたが、落ち着いたようだったので声を掛けベンチに誘導した。近くの自動販売機にて水を買い渡した。「ありがとうございます」小さな声だった。「飲みすぎ、少し休んだら行こうか」「はい」渡辺さんは水を飲んだ。「質問してもいいですか?」「何?」「しいて言えば何ですか?」「ん?ああ、あの時の事か」「しいて言えば何ですか?」「しいて言えば・・・」池本は少し考えた。「しいて言えば、時間を取り戻す為かな」・・・返事がない。見ると渡辺さんは寝ていた。(マジかよ、聞いて置いて寝るなよ)池本は思った。「はら、起きなよ、帰るよ」「飲めません、もう無理」「うわー、完璧に寝てるよ、とりあえず置いておくわけにはいかないし、しょうがないか」池本は渡辺さんに声を掛け、とりあえずおんぶをする事にした。そうして公園から出た。少し歩いた時(この娘の住所何処?)「ちょっと、家何処?」聞いたが返事はない。「ねえ、ねえってば」少し揺すった。「おぇーっ」「うわー、首筋に暖かい物が・・・、最悪だ」池本はそのまま自分のアパートに戻った。戻った後で渡辺さんの口の周りをタオルで綺麗にし、自分はシャワーを浴びた。12時を回っていた。「明日も早いんだよなー」池本は渡辺さんを布団に寝かせた為、自分はダイニングで毛布を被って寝た。彼のアパートは1Kである。「風邪引かないよな」池本はつぶやいた。

 

・・・・コンビニのバイト・・・・

 翌日、池本はいつも通りに起き着替える。そしてロードワークに出かけた。いつも通りに走って帰る。アパートのドアを開け、いつも通りに着替えを取ろうと部屋に入る。「誰、何!」渡辺さんに大声を出された。「声大きいよ、酔いつぶれてたから連れてきた。住んでる所は分からないし、その辺で寝かしておくのもまずいしね」「ごめんなさい、迷惑をかけてしまって」「いや、大丈夫だけど服を取りたいんだけどいいかな」「あ、どうぞ」渡辺さんは少しどいた。池本は着替えとバスタオルをとり浴室に入っていった。数分して出てきた池本は「もう少し休んでていいよ、俺バイトだから帰る時は鍵を郵便受けに入れておいて」池本は出ていった。「池本さん、土曜日もバイトなんだ」渡辺さんはつぶやいた。

 池本はコンビニでお弁当等を並べている。「池本さん、大丈夫ですか、なんか疲れてませんか?」一緒にシフトに入っている近藤が言った。「色々あってね」「池本さんモテそうだから女の人と何かあったんですか」「無いよ」池本は(こいつうるせえんだよな、しかも中途半端に感がいい)と思った。バイトはいつも通りに進んだが近藤が五月蠅い。何回も「何があったんすか―」と聞いてくる。このしつこさが彼女が出来ない原因だろうと思っている。お客が入ってきた。「いらっしゃいませー」池本は声を出した。「すいません、鍵を返しに来ました」渡辺さんであった。「郵便受けに入れてなくなっていたらと思ったら心配で・・・」「よくここが分かったね」「連絡先と住所が書いてありました、枕元に」「何々、この娘が泊ったんですか」「近藤うるせえ、仕事しろよ。自分の事で楽しめよ」「さーせん」近藤はジュースの補充に向かった。特に客のいない時間であった為、少し渡辺さんと話をした。鍵を受け取ると「ありがとうございました」と言われた為「飲みすぎに注意、分かった?」「はい、ご迷惑をお掛けしました」「いや、迷惑はかけてないよ」池本はそう声を掛け、渡辺さんを見送った。

 バイト後は練習、いつも通りにジムに行き、誰よりも練習した。今日はスパーリングも行い、いつも以上に動いた。明日は休み、池本は明日何をしようかと考えた。多分、もう少しするとボクシングウィークに入る。いわゆる練習の量が増え、スタミナのアップと筋力のアップをする、第一次追い込み期間である。5月からはかなり厳しい練習になるだろう。今の内に息抜きをしておこう、池本は思ったが、何をするかが分からなかった。(明日考えよう)池本は思い帰路に着く。アパートについて着替えをしロードワークに出かけた。(昨日走ってないから、少し厳しめに行くか)池本はいつもよりペースを上げて走る。距離もいつもより伸ばして走った。がんがんに走り、アパートに着いた。服を脱ぎ洗濯機に入れる。洗濯機を回している内にシャワーを浴びた。着替えて出てくる。(明日ほどうするかな)池本は考えた。


・・・・休暇と合コン・・・・

 日曜日、朝はいつも通り走ってきた。何もする事がないのでテレビを見ていた。午後3時、携帯の電話がなる。「池本さん、藤沢です」ジムの後輩である。「今日、合コンなんですけど1人欠けちゃって」(こいつ合コン好きだな。いつも合コンだよな。俺はパスだな)「いや、間に合ってます」「池本さん、いつもそう言いますけど、たまにはどうですか?息抜きですよ、女子大生ですよ。池本さんその気になればモテますから行きましょうよ」「お前はもっと練習しろよ」「あちゃー、痛い事言いますね。それはそれ、今回は合コンの話。お願いします、一生のお願い」「何回一生のお願いがあるんだよ」「とりあえず、今回は俺を助けて下さい」結局付き合わされる事になった。藤沢が6時半に迎えに来るらしい、7時からとの事だった。(とりあえずやる事ないし、まあいいか)池本はまたテレビを見始めた。

 藤沢が迎えに来た。池本は少し眠っていた。藤沢のノックで起きた。ドアを開けると「ちょっと池本さん、着替えて下さいよ、何やってるんすか」「すまん、寝てた。今着替える」「頼みますよー」池本は着替えた。ジーンズにTシャツ、黒のトレーナーの上に灰色の前開きの厚手のパーカーを着た。「池本さん、なかなかいけますよ」藤沢は言った。少し髪の毛を直し現地に向かった。7時ちょっと前についた。メンバーは藤沢・手塚・喜多・徳井と池本だった。「遅いっすよー」徳井に言われた。「悪い、池本さん寝ててさ」「マジっすか?俺なんて興奮して昨日から眠れてないのに」喜多が言う。手塚が頷く。「お前らはだから弱いの」「うわー、厳しい。でも、そんな池本さんが俺らは好きですよ」「きもいんだよ」池本は言った。

 お店に入ると女性達が座っていた。「ごめんね遅くなって、全員到着しました」手塚が言う。手塚は大学生、どうやら手塚が企画をしたらしい。「とりあえす、飲み物を頼みましょう」徳井が言う。店員を呼び飲み物を頼む。サワーやビール等を頼んだが、池本はウーロン茶を頼んだ。飲み物が来て「とりあえずカンパーイ」藤沢の掛け声で乾杯をした。「では、自己紹介!」喜多が言う。「まずは男性陣、俺は喜多。21歳大学生」「俺は徳井、同じく大学生」「手塚です。俺の事は知ってるよね」「藤沢です。フリーターってとこですかね。色々やってます。こちらは俺達の偉大な先輩、池本さん。本日は俺が頭を下げて参加してもらったの」「偉大でもねえし下げて貰ってもねえよ。池本です。とりあえずおまけですかね」「出た、池本節」藤沢が言った。「はいはい、女性陣どうぞー」「はい、豊本です、19歳女子大生です」「工藤です。同じ」「伊藤です。私達同じ大学です」「金田です。恋人募集中です」「渡辺です。今日はお願いします」(渡辺?まさかね)池本はそちらを向いた。渡辺さんだった。「あ、この前渡辺さんと話してた人、彼女がいるかどうか渡辺さんに聞いたけど知らないって言ってたけど、ここにいるって事はいないんですね」伊藤さんが言った。「そう、池本さんは現在寂しい独り者。っていうか俺らもだけどね。今日の出会いで独り身脱出ー」(藤沢テンション高け―)池本は思った。「とりあえず、乾杯が終ったので席替えー」徳井が言い「はーい」何故か池本以外全員が返事をしていた。男女交互に座る。池本の隣には、右に伊藤さん、左に金田さんだった。とにかく色々聞かれる。池本は酒を飲まないのでのらりくらりとかわしているが、酒が入った後輩が心配であった。池本はボクサーという事を表立って言わない。他の4人はプロではないから構わないが池本はプロである。プロボクサーというだけで好機の目で見られる事がある。以前、池本はひどい目にあっていた。プロボクサーというだけで勝手にイメージを持たれ、飲み会等の迎えに呼ばれた。迎えに行く度にその時のメンバーに紹介をされ、見世物のようにされていた。減量が始まると会えない日々が続くが、その時に浮気をされていた。浮気がばれると池本に暴力を振るわれていたと嘘をつき、池本が悪者となり、池本は色々な人からパッシングを受けた。事情が分かり謝ってきたが、池本はその事がありプロボクサーである事を隠していた。大分みんな酔っぱらってきた。2回目の席替え、池本の隣は左が伊藤さん、右が渡辺さんであった。「渡辺さんは飲み過ぎない様に!」「分かりました」渡辺さんはちびちびやっていた。「ちょっとー、私も相手して」伊藤さんが入ってきた。「2人は知り合いなんでしょ」「バイトが同じ所、渡辺さんが最近入ってきたの」「そうなんです」「そうなんだー、だったら池本さんを狙っても大丈夫だよね」伊藤さんに言われ、池本はウーロン茶を吐き出しそうになったが我慢した。「ここで重大発表、俺らはボクシングジムの仲間でーす。こっち4人は練習生ですけど池本さんはプロですよー」手塚は言った。「えーっ」女性陣が声を上げた。「そうなの渡辺さん?」伊藤さんは聞いていた。「私も知りませんでした」(きたよ~あの馬鹿。うわー帰りてー)池本は思った。そこからは思った通りであった。色々と聞かれる。ある程度で答えているがめんどくさくなっていた。「しかも池本さん強いんだよ。日本ランカーだぜ。10戦全勝、日本タイトルも取れそうなんだよ。チャンピオン候補だぜ、すごくねー。何年かしたら世界チャンピオンかもね」藤沢が言った。(盛り過ぎだ。やめろ)池本は思ったが話が池本の話題で盛り上がっていく。周りは好機の目である。不意に渡辺さんを見たが、渡辺さんはきょとんとしていた。「ボクシングをやっている人は怖いイメージがありましたけど、池本さんは怖くないですね」渡辺さんは不思議そうな顔で言った。

 あまりにも盛り上がり過ぎてうるさいくらいであったが時間が来た為、お開きとなった。2次会に行く者と帰る者に分かれた。池本は帰る方におり、女性3人は帰る事になった。徳井と喜多は用事があるとの事で電話番号を交換して先に駅に行ってしまった。藤沢と手塚は2次会へ、3人の女性を池本が送る事になった。伊藤さん・工藤さん・渡辺さんである。タクシーを拾い全員を乗せる。一人づつ送っていった方が良さそうである。みんなかなり飲んでいる。最初に工藤さんを送った。次に伊藤さんを送る予定であったが、伊藤さんが忘れ物をしたとの事で渡辺さんを送っていった。送った後、居酒屋に戻るように池本はタクシーに伝えた。伊藤さんに後ろに乗ってと言われた為、席を後ろにした。居酒屋に戻り、伊藤さんが入っていった。池本は待っていた。居酒屋から伊藤さんが出てきて「付き合わせてごめんね」と言われた。「大丈夫」池本は返し、タクシーに乗った。少しタクシーが走った後、伊藤さんが気持ち悪いといった為、タクシーから降りた。お金を払い少し歩いた。「ちょっと休みたい」と言われた。「ここで休んでいこう」伊藤さんが指した場所はラブホテルだった。「いいでしょ、池本さん」「パスしよう、それは無し」「なんで、私が嫌い?」「嫌いとかではなくて、そういう事は順番があるでしょう」「いいじゃない、入ろうよ」「自分を大切にしなさい。ダメとは言わないけど、きちんとしないと後で後悔するよ。綺麗なんだから自分を大切にして、自分がいつか自分の人生を見直した時、胸を張れるようにね。多分、このまま入ったら後悔するよ」「そんな事言って、池本さん、私の事嫌いなんでしょ」「アホか、全然知らないのに好きも嫌いもあるか。そもそも俺も男だよ、誘われたらそりゃ行きたいさ。でもね、後悔されたら嫌なんだよ。顔を合わせる度に嫌な思いをされるのはごめんなんだ」「じゃあ、ちゃんと付き合ってからならいいの?」「俺の事、全然知らないでしょ。そっちの方が先でしょ」「じゃあ、池本さんの事をちゃんと知って、池本さんと付き合って、そしたらいいの?」「ちゃんと付き合ってるならいいんでないのかな」「だったら私は立候補してもいいの?」「立候補ならどうぞ、ただし、俺に価値があるかは知らないよ」「価値は私が決めます」「はいはい、とりあえず送っていくよ」池本はホテルを通り越し、タクシーを拾って伊藤さんを送った。タクシーの中では伊藤さんは終始静かであった。伊藤さんのマンションについたので、池本は下りた。タクシーにお金を渡し伊藤さんに「お疲れ様、あんまり変な事しないようにね」「池本さん、ホテルに行こうと思わなかったんですか?」「思ったよ、行くのも有りかなってね。でもさ、これからも会うかもしれないのに、そんないい加減な事できないでしょ。自分を大切にしな、伊藤さんならそんな事しなくても綺麗だから大丈夫でしょ」「池本さん、質問いいですか?」「何なりと」「どうして彼女がいないんですか?」「それは俺の知っている女性に聞かないと分からないよ、俺が知りたいよ」「もう一つ、連絡先を教えてもらってもいいですか?」「それなら別にいいよ、ラインはやってないから電話かショートメールにしてね」「はい、分かりました」池本は伊藤さんと連絡先を交換した。「じゃあ、おやすみ」「池本さん、この近くなんですか?」「いいや、少し走って帰ろうと思ってね。少し食べたからね」「池本さん、試合見に行ってもいいですか?」「どうぞ、手塚に聞けば教えてくれるよ、じゃあ」池本は右手を上げ、走っていた。

 

・・・・試合へ向けて・・・・

 翌日、池本は店長と話をした。試合が決まった為、バイトの休みについてである。出来れば早くから休みを取りたいが、あまり休むと試合後の生活が厳しい。とりあえず6月いっぱいくらいを目安に休みを取る予定にした。合宿の事も伝え、6月は最初の週は休みを取った。

 店長と話が終わると渡辺さんが出勤してきた。渡辺さんの出勤は月曜と金曜である。月曜は9時からであるが、金曜は13時からである。大学の取っている授業の関係らしい。後期の際は改めて店長と話をして決めるらしい。店長としては日中、2人のバイトが欲しいらしい。奥さんの腰痛もあり募集もかけているが見つからない。最も店内の目立たない所に貼ってあるのでなかなか分からない事もバイトが見つからない原因だった。「渡辺さん、誰かバイトやらないかな」店長が言う。「大学の友達に聞いてみますか?」「頼むよ」「店長、バイト募集してるんですか?」池本が聞く。「ずっと募集してるよ、ほらそこに張り紙してるし」「これは気付きませんよ、気付いた人いるんですか?」「いるよ、渡辺さん」池本は渡辺さんを見て「よく気付いたね」と話した。「私の身長だとちょうどいいんです」(渡辺さんは150cmくらいだから見えるのか)池本は思った。「多分、結構希望者来ますよ」渡辺さんが言う。(花屋は人気あるのか?)池本は思った。本日の業務もいつも通り終了し、池本は上がる時間、挨拶し、お店を出ようとした。「池本さん、今週の日曜日用事ありますか?」「ん、何かあるの?」「友達が一緒に遊びたいって言っていて、手塚さん達に話をするらしいんですけど、池本さんはどうかなって思って」「今週からしばらく暇はないかな」池本は答えた。「渡辺さん、池本君は今週から恋人と濃密な時間を過ごすの。大変なんだから」「え、彼女いないんですよね?」「いないよ」池本は答える。「やっぱり彼ですか?」「一周回って振り出しだな、おい」池本は頭を右手で掻きながら溜息混じりに言う。「まあ、楽しんでこいよ」池本はジムに向かった。「渡辺さん、その内分かるよ。池本君の恋人は、かなり過激だよ。びっくりするよ」店長に言われもやもやした。(彼女はいないのに恋人はいる?池本さんは遊び人?いい加減な人には見えないけど?)

 池本のジムワークは厳しさを増していた。ミット打ちのラウンド数も増える、スパーリングも増える。練習が終わるとロードワークに出る。帰ってからも走るので1日4回ロードワークをこなす。サンドバッグ打ちも増える為、周りの練習生、プロからも心配な眼差しで見られるが池本にとって当たり前である為、特に気にしていない。全ての練習が終わると洗濯機を回しシャワーを浴びる。洗濯が終わるまで横になるがそのまま朝を迎える、この時期の池本にとってはいつもの事である。

 翌日、いつもの5人で集まっていた。伊藤さんから「池本さんをあの後ホテルに誘っちゃった」と言われた。「えー」みんなびっくりしていた。「どうなったの?」金田さんが聞いた。「断られちゃった。自分を大切にしなさいって、自分を振り返った時、胸を張れるようにって。どうしよう、本気で好きになっちゃった。私の事、本気で考えてくれたんだよ」「うまく断られたんじゃないの」工藤さんが言う。「違うよ、ちゃんと連絡先を交換したし、恋人に立候補したもん。体が目当ての同い年とは違うよ」「確かに池本さんは紳士だよね」豊本さんが言う。「渡辺さん、協力して。直接接触できるのは、渡辺さんしかいないの」「私ですか?」「渡辺さんがいれば会えるんだね」金田さんが言った。「金田さんも池本さん狙い?」伊藤さんは言った。渡辺さんは店長と池本の言葉が気になっていた。恋人がいるのに彼女はいない、何かのなぞなぞのようである。みんなに聞いてみた。「何それー、遊び人がする言い訳?池本さんに1回怒ってもらった方がいいよ」伊藤さんは言うが(いや、池本さんの言葉なんだけど)と渡辺さんは思った。最近このメンバーだと話があの合コンの男性陣の事が多い、特に池本さんの事は伊藤さんから良く出る。金田さんも時々出してくるが本気で狙っているのだろうか、ならば、この話を伝えた方がいいのだろうかと渡辺さんは考えてしまう。「どうしたの渡辺さん?」工藤さんに言われ「ああ、そうだ。バイト先の店長から誰かバイトしないかって話があって、誰かやらないかなって思って」「私やる、店長さんに連絡して」「私もやりたい」伊藤さん、豊本さんであった。時間があったので店長に連絡を入れる。2人の予定も聞きながら面接は金曜日の13時になった。豊本さんは木曜日、伊藤さんは火曜日水曜日、2人とも13時から17時での希望である。

 金曜日、渡辺さんは友達2人とバイトに来た。池本がおり、挨拶をしようと思ったが「池本さんこんにちは」伊藤さんが先に声をかける。「ん、ああ、どうしたの?」「面接です」今度は豊本さん、(2人とも池本さん狙いだっけ、ていうか工藤さん以外池本さん狙いか)渡辺さんは思った。池本が店長に声を掛け後ろに通した。面接はそんなに時間はかからなかった。30分くらい経っただろうか、店長から呼ばれた。「池本君、来週から2人入るから教育よろしくね、2人とも知ってるみたいだね」「よろしくお願いしまーす!」2人が言った。2人が帰った後、いつも通りに仕事をする。「何か疲れてますね」渡辺さんが心配そうに言う。「恋人が激しいんだよな」店長が言う。「店長、よく考えたら店長のそれが俺の彼女ができない原因の一つじゃないですかね」「今更だね、気にしちゃいけないよ」池本は溜息混じりに右手で頭を掻く。予定の時間で池本は上がりジムに向かう。「店長、池本さんの恋人って?」「渡辺さん気になるの?かなり過激だよ。まあ、悪い事ではないけどね」「意味深ですね、池本さんに彼ですかって聞いたら溜息つかれました」「はっはっは、面白い発想だね。池本君は同性愛者じゃないよ、本人に聞いてみなよ」やっぱりもやもやする渡辺さんであった。

                

・・・・池本のいない外出・・・・

 日曜日、大学の友達と4人で遊園地に来ていた。男子4人が声を掛けて来た。この間の合コンの男性陣である。「池本さんは来ないの?」伊藤さんはいきなり不満を言ってきた。「ごめん、無理って言ってたの伝えるの忘れてた」渡辺さんが謝る。「池本さん、しばらく無理だよ。現在超絶練習中!もう少しすると減量が始まるから雰囲気怖いよ、俺達でも話しかけられないもんな」藤沢が言う。渡辺さんは「恋人はいるけど彼女がいないって何だと思いますか?」と聞いてみた。「この間のやつ?池本さんに怒ってもらった方がいいって言ったじゃん」伊藤さんが答える。「普通ならそうだけど、もし池本さんの事ならボクシングだよ。定期的に池本さんを独り占めされるしね。池本さん、ボクシングに対しては誰よりも真面目なんだ。なかなかわかってくれる異性が現れないから独り身なんだけどね」徳井が言う。「私なら理解するのに」伊藤さんは言っていた。(伊藤さんは本気みたいだな)渡辺さんは思った。

 遊園地は楽しかったが少し物足りなさを感じた。昼を食べた後「午後は予定を変更しよう」手塚が言う。「そうだな、伊藤さんと渡辺さんは俺がジムに連れて行くよ、行くぞ喜多」藤沢が言う。「俺ー」「お目当ての工藤さんがいないんだから付き合えよ、ほんと、池本さんの爪の垢でも飲ませたいよ」「うわー、それ言っちゃダメなやつです」「そっちはよろしく」「はーい、大丈夫です」徳井は答えた。

 藤沢、喜多に連れられて池本のジムに着いた。窓に池本が見えた。「こんにちはー」藤沢と喜多が挨拶して入る。「なんだ、今日は休みだろ」トレーナーが言う。「見学したい方達がいたので」藤沢は答えた。「すいません、大丈夫ですか?」伊藤さんが言う。「見学はいいけど静かにね。大切な時だから」トレーナーに注意された。池本は見学の位置から離れた所でアップしていた。池本の他に3人いた。いずれも180cm以上の大きい人達である。「始めるぞ、用意しろ」会長が声を出す。池本がヘッドギアを装着しグローブをはめる。3人の内の1人がリングに上がる。「始めるぞ」トレーナーが言い「カーン」と音がなる。スパーリング開始である。最初から池本は前に出る。左を2・3度出し間合いを詰める。相手のパンチをしっかりガードし、頭を振って前に出て行く。相手のジャブをかわした瞬間、一気に懐まで入り連打をする。相手が後退するが逃がさない。相手はクリンチをしようとするが一瞬相手の顔面に左フックを入れ距離をとり、クリンチをさせない。また頭を振ってリズムを作り前に出て行く。2分を過ぎたあたりで左ボディから返しのアッパーが決まりダウンを奪う。相手も立ち上がるが池本のラッシュを受けトレーナーに止められる。パートナー交換である。次の相手も同じような展開である。3人目は少し粘ったが、2ラウンドでストップされた。その後トレーナーとミット打ちをし、サンドバッグを打つ。ロードワークに出る際4人に気が付いた。「お、来てたのか。じゃあ」そう言って池本は右手を上げ出て行った。4人は挨拶しジムを後にする。「池本さん凄いね、びっくりしちゃった。雰囲気も違うし、正に戦う男だったね。声掛けられた時、ドキッとしちゃった」伊藤さんが言う。「池本さん、ボクシングしてると違うんだよね。元々真面目だけど、それだけでなく自分に厳しいというか」藤沢は言う。「池本さん見てプロは諦めたんだ。俺はアマチュアでやろうと思ってね。趣味として試合が出来ればいいと思っている俺には、あそこまでストイックには出来ないよ」喜多が言う。「池本さんて、いつもあんなに練習してるんですか?」渡辺さんが聞く。「今日は特別に厳しいけど、池本さんは大体いつも厳しい練習してるよ」藤沢は答えた。池本の知らない一面を見た渡辺さんは少し圧倒されていた。

 

・・・・新しいバイト仲間・・・・

 翌日、大学でいつもの4人で話ている。昨日の事である。「池本さんがね・・・・」伊藤さんが昨日のジムでの事を伝える。ある程度話をした後、池本に彼女がいない事について話になった。いくらボクシングがあるとはいえ、彼女がいてもおかしくはない。「店長に聞いてみよう」伊藤さんは言った。

 渡辺さんはバイト先で池本に挨拶をし出勤した。いつも通り業務をこなす。店長に頼まれ、池本と仕入れに出かけた。車内で「池本さん、昨日はすいません。でも、凄かったです。練習大変なんですね」「大変でもないよ、いつも通りかな。これからが追い込みだけどね」「かっこよかったです」「ありがとう」「なんで彼女作らないんですか?」「作らないと作れない、違いがわかるかな?相手がいなくちゃ出来ない事もあるのですよ、分かりますか?」「すぐ出来そうですけどね、現に伊藤さんは、かなり気にしてますよ」「その内に分かるよ」池本は言って笑顔を作った。

 業務が終わり、池本はいつも通りジムへと向かった。ジムワークは厳しさを増している。しかし池本は淡々とこなしていた。何も言わず練習している池本の姿が他のジムメートを無言で引っ張っていた。

 翌日、伊藤さんのバイト初日である。池本はいつも通り出勤し仕事をこなす。昼休みから帰ってくると伊藤さんがいた。「今日からお願いします」「こちらこそ」池本は答えると仕事を教えた。伊藤さんも仕事を覚えるのは早い、池本は感心した。15時になり池本は上がった。伊藤さんは店長に池本が彼女を作らない理由を聞いたが店長にはぐらかされた。知っているのか知らないのか分からない。伊藤さんは少しもやもやした。翌日もバイトである。本人に聞こうとしたが、なかなか聞けないでいた。そうこうしているうちに池本は上がってしまった。(来週こそ)伊藤さんは思った。

 翌日に豊本さんの初日、池本はいつも通りであった。この娘も覚えるのが早い。(助かるなー)池本は思った。豊本さんより彼女を作らない理由を聞かれ誤魔化した。(この話題多いなー、何かいい答えないかな)池本は思った。

 

・・・・本業の追い込み・・・・

 楽しかったのはここまでである。日曜日より練習がさらに厳しさを増した。日曜日は徹底的に走らされた。走った後にミット打ち、終わればシャドー、そしてまた、走り込み。さすがの池本もへばっていた。それでも練習は続く。アパートに帰るのも辛いくらいである。仕事場でも自然と言葉が減り、話しかけずらい雰囲気になっていた。もちろんお客に対してはきちんと対応しているが、他の人には極力話をしない。池本の顔もどこか疲れていた。

 6月に入り池本はバイトを休み、合宿に行った。ここでも徹底的に走らされた。走り込みとジムワークを一日中行う。まさにボクシング漬けである。ハードワークの後の合宿である。肉体的にも精神的にも相当追い込んだ。

 合宿が終わり1日休んだ。翌日よりバイトに復帰した。渡辺さんより合宿の事を聞かれ、何となく返した。翌日は伊藤さんに同じ事を聞かれた。練習は少し落ち着いた。ここからは体重と質の練習である。スパーリングが中心になり、1日に8〜10ラウンドこなした。池本は早めに減量を開始する。1ヶ月前から落とし始める。一気に落とす選手もいるが、池本にはこのやり方があっている。池本の練習も佳境に入っていった。

 6月も終わり、池本はバイトが休みになる。この時になると池本の体は大分絞れてきていた。後20日程、ここからが正念場である。現体重は77kg、後4.5kgここから体重が落ちなくなる。まさに骨身を削る思いである。この頃になると携帯もならなくなっていった。

 7月16日、練習終了後軽量、72.5kg予定通り落ちた。後はキープしながら練習を続けていく。残りの時間は疲れをとりながら練習を続ける、難しい時間だ。練習を休めばスタミナが減るがハードワークは疲れが残りこれもマイナスである。

 7月20日、軽量に臨む。72.5kg、一発OKである。当然、相手も軽量パスした。試合はセミファイナルであった。


・・・・試合当日・・・・

 7月21日、控え室に池本はいる。仕上がりはいつも通りである。池本はアップを始めた。前の試合が終わり池本は、会長・トレーナーと入場した。赤コーナーである。選手の紹介があり、試合のゴングが鳴らされる。池本は自分から前に出て、2・3回左ジャブを打つ。頭を振りスパーリング通りである。相手がジャブを返し池本はガードする、様子見といった所か。1分過ぎ、相手の左ジャブをかわした池本が懐に飛び込む。左ボディから左フックを返す。綺麗に決まり相手がよろけ、後ろに下がる。池本は追い、追撃をする。連打をまとめる。たまらず相手はダウンをする。立ち上がりファイティングポーズを取る。再び試合再開、池本は一気に間合いを詰め連打をする。何発か相手に入った所でレフェリーが試合を止める。池本のTKO勝利である。試合を見に来ていた伊藤さん、渡辺さんは大興奮である。手塚・藤沢はスタンディングオベーションである。池本は渡辺さん達に右手を上げ、その後周りに頭を下げ、リングを降りた。

 少し経って、会長・トレーナーと池本は外に出てきた。藤沢達は近づく。藤沢は会長より池本を送るように言われ引き受けた。池本は会長達に頭を下げ試合会場を後にした。帰りの途中、伊藤さんは仕切りに試合の事を話している。確かに凄い試合であった。5人で電車に乗り、池本のアパートまで行く。途中「もう大丈夫だぞ、特にダメージないし」と池本が言ったが伊藤さんと渡辺さんが送って行くと強く言うので結局アパートまで来てもらった。アパートに着いた際、藤沢と手塚は帰るようだが「2人にお茶くらい出して下さい」と言われ2人をアパートに上げる事になった。「すいません、疲れてるのに」伊藤さんは言う。「すぐに帰りますから」渡辺さんも言う。「ゆっくりしてもいいよ、とりわけ何もないしすぐには眠れないし」池本は冷蔵庫から500mlのペットボトルを2本出し2人の前に置いた。池本は2Lのペットボトルを開け、そのまま飲んでいる。豪快だ。池本は何となくテレビを付けた。「池本さん、おめでとうございます」2人に言われた。「ありがとう」池本は返した。「あの、以前にも質問しましたけど、なんで彼女作らないんですか?」伊藤さんは聞く。「それは・・・」「誤魔化しちゃダメですよ、伊藤さん真剣なんだから」渡辺さんが言う。「うーん・・・俺は孤児院出身なんだ。だからどうしても踏み込めない時がある。実際、相手の親にはよく言われないからね。どうせ捨てられるならと思うと作る気になれないんだよ。付き合い始めた時に終わりを考えるのは嫌だろう。しかし、それが当たり前だからね、どうしても踏み出す気にはなれないんだ。まだ理由はあるけどね、大きいのはこれかな」「私は気にしないけど・・・」伊藤さんは言う。「親の事を考えないとね。きっといい顔はしないよ。悪く言ってるんじゃないよ、それが当たり前だからね」「両親が許可すれば大丈夫なんですか?」渡辺さんが言った。「池本さんがどんな人か伝えれば大丈夫です。何回も何回も説得すれば大丈夫だと思います。1度で諦めるからダメなんです」「渡辺さんいい事言う。そうだよ池本さん、何度も許可が貰えるまでチャレンジすればいいじゃないですか」「その結果、うまくいかなくて浮気されて、俺の暴力のせいで別れるんだよ」「池本さんは暴力を振るわないです」「暴力を振るう人かどうか、見て分かります」2人が言う。「ありがとう、でもね、20歳の時かな、当時の彼女がそう言った時、周りはみんな信用してね。俺は悪者さ。別にいいんだけど、生まれてきた環境は俺には変えられないよ。どうしようもないんだ」「最低の女ですね、そんな女に今だに振り回されてどうするんですか?そんな女こっちから願い下げです。そんな女だけじゃないですよ」「渡辺さんの言う通りです。最低女は忘れましょう。そんな女は最低です。池本さんは変な人に捕まったんです。これからいい恋愛をすれば大丈夫です」「2人ともありがとう、なんだか元気が出てきたよ、少しは前に進めそうだよ」「よかった、私、立候補してるのに困っちゃいますよ」伊藤さんは言った。いつのまにか10時を超えていた。「送るよ」池本が言い立ち上がった。2人は大丈夫と言ったが時間も時間なので送る事にした。タクシーを呼ぼうとしたが2人が歩くと言うので歩く事にした。なんでもない会話をしながら歩いた。途中で公園に着いた。「ここだよ、渡辺さんが吐いたの」「あの時はすいませんでした」「聞いたー、その後おんぶして首筋から背中に吐かれたんでしょ」「そう、そして寝てたのな」「ごめんなさい」「私も酔っ払ったらおんぶしてくれますか?」「吐かなきゃね」「今、酔っ払っちゃったー」伊藤さんは池本の背中に飛び乗る、おんぶの形になる。「酔ってないでしょ」「酔いました。池本さんに酔い中です」「はいはい」「池本さん、渡辺さんと私、ちゃんとどっちか選んで下さいね」「私は別に・・・」「嘘、分かってるよ。私も同じ気持ちだから、だから今からスタート、池本さんの争奪戦、とりあえず、渡辺さんだけずるいから私もおんぶ」「いい友達を持ったね渡辺さん、このまま行くとマンションに着くまでおんぶになりそうなので、説得をお願いします。さすがに試合終わったばっかりなので続きはお酒で酔った時にね」「もー、分かりました」伊藤さんは降りた。2人を送り帰路についた。

 

・・・・日本タイトルへ始動・・・・

 翌日、ジムにファイトマネーを貰いに行った。その時会長より話があった。日本タイトルの話が正式にあり、10月9日との事だった。期間が短いが池本は快諾した。上に上がる為には多少の無理は覚悟していた。

 本来なら休みが入りジムワーク再開だが、今回はその期間がない。すぐにジムワーク再開である。試合の疲れも抜けず、ハードワークに入る。バイト先の店長に話をし、9月10日までの勤務にした。練習そのものは変わらないが疲れが抜けていない事がこんなにキツイ事を池本は知った。それでもこのチャンスをモノにする為、池本は必死だった。

 藤沢が手塚に連絡をし、合コンのメンバーと会う機会を作った。8月23日の事だった。居酒屋だった。男性陣は池本を抜いた4人、女性陣は5人全員来ている。「日本チャンプ、許せねぇよな」藤沢は言った。「勝てねぇからってこの試合間隔はねぇだろう」徳井が続ける。ボクシングの試合は間隔が少し空くが、ダメージを抜いたり改めて準備したりとその為のものである。期間が短いという事は、それだけ体の負担がありキツイ事を表している。「特に夏だしな」藤沢が言う。今回の試合について納得がいかないとの事だった。「池本さんは、何て言ってますか?」渡辺さんが聞く。「何も言ってない」手塚が答える。「だったら何も言えませんよね、当の本人が何も言わないのなら、私達は信じて待つだけですよね」伊藤さんが言う。「分かってるけどさ、会場はチャンピオンの地元の神戸だぜ。ただでさえアウェーなのにさ」喜多が言う。「なら、私達は神戸まで行って応援しましょう。アウェー感に負けないように」渡辺さんが言う。一同は納得し出来る事は協力する事で池本を支える決意を固めた。そんな時、池本が居酒屋に現れた。「みんな、なんでいるの?」池本が聞いた。「池本さんの応援の話をしてたんですよ」藤沢が言う。「池本さん、辛くないですか?」渡辺さんが言う。「相変わらずストレートだな、大丈夫だよ、大したことない」池本は答え、ウーロン茶と焼き鳥のレバーを2本頼んだ。「池本さん、減量は?」徳井が聞く。「9月に入ってからかな。でも今は順調。少し鉄分を補給に来た」池本は言い、出てきた焼き鳥を食べる。その際、伊藤さんに聞かれる。「今度の相手、ずるいですか?試合の間隔もないみたいだし」「こっちもストレートだね。ルール上問題ないから試合が組まれているんだよ、ずるいも何もないよ。むしろチャンスをもらえた事に感謝かな」池本は答え、焼き鳥をもう一本食べてウーロン茶を一気に飲み、会計を済ませ出て行った。「泣き言一つ言わない、凄い人ですね」伊藤さんの言葉に誰もが頷いた。

 9月16日練習も佳境、減量も佳境である。スパーリングもこなし、ウェートも後1kgを切った。9月29日に神戸に移動する。その前にウェートを作っておきたいが、間に合いそうである。練習にも力がこもる。

 9月28日、ウェートはキッチリ作った。仕上げの練習も終わり、明日、神戸へ移動して向こうで当日まで練習をする。

 9月29日、新幹線に乗る。自由席に座った。3人掛けの通路側である。隣に40代と思われる結構大きい男、窓側には男より若い30代後半と見られる綺麗な女性が座っていた。「すいません」と言って池本は座った。男の人は「ごめんね、俺が大きいから邪魔でしょ」と言われた。池本は大丈夫と答えた。旅は道連れである。横の男に話しかけられた。男の名前は水沢と言い、結婚相手と転勤だそうだ。女性の名前は木村というらしいが、男は「玲奈」と呼んでいた。ちなみに木村さんは「のぶくん」と呼んでおり、典型的なバカップルである。しかし池本は少しも嫌な感じを受けず、羨ましく感じた。水沢さんにそれを伝えると2人で照れていた。池本もどうして新幹線に乗っているのか聞かれた為、正直に答えた。木村さんより水沢さんが昔、総合格闘技をやっていた事を聞き、妙に親近感が湧いた。神戸に着き、お互いに挨拶をして別れた。(水沢さん、木村さんを大分好きだけど、木村さんの方が水沢さんを好きそうだな)ふと池本は思った。

 神戸に着き、ホテルにチェックインする。その後、ジムにて練習をする。それほど疲れは出ていない。ある程度で本日は終了にした。ウェートは大丈夫だ。翌日からも間借りしているジムにて最後の仕上げをしている。少しづつ集中力が研ぎ澄まされていくのを池本は感じていた。

 10月8日、軽量の日。池本は一発でパスした。チャンプもパスした。2人で向き合った写真を撮られた。


・・・・日本タイトルマット・・・・

 10月9日、控え室。池本は集中していた。試合も進み、池本はアップを始める。セミファイナルが終わり入場になった。会場に「惑星」が流れる。池本が会長・トレーナーとともに現れた。池本がリングインするとチャンピオンが入場する。選手紹介の後、中央に両者が歩み寄り、一旦各コーナーに別れた。池本は青コーナーである。「カーン」ゴングか鳴る。

 1ラウンド、池本はいつもの様に頭を振り、左ジャブを打っていく。チャンピオンは距離を取りジャブを打っていく。静かな立ち上がりかと思ったが池本が動く。チャンピオンのジャブを左で叩き落とすと強引に前に出た。チャンピオンが距離を取ろうとするが構わずに前に出て行く。一気に懐に入り連打をする。チャンピオンも飲み込まれない様に手を出す。早々に打ち合いになった。お互いに被弾するが打ち返す。池本が上下に打ち分け、左フックがチャンピオンのテンプルに入り、チャンピオンが後退する。池本が追い追撃の体制に入るとすぐにレフェリーが割って入る。ゴングが鳴っている。1ラウンド終了である。

 2ラウンドからは同じような展開が続く。チャンピオンが距離を取り、池本が追いかける。何度かコーナーに追い詰めるもクリンチで凌がれてしまう。我慢のボクシングである。

 5ラウンド、池本がギアを上げる。開始早々に一気に間合いを詰め、チャンピオンをまくし立てる。チャンピオンも手を出すが飲み込まれていく。左ボディからの左アッパーでダウンを奪う。カウントが進む。カウント8でチャンピオンが立ち上がる。試合が再開される。池本は間合いを詰め、連打をする。何発もパンチが入りチャンピオンの手が出ない。レフェリーが割って入る。5ラウンド1分14秒、TKOにて池本の勝利である。池本が応援席にいるみんなに右手を上げた。応援に来ていた9人は大興奮である。池本の腰にベルトが巻かれる時には、全員リングサイドに来ていた。インタビューが入る。池本はしきりに感謝を述べていた。その際「2人の女性に感謝しています。一歩先に進めた気がします」と言っていた。渡辺さんと伊藤さんは目を合わせて照れ笑いをした。


・・・・池本の元彼女・・・・

 試合後、外でみんなが待っている。会長は藤沢達に池本の送りを頼んでトレーナーと消えていった。上機嫌である。みんなで池本のホテルまで歩き出した。みんな興奮している。よく聞いてみると池本のホテルに藤沢と伊藤さん、渡辺さんが泊まる事が分かった。結局同じホテルの4人で帰る事になり、6人は飲みに行く事になった。4人で他愛もない話をして歩いていると公園に差し掛かった。「ジュン君、待ってたんだよ」女性が声を掛けた。「お前・・・」藤沢が言いかけたが池本に静止される。「少し待ってて」池本は女性と公園に入って言った。藤沢に女性の事を聞いた。

 藤沢の説明から、「福森 あすか」という名前、池本が以前、暴力を振るったと言われて別れた元カノである事が分かった。「俺、あいつ大嫌いなんですよ。池本さんの事都合よく使って」藤沢は言っていた。「気になるから行ってみよう」伊藤さんの言葉で2人で公園に入って行った。福森は「ジュン君、私ね、あれから反省したの。ジュン君はいつも私の事を考えて、あの時幸せだった。もう一度やり直そう」「・・・俺は幸せではなかったな」「そんな事ない、楽しかったでしょ」「君はね、俺は大変だったよ。でもね、一つよかった事がある。自分を再認識できたからね」「やり直そうよ」「お断り致します。あの時言えなかったけど、俺は君のアクセサリーではない。永遠にさよなら」池本は公園の出口に歩き出した。福森は呆然と見ている。「あれ、2人は?」「飲み物を買いに行ってます」藤沢は答える。2人が戻ってくる。「ジュースは?」池本は聞いた。「忘れちゃった」伊藤さんは言った。「ジュースを買いに行ってジュースを忘れるって」「何やってんですかね、私達」渡辺さんが言う。「それで、2人の納得いく答えを俺は出したのかな?」「え!」2人はびっくりしていた。「そんな所でしょう。多分だけどね」「はい、納得です」「ごめんなさい」2人は言った。「池本さんには敵わないですね」藤沢が言ったが「お前は止めろよ」と池本は頭を掻きながら溜息混じりに言った。


・・・・タイトル奪取後・・・・

 翌日、神戸を後にし戻ってきた。新幹線もみんな同じ。ちょっとした旅行みたいな感じである。色々な話をした際、くる途中の新幹線で隣に座っていたカップルの話をした。幸せそうな2人の話はみんな少し幸せそうだった。

 翌日よりバイト再開である。店長に勝利を報告してバイトに入る。いつも通りの生活が始まる。5日間の休暇を取ってジムワークに戻る。ジムワークを再開した頃、伊藤さん、豊本さんの歓迎会が開催された。池本も練習後に参加した。上機嫌で会は進んでいく。歓迎会も終わり池本が3人を送る事になった。「私おんぶー」伊藤さんが言う。「あ、私も」渡辺さんも言う。最近2人は遠慮がない。「私が居なくなってからやって!」豊本さんは言った。どうやら豊本さんは徳井と付き合い出したらしい。最近徳井の練習の熱の入れようの原因はこれかと池本は思った。どうやらプロになって、納得が出来るまで頑張るらしい。(頑張れ徳井)池本は思った。送るのは難しい。豊本さんを送った後、どちらを先に送るかで揉めた。結果、伊藤さんを先に送るがおんぶである。伊藤さんの後は渡辺さんをおんぶして送るらしい。2人を送った後、アパートに帰った。


・・・・後輩のプロテスト・・・・

 ジムワークは相変わらずであった。池本は何も言わず黙々とメニューをこなしている。池本のその姿が他のジムメートを無言で引っ張っていた。「池本、明後日付き合え」トレーナーより話がある。徳井のプロテストのようだ。池本は快諾した。徳井の練習を見ていれば大丈夫だと思うが、せっかくなので同行する事にした。

 当日、店長に事情を説明し午前中でバイトは上がった。トレーナーと待ち合わせをして会場に行く。後楽園ホールである。試合が始まる前の会場でプロテストは行われる。先に筆記テストがあり、後半がスパーリングである。スパーリングに間に合うようにトレーナーと会場に入った。会場に入るとリングの上で何人もシャドーボクシングをしている。ある程度時間が経ち、それぞれが準備に入る。徳井は5番目である。通路でアップの続きをしている。1組目、2組目が終わる。徳井も準備する。「き、緊張してきたっす」「なるようにしかならないから落ち着け」池本が言う。「いや、真面目にやばいっす」「はー、情けねぇな。しっかりしろよ。お前、情けねぇ姿見せたら帰ったら俺とスパーな、俺とトレーナーが納得するまで」「それいいな、よし、それやろう」トレーナーも言う。「うわ、逆にプレッシャーですよ」「出番だ、行って来い」バシッと池本は背中に一発平手打ちを入れた。

 徳井のスパーリングは大丈夫だった。最初から自分のペースで進め、まさに基本通りというべきものだった。ダウンも取り、余程の間違いがない限り合格てあろうとトレーナーと話していたが、徳井の不安な姿を見て、もう少し不安がらせておこうとトレーナーと話していた。合格結果は翌日に張り出される。翌日の昼、徳井は池本と結果を見に行った。徳井がテストの後、池本のお店に行き店長に池本を貸して欲しいと交渉に行った為、池本は2日連続で午前中勤務になってしまった。「お前、これで落ちてたら練習量倍な」池本は言ったが、受かっている確信があった。徳井はそんな池本の言葉も耳に入らず、少し青い顔をしていた。後楽園ホールに着くとすでに結果が貼ってあった。近づき番号を確認すると徳井は目をつぶっている為、「徳井、番号ねぇぞ」と言うと徳井はすぐに目を開け確認、自分の番号がある事を確かめた。「池本さん、あるじゃないですか」と徳井が言うと「俺、お前の番号知らねぇよ」と池本は答える。

 ジムに帰り、池本はジムワークを行う。徳井も行う。会長・トレーナーに「おめでとう」と言われ、「ありがとうございます。これからも頑張ります」と徳井が答えた。


・・・・次のステップ・・・・

 いつも通りの毎日が過ぎて行く。バイトとジムワーク、時々悪友達との交流があり、月日は進んでいた。あの合コンから仲良くなった10人は、相変わらず仲が良かったが少し変化もあった。豊本さんは徳井と付き合い、徳井はプロボクサーとなり、デビュー戦をKOで飾り、現在3戦3勝である。工藤さんと喜多は現在保留中、喜多もプロを目指す事になり、絶賛練習中である。金田さんは藤沢と手塚と両手に華らしい。池本についてもしっかりとKOで防衛をし、防衛数を「3」としていた。池本も23歳になっていた。

 池本がジムに来た。挨拶しジムに入るとすぐ、会長に呼ばれる。東洋太平洋のタイトルマッチの話である。12月14日との事だったが池本は快諾した。今日は9月14日、試合までちょうど3ヵ月である。また、この試合に勝てば世界ランキングに入る。夢にまで見た世界チャンピオンが現実味を帯びてきた。

 その日から池本は、より一層練習漬けになる。寝ている時以外はボクシングしか考えていないようだった。普段ならしないミスもする。届け先に荷物を届け、お金を貰い忘れる。仕入れで違う店の物を持ってきてしまう等、普段では考えられないミスをしていた。その都度、店長が「しょうがない、誰でもあるよ」とフォローをしていた。もちろん渡辺さん、伊藤さん、豊本さんもフォローをしてくれており「本当にごめんね、失敗ばかりで、本当にありがとうね」と池本は謝っていたが、渡辺さん、伊藤さんは池本の失敗も新鮮で、その失敗すら好ましく思った。

 ジムワークは厳しさを増していく。走り込みが増え、スパーリングも始まり、練習にも熱を帯びていく。10月上旬に合宿を行い、まさにボクシング一色になってきた。


・・・・藤沢の決断・・・・

 そんな10月後半の日曜日、池本は呼び出しを受ける。藤沢からである。近くの公園で待ち合わせである。「池本さん、忙しいのにすいません」藤沢が言う。「大丈夫、何だ話って」「実は・・・俺、実家を継ぐ事に決めました。どうするか迷ってましたけど、池本さんの覚悟を近くで見てて、実家に帰って親父の会社を継ぎます」「そうか、決めたか。お前が決めたんなら俺は何も言わないよ」「はい、池本さんならそう言うと思いました。今年いっぱいで実家の金沢に帰ります」「そうか、なら、俺がしっかり勝つとこ見とけよ。いいか、後輩」「はい、しっかり見ます。先輩!」2人は別れた。

 11月に入り練習もかなり厳しくなる。池本の顔にも疲労が見えてくる。寒い時期の為、体重が落ちない事も辛い理由の一つである。11月より減量を開始、いつもより早い開始であるが、体重はそこまで落ちてこない。11月も後半になったというのにウェートは77kgあった。

 11月27日、本当ならメニューを減らしていく時期であるがウェートは75kg、落ち切っていない為、メニューを減らせない。

 12月5日、練習後のウェート73.5kg、もう少しのように感じるが、なかなか減っていかない。

ウェートが落ちたのば、試合の2日前の12月12日であった。

 12月13日、軽量。池本はクリアし、チャンピオンもクリアした。後楽園ホールのメインイベントとして組まれる。2人で向き合った写真を撮られ、池本は足早にその場を後にした。池本はショートメールを送る。(明日、しっかり見ておけ)藤沢はそのメールをしっかり確認した。

 12月14日、池本は控え室にいた。いつもの通り集中力を高めている。立ち上がり、アップを開始する。いつも以上に体のキレを感じる。(後はやるだけ)池本は思った。


・・・・東洋太平洋タイトルマッチ・・・・

 会場の熱気も上がってくる。「惑星」が流れる。池本の入場である。会長・トレーナーと入って来た池本はガウンを着ている。背中には魂と書いてある。池本のリングインの後、チャンピオンが入場してくる。チャンピオンがリングインし2人の紹介がされる。2人がリング中央に歩み寄り一度、各コーナーに別れる。池本は青コーナーである。

 「カーン」始まりのゴングがなる。池本が最初からいく。頭を振り、強引に前に出る。チャンピオンは対応しきれず池本に飲まれていく。池本が連打でまくし立てる。チャンピオンも手を出すが少し鈍い。構わずに連打する池本、左フックが顎付近に直撃する。チャンピオンがたまらずダウンする。レフェリーのカウントが入るがカウント8でチャンピオンが立ち上がる。試合再開の合図とともに池本が前に出るが、そこはチャンピオンである。クリンチをうまく使い、このラウンドを何とか乗り切る。

 2ラウンド、池本が前に出る。チャンピオンは左ジャブを打ち距離を取ろうとするが、池本は前に出る。チャンピオンの左ジャブをかいくぐり距離を詰める。池本が上下に打ち分けチャンピオンを翻弄する。チャンピオンもクリンチをしうまくかわしていく。池本がコーナーにチャンピオンを追い込んだ所でゴングがなる。

 3ラウンド、チャンピオンの動きが鈍い。池本は前に出る。間合いを詰めると連打をする。チャンピオンも手を出すが、徐々に池本に飲み込まれていく。左ボディから左フック、返しの右フックがチャンピオンの出した右フックに被り、カウンターのような形でチャンピオンの顎を捉える。チャンピオンがダウン、レフェリーが間に入り、池本はニュートラルコーナーに行く。カウントが入る。チャンピオンが動き出すが足に力が入らない様子、なかなか立ち上がれない。更にカウントが進む。「10」レフェリーが数え両手を何度も交際する。池本の3ラウンド1分7秒、KO勝利である。池本は右手を応援に来ている9人の方に突き上げる。8人は興奮していたが、藤沢は右手を突き出し、泣いていた。リング上で池本がインタビューを受けている。腰にはベルトが巻かれている。藤沢はその姿をしっかりと目に焼き付けた。


・・・・藤沢との別れ・・・・

 12月16日、藤沢がジムに挨拶に来た。会長とトレーナーに事情を説明し頭を下げる藤沢、不意に後ろから声がする。「用意しろよ藤沢!」後ろには池本とその他にいつもの8人が立っていた。「着替えてアップしろ」トレーナーが言う。藤沢がびっくりしていると「池本さんからのせんべつだよ、ありがたく受け取りな」徳井が言って着替えを渡す。藤沢は無言で頷き、着替えた。無言でアップをする2人、「用意しろ」トレーナーに言われ準備する。池本はヘッドギア無しだ。2人ともリングに上がる。藤沢のコーナーにはいつもの3人がセコンドについており、女性陣はリング脇にトレーナー達と立っていた。

 「始めるぞ」トレーナーが言い、2人とも右手を上げる。「カーン」ゴングがなる。藤沢が左ジャブを打つ。池本はジャブをかいくぐり左ボディを打ち込む。一瞬動きが止まるがすぐに離れる藤沢、左ジャブを打ちながら距離を取る。池本は左ジャブを打ち追いかける。しかし藤沢の左ジャブがキレており、なかなか間合いを詰められない。「カーン」1ラウンド終了である。

 2ラウンド、藤沢から打つ。左ジャブと時々右ストレートを混ぜながら攻める。池本は足を使い、これを避けていく。左ジャブを返し、時々ステップインしボディからの連打で藤沢の顔面を捉えるが、藤沢もパンチを返し、追撃を許さない。「カーン」2ラウンドも終了である。「こんなもんかよ池本、手を抜くな」藤沢は声を荒げる。「安心しろ、様子見だ」池本は答えた。

 3ラウンド、池本は前に出る。藤沢は左ジャブを打つがかいくぐり、左ボディからの左アッパーで藤沢はダウンする。立ち上がった藤沢は、自分から前に出る。左ジャブを打ちながら前に出る。距離を詰めると右も交えて攻める。しかし池本には当たらない。ガードをしながら的確にパンチを返す。2分を過ぎた所で藤沢は2度目のダウンをする。「立ち上がれよ、何してんだ」池本がマウスピースを右で外しながら言う。藤沢が立ち上がるのを見て、池本はマウスピースをもどす。残り30秒、池本は前に出て連打をする。藤沢も打ち合う。不意に藤沢の左が池本の顔面を捉える。しかし池本は気にも止めずにパンチを打ち込んでいく。 「カーン」ゴングがなる。スパーリング終了である。藤沢が池本の右の拳を両手で握り「ありがとうございました」と言う。池本は「おう」とだけ答えて自分のコーナーに戻る。「池本さん、もう少し手加減しても良かったのに」伊藤さんは言った。するとトレーナーが「これから藤沢はもっとキツイ所で生きていく。ここで手を抜いたら藤沢の為にならない。池本はよくわかっている。試合が終わって体もキツイはずなのに、本当に後輩思いの先輩だよ。池本は藤沢の思いも背負って、これからもボクシングを続けていくんだ」「藤沢さんは、どうしてプロにならなかったんですかね」渡辺さんが言う。「藤沢は迷っていたんだ、実家の仕事を継ぐかボクシングをするか。中途半端だからプロテストを受けなかった。池本に夢を託して実家の仕事を継ぐ事を決めたんだ。その事を池本が1番良くわかっている、だから手を抜かなかった。池本らしいせんべつだ」トレーナーは答えた。「池本さん半端ないっす」藤沢が言う。「まーな、KOできると思ったんだけど、やられたよ。この間のタイトルマッチだってKOだったのにな」「その言葉、嬉しいです」「俺のパンチを受けて立ってたんだ。少しの事で根を上げたら許さねぇぞ」池本が言うと藤沢は頷いた。

 池本がシャワーを浴びている。藤沢は先に浴びて着替えていた。「池本さんからショートメールが来てよ、手伝えって」徳井が言う。池本からの提案である事が藤沢は嬉しかった。池本が着替える。全員で会長とトレーナーに頭を下げ、挨拶してジムを出ていく。「どうせこのまま新幹線なんだろ」池本が言う。「はい、そのつもりです」「俺に黙っていくなんて許さねぇぞ」「池本さんには敵わないです」「全員で見送りだ」池本は言った。駅まで行く途中、他のメンバーとも話しをした。駅にはアッと言う間に着いた。新幹線に向かう途中、藤沢は伊藤さん、渡辺さんに声を掛け、「池本さんをお願いします」と言い、2人とも「はい」と返事をした。プラットホームに着いた。藤沢はみんなに挨拶をした。「これからが本当の勝負だ、頑張れよ」池本はそう言い右手を差し出し、藤沢の右手に何かを渡した。それはコインであった。オモチャのウルトラマンのコインは鉄製で少し重みを感じた。「池本さん、これ・・・」「お前は大切だよ。困ったらいつでも連絡しろよ」藤沢は泣いていた。泣いてる内に発射の合図がなりドアがしまる。藤沢は深々と頭を下げる。池本は右手を前に出していた。


・・・・ウルトラマンコインの秘密・・・・

 女性陣はウルトラマンのコインの意味が分からなかった。男性陣も分からない様子、池本と藤沢は誰よりも付き合いが長い為、2人しか知らないのではないかとの事だった。池本は用事があるとの事で見送った後、何処かに行ってしまった。伊藤さんに「スカートを履いた方の用事ですか?」と聞かれ「だといいけどね」と言い、駅に消えていった。全員がもやもやした為、店長に話を聞きに行く事にした。今日は金曜日、渡辺さんのシフトの日である。池本は本日はお休みである。

 お店に着き、店長に声をかける。店長は8人を見てびっくりしている。渡辺さんが事情を説明すると店長は全員を後ろに通した。奥さんに店を少し任せて店長も更衣室に来た。「みんなで池本君の事だね。池本君人気だね」「ウルトラマンのコインの事なんですけど」渡辺さんが言う。「できれば、池本さんの教えられない用事も」伊藤さんが言う。「そうか、ウルトラマンのコインか」「今日、知り合いが実家に帰ったんですけど、ウルトラマンのコインを池本さんが渡したんです。そしたらそいつが泣き出して・・・」徳井が言う。「もしかして藤沢君かい?」全員が頷く。「そうか、それなら納得だ。みんなは池本君の出身は知ってるかい?」全員頷く。「あれはね、池本君が親に買って貰った物なんだ。たった3枚のウルトラマンコイン、池本君の宝物だよ。藤沢君は池本君にとって、家族も同然の存在、そんな所かな。だから藤沢君も泣き出したんだよ、自分が兄としたう人から家族と認められたんだからね」一同納得である。「池本さんの用事は?」伊藤さんが言う。「それは池本君に聞けばいい、教えてくれるよ」そう言われた。渡辺さんはそのままバイトに入った。


・・・・コンビニの新スタッフ・・・・

 翌日、池本はコンビニのバイトにいた。近藤が出られないので何とか出られないかとの事であった。池本は快諾した。バイトに入るとバックヤードに若い女の子がいる。店長より紹介され、本日よりアルバイトに入る森田さんとの事だった。「よかったよ池本君で。近藤君だったら心配で帰れないからね。近藤君のバイトの時間、変更した方がいいよね」「そうですね、森田さんが辞めない為には、それが一番ですね」森田さんは笑っている。店長はよろしくとの事で一度帰った。池本は森田さんに仕事を教える。森田さんは覚えが早い、すぐにレジができるようになった。お弁当等の処理も教えて一緒に並べていると「ピンポン」と音がなった。「いらっしゃいませー」池本と森田さんが言う。若い男が入って来た。「瞳ちゃんなんで無視するの?俺、別れないからね」男は言う。「アンタなんか嫌い、付きまとわないで」森田さんは言い、池本の後ろに隠れる。池本の服を掴んでいる。「なんだよそれ」と言い近づく男の前に池本は出た。「なんだよ」男は言う。「いらっしゃいませ、ご用はなんですか?」「用事なんてねぇよ!」「でしたらお帰りを、はいさようならー」池本は男を追い出した。「ありがとうございます」森田さんは答えた。お客もいない為、自然と話はさっきの男の話になった。森田さんが付き合っていたらしいが束縛が酷く、友達との付き合いまで口を出してきた為別れたらしい。しかし、彼の方が納得がいかずに付きまとわれているとの事であった。

 10時まで10分くらい時間があるが交代の人が出勤してきた。いつも交代している清水さんだ。挨拶をして入ってくる。池本も挨拶をする。森田さんはジュースの補充をしていた。清水さんが着替えて出てくると森田さんも補充を終え戻ってきた。2人で挨拶し話をしている。「そういえばさー、若い男が何人かうろうろしてるけど、何かあったのかな」清水さんが言うと森田さんの顔が青くなる。池本は何となく察した。その時にもう1人のバイトがやってくる。時間は10時になっていた。

 バイトを上がったが森田さんは俯いている。「送っていくよ」池本が言う。「大丈夫です。悪いです」森田さんは答えるが、池本は「まあ、任せなよ」と答える。バイト先を出る際に池本はショートメールを送る。バイト先を出て5分程で声をかけられる。先程の男と他に2名いた。森田さんが池本に隠れる。とりあえず、池本は声をかけてきた男達の言う通りに後をついていき、近くの公園に着いた。「瞳ちゃん、俺別れないよ。言う事きかないと・・・」さっきの男が言う。「痛い目にあいたくないでしょ、言う事ききなよ」続けて男が喋る。どうやら力ずくで交際をしようとしているらしい。一緒にいる男2人はいかにもな感じを出している。「あー、情けない。振られたら力ずくって、お前ダメだよ。しかも他力本願なんて、さらにダメダメだな。だから振られるんだよ」池本は言った。森田さんは驚いている。「何だよお前、さっきもだけどよ。お前もやっちまうぞ」「あれ、瞳ちゃんから聞いてない?俺と付き合ってるからお前と付き合えないんだよ。瞳ちゃんは俺と一緒にいたいから俺のバイト先に来たの」「何だと、とりあえずこいつやっちゃって!」いかにもな2人が前に出てくる。森田さんに下がってるように促す。「はー、自分で何もできない奴も最低だが、命令されて最低な行為をするのも最低だな、どっちが最低だろうね」池本が言い終わると男達が殴り掛かってきた。池本はなんなく避けている。1人の足を払い転ばせる。もう1人の足も払い転ばせた。「後、自分達より強い人というのは案外近くにいる事も学ばないとね」池本が言い終わると同時に、かなり息を切らした手塚が来た。「はぁ、はぁ、お前ら何やってんだ」手塚が言う。「何だよお前、関係ねぇだろ」男は言うが転ばされた2人は違うようだ。手塚は「お前ら俺に恥かかすなよ」「すいません」2人の男が答える。「お前ら、後は分かってるよな」手塚が強く言うと2人は頭を下げて、何か喚いている男を連れて逃げていった。「すいません、池本さん」「本当だよ、しっかり教育しろよ」池本は言った。


・・・・手塚の過去・・・・

 手塚は昔、少しは名の知れたワルだった。いつも喧嘩をしていた。負けた事がなかった。ある日、池本に喧嘩を売った。池本は相手にしなかったがそれがしゃくに触り、手塚は殴り掛かった。しかし手塚の攻撃は当たらない。池本は涼しい顔をし「無理はするな、少年」と手塚の肩を叩き去って行った。手塚は納得がいかず池本を探した。ボクシングジムにいる事がわかり、自分もジムに入った。ジムに入って池本をボコボコにしようと考えた。しかし実際は違った。入っても最初は基本ばかり、ジムでこってり絞られる為、喧嘩どころか仲間とつるむ事もままならなかった。始めて半年、ようやく池本とスパーリングになったが、結果は散々なものであった。それでも手塚はジムに通った。池本を倒そうとしていた。そんな時、会長より話があった。通っている高校にボクシング部を作ったので選手として出ろとの事だった。学校からは許可が出ており練習はジムで行えるらしい。手塚は戸惑ったが「弱えんだから、チャンスはありがたく貰えよ」との池本の言葉にカチンと来て話を受けた。実際の試合ではしっかりと勝利し、県の代表としてインターハイに出場が決まった。しかしそうなると悪い仲間が黙っていない。手塚は夜中、公園に数人呼び出し、仲間を抜ける事を伝えた。納得できない面々は儀式と言い手塚に暴力を振るった。手塚は抵抗しなかった。「ついでに腕を折っちまおうぜ」と言われた時、言った男が視界から消える。次に見えた物は池本であった。「もういいだろう?これ以上やるなら俺も混ぜてもらうよ」「俺達でしょ、池本さん」藤沢が言った。後は話が早かった。池本が蹴り飛ばした相手は手塚と同格で扱われていた男、一撃でのされたのを確認し、誰も手を出せずにいた。池本は手塚に手を伸ばし「少しは男の顔になったな」と言った。この日を境に手塚はボクシングにのめり込んでいく。インターハイは3位であったが辞められなくなっており、大学へ進学し続ける形になった。母校では不良からボクシングで全国へ、ちょっとした英雄であり不良の間でも手塚は有名であった。

 池本は手塚に少し話をし、森田さんの所へ向かう。「送って行くよ」再度伝えると手を差し出した。森田さんを送り届けた際、「もう大丈夫だから」池本は笑顔で伝えた。


・・・・元旦から大忙し・・・・

 1月1日、元旦である。池本はコンビニでバイトをしていた。近藤が一生に3回ある内の1回目のチャンスが来たとの事で休みの為、代わりに出勤している。しかし元旦である、客はほとんど来ない。一緒にバイトに入ってるのは森田さんである。「森田さんもご苦労様だよね、元旦にバイトだもんね」「そんな事ないです。特にやる事ないからバイトは助かります。時給もアップしてるし」「でも、初詣でとか行けないでしょ。彼氏とかと行きたいんじゃない?」「彼氏はいません!いたらバイトは断ります」「そうだね」池本は答えた。その後、あの男からの付きまといはないらしい。あの事から森田さんと池本は話をよくするようになっていた。本日のバイトも池本と一緒の為受けたのである。元旦でバイトが見つからないとの事もあり、いつもは10時までだか、今日は13時までである。「しかし暇だ。弁当おにぎりなんかも並べたし、何しようか?廃棄でもやる?」「廃棄は終わりました。ジュースの補充は池本さんがさっきやりましたよね?」「まずい、何にもやる事がない、バイト終わりまで2時間もあるよ。とりあえず、後ろで早いけど昼食べちゃいなよ。後、持っていく物も選んじゃって。今日くらいゆっくり休憩とっても大丈夫でしょ」「わかりました。先に休憩入ります」森田さんはバックヤードに入る。池本は暇なので床掃除を始めた。床掃除が終わっても1時間以上バイトの時間が残っている。バックヤードから森田さんが出てきた。その時「ピンポン」となり「いらっしゃいませー」と2人が言ってそちらを向くと、手塚達が笑顔で入って来た。手塚、徳井、伊藤さん、渡辺さん、豊本さんの5人である。「来た、売り上げに協力しない客!」「池本さん、そりゃないですよ!」手塚が答える。「ありがとうございました」森田さんが手塚に言う。「ああ、大丈夫だよ。何かあったら教えて、何とかするから」手塚が答える。「何かあったら死刑だね!」池本の鋭い目が手塚を襲う。「ちょっとー、私達無視ですか?池本さん酷いですよ。売り上げにならない客とか言うし」伊藤さんが言う。「3人は違うよ、この男2人はいつも立ち読みして飲み物だもんな、それよりみんなでどうしたの?」「初詣ででもどうかなって思って」渡辺さんが言う。(やる事ないしいいかな、そうだ!)池本が思い付く。「もう少しでバイトが終わるから、森田さんも行こう。やる事ないって言ってたしどうかな?」「私も行って大丈夫ですか?」「大丈夫だよ、手塚と徳井がちょっかい出そうとしたら蹴り入れるから」「徳井さんが何かしたら私が蹴りを入れます」豊本さんが言う。「しないよ!2人でやめてよ!」徳井は言った。「そういえば私、池本さんがここで働いているの知らないんだけど」伊藤さんが言う。「そういえば、誰にも教えてないけど、なんで知ってんの?」「主に藤沢ですね」手塚が答える。「なるほどね、もう少しでバイトが終わるから待ってて」池本は言うとバイトに戻る。時間は13時まであと10分程である。

 「さすがに混んでるねー」「池本さん、どうします?他の所に行きますか?」「徳井君、何処に行っても変わらないと思わないかい。だったらここで並ぶ、それが最善策!」池本の意見に全員が納得した。混んではいたが、1時間くらいで終了した。初詣でが終わり、みんなでお店に入る。と言っても元旦である為、入ったのは某ハンバーガー屋である。会計は池本が出した。藤沢の事等のお礼と高校生からは貰えないからである。食べながら他愛のない事を喋っていた。森田さんはすぐに溶け込めたらしい。2時間くらい居たであろうか、7人はお店を出て別れる。方向が同じ池本、渡辺さん、伊藤さん、森田さんが一緒に帰る。森田さんを送り3人で歩いてる。渡辺さんが聞く。「池本さん、時々ある用事って何ですか?」「ああ、俺が居た孤児院に行ってるだけだよ」「池本さん、慰問ですね」伊藤さんが続ける。「そんなんじゃねぇよ。ただ、良くも悪くもあそこに俺は救われたんだ。だから、少し恩返しかな」池本の見た事のない一面を見た2人であった。「ああ、そういえばこれ」池本はそう言い2人にお守りを出した。「体に気を付けてね」「ありがとうございます」2人は答え、受け取った。


・・・・世界前哨戦・・・・

 いつも通りの日々が続いていく。藤沢がいない事以外は変わらない。池本はしっかりと防衛を重ねていく。現在防衛は「2」である。両方ともKOである。徳井は新人王を獲得した。喜多はプロテストに受かり、工藤さんと交際をスタートした。デビュー戦をKOで勝ち、その後も判定だか勝利、2戦2勝である。

 9月に入り、池本がジムに行くと会長より呼ばれる。次の試合の予定が伝えられる。池本はWBCの世界ランキング7位、WBAの世界ランキング9位になっていた。「この試合に勝ったら世界戦だ。チャンピオンサイドも了承している」会長からの言葉に池本の拳が強く握られる。

 ジムワークが厳しさを増していく。当然バイトの時の言葉も減っていく。11月10日に試合である。今回の試合をクリアすると念願の世界タイトルマッチである。池本の集中力も高まっていく。9月は徹底的に練習をしていく。走り込みも増えていく。

 10月に入り減量に入る。現在のウェートが78kgである。スパーリングを中心に練習が進む。練習も佳境に入る。

 10月15日、スパーリングを行う。池本の集中力が凄い為か、スパーリングも鬼気迫る物がある。3人のスパーリングパートナーがいるが、1人をリングからラッシュで落としてしまう。手首を捻挫してしまい、パートナーが1人減る形となる。ウェート74.0kg。

 10月25日、スパーリング中心に行う。疲労が溜まっているはずだが、池本の動きは軽快である。スパーリングパートナーを圧倒している。ウェート73.0kg。

 10月30日、いつもの通りスパーリングを行い、いつも通り練習を行う。ウェート72.5kg、ウェートは落ちた。

 11月に入り練習のペースを落とす。疲れを抜きながらウェートをキープしていく。しっかりとコンディションを整えていく。

 11月9日、軽量。池本は一発でパスした。挑戦者もパスし、2人で向き合った写真を撮られ、池本は会場を後にする。

 11月10日、試合当日。試合はどんどん進んでいき、メインイベントとなり、池本の出番である。入場、リングインと続き、選手紹介、そして試合開始となった。

 試合は一方的になった。1ラウンドから池本は前に出て、徹底的に手を出していった。挑戦者も手をだすが池本に飲み込まれていく。1ラウンドに2回、挑戦者はダウンをする。何とか2ラウンドにたどり着くが、開始の池本のラッシュにセコンドからタオルが投げられる。2ラウンド42秒、池本のTKO勝利である。


・・・・決定!世界タイトルマッチ・・・・

 翌日、ジムに顔を出した池本は会長に呼ばれ、会長室にいく。会長より3月21日に世界戦が決まった事を告げられる。WBCチャンピオンに挑戦する事が決まった。池本は「はい、分かりました」と答えファイトマネーを受け取り、ジムを後にした。遂に世界戦、池本の拳は硬く握られていた。

 池本はダメージ休暇中である。バイトをしながらロードワークだけは欠かさない。伊藤さん、渡辺さんに食事を誘われた。待ち合わせ場所に行くと喜多も来ていた。他愛のない話をしていると工藤さんが合流する。5人で食事を取った。それぞれの幼い頃の話になる。池本は話を振られるが、うまく話を濁しその場を切り抜ける。工藤さんは喜多が送って行く事になり、伊藤さん、渡辺さんは池本が送って行く。途中の公園に差し掛かった時「少し話をしてこうよ」と伊藤さんに言われ、3人で公園に行く。池本はあったかいアップルティーを自動販売機で買い2人に渡す。池本はあったかいお茶を買った。3人でベンチに座る。「池本さん、小さい時の事教えて!」伊藤さんは言う。「私達は受け止めます」渡辺さんは続ける。(2人はこんなにも俺に対して真剣なんだな)池本は思い、静かに語り始めた。


・・・・池本の過去・・・・

 池本が小学3年の時である。池本には4歳下に妹がいる。ある朝、池本が起きると両親が天井からぶら下がっていた。両親の下には排泄物が散乱していた。池本には何が起こっているのか分からなかった。妹が起きてくる。(妹に見せてはいけない)咄嗟に妹を抱きしめ外に出た。外に出ると妹を抱きしめながら「誰かー」と何度も怒鳴る。近所の人が出てくる。池本は家を指差し「お父さんとお母さんが」と言っていた。池本は涙を流しながら妹を抱きしめている。2人とも裸足である。近所の人は家に入り大声を出した。2人とも首を吊っていたのだ。大きな騒ぎになった。警察もやってきた。遺書も見つかり自殺と断定された。借金が増え、行き詰まっていたらしい。その後2人は孤児院に引き取られた。池本は事あるごとに喧嘩をした。特に妹の事には敏感だった。学校に行けば孤児院の子達の事を悪く言えばすぐに喧嘩をした。

 池本が小学6年の時、妹は里親が決まり引き取られていった。池本が学校に行っている時に孤児院を出て行った。池本は荒れたが自分が子供だから妹を守れないと考えた。池本は中学を卒業するとバイトをしながら定時制の高校に入学した。池本が17歳の時、妹の引き取られた家を訪問した。とても大きな家だった。妹に会った際、妹から迷惑そうな顔をされ、もう来ないでほしいと言われた。池本は謝った。見るからに場違いな格好であった為である。池本は思った。いつか妹に認めてもらえるようにと。その後、池本はボクシングと出会いのめり込んでいく。そして、世界チャンピオンになって妹に認めてもらう事、それが池本の考えた事である。

 「かっこ悪いだろ。でも、それが俺なんだ。別に隠す気はないけど、誰にでも話す事ではないからね」2人は沈黙した。「ごめん、つまらない話だよね」池本は言った。「池本さん・・・」2人は言いかけて泣き出した。池本は慌てた。「ご、ごめん。大丈夫?くだらない話だったね」「違う、池本さん大変だったね。全部わかってあげられないけど、大変な時は大変だって言って、私聞くから!」伊藤さんが言う。「何にもできないけど、話は聞きます。何にもできないけど、私の側で泣いても大丈夫です」渡辺さんも言う。池本は「ありがとう、遅くなる前に送るよ」池本は言い立ち上がる。3人で歩く。「池本さんの焦る姿、初めて見ました」渡辺さんが言う。「池本さんでも焦るんですね」伊藤さんも言う。池本は右手で頭を掻きながら2人を送っていく。


・・・・世界チャンピオンへの挑戦・・・・

 ジムワークが再開になり、いよいよ「世界奪取」が目標となった。いつも通りの練習だが自然と熱が入る。池本のペースが上がっている。トレーナーから止められるくらいに上がっていた。12月になり、スパーリングも開始になる。1月には合宿である。池本の気合も高まってくる。12月も半ばが過ぎ、世間はクリスマスの雰囲気である。しかし、池本には関係がなかった。今までの全てをかけてベルトを取ることが以外に考えてなかった。

 12月半ば過ぎの日曜日、トレーナー・会長から息抜きにと休みをもらった。いつもの面々が池本を誘う。遊園地との事だったが、あいにくの雨となり近くの大きなゲームセンターに行く事になった。ここはカラオケもボーリングも併設している。ボクシングのゲームをやったが、以外にも池本が一番下手であった。ゲームを一通りやった後、渡辺さんの提案でカラオケに行った。みんなお酒を飲みながら盛り上がった。池本はウーロン茶である。かなり盛り上がったカラオケも終了し、現地で別れた。池本は、伊藤さん渡辺さんと帰っていた。「池本さん、世界戦頑張って!」伊藤さんに言われる。「ありがとう、とりあえずやれる事は全てやるよ」池本は答える。「やっぱり世界チャンピオンは強いんですか?」渡辺さんが言う。「強いよね、チャンピオンだけでなく、普通の人から比べればみんな強いよ」「ボクシングって孤独ですよね。減量も練習も詰まる所、全てが自分。孤独な事は、嫌じゃないんですか?」「孤独じゃないよ、こうしてみんながいるし、2人の綺麗な人が俺を心配してくれるしね。それにこれは、俺が始めた事だからね。孤独なんて気にしないよ」2人は綺麗と言われて照れてしまった。池本は2人を送って行った。

 翌日より練習がさらに厳しくなる。徹底的な走り込み、シャドーボクシング、スパーリングにミット打ち、サンドバッグ打ちに筋力トレーニング、シャドーボクシングを再度行い、またロードワークに行く。池本にもはっきりと疲労の色が見える。

 1月に入り合宿になる。寒い為、いつもより走り込みが多くなる。ジムワークもかなり絞られる。今回は海である。砂浜を走るが、これがキツイ。柔らかい地面の為、進んでいる気がしない。しかし池本はこの合宿も弱音を吐く事なくやり遂げる。

 ジムワークも佳境に入る。スパーリングのラウンド数も増えてくる。いつの間にか2月になっていた。

2月15日、減量スタート。スパーリングを中心に練習を行う。かなり厳しい物になっている。徳井が同じメニューを行おうとして、途中で足が痙攣してしまった。ウェートは75.0kgである。

2月28日、いつも通りに練習を終了。ついに世界戦が行われる月になる。ウェート73.5kg。

3月14日、試合一週間前。練習はいつも通りである。ウェートは72.5kg、明日より疲労を抜きながらの調整になる。

 3月19日、軽量前日。池本はメニューを淡々とこなしていた。調子は良さそうである。ウェートも問題ない。

 3月20日、軽量。池本は一発でバスした。チャンピオンもバスし、会見の会場に案内される。会見は今までした事がなかったので、池本は少し戸惑ったが、会見席に腰を下ろす。記者より抱負を聞かれ「明日、チャンピオンが変わる。それだけです」と言う池本に対し、チャンピオンは「また、アメリカにベルトを持って帰るだけ」と通訳を通じて話した。2人の向き合った写真を撮られ、会見は終わった。


・・・・いざ!世界チャンピオンへ・・・・

 3月21日、試合当日、場所は代々木アリーナである。池本は控え室で集中していた。そんな時、1人の訪問者が現れた。藤沢である。「池本さん、チャンピオンになる姿、見に来ました」「おう、しっかり見とけ」「はい、しっかり見ます」「手を出せ」言われて藤沢は右手握を握って前に出す。池本も握って右手を前に出し、藤沢の拳に軽くぶつける。「お前の分までやってやる。しっかり俺の拳に思いを乗せろ」池本に言われ、藤沢は熱い物が込み上げてくる。藤沢は池本に一礼し、客席に向かう。

 客席にいたお馴染みの面々は藤沢を見て盛り上がった。メインイベントまでは、まだ時間がある為、少し話をしていた。

 池本はアップを開始していた。入念にアップをしている。準備の合図が入った。準備の際、「やってきた事を信じて臨もう。試合が終わればチャンピオンだ」そう会長に言われた。

 入場である。池本は惑星の音楽とともに会長・トレーナーて入場しリングインした。チャンピオンはノリのいい曲で入場、リングインである。選手紹介の前に国家が流れる。続いて選手紹介、2人がリング中央に寄り、一旦各コーナーに別れる。「カーン」ついに世界戦が始まった。

 1ラウンド、池本が頭を振り左ジャブを2、3発繰り出す。チャンピオンはしっかりガードし返す。チャンピオンがフェイントをする。池本が下がる。開始1分、池本はロープを背負っていた。「池本さんのロープを背負うの、俺初めて見た」喜多が言う。「世界のプレッシャーだからな、でも大丈夫だよ」藤沢が答える。池本は頭を振る。チャンピオンが左ジャブを出すとそれを左にかわしジャブを返す。チャンピオンがジャブを返すと池本はそのジャブを叩き落とし、強引に前に出た。序盤から打ち合いである。リング中央付近での打ち合い、池本も引かなければ、チャンピオンも引かない。お互いにいいパンチが何度か入る。不意にレフェリーが割って入った。終了のゴングがなっている。

 2ラウンド、お互いに前に出て打ち合いになる。お互いに引かない。池本がいいパンチを入れればチャンピオンも反撃をする。我慢比べになってきた。

 3ラウンド、お互いにリング中央で打ち合う。徹底的に引かない。2人の打ち合いに観客も静かになっていく。

 4ラウンド、打ち合いが続く。お互い被弾しているが、全く引かない。お互いの顔が時々跳ね上がるが、それでも引かない。

 5ラウンド、打ち合いの均衡が破れていく。池本の連打にチャンピオンが少しずつ後退していく。チャンピオンがロープを背にした。池本は攻め続ける。チャンピオンがクリンチをするとゴングがなった。

 6ラウンド、チャンピオンが足を使い出すが池本は追いかけ、捕まえる。池本の連打にチャンピオンが対応しきれなくなっている。2分を過ぎた時、池本の左ボディからの左フックがチャンピオンのテンプルを捉え、チャンピオンはダウンをする。チャンピオンは立ち上がる。池本は間合いを詰め、手を出していく。チャンピオンも応戦をする。終了のゴングがなる。

 7ラウンド、チャンピオンから仕掛けるが、池本はしっかりガードし、打ち返す。チャンピオンが足を使うが、明らかに重い。池本は前に出て、徹底的に手を出していく。終了間際にチャンピオンから左アッパーでダウンを取る。

 8ラウンド、チャンピオンから前に出るが池本は動じない。しっかりとガードをし打ち返す。池本のパンチが2発、3発とヒットするとチャンピオンはふらふらと後退する。池本は追い、連打を浴びせる。チャンピオンが堪らずダウンをする。カウント8で立ち上がる。時間は1分を過ぎた所である。試合再開の合図の後、池本は強引に前に出てラッシュをかける。始めはチャンピオンも応戦するが、徐々にチャンピオンの手が出なくなる。池本は手を緩めない。チャンピオンをコーナーに釘付けにしラッシュをかける。何度となく池本のパンチが入り、レフェリーが割って入った時、チャンピオンが右膝から崩れ落ちる。レフェリーが手を何度も交際させる。8ラウンド1分41秒、TKOにより池本の勝利となる。瞬間、池本はコーナーに登り、応援席の面々に向かって右手を突き出す。応援席は盛り上がっている。藤沢だけは、握った右手を池本のように突き出していた。


・・・・世界奪取!そして・・・・

 試合が終わり、会長・トレーナーと一緒に池本が出て来た。会長とトレーナーは徳井達に池本を任せ、どこかに行ってしまった。かなりのご機嫌である。徳井達は興奮している。「いいから帰るぞ!」池本に言われ、駅に向かう。電車の中でも盛り上がっていた。しかし当の池本は冷静で、注意をしていた。いつもの駅に着いた。ここで別れる。「池本さん、俺、帰ります。池本さん見たら止まってられないです」「藤沢、その粋だ。頑張れよ、自慢の弟」「ずるいっすよ池本さん、俺の事、いつも泣かすから!」池本は握った右拳を藤沢に出した。藤沢も握った右拳を出し、池本の拳に軽くぶつけた。

 帰り道の公園に藤沢以外のみんなでいた。「池本さん、俺達もいつかはそれぞれの道に行くんですね」手塚は言った。女性陣はドキッとした。当たり前のこの時間がいつかは終わる。頭では分かっていた事だが、口に出される事で現実的に聞こえる。「いつかは別れる、仕方のない事さ。夢を叶えても叶えなくても、いつかは自分の道を歩く。今はそれぞれの道が交差しているだけさ。でも、重なった道が一生の宝物になるか忘れ去られる物になるかは自分達で決めていく。自分の責任で歩いていくんだ」「そうですね。でも、藤沢を見て、寂しくなっちゃいました」徳井が言う。「花に嵐の例えもあるさ、さよならだけが人生さ。さあ、帰ろう」池本に促され、全員が動き出す。池本は伊藤さん渡辺さんと帰る。「池本さん、私、やりたい事見つけました、ウェディングプランナーをやります」渡辺さんが言う。「そうか、見つかったなら、答えも分かる日が近いな」「ちょっとー、私も入れてよ!私はデザイナーになって、池本さんにガウンを作るんだから」伊藤さんが言う。「勘弁してよ、ガウンの絵が可愛い犬とかやめてよね!」「そんな事しなーい!」伊藤さんは池本を何度も叩く。「わわ、参った、参ったよ!ごめんごめん、許してー!」「許さなーい!」「ほんとにごめんって、もう言わないから!」「もうしょうがないな、許してあげる」伊藤さんの頬が少し膨れている。「池本さん、明日暇なんですけど、どこか行きませんか?」渡辺さんが言う。「そう、授業ないんです」伊藤さんも言う。「明日は孤児院に行く予定なんだ」「だったら、着いて行きます」2人は同時に答えた。


・・・・事情・・・・

 翌日、池本は病院で診断を受け、ジムに寄りファイトマネーを受け取る。その足で伊藤さん渡辺さんとの待ち合わせ場所まで行く。池本の顔は痣と腫れが残り、昨日の激闘を物語っている。2人とあった時、2人は池本の顔を見てびっくりしていた。池本は苦笑いをし、孤児院へと向かった。

 「池本君、昨日は凄かったわね。おめでとう」孤児院に入り、年配の女性に声を掛けられる。孤児院の院長である。池本は挨拶をし、2人を紹介して子供の所へ行く。20名弱の子供がいる。池本の周りに子供達は集まってくる。池本は子供達と話をし、一緒に遊んだ。自然と伊藤さん渡辺さんも子供達と遊んでいる。池本は院長に用事があるとの事で、大広間から出ていく。男の子が「どっちが池本のお兄ちゃんの彼女さん?」と言う。2人が赤くなっていると違う子から「彼女は他にいるんじゃないの」続けて女の子が「池本のお兄ちゃんは私が結婚するの」との事。2人は対応に困ったが、何とか相手をしている。

 「院長先生、これ」池本はファイトマネーから500万を渡す。池本は今回のファイトで約2000万のファイトマネーを手にしている。「池本君、いつも悪いわね」院長は答える。「俺も世話になりましたから、お礼です。ここが無ければ今のおれはいません」池本は答える。院長室のドアがノックされ、2人が入っていく。「池本君がいつもお世話になっております」院長は改めて頭を下げる。「私達は池本さんにお世話になっているんです」伊藤さんは答える。池本は子供達の所に行ってしまった。渡辺さんが院長に質問した。「池本さんが何でボクシングをやっているか、何で毎朝走っているのかって聞いたら、時間を戻す為と言っていたんですけど、何かわかりますか?」伊藤さんが「それ何?」と聞いたので、飲み過ぎた日の事を伝えた。多分、池本は聞こえてないと思っている事も伝えて。「池本君とここに来たって事は、池本君の事情は知っているわね」2人は頷く。「池本君はね、ご両親の自殺を自分のせいだと思っているの。何で前日に気付かなかったんだろうって。小学3年生が、そんな事気付くはずないのに自分を責めているの。妹さんに見せない様にして、一生懸命抱きしめて。2人がここに来た時、池本君は妹さんの事ばかり気にかけて。妹は自分のせいで悲しい思いをしてるんだって言ってたわ。ある時ね、妹さんがクラスの何人かに馬鹿にされていた時ね、池本君はみんなやっつけてしまったんだけど次の日にその馬鹿にしていた子の兄達にやられちゃったの。小学4年生相手に中学生が3人は卑怯よね。でも池本君、決して参ったと言わなかったの。殴られても蹴られても、ボロボロになっても謝らなかったの。近所の人が気付いて止めに入った時も池本君は向かって行ったの。中学生が逆に困っていた感じね。そして池本君が言ったの。俺が弱いから妹もお父さんもお母さんも守れないって。きっと池本君の今を支えている事の一つね。時間を戻すって事だったわね。池本君の妹さんは裕福な所に引き取られたんだけど、池本君が訪問した時に迷惑がっていたのよ。でも池本君はね、自分が弱いから、自分が見っともないからだ。いつか妹にもう一度、お兄ちゃんって言ってもらうんだって言ってね、ボクシングで世界チャンピオンになる事で妹さんともう一度、昔見たいに話したりしたいのよ。妹さんとは本当に仲が良かったんだから」院長は話した。不意に電話が鳴り、孤児院の職員が出る。職員は慌てて院長に繋ぐ。院長は2・3言、話をし池本を呼ぶ。電話を変わる。「はい、池本です」「お兄ちゃん、私、百合子。チャンピオンおめでとう、今日会えないかな?」池本の妹からである。池本はすぐに返事をし、これから向かう事を話した。「よかったわね、池本君!」院長は笑顔であった。池本は嬉しそうだが、一人では心細いと2人に一緒に行く事をお願いした。池本の以外な一面を見て、2人は了承した。こんなに慌てている池本を見た事がないからである。


・・・・妹と池本・・・・

 池本は住所を電話で聞いたらしく、普段は使わない携帯を使って妹の家まで向かった。結婚している事は院長から聞いていた為、苗字は「橋田」になっている事は知っていた。池本は結婚式にも呼ばれていないが、それは自分がふがいないせいだと思っていた為、微塵も恨んでいない。池本は妹の家に着いた。

 チャイムを鳴らすと女性が出て来た。どうやら池本の妹らしい。妹に案内され、リビングに通された。「すいません、こんな格好で来てしまって」池本は言う。「大丈夫です。こちらこそ結婚の報告が出来ないままで申し訳ない」妹の旦那が言う。どうやら社長らしい。妹も含めて少し話をした。伊藤さん渡辺さんは、なかなか話に入れなかったが池本の嬉しそうな顔を見て、とても嬉しかった。池本の無邪気な笑顔を初めて見たかもしれない。不意に妹の旦那が妹と目を合わせた。「お兄ちゃん、折り入って頼みたい事があるの」妹は話す。「何だ、俺で出来る事なら言ってみろ」池本は答える。「旦那の会社がね、今大変なの。不渡りを出したら倒産しちゃうの。今月乗り切れば、宛はあるし、仕事も貰えるんだけど今月、どうしてもお金が足りないの。お兄ちゃん、何とか1000万円できないかしら、ファイトマネー出たんでしょう?」「池本さん、嫌、お兄さん、お願いします」妹夫婦は頭を下げる。池本は持ていたリュックから紙袋を出し、「電話で用件言えば済んだのに、わざわざ俺をここに呼ばなくても良かったんじゃないか?」そう言い、池本は紙袋を渡した。孤児院に渡した残りのファイトマネーである。約1500万円入っている。「お兄さん、ありがとうございます。必ず返します」「いや、いいよ。きっともう会う事はないから」池本は妹に目線を向ける。妹と目が合った。「お前に迷惑をかけた迷惑料と手切れ金だ。どうやら俺は勘違いしていたようだ。俺に妹はいなかったらしい」そう言って出て行ってしまった。「ひどいよ、池本さんは百合子さんの為に頑張ったのに、お金を取る事が目的なんて!」伊藤さんが言う。渡辺さんが続けて「池本さんが骨身を削って手にしたお金ですよ。恥ずかしくないですか」「恥ずかしいわよ。でも、乗り切る為には仕方ないの。あなた達は分からないのよ。生活できない惨めな思いなんて」百合子は言った。伊藤さんは「池本さんもそれは同じでしょ。だけど池本さん、そんな事何にも出さないで、いつも1人で背負って頑張っているの。妹のあなたが分かってあげないで、誰が池本さんを救うのよ!」「お兄ちゃんはいつも喧嘩ばっかりで、迷惑ばっかりかけてたの。私が引き取られた後だってみすぼらしい恰好で会いに来て、本当に恥ずかしかったんだから」「池本さんは、あなたが心配だったから会いに来たの。院長先生が言ってたわ、いつも妹の心配ばかりしてたって。あなたに分かる?自分の両親が自殺して、それを発見して、妹にそれを見せない様に抱きしめて、そして何より、全部自分のせいだと受け止めた小学3年生の小さな男の子の気持ちが。今でもその責任を受け止めて生きている彼の気持ちが分からないの」渡辺さんは言い、家を出ていった。伊藤さんもあとに続いた。百合子は昔、池本に「いつでも俺がついている」と言われていた事を思い出し、池本達の後を追った。少し走った所で百合子は池本達に追いつく。「お兄ちゃん、ごめんなさい。私、私・・・・」「誰かと間違えていませんか?」池本は振り返って言う。「俺には妹はいない。きっと君の勘違いだよ、俺は自由気ままな天涯孤独の身さ。もう会う事もないだろう」池本は再び振り返り歩き出す。「お兄ちゃん!」百合子は大きな声で呼び止める。池本は立ち止まり、少し顔を後ろに向け「君は俺の知らない人だよ、大切な物が何も分かっていない。俺はきっと思い違いをしていたんだな」池本はもう一度前を向き、右手を上げ「お幸せに、橋田さん」と言って歩き出していた。


・・・・ご両親への報告・・・・

 3人は無言で歩いている。いつもの公園に差し掛かる。「少し休んでいこうか」池本がいつもの笑顔で言った。それが2人には寂しかった。池本は2人にあったかいアップルティを買った。池本はあったかいブラックコーヒーである。ベンチに腰を掛ける。「今日は悪かったね、付き合わせて。しかもこんな事に巻き込んで」2人は首を横に振る。「参ったよ。俺、天涯孤独になったらしい」池本は笑顔で言った。「辛いって言ってよ」「泣きたいって言って」2人は訴える。「はっはっは、俺は強いからな。辛くもなんともないさ。どこかしら、感情が欠落しているかもしれないし」「池本さん、無理しないで!」「池本さん、見てるこっちが辛いよ!」2人は続けて訴える。「いいんだ、これで。本当に俺は大丈夫さ。くそっ、春も近いってのに、やけに風が寒く感じる」池本は寂しそうな表情を一瞬し、「さあ、帰ろう。本当に今日はありがとう」笑顔で2人に言った。

翌日、池本は不在であった、誰にも何も言わずに朝から居なかった。伊藤さん渡辺さんは何度かメールをしたが返信もなく、もちろん電話も繋がらない。不安になった2人は、バイトの帰りに池本のアパートに寄った。

池本のアパートに着くと、丁度池本が鍵を開けていた。「池本さん!」2人が叫ぶと「どうした?」池本はいつもの調子で返答する。2人がメールを送ったのに返ってこない事、電話も出ない為、心配した事を話す。「ごめんごめん、携帯を忘れちゃって。本当に申し訳ない」と池本に謝られた。池本は2人をアパートに上げ、飲み物を出す。池本は相変わらず2Lのお茶をそのまま飲んでいる。2人は昨日の事があり、心配である事を告げた。「心配かけて、本当に申し訳ない。妹が元気である事と縁を切った事を両親に伝えたんだ。妹を守る約束をしたのにごめんって言う事も含めてね」「池本さん、いつも無理してる。いつか壊れちゃうよ」伊藤さんは言う。「池本さん、なんでいつも1人で抱え込むんですか?」渡辺さんが言う。「無理もしてねぇし抱え込んでもいねぇよ。今更違う生活も出来ねぇし、ただカッコつけて、物分かりがよく見せてるのさ」池本の顔が少し寂しそうであった。池本は2人を送って行った。


・・・・異変・・・・

いつもの通り時間が流れていく。徳井は今や日本ランカー、戦績は10戦9勝である。喜多は6戦6勝とこちかもしっかりと成績を残している。手塚は大学で国体を制し、プロへ転向する。2戦2勝、こちらも好調である。池本は9月10日に防衛戦を行い、7ラウンドKO勝利でしっかりと防衛した。トレーナーより貰いすぎとキツイ一言があったが、しっかりと結果を残した。

10月に入ってすぐ、会長より話がある。WBA・WBO世界統一ミドル級チャンピオン、フェリックス・ホプキンスから試合の申し込みがあったとの事、2月26日との事だった。いつもなら即快諾する池本だが、返答を少し待ってもらった。

池本は最近、仕事場でよくミスをする。物を落としたり注文を間違えたり、仲間といる時も同じ事を聞いたり、飲み物を落としたり。周りは解説等の仕事が増えた為、疲れていると思っていた。しかし、池本は異変に気付いていた。同じ事を言っている記憶がない。時々頭痛がする。その際に左手が震える時がある。すぐに治るが、前触れもなく起こる。池本はこれがボクシング特有の怪我である事を直感していた。そんな状況である為、試合を快諾出来なかったのだ。池本は悩んだ。このまま引退しても世界チャンピオンになったので肩書きは充分過ぎるくらいだ。このまま続けて壊れてしまう事の恐怖があった。しかし同時に、ボクシングを辞めて、自分に何が残るのか、自分のその先に何があるのか、自分が自分でいられるのか、それも不安であった。自分をプロボクサー池本として見られる事が嫌だとこだわった池本自身が、自分がプロボクサーである事に一番こだわっている事に気付かされた。(俺は何て弱いんだ)池本は思った。


・・・・決意・・・・

10月3日、池本はジムワークを終了し、帰路に着いた。「池本さん!」後ろから声を掛けられ振り向くと、渡辺さんが立っていた。「相談したい事があって」渡辺さんは小さな声で言った。

池本と2人で歩いているが、沈黙である。いつもの公園に来た時、池本は渡辺さんを誘い、公園のベンチに座る。アップルティーとコーヒーのブラックを持っている。アップルティーを渡辺さんに渡し、池本はコーヒーを飲む。「話したくなったら話なよ、待ってるからさ」池本は言う。渡辺さんは下を向いていたが、アップルティーを一口飲み、池本を見た。「池本さん、私ね、実家のお父さんから大学を卒業したら帰って来いって言われたの。帰って見合いしろって。ウェディングプランナーになりたいとも思うし、でも、お父さんに言われたようにした方が幸せになれるかもしれないとも思うし、何よりお父さんの言う事を断る勇気もなくて。どうしたらいいのかな?」「渡辺さん、前に俺が言ってた答えは分かったのかな?分かったなら教えてよ」「好きな事、目標を達成する為に頑張る事は、息をする事くらい当たり前の事。そしてそれは、自分の責任で行なっていく事。私はそう思いました」「いい答えだね」「合ってますか?」「それは、これから自分で一生かけて答え合わせをしていく事だよ。俺の正解は渡辺さんの正解ではないからね。でもね、今言える事は、渡辺さんは、今決めようとしている事を他人のせいにしようとしている事かな。人間は弱いんだ、だから過去を振り返り後悔する事がある」「池本さんもあるんですか?」「いっぱいあるよ、俺は弱くて臆病だからね。あの時こうすれば、あの時こう話していれば、なんて事はたくさんある。後悔だったら、それこそ数えきれないくらいあるさ。でもね、全部自分で決めて自分で進んだ道なんだ。だから、納得するしかないし、そうしないと納得できない。今の渡辺さんはどっちを選んだとしても、いつか過去を振り返った時、あの人が止めなかった、あの人があんな話しなければ、なんて、一番大切な自分の人生を人に預けてしまうんじゃないかな?答えを出すなら、それを含めて考えればいい。どっちの答えでも俺は応援するから!」「池本さんは強いからそう言えるんです。私は池本さんのように勇気がないから、こんな事で悩んで・・・」「俺に勇気なんてねぇよ。自分の弱さと向かい合い、受け止めて考えている。渡辺さんの方がよっぽど勇気がある。勇気なんてね、だいたいみんな持っているんだよ。ただ、出す事がうまく出来ないんだろうね。少なくても、俺は自分が勇敢だなんて思った事はないよ」池本の答えに渡辺さんは少し戸惑った。いつも勇敢で誰に対しても臆す事なく戦う世界チャンピオンが自分を臆病だと言い、臆病な渡辺さんを勇気があると言っている事が信じられなかった。「内定もらったんでしょ、それに帰るかどうかの返事は、3月終わるまでに出せばいいのかな?」「はい、そうです」「だったらしっかり悩みなよ。後で振り返った時に笑えるようにね。自分で出した答えの最後の一押しくらいはしてやるよ。2月に試合がある。フェリックス・ホプキンスとやるんだ」「え、ユーチューブとかでボクシングで入力すると、動画が出てくるあの人ですか?」「ああ、あの人とやる。しっかり見ておいてくれ、少しは渡辺さんの一歩に協力できるようにするよ」池本は笑顔で答えた。池本は渡辺さんを送って行った。送った後、会長に連絡しフェリックス・ホプキンスとのタイトルマッチを受ける事を伝えた。


・・・・最強への挑戦・・・・

翌日、池本は花屋の店長に話をし、今週いっぱいで花屋を辞める事にした。コンビニのバイトは、世界チャンピオンになった時に辞めていた。バイトの時間に使っていた時間を全て、ボクシングに使うつもりであった。そのくらいやっても勝つのは難しいが、池本は挑戦する。池本が初めて、誰かの為に戦う事を決意した。池本自身は気付いていないかもしれないが、誰かの為に、そう渡辺さんの為の戦いである。

池本の練習は、まさにハードであった。朝のロードワークの際に途中の公園で筋力トレーニングをする。その後公園でシャドーボクシングをする。さらにダッシュを何本も繰り返す。びっしょりに汗をかいてアパートに帰る。朝のトレーニングが2時間を超える。ジムワークでもハードさは変わらない。トレーナー・会長に抑えるよう言われても「これで潰れるようなら勝てはしない、俺は勝つんですよ!」そう言い、練習を緩めようとしない。アパートに帰ってからも朝と同じトレーニングを行う。生活の全てがボクシングと言っても過言ではない。12月に入って、さらにトレーニングは増していった。朝・夕のトレーニングは、ダッシュの数が増えており、筋力トレーニングも増えていた。ジムワークでも妥協を許さない。スパーリングも行なっている為、オーバーワークではないかと誰もが心配をしていたが、池本はいつも以上に鬼気迫る迫力で、自分に厳しくボクシングと向き合っていた。1月に入る。池本のウェートは73.0kg、ほとんど減量の心配はない。しかも徹底的に鍛えた体は、今までで最高の仕上がりを見せていた。ボクシングの為の体である。スパーリングも増え、さらに練習は続く。池本はぎりぎりまで強くなる事に時間を費やした。

2月15日、ウェートは72.5kg。もっと早く落ちると思われたウェートは、池本のぎりぎりまで強くなる事によってこの日まで伸びた。

翌日より、疲労回復の為に練習が軽めになっていく。池本はしっかりと回復に努める。スパーリングはしっかりと行う。少しずつ、集中力を研ぎ澄ましていく。池本の雰囲気に徳井達でさえ話しかけられないでいた。

2月25日、軽量。池本は一発でパスし、ホプキンスもパスした。会見場に案内される。抱負を聞かれ、ホプキンスは「ボクシングの素晴らしさを伝えたい」と通訳を通して話した。「誰が相手でも関係ないです。俺が勝ちます」池本はそれだけ言うと写真撮影を拒否し、その場を離れた。軽量からの帰り、池本は伊藤さんを呼び出した。いつもの公園である。


・・・・伊藤さんへの告白・・・・

「ごめん、待たせたかな?」伊藤さんは走って来て言った。少し息が弾んでいる。池本の顔を見て少し驚いている。試合に臨むと言うより、命をかけた戦いをすると言う方がぴったりと思うような顔付きである。それくらい厳しく、覚悟を決めた顔をしていた。「悪いね、呼び出して」池本は言う。伊藤さんは首を横に降る。「そろそろ答えを出さなきゃね」池本は寂しそうに笑った。「伊藤さん・・・伊藤さんといて楽しかったし、助けてもらった。本当に感謝しかないよ、ありがとう。・・・でも俺、渡辺さんが好きらしい。伊藤さんの気持ちに答えられない。ごめん」伊藤さんは静かに頷くと、頬に涙が流れた。「池本さん、一つだけわがままをきいてください」池本は静かに頷く。伊藤さんは池本の胸にしがみつき、泣き始めた。「私は、いつか大好きな人の胸の中で思いっきり泣いてみたかった。そして、その人に大丈夫だよって言って欲しかったの!」池本は伊藤さんを左手で軽く抱きしめ、右手で頭をなでながら「大丈夫だよ、心配ない。大丈夫だ」と優しくつぶやいた。伊藤さんが落ち着き、池本から離れる。「ありがとう、池本さん」「いや」「池本さんが前に言ってた事、少しだけはずれちゃった。あの時、無理矢理にでもホテルに行けばよかった。そうすればきっと、池本さんは私のものになってたのに!」「どうかな、俺は無責任だから」「そんな事ない、それにそう言って私の傷を少しでも浅くしようとしてくれてる。私、池本さんを好きになってよかった。あの時ホテルに行ってたら、きっとこんなに好きにならなかった。だから、後悔の方が少ないの。だから大丈夫、ありがとう池本さん!」そう言って、伊藤さんは池本に深く一礼し、公園を去っていった。


・・・・決戦当日!・・・・

2月26日、試合当日である。客席にはいつもの面々がいた。もちろん、伊藤さんも渡辺さんもである。伊藤さんは渡辺さんに昨日の事は話していない。今日は池本の応援に徹する為だ。いつも優しく、困った時に助けてくれた池本への恩返しに精一杯応援をするのである。渡辺さんはまだ悩んでいたが、今日の試合で一つの答えが出る気がしていた。そんな時、藤沢が到着した。控え室に行こうとした時、トレーナーより止められたとの事、どうやら池本が集中をしたいとの事だった。

ついにメインイベントになった。青コーナーより池本の入場である。トレーナーがWBCのチャンピオンベルトを両手で高く上げ、その後ろに池本がいた。惑星がかかっている。池本がリングインした。続いてホプキンスの入場である。こちらは2本のチャンピオンベルトをトレーナーが掲げ、その後から入場である。ホプキンスもリングインした。

両者の国歌が流れる。続いて選手紹介があり、両者が中央に歩みよる。注意事項を確認し、各コーナーに一度戻る。そして、「カーン」ついにゴングが鳴った。


・・・・試合開始・・・・

1ラウンド、池本は始めから突っ掛けた。左ジャブを出しながら前に出る。ホプキンスも待ってましたと迎え撃つ。始めから打撃戦となった。池本は不器用なボクサーである。この距離で歯が立たないと活路がない。池本は始めから飛ばした。しかし相手はスーパーチャンピオンのホプキンスである。池本の距離と思われた距離でことごとく池本にパンチをヒットさせていく。

2ラウンド、このラウンドも池本は前に出る。打ち合いをするが1ラウンド同様、ホプキンスの方が有利に進めていく。池本は何度かロープを背負う事があったが気持ちで前に出て、何とか難を凌いでいた。

3ラウンド、池本が前に出る。同じ光景である。ホプキンス有利ではあるが池本のパンチも入っている。しかし、ホプキンスの方が確実にヒットさせている。

4ラウンド、同じような展開だが、1分過ぎにホプキンスの左フックをまともにもらってしまう。コーナーを背にした池本にホプキンスが迫る。池本は右手でロープを掴み左でパンチを繰り出し、ダウンを拒んだ。ホプキンスが懐に来ると体重をホプキンスに預けるようにし、パンチを出し、ホプキンスのラッシュに飲み込まれないようにした。

5ラウンド、池本が前に出る。ホプキンスのギアが上がる。池本もパンチを出すがホプキンスの方が確実である。2分30秒過ぎ、ホプキンスのが右アッパーが池本にクリーンヒット、池本は右膝をついた。レフェリーよりカウントが入る。「ワーン、ツー」カウントが進む。池本は立ち上がり8でファイティングポーズを取る。試合が再開する。ホプキンスが間合いを詰め、ラッシュをかけるが池本も必死で手を出す。打ち合いの途中でゴングが鳴る。


・・・・きみの為に、俺の為に・・・・

6ラウンド、ホプキンスが前に出る。ホプキンスが有利に進めている。池本も気持ちは折れていないが、先程のラウンドのダメージが抜けない。しかし、池本はこの戦い方しか出来ない。池本は意識がある限り、指が一本でも動く限り前に出て手を出し、諦めない。終了間際に左フックを池本はもらうが、ふらつきながらも右ストレートを返し、ラウンド終了する。

7ラウンド、ホプキンスが前に出る。池本を襲う。池本も前に出る。池本のパンチは、何度かいい角度でボディに入っている。しかし、ホプキンス有利は変わらない。池本はこの距離で、ことごとく先手を打たれているのだ。それでも池本は手を出し続ける。2分過ぎ、ホプキンスの右ストレートが入り、池本はこの試合2度目のダウンをする。池本はふらつきながらも立ち上がり、ファイティングポーズを取る。ホプキンスは前に出て来る。池本の左目のまぶたがかなり腫れている。ホプキンスのパンチに池本も返していく。ラウンド終了のゴングが鳴る。

「辞めさせてよ、池本さん死んじゃう!」伊藤さんが叫ぶ。「もういいよ、池本さん!」男性陣からも声が飛ぶ。後の女性陣は、声も出ないようである。「黙って見てろ!池本さんが決めた事だ!俺達は黙って、あの人の姿を目に焼き付けるんだよ!あの人は・・・」藤沢は涙を流していた。もう言葉にならない。みんな黙って池本の姿を凝視する。池本は不意に観客席に目を向ける。渡辺さんが目に入る。目が合った気がした。(きみの為に、俺の為に)池本は心の中でつぶやいた。

8ラウンド、チャンピオンが前に出る。心なしか動きが少し鈍い。池本も前に出る。打ち合いになる。しかし、この打ち合いは互角のものとなっていた。池本は打たれながら、相手のボディにパンチを打ち、後半、打ち疲れとボディが効いてくるのをひたすら待って耐えたのだ。池本のこの勇敢な戦いに誰もが息を飲んだ。このラウンドは互角のまま終了する。


・・・・2分57秒の奇跡・・・・

9ラウンド、奇跡が起こる。池本が前に出て手を出す。ホプキンスも意地でこれに応戦する。またもやリング中央での打ち合いになる。1分過ぎ、狙ったものなのか偶然なのか、それは起こる。ホプキンスの左フックに対し、池本も左フックを出した。だが、池本は頭を下げ、低い位置からのフックの為に、ホプキンスの左フックを避けながら当てる形になる。カウンターの形でホプキンスの顎を捉える。たまらずホプキンスは、左膝をつく。ホプキンスのダウンである。ホプキンスは立ち上がる。試合再開となり、池本は前に出る。池本は手を出すが、ホプキンスも応戦する。池本はさらにスピードを上げる。(死ぬまで出し続ける、死んでも勝つ)池本の強い信念が現れている。2分過ぎに池本の左アッパーが決まり、ホプキンスは2度目のダウンをする。立ち上がるホプキンス。池本は両手に勇気と責任感を込め、前に出た。ラッシュをかける。(心臓が止まるまで打つ)池本は被弾しようと強い意志で手を出し続けた。2分40秒を過ぎた時、ホプキンスは池本のラッシュに飲まれていく。池本のパンチに晒される。何発も池本のパンチが入った。レフェリーが割って入る。相手セコンドからタオルが投げられていた。9ラウンド2分57秒、TKOにより池本の勝利、池本はWBCの2度目の防衛に成功するとともに、WBA・WBOのベルトを獲得し、3団体の統一チャンピオンになった。リング上で池本の腰、両肩にベルトが巻かれる。応援に来たメンバーは全員泣いていた。インタビューは無しになった。池本が手を上げた際、崩れ落ちるように倒れたからである。トレーナーが支えた為、地面に直撃は免れた。トレーナーの肩を借りリングを後にした。まさに死闘である。


・・・・死闘が終って・・・・

全員が控え室に向かった。池本は大丈夫と言っている。ふらつきながらシャワーを浴びた。その後、着替えて会場の外に出る。記者会見は無しになっている。会長・トレーナーは心配をしていたが、藤沢達が送るとの事で任せた。

 みんなは何も言えずに歩いていた。ただ池本と歩いていた。それだけで光栄であった。あの素晴らしいファイトをした男と知り合いというだけで誇らしかった。電車に乗り、いつもの駅についた。世界チャンピオンに初めてなった時は、周りの迷惑も考えずに騒いだが、今日の池本のファイトに、ある者は自分の練習の甘さを痛感し、ある者は諦めない事の重要性を噛み締めていた。駅から池本のアパートに行く途中、いつもの公園の前に来た。「少し、休んで行こうぜ!」池本が言った。池本は財布を出し、藤沢にみんなのジュースを買ってくるよう頼んだ。

 みんなでベンチに座る。徳井、喜多、手塚は地面に座った。「凄かったです。俺、感動しました」徳井が言う。それを皮切りにみんなが喋り出す。池本は笑顔で聞いている。藤沢は少し俯いていた。「私、決めました。自分で決めました。しっかり自分の道を自分の意志で歩いて行きます」渡辺さんが言った。「そうか!」池本は笑顔でそれだけ答えた。みんなの話が盛り上がっていく。伊藤さんが死んじゃうと叫んだ事、男性陣がもういいと言っていた事、藤沢が黙って見とけと言った事、色々な話が出た。「池本さん、帰りましょう。送って行きますよ」藤沢は言った。藤沢は男性陣に女性陣を送るように指示を出し、池本を送って行く。「池本さん、いつからですか?」「何がだよ」「いつからおかしかったんですか?池本さん、さっきのみんなの話、分かってないでしょう」「何言ってんだよ、半分くらいは分かったよ。大丈夫だよ」「全然大丈夫じゃないでしょう!」「大丈夫だ、俺のラストファイトは伝わったよ。大丈夫だ」「池本さん、これからどうするんですか?」「やりたい事を何か探すさ、ダメージを抜きながら、パンチドランカーと向き合いながらね」「池本さん、そんなになってまで、今日試合をする意味があったんですか?」「あったよ、おおありだ。好きな人に背中を押すって約束したしな。好きな人の前で格好付けたいだろ、俺だって男だぜ!俺の戦いでその人が勇気が出るのなら、その人がこれから先、笑顔で自分の道を進んで行けるなら、俺にとってとても重要な試合だ。たとえ壊れたとしてもね!」「でも、池本さんが・・・」「俺は大丈夫、強いからよ。誰にも言うなよ、みんなのこれからを少しだけ見て、俺は俺の道を進んで行くさ!」「池本さん・・・俺の事業を手伝いませんか?」「遠慮しとくよ、俺は自由気ままがいいのさ、特にこれからはね」「池本さん、もしかしてどこかに・・・」「それは内緒だ。本当に誰にも言うなよ、みんな気付いてないんだから。やっぱり俺は俺だよ、やっぱり臆病だ」池本はアパートの鍵を開け、入って行った。


・・・・それぞれの夢・・・・

 藤沢は今日はホテルに泊まった。翌日、どうしてもみんなに合わないといけないからである。当然、池本の事である。

 翌日、藤沢はみんなを呼び出す。24時間やっているファミリーレストランにみんなは来た。誰も欠けていない。藤沢は考えた。池本から口止めをされているからである。それでも池本を思う人がいれば、池本に殴られても、本当の事を伝えようと思ったのである。

 ファミリーレストランでそれぞれが注文する。池本が来ない事を聞かれたが、あの試合の後と話すとみんな納得する。しかし、いざとなるとなかなか言葉が出てこない。藤沢は痛感していた。徳井の「日本タイトルを取りたい」と言う発言から、それぞれのやりたい事、目標、夢の話になった。手塚の世界チャンピオン、喜多の日本チャンピオン、豊本さんの花屋、工藤さんの介護士、金田さんのお嫁さん、伊藤さんのデザイナー、そして渡辺さんのウェディングプランナー。それぞれが内定を貰っていたり、しっかりと次のステップを踏む準備が出来ていた。渡辺さんが「池本さんに勇気を貰いました。私も池本さんみたいに勇気を出して歩いて行きます」この話を聞いた時、藤沢は納得した。池本の出した答えも仕方ないと思った。何とかしたいが、これからの人にとって、今の自分は迷惑だと考えている事がよく分かったからである。みんなの話を聞いて、藤沢は全員分の会計をすませ、仲間と別れた。

 藤沢は池本のアパートに行く。「池本さん!」藤沢はノックをして声をかける。池本が頭を抑えてドアを開ける。険しい表情である。藤沢が上がって少し経つと頭の痛みも消えた。「池本さん、俺、池本さんが考えている事、何となく分かりました」「うん?そうか」「池本さん、未来の重荷になりたくないんですよね」「ああ、そうだな。昨日の戦いからみんな何か感じてくれた。それで満足だよ」「池本さん、俺、今日帰ります。何かあったら連絡下さい。たまには弟を頼って下さい」「ありがとう、藤沢!」藤沢は池本のアパートを後にした。


・・・・それぞれの旅立ち・・・・

 3月1日、大学の卒業式である。池本は休暇中、女性陣で池本のアパートに行く。池本はびっくりしていたが、めでたいとの事で食事をご馳走する事にした。パスタがいいとの事だったので、近くのイタリアンパスタに行った。卒業式の後との事で、みんな綺麗である。それぞれの進路を聞き、嬉しくなった。伊藤さんから「池本さん、みんなに何かプレゼントして。池本さんの言葉!」みんなが頷く。「俺からの言葉なんていらないだろう、みんな素敵じゃないか」「いいえ、池本さんがいたからみんな素敵になったんです。だから言葉を下さい!」なおも伊藤さんは言う。池本は頭を右手で掻き、「たいした言葉じゃないけど」と言って話し出した。「前にも言ったけど、それぞれの道がたまたま重なって今がある。この重なった時間が宝物になるかそうでないかは自分で決める。これからも自分で自分の道を決めて進んで行く。人間は弱いから必ず後悔をする。でも、自分で決めたという思いが、必ず自分を後押ししてくれる。自分の決めた道は、誰かのせいにしない、自分の責任で進んでいく。いつかまた、それぞれの道が重なった時、胸を張ってお互いに話ができるように、そして、少なくとも俺にとって、みんなと出会えて過ごしたこの時間は宝物だ。俺は胸を張って、素晴らしい女性達をしっていると言える。俺から言えるのはこんな事かな」女性陣は泣いていた。本当に池本に会った事、ここにいるみんなと会った事にそれぞれが感謝していた。


・・・・渡辺さんの思い、池本の思い・・・・

 3月5日、渡辺さんは、たまたま池本と会う。池本がジムの帰り、チャンピオンベルトが届いたとの事で受け取りの帰りである。何気に2人で散歩をした。池本の朝のロードワークのコースを歩いていた。「私、ここで池本さんに声をかけたんですね」「そうだね、びっくりしたよ」「あれからもう、4年くらいになるんですね」「そうか、もうそんなに経つか」「池本さん、私、池本さんの事好きです。出会った時から、多分ずっと好きでした。今は大好きです」「ありがとう、俺も渡辺さんの事、大好きだよ」「本当ですか?嬉しい。なかなか言い出せなくて、でも伝えたくて、伝えてよかった」「俺から言わないといけないのにごめんね。多分、俺の方が大好きだよ」渡辺さんが池本に近づき、そしてキスをした。

 その夜、渡辺さんは伊藤さんに報告した。伊藤さんは振られた事を伝え、渡辺さんを祝福した。


・・・・池本のいない日・・・・

 翌日、伊藤さんは渡辺さんとうまくいった事を祝福しに池本のアパートに行った。着いたのは10時を少し過ぎたあたりだった。ノックをしても呼び鈴をならしても出て来ない。ショートメールは戻って来てしまう。携帯に連絡するが「お掛けになった電話番号は・・・」となってしまう。何度もノックをし、ドアノブを回した。鍵がかかっていなくドアが開いた。部屋の中には何も無かった。隣の人が出てくる。「あれ、閉めたと思ったんだけど、閉まってなかったかな」伊藤さんは隣の住人にどういう事か尋ねた。池本は朝に荷物を持って出て行ったらしい。行き先は知らないとの事、テーブル等欲しいものがあったら勝手に持って行って欲しい、そして、鍵を掛けて大家に返して欲しいと頼まれたとの事だった。アパートに暮らしている学生みんなで電化製品等を貰ったとの事だった。伊藤さんはすぐに渡辺さんに連絡し、事情を説明する。渡辺さんがすぐに向かうとの事だが、アパートにはいない為、心当たりを探す事となった。藤沢と池本を覗く合コンのメンバー全員に連絡をし、手分けをして探した。徳井がトレーナーに電話をかけ、池本の事を尋ねる。その結果、池本がパンチドランカーになった事を聞く。そして、池本がみんなには内緒にして出て行く事も聞く。池本はこの街を出て行くとの事だった。みんなに連絡をした。伊藤さんの話だと、池本は9時頃にアパートを出ている為、まだ、この街を離れていない可能性がある。渡辺さんは花屋に連絡をした。お世話になった花屋に挨拶もなしに出て行くとは考えられないからである。店長が電話に出た。池本は挨拶に来たとの事、この街を色々見て周り、出て行くと話していたとの事だった。何時の電車なのか、新幹線なのかは分からないが、この街を見て周るとの事なので、きっと池本はどこかにいる。そう信じて渡辺さんは探した。しかし何処を探しても見つからない。気がつけば夕方の4時である。渡辺さんはいつもの公園に着いた。公園の中に入って行く。


・・・・池本のKO負け!・・・・

 初めて池本におんぶをしてもらった所、池本に水を貰った所、背中をさすって貰った所、渡辺さんの目から涙が溢れた。「池本さん・・・」渡辺さんはつぶやく。涙で視界が歪んだ先に、見覚えのある後ろ姿があった。渡辺さんはその背中に向かって走り出す。そして、その背中に向かって飛び乗った。おんぶのような形になった。「わ、何だ?離してよ!」紛れもなく池本の声である。「やだ、離したら池本さんどこかへ行っちゃうでしょ。絶対離さない!」「いや、渡辺さん、色々あるんだって!」「そんなの知らない!私は気にしてない!」「とりあえず離そうよ!」「どこにも行かないって約束するまで離さない!」「頑固だね!」「お互い様!」「俺なんて、大した事ないよ!」「大した事ある!俺なんてって言うなー!」「降りようよ!」「うるさい!参ったしろ!・・・どこにも行かないでよー!池本さーん!」ついに渡辺さんは泣き出してしまった。「・・・ごめん、悪かったよ。ボクシングが無くなったら、何も残らない。俺には何もないんだよ」「私がいるじゃない!私がそばにいるじゃない」「でもいつか、俺が重荷になる。その時に捨ててくれるならいいけどさ、きっと我慢して幸せだなんて言うんじゃないかと思うんだ。俺にはそれは辛い事だよ」「池本さんいつか言ったでしょ、自分の決めた道は自分で責任持って進むって!私は自分で、池本さんといるって決めたの、だから・・・だから何処にも行かないでよー!置いてかないでよー!行っちゃやだー!」さらに渡辺さんは泣き出した。「・・・参ったよ、降参する。だから離してよ」「本当に?」「本当!」「よかったー」渡辺さんは池本の背中から降りると、池本にしがみつき、池本の胸で泣いた。しばらく泣いた後、「そういえば、池本さんから辛いって初めて聞いた」「そうかな?」「そうだよ!池本さん、何処にも行かないでね!」「ちょっと地方で治療してくるよ、1年くらい。そして帰って来る。ダメかな?」「電話番号と何処にいるかは絶対教えて!そうじゃないと絶対許しません!」「分かったよ、敵わないな」池本は新しい電話番号と病院の住所、新しいアパートの住所を渡辺さんに教えた。「体を直して、何かやる事を見つけて帰って来るよ」「逢いに行ってもいいでしょ?」「また、大泣きされたら困るからね。いつでもいいよ」「別れるって言ったら、また背中に乗って大泣きしてやるから!」「おっ、言ったな!だったら待ってなかったら拗ねてやるぞ!俺が拗ねたらしつこいぞ!」「どうぞ、ずっと待ってるもん!」「俺だって別れてやらないよ!」2人は公園でキスをした。


・・・・ 1年後・・・・

 池本は元いた街に戻って来た。リハビリも終わり、新しい仕事として、トレーナーとして元のジムに戻る事になった。また、あの熱い空気を吸う時間が戻ってきたのだ。駅から出て、新しいマンションまで歩いた。あの懐かしい公園の前に差し掛かり、池本は公園に入っていく。ベンチに荷物を置き、背伸びをする。背伸びが終わり、手をズボンのポケットに入れる。勢いよく背中に乗られおんぶのような形になる。「おかえりなさい、池本さん!」渡辺さんの声が聞こえる。「ただいま、渡辺さん!」池本は答える。渡辺さんは池本の背中から降りる。池本は渡辺さんの方に向きをかえる。「今日から一緒に住むんだよね?」渡辺さんが聞く。「そうだね、渡辺さんが嫌じゃなかったらね!」「池本さんがやだって言わなければでしょ!」「適わないな、俺は言わないよ!わたな・・・裕子は俺にとって大切だし、俺は裕子をずっと大好きだからね」「私も言わない!純也の事、だーい好きだから絶対言わない!」「残念だけど、俺とずっと一緒だよ!」「それは残念、私とずっと一緒って事だよね!」2人は笑った。そして3回目のキスをした。2人は新しいマンションに歩いていく。これからも2人は、人生という道をずっと一緒に歩いていく。

読んで頂きました方達に感謝致します。

筆者はボクシング経験者(一応、元プロです)です。

いつかはボクシングの事を題材に小説を書く事を

したいと思っておりました。

感想等、お願い致します。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 主人公が魅力的でした。主人公が色んな人と関わっていくなかで次第に魅力的な面が見えてきて、自然と感情移入していきました。ボクシングの描写も素晴らしくて試合中の光景が目に浮かぶようでした。 …
[良い点] ボクシングの描写が素晴らしいです。作者様はボクシングの経験者との事です 主人公の前向きな性格に好感が持てます。幸せになって欲しい。そう思わせる主人公です [気になる点] 作品の内容は面白い…
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