#2 花の庭
調子の良くなった船を使い、次の惑星系を目指したのが確か、三日前だったか。
調子の良さを楽しんで、半日も宇宙をぐねぐねくるくると駆け回っていたのも三日前だった。そう、性能は格段に上がっている。かと言って燃費は、そうでなかった。当たり前と言えば当たり前だ。正しい整備を施された、使い古された船なのだから。
「...こんかいの件は...私が完全に悪かったです…」
「...ああ、まあ...反省してくれ...」
次の惑星系まで必要な燃料がぎりぎり足りず、かと言ってすぐ様エドルと再会するのも気恥ずかしく。第十六星のひとつ外側を回っている星、第十五星に立ち寄ろうとのろのろ飛行する宇宙船。漆黒に包まれているのも、最初は神秘的だったがこうも航宙を重ねると飽きつつある。燃料を節約しようと目的地の公転を待つのも、アクロバティックな飛行を得意とするリィには苦痛だった。
「...共通時間五時二分。只今よりー、第十五星の突入軌道に入ります。やったねレオ、ようやく昼間がやってくるよ」
変な飛び方はすんじゃねえぞ。レオの小言が耳を通り抜けた。
「高度一万、七千、ガス交換正常、大気濃度は...」
空気の層のヴェールが、次第に厚くなってくる。丸みを帯びた水平線が平らに均されて、ぼやけた陸地が見えてきた。自転周期をすり抜けて、徐々にその緑が近づいていく。稜線が目線より少し下に見え始め、グレーがかった雲が大きくなる。次第にそれは飛行船の真横を通り抜け、風が船体を小刻みに揺らした。家畜の群れ、しまったここは私有地だったか、少しだけ舵を上に上げる。
「草地ばっかりだな」
「ね」
「...ん?」
「どうした?」
一瞬、真っ青な花畑が見えた。カーマンラインもとうに過ぎ、だいぶん地表に近かったため一瞬で消えてしまったのだけれど。
「なんでもないよ。着陸準備、...十、九...」
スイッチがぱちん、という音と共にいくつか下げられる。カウントダウンが終わった瞬間、少しの衝撃、やっぱり細かくなってるなあと言うリィの満足気な独り言。間もなくハッチが開き、久しぶりに新鮮な空気が肺まで届く。
「ここが第十五星かあ」
「なんと言うか...まだ開拓途中、って感じだな」
深呼吸を二三度。無難な飛行で降り立ったのは、惑星の緑の陸地だった。草を剥がされた茶色い道の先に建物たちが密集して生えている。道と市場と市街地、星の面積に比べ随分と小規模な開拓地だった。
「発着場も無かったしね。多少寒いから第十六星に比べて入植者が増えなかったのかな」
「通りでこんなに自然が多いんだな」
足元に広がる一面の緑を見る。草丈はどれも低く、開拓者どころか植物さえ繁栄できないような星らしい。公転軌道の歪さにより、辛く長い冬が来るから、後にリィはそう推測した。
「とりあえず町に行こうか?」
「そうだな」
貧弱な草地が剥がされた赤茶の続く先、町を目指して二人はのそのそと移動を開始する。ひと探しをする為に行う、いつも通りの工程だった。
「あのー、すみません。ひと探しをしているんですが…」
珍妙な客がやって来た。それもまっ昼間に。焦げ茶の猫の店主が、そんな表情を作った。間を埋めるように、軽いベルの音が空間に響く。
「なんだい?大犬のお客さんと...フードのお客さんよ」
珍妙さは主に小さい方の客に由来した。フードを目深に被り、手も足も露出していない。大きい方は至って普通の大犬だ。
「訳ありかい?そうだったら出ていってくれ。うちはそういうのはお断りなんだ」
二人は目を合わせたあと頷く。大犬が首を振って他に客がいないことを確認すると、フード被りはその深緑を外した。なんだ毛抜けか、耳欠けか、そんなことを想像した店主はその憶測を裏切られる。
「ほう...?人間か、そりゃまた珍しい」
主張の弱い耳に、家畜のような毛の無い肌。こんな辺境地までは滅多に来ないからだろう、その姿は嫌でも注目を引く。この星は良く言えばのどか、悪く言えば田舎で、更に言えばこの店には現在誰も客がいないからこそその姿を見せたのだ。店主は少しばかり眉間に皺を寄せた。専ら自分の店へのイメージに対する不満でだ。
「灰色と白色の毛皮の大犬と、金色の髪の人間を探しています。それに、研究家の犬も」
店主は暇つぶしに吸っていた煙草をくしゃりと潰した。慣れないまたたびの匂いが揺らいで消えていく。彼は、少し首を捻った後、いんや、と小さく口を動かした。
「人間はともかく、大犬はわりといるからなあ…犬なんてそりゃ、道を見渡せば目に入る...いや、もしかしたらレイラ様なら人間を把握しているやもしれん」
「レイラ様?」
人間の方が近づいてきた。声の高さからして女だろう。年齢は恐らく一桁だろうと考えて、煙草を屑入れに捨てる。初めてかち合った目は、深い深い碧翠だ。
「この星の大富豪さまの一人娘さ。カストル家という華族でな、この星を利用して商売を始めるんじゃないかとか言われてるが、そんなに悪いやつでは...ないが...お嬢ちゃん、あんたが行くのはやめなさい」
「?どうしてですか?」
「大変な人間嫌いなのさ」
ショック、そんな色を隠しきれずにくっきりとした眉尻が下がる。よく見れば大分綺麗な容貌だった。大犬の方もこちらに近づいてくる。そいつは割り込むように鼻先をカウンターに突っ込んだ。
「その、人嫌いの、レイラってやつが、どうして人間のことを知ってるんですか?」
「人間嫌いだからこそ、周辺星の人間を全員記録して、噂によれば経歴も調べ尽くして何か悪業を犯していないかチェックする、らしい」
何だと、と大犬の方も難色を示した。鋭い眼光が若干弱まる。年はまだ少年といったところか。ガキんちょであっても迫力のある風貌だ。
「分かりました、ありがとうございます」
「おお、そいつは良かった。ところでお前さん」
店主は自分の本分を忘れてはいなかった。何より今は労働日の昼間、めぼしい金づるはやって来ないのだ。
「サンドイッチ、買ってくかい」
今ならこのジュースも付けてやろう。不良在庫を握りしめ、店主は顔に笑顔を貼り付けた。
昼間の柔らかな光の中、曇った電灯がいくつか釣り下がるカウンター。古いレコーダーから流れる落ち着いた音楽の中、ぱさついたパンに被りつく大犬と少女。飛び出た魚の欠片が中を舞い、差し出された平たい手のひらを汚す。
「なんかさあ、つい最近もこんなことってあったよね…」
「なー」
手のひらを舐め、半透明の瓶の蓋を外した。その中を満たしていた飲み物、炭酸はレオには不評だったのでリィが二本目に口をつけている。舌の上でぱちぱちと泡が弾ける不思議な感覚を、彼は楽しめなかったみたいだ。
「とりあえず聞きに行ってみようか?あ、いや、聞いてもらう、ことになっちゃうけど…」
「俺は構わねえけど…はあ、やっぱここでもお前は留守番になっちまうのか。なんか悪いな」
「ううん。理由無く優しいひとよりも、ちゃんと理由あって人間を嫌っているひとの方が信用できる」
理由の無い親切は怖いもんね、そう言って彼女はサンドイッチを頬張った。海が遠いからだろう、歯茎に刺さりそうなほど新鮮な野菜と、やけにオイルの強い缶詰の魚が同居している。感覚器の鈍い人間にも分かる塩気に、ここの開拓者達は働き者なんだろうなあと予想する。案の定隣のレオは時折水を飲んでいた。
「それにあいつ、リィの顔をじろじろと...」
ぶつくさと彼が呟く。それは彼女の耳には届かず、店主の細い目とだけかち合った。
「よし!行こうか?」
「おう。じゃ、行くか」
「毎度」
入った時と同様に、ベルを鳴らして客人たちは去っていく。店主の猫は新聞から目を上げないまま尻尾を揺らした。彼の故郷での別れの挨拶である。
店主に言われた通り、土だけの道を歩き出したふたり。この星はもう昼を過ぎているらしい、時差ボケにやられつつある彼らは眠そうに欠伸をした。
「ふわ...もっと、対策してればねえ」
「リィ...前見ろ、それは俺の毛皮...」
進行方向が徐々にずれ、毛皮に半分めり込みかけている少女。数秒後、その鼻先は完全に毛皮に埋もれることになる。レオが立ち止まったからだ。んぐ、とくぐもった声が聞こえた。
「なるほどな。これは金持ちの家だ」
「ね。相当な感じ...降りた土地、このひとの物じゃ無いといいなあ」
赤茶の続く先、歩いてだいたい三十分も経たないうちに見えていた三角の屋根。更に三十分歩いてようやく建物に辿り着いた。ひょっとしたら、これはまだ門なのかもしれない。大犬達が暮らしているのだろう、高い位置にある呼び鈴をレオが鼻先で揺らした。
「聞こえるのかな」
「人間には多少高いかもな」
大犬の耳には聞こえるらしい。周囲の犬や猫も振り向いた。フードが無ければ聞こえるのかな、リィはそう首をひねる。
「相手にするつもりは無いってか」
一向に返ってこない返事にレオはそうぼやいた。リィにもレオにも、その原因は薄々分かっている。見知らぬ大犬の子供に、見知らぬフード被り。まず信用はされないだろう。
「まあ、私がレイラさん...?の立場であってもそうするよ。地道に街を歩こう。ひょっとしたら、そこで出会えるかもしれない」
「せめて匂いが分かればな...」
大犬たちは皆鼻が良い。しかしそれは知っている匂いに限った話であり、見知らぬ星で見知らぬ人物を探し出すのは無謀に尽きる。おまけに鼻が良すぎるため、ひとの多い街なんかでは『匂い酔』を引き起こすということもあった。
「この庭の中、多分だがすごい沢山の花が咲いてる。その匂いをしている大犬がいれば、間違いなくそいつなんだが」
「そんなことも分かるんだ?」
ああ、と軽く彼は頷いた。匂いの弱い花。でもそれが広範囲に及んでいる。強い匂いの苦手な大犬が、無理やり花畑を作った、そんな風合いだ。とてもじゃないが、自分はこの屋敷には住めそうにない。
「変わり者なんだろうな、こいつ」
それは素直な感想だった。隣にいる彼女は眉尻を下げて困ったように笑う。
「知らない人を悪く言うのは良くないよ」
何か事情があるのかもしれない。そう言ってフードの裾を引っ張った。バツの悪そうな顔をした彼に、行こう、と言って顎の下に手を伸ばす。少年はさっと首を回した。昔はふかふかの毛皮を撫でても別に怒られなかったのに、最近はすぐ顔を逸らされてしまう。仕方ないか、もう互いに大人になりかけている歳だもんね。こんな歳になるまで一緒にいるとは思わなかった。こんな歳、になるまでどちらの家族も見つからないということも、想像すらできていなかった。
「そうだ、白い犬の博士。その人のことももっとちゃんと聞きたいな」
「確かにな。もっと色々なひとに聞くか」
悩んでいても仕方ない。リィはこくりと頷くと、大股で歩く彼のあとを追いかけた。
二人が半日歩いて分かったこと。この星は思ったよりも開拓が進んでおらず、大地主の屋敷と大きな道、その周辺にはただひたすら畑が広がっていること。白い犬の博士、それは新規の開拓者達にはあまり知られていないこと。簡単に言えば、自分たちの移動距離に対して収穫はゼロに等しかった。
「陽が傾いてきちゃったね。今日はもう止めとく?」
「...うーん、こんだけ田舎なら夜も早そうだしな。もう帰って...ん?」
話しながらも、あからさまに脚を止めたレオにリィが近づく。彼の横、低木の枝に細長い布が絡まっていた。上質な生地だが丸くシワがついており、欠けた端からも使い古されていることが分かる。
「さっきと同じ花の匂いがする」
「え...、つまり、それはあのお嬢様の!?」
「娘が一人なら、おそらくな。あんなに薄い匂いだったのに、このリボンには濃く染みついてる。多分、このリボンはずっと花の傍にあったか...」
「花畑によくいる、お嬢様とずっと一緒だったか...」
こくりとレオが頷き返す。花以外の匂いは、きっとお嬢様本人のもののはずだ。
「これ、すごい使い込まれてるね。...でも、あんまり価値があるものには見えない」
「リィ?」
リボンを掴み、真剣に何かを考えている彼女。金色の前髪が夕陽に混ざり、同じ色の眉頭が大きく丸い瞳に寄っていく。
「この、『持ち主にとっては大切なもの』を、持ち主であるお嬢様は独りでこっそり探している、そんな可能性は無いかな?」
「...!なるほど。地主サマには頼まずに、か?有り得るな」
「うん。レオ、捜索は続行だね」
匂いもある事だし。花の香りとお嬢様の香り、そこに自分の肌の匂いが混ざらないうちにと、彼女はリボンを彼の鼻先に掲げた。
「頭いいよな、お前」
「えへへ」
飽きつつある花の匂い、嗅ぎなれた機械油と肌の匂いの先、確かな毛皮の匂いがある。よし、と彼は前脚を出した。
「畑の先...往復分の匂いは無いな。オレは飛ばすから、お前は追いついたら隠れてろ。人間を嫌ってるやつなんて、何をするか分かんねえからな」
「うん。ありがとう、レオ」
感謝の言葉を最後まで聞いたかどうか。彼は細い道を全速力でかけていった。後脚に強く蹴飛ばされた地面は斑にへこみ、怒られても知らないよとリィはひとり笑う。
がさ、がさ。草むらを掻き分け、畑の周辺を注意深く嗅ぎ、低木の下まで睨みつける。それでもまだ見つからない。大犬が扱うには小さすぎた装飾品は、乾いたところを取り込んだ際に飛んでいってしまった。無い。それでもやっぱり見つからない。日が落ちたら、流石に帰らなくてはいけない。がさがさ、そんな音が近づいてくることに、探し物に夢中な彼女は気づかなかった。
「いたーーー!!」
「きゃああ!?何、何なの!?」
「うおっ、お前何を...!?」
自分と同じくらいの歳の知らない大犬。そんなものに突然声をかけられる恐怖たるや。レオは彼女の頭突きをくらいよろける。彼にしろそれは想定外のことで、畑に尻もちをついてしまった。
「何すんだてめえ!!」
「突然話しかけてきたあんたこそ何よ!?」
「オレは!!お前に用事があって!!探してたんだよ!!」
大声の怒鳴り合いに、リィはわりあいすぐに二人の場所に気づいた。低木の下へ周り、レオがどう動くかを見守ろうとする。じっと観察すると、初めて見る『お嬢様』は、大口を開けて怒声をあげていたとしても、ブラッシングの行き届いた長い毛皮から彼とは違う気品を感じた。
「それで?私にわざわざ何の用なの?」
「人間を探してるんだよ」
長い睫毛に縁取られた紫色の目が、ぎろりと閃光を帯びてこちらを見る。不機嫌、それが目だけで分かるような具合だ。彼もつられて目尻を吊り上げる。リィはひとりおろおろとレオの方を見た。リボンのくだりは!?そう口をぱくぱくと動かすが、頭に血が上った彼には届いていないようだった。
「人間ですって?それをどうして、私に?」
「何でって...そりゃ、お前が...」
人間を嫌いだから。しまった、そこまでいってようやくレオは自分の失敗に気づいた。自分が嫌いなものをわざわざ聞いてくる、それはどうあっても嫌な奴だろう。せめて何か前置きをするべきだった。何でもいい、何か話せ。そんなリィのジェスチャーが彼を急かす。
「な、なんで人間が嫌いなんだ?」
質問の選択を間違った、彼は瞬時にそう悟った。より鋭くなった彼女の瞳は、とてもじゃないがお嬢様と呼ばれるようには見えない。
「人間って、『神のいない種族』じゃない。それにあの皮膚、疥癬病の子みたいで見ていて気持ち悪いわ」
嫌悪感を隠す気のない彼女。レオは人間を平然と悪く言うお嬢様に歯を向ける寸前だった。冷静になって!と、遠くで少女の片目がぱちぱちと瞑られる。
「...ふーん。そうなのか。見たことあんの?お前は」
「あんな汚らわしいの見たくもないわ。この話はこれでお終いよ。あなたは、あの人間を私に見せに来たの?そこの影にいるじゃない。十五に満たないくらいの女の子が、ずっと覗き見してるわ」
ばれていた。レオの毛皮がぶわっと逆巻く。焦る彼に対し、彼女はそれ以上喋らなかった。しっし、そう追い払われるように前脚を揺らされる。これ以上は話すことは無いわ、そんな態度だ。
「くっそ、どうすればよかったんだよ」
彼は大きな口で悪態を吐くと、それ以上は大人しく帰ることしかできなかった。
「リィ、駄目だあいつ。何も話す気がない、って態度だし、何よりオレが無理。...それに、お前ばれてたぞ。年齢まで当てられてやがる」
完全な夜の中、レオの予想通りもう店は閉じ通りにひとの影は見えない。飛行船の横で夕食の用意をしようと、缶切りをごそごそと探す。屈んだ拍子にフードが外れると、薄闇に金色の毛束が広がった。
「ええー?そうだったんだ...どんな様子だったか、教えて?」
バレていたことは、その後途中まで別々に帰っていた彼の姿から気づいていた。けれども、顔もろくに見えないあの見た目から年齢まで分かってしまうことには驚く。興味津々、といった真ん丸の目が彼のすぐそばまで近づく。
「人間を探してるって言ったら、途端に不機嫌になって...いや、いきなり人間の話から入ったのも、悪かったとは思ってるけど...」
やり取りを見ていた少女は軽く笑った。彼らしいさっぱりした思考だ。正解だとは思えなかったけど、責める気にはならない。
「あはは。なんだ、分かってるね。それで?切り札の、『落し物』は?」
「...あ!?」
彼は慌ててフードを裏返した。完全に忘れていた。首後ろのフードに隠していたリボンは、見た目はさほど変わっていない。ふう、と彼女は息を吐いた。これが無ければ、再度会うことは本当に無理だったろう。
「良かったね、レオ。まだチャンスがあるよ。『この前はいきなりごめん、これを渡したかったんだ』さて、次は?」
「『人間について何か知ってるのか?』」
大真面目にそう返す彼に、ついつい口元を抑えて笑ってしまう。レオはそればっかりだね、そんなおかしさだ。
「うーん、早い早い。共感してもらうために、とりあえず口車に乗ってみてはどうかな?例えば、『オレも人間嫌いなんだよー、あの横から生えた耳とかー』とかさあ」
両の耳を引っ張って、それを強調するようなポーズ。レオはううん、と首をひねった。納得していないのだろう。そりゃあリィ本人も、大犬の悪口を言えだなんて言われたら困るはずだ。それが少し嬉しいだなんて、口の端に感情が現れる。
「...む。なんだよ」
「何でも?ふふふ」
「んん...悪口、悪口ねえ...」
目の前でにこにこと微笑む彼女の心が、いつだって自分は薄ら分かるのだ。彼は恥ずかしくなって顔を逸らした。
「...あいつは、人間の肌が...嫌いだとか、神様?がいないからだとかなんとか」
「あー、肌は特に違うもんね。毛皮が無いのは言われがちだなあ」
人間と他の種族との違いはいくつかあった。解剖学的にはほとんど変わらないようだが、毛皮の有無、耳の位置、尻尾の有無。これらは特に、罵られる時に使われるものだった。特に肌は、家畜である爬虫類に似ていて罵られやすい。それは耳の利く彼にはもうお馴染みのものである。けれども。
「でも...神のいない種族って、どういうことだ?」
神。普段それについて考えることは無かったし、彼自身それの恩恵を受けたと思ったことは一度もなかった。リィはいつも通り、知ってるよという目を返す。
「ああ。聖典に、『神は自分たちに似せて私達を造った』という文章があるんだけど、そこに人間の描写だけ無いんだよ」
聖典。それは元星宗教の経典のことで、開拓地育ちのレオには馴染みのないものだった。
「この開拓時代に時代錯誤な...」
「あはは。きっと、華族とかの系統なんだよ」
植民地とは反対に、元星で聖典は特別な扱いを受けている。暗唱できない奴は兄弟たちのスープになっちまうのさ、そんな悪趣味な冗談を聞いたことがあった。
「なんなら暗唱しようか?聖典序章、『神は...』」
「いやいい。てかお前、よく覚えてんな」
さらりと暗唱し始める彼女。素直に感心するような声を出すと、彼女は不思議そうにこちらを覗いてきた。
「むしろレオの方が珍しいと思うよ?拾ってきた本の...教科書とか、神様のことばっかりじゃない」
鍋の中の具材が温まり、食欲をそそる匂いが広がる。彼は食器を用意しながら、何だか曖昧な声を出した。
「んん...オレは開拓民の子供で、おまけに大犬だったからな。忙しくて、多分半分くらいしか学校に行ってないんだわ」
少女は目を何度か瞬いて、気まずそうに眉を下げる。大犬は力仕事が得意で、特に開拓地では優遇される。労働力としてあてにされ、学がないまま大人になる大犬もいたりした。それはレオとて知っている。
「あー...そうだったね。ごめん」
「読み書きとかまでなら何とかなるんだけどな。...リィ、お前はしっかりした教育を受けてたんじゃないか」
愛娘だったんだろうな。レオは口からは零さずそう思った。敬語もろくに分からない自分に対して、ひとつ下のリィの方がよっぽどしっかりしている。
そっか。彼女は遅れて呟いた。缶詰の中身を薄めて煮ただけのスープももう出来る。端が熱で波打った椀にそれを注いで、いつも通りの夕餉が始まる。
「にしてもあのレイラってやつ、リィがいると分かっていてあんなこと言うなんてな」
「...そのこと、なんだけどさあ」
ずず、と豆と薄い肉のスープを啜る。この缶詰ももうすぐ切れるから、また新しいものを買わなければいけない。その為には結局、レオが日雇いで働くことになるのだけれど。
「これはさ、賭けなんだけどね」
ぽつり。リィがそう呟いた。
薄靄が立ち込める畑、まだ鳥の声すらろくにしない時間帯。明朝、普通に言えば朝食すらまだ早い。『こそこそともの探しをするだろう』というリィの読みは的中し、昨日と似たような場所に彼女はいた。頭突きはどうやら相手を尊重した上の選択肢だったらしい、手脚は掘り返された土で汚れている。
「探しもんだ!受け取れ!」
「え!?」
その姿を見つけるやいなや、レオは二足で立ち上がり空いた前脚でリボンを投げた。鼻先でそれを受け取った彼女は、その匂いに一瞬びくりと固まる。
「これ、どこで...!?」
「なんだよ、知ってんのか?」
静かに布地の匂いを嗅ぐ彼女。さてと、どう転ぶか。レオも、物陰に潜んだリィも、固唾を飲んでそれを見守った。
「...違う。知らない、...この、匂いは」
「そうか」
彼女はそれだけ言うと、ふるふると顔を振った。布地を噛んだり、地に叩きつけたり、全く分からないといった反応を見せたら、その賭けは失敗に終わっていた。彼は息を大きく吸う。やっぱりあいつは頭いいよな、そんなことを思いながら。
「お前さあ、別に人間のこと嫌ってないだろ」
開口一番にそれか。リィは内心ひやひやしながらそれを隠れて見守っていた。案の定、彼女の眉間が不機嫌そうに歪められる。けれどもその後、一瞬彼女はこちらを見た。やっぱりばれている。間違いない、彼女は、『肌の匂い』つまりは人間の匂いを知っている。
「で、その反応からするに、人間と一定以上の関わりがあっただろ」
「あなた馬鹿そうに見えて、ちゃんと考えられるのね」
レイラは馬鹿正直にそう答えてしまった。湯沸かし器のように瞬間的にレオの顔が歪む。
「...うるせえな!...まあ全部、あいつの入れ知恵なんだけど」
やっぱり。そう呟いて彼女は薄く笑った。長い垂れ耳がつられて揺れる。調子が狂う、そんな瞳だ。
「どうして、私が人間と...関わりがあった、ことに気づいたの?」
「普段人間を見ない大犬が、一目見ただけであいつの年齢を当てるのは不自然だ、ってな」
「驚いた。あの子、本当に頭がいいのね」
「そうだぞ。あいつは頭がいいんだ」
どうしよう。リィは密かに悩んでいた。予定なら、人間と関わりがあったことを自白したらその場で自分が出てくるはずだった。けれど、この空気はどうだろう。出づらい。とても。
「リィは新惑星の脱出速度を二回計算して、他にも惑星の自転と公転周期を出してる。その功績でトラベラーの資格を得てるんだ」
「やるじゃない!あんなに小さいのに」
二人の目線が、完全にこちらを見る。多少照れながらも、彼女は木の影から姿を現した。
「いやあ...私もレオも、別の星に家族がいるのなら、トラベラーの資格は必須だなあって思って。あの頃私はレオに頼りきりだったから、少しでも役に立ちたかったんだ」
フードを外した彼女。白い無毛の皮も、横側についた耳朶も見える、ただの人間の姿だ。
「...そう。助け合ってここまで来たのね」
彼女の目が一瞬見開き、その後細まる。誰かに似ているのかもしれない。直感的にリィはそう思った。見知った誰かと間違えた顔だ、あれは。
「そうよ。私達の一族は大犬で、手先が器用じゃないし立ち上がるのも得意では無いから、元星では使用人として人間を雇っていたの」
「やっぱり、華族なんだ...」
「とてもそうは見えないよな」
今度こそ彼は土だらけの前脚ではたかれた。今のはレオが悪いよ、そうリィが口を挟む。
「その中のひとりと恋に落ちて...あの時、一瞬だったけど幸せだった。みんなも応援してくれたわ。...でもね、」
金色の髪が宙に漂う。あのひとと同じ色だったから見つけやすかった。そんなことを覚えているのはもうこの世に自分ひとりだけだろうか。
「そのすぐ後だったわ。人間達に招集がかかったのは」
「招集...?」
「ええ。当局からね。何だか嫌な予感がして。私、庇ってたの。使用人たち全員を」
当局。リィは唇だけでそう呟いた。宗教と密接している政府が、人間のことをよく思っていないことは知っている。過去には粛清や差別などもあったようだが、開拓時代が始まり人口が外へ流れ宗教も衰えたため、彼女たちの世代には馴染みのないものだった。
「知らなかった、そんなこと...ライセンスの更新にも長いこと行ってない。ひょっとしたら、そこで声をかけられるのかも」
「一先ずは戸籍を持っているひと達からでしょうね。元星に住んでいれば、それは免れない」
当局からの催促を無視し続け、もう同じ区画の人間たちは全員いなくなってしまった後。今思えば、自分は子供だったのかもしれない。結果父は華族の昔馴染みを失い、こんな辺境の地まで逃れることになってしまった。一緒にいたかった一心で、色々なものを犠牲にしてしまった気がする。
まあ、結局あの人自ら、これ以上迷惑をかける訳にはと言って、行ってしまったのだけれど。
「それが他の華族にバレてしまったから、私達一族の居場所が無くなって。それでこっちまで逃げてきたの」
「だからか。あのリボン、リィだけじゃない...随分ほんの少しだったが、ほかの人間の匂いがしてた」
リィの匂い、機械油と錆と少女特有の柔らかさのそれは、もうよく知りすぎて何なら自分の匂い同様よく分からなくなっている。けれども、あの布地からはうっすらと別の肌の匂いがしていた。
「そうよ。リボンなんて装飾品、私たち大犬には結べないわ」
これ以上汚しても悪いから。そう言って肩の上にリボンを乗せようとするレイラ。リィは、その鼻先からリボンを受け取り、首の後ろに緩く編み込んでやる。彼女は少し寂しそうな顔をした。
「あなた達は、どうして人間を探してるの?」
「私たち二人とも両親とはぐれているんだ。苗字がソフスキーという灰色の毛皮の大犬と、金色の髪の人間を探してる」
「大犬なら、心当たりが無いことも無いけど...ううん、灰色は沢山いてもソフスキーは聞いたことが無いわね。それで、あなたの両親の名前は?」
見つめ返され、リィははっとして首を捻る。困ったような笑顔で、何度語ったか分からない事情を話した。
「...名前、分からないんだ。自分も、両親も」
「え...?」
困惑と気まずさ、それと心配が入り交じった複雑な表情。リィは優しい笑顔を作る。なんでもないことと思ってもらえるように、である。
「私、誘拐されて売られかけた時に、記憶を失っていて...忘れてしまったの。本当の名前も、何もかもを」
彼女の記憶の最初にあるのは、座り込んだ自分に近づいてくる大犬の子供、レオの姿だ。それ以外は全部記憶に無かった。親がいるのかいないのか、それすら本当は分かっていない。当時の九歳という年齢は、そのあと教科書等を拾って地道に知識を整合していった結果推定できたものだ。
「リィって名前は、その時呼ばれていた...リート、要するに商品、その音からレオがつけてくれた」
レイラがリィを見つめる。リィも彼女を見つめ返した。何か堪えようとしたレイラが、結局留められず大声を出す。
「そ...そんな状況で親を探しているの!?無茶よ、無謀だわ!!」
「うん。客観的に見れば、馬鹿なことをしてるなあって思うよ」
あっけらかんと彼女は返す。でもね。リィは続けた。その瞳には呆れるくらいの明るさが宿っている。
「レオが昔、言ってくれたんだ」
探し出してひと月め。まだ二桁にも達していなかった彼女は、改めて自分の無力さに絶望していた。親の名前はおろか、本当の自分の名前も知らない。せっかく協力的になってくれたひと達も、名前が分からないと言うと呆れたような顔になる。リィとて馬鹿ではない。金色の髪をしているかどうかすら分からない、そんな両親を見つけることは不可能に等しいと。
『そんなこと自分で決めんなよ』
今よりもずっと、彼と目線の近かった頃の話だ。
撫でてもいいぞ、そんな風に顎先が肩口に乗る。
『いいか、よく聞けよ。...お前の、』
「お前の家族と再会出来る日が、諦めなければ絶対来るはずだ、って」
その言葉と彼を信じて。なんとか五年、あれ以上の絶望には出会わず二人でやって来た。翡翠の中に飛び散るきらめきは、朝の陽を受けて海のように揺らぐ。
「...そう。いい仲間じゃない」
彼女が羨ましそうに笑った。つられてリィも、はにかみながら笑い返す。
「残念だけど...私は、必死に情報を集めてはいるけど、あれ以来人間とは会えたことすらないわ。お父様も躍起になって私と人間を近づけないようにしてる。そうね...強いて言うのなら」
「何でも構わねえぞ」
少し悩んだ後、彼女は話し始めた。彼女が華族ということを忘れかけていた彼らにとって、その情報は思わぬ収穫となった。
「もう知っているかしら?犬の博士で、人間のことを研究している...」
「「あーー!!」」
突然大声を上げた二人に、彼女はびくりと固まる。忘れてた!そんな声色で二人は顔を見合わせた。
「大収穫!やったねレオ!」
「そうだな!!で、そいつはどこにいるんだ!?」
はしゃぐ二人に若干驚きつつ、彼女はその博士の居場所を教えてくれた。早く教えてあげれば良かったわ、そうひとり呟いて。
「ひとつ戻ったところの惑星系ね。第十三惑星...という話を聞いたわ。私はこの星を出れないから、古い情報かもしれないけど」
「ううん、ありがとう!こんなに早く見つけられるなんてね!ほらレオ、お礼は?」
「おっ...!?お、おう、お礼な、まあうん、ありがとう」
レオは昨日の頭突きをまだ引きずっているらしく、不遜な態度で目も合わせず礼を述べた。もう、とリィが怒る。ふふ、とレイラが笑った。大犬に、少女がおずおずと近づく。なあに、と彼女は返した。
「私達が、ついでにと言うと…ちょっと失礼かもしれないけど、探そうか?その人のこと」
レイラは淡く笑う。微かな諦念と幸福感、微睡みから起こされた時のような顔だ。
「ううん?いいわ、探さないで。あの人はあの人で幸せに過ごしているかもしれない。それを邪魔しちゃ悪いわ」
それに、と彼女は付け加えた。
「探して、それでもしもこの世のどこにもいないことが分かってしまったら…私は臆病者だから。どこかであの人が笑っている、そういうことにしておきたいの」
今度こそ彼女は笑う。それはそれで彼女の決断なんだろう。そうなんだ、とリィは緩く返した。
「ねえ、リィ。元星にはね、沢山の人間がいる。人間を辿っていくうちに、そこへ辿り着くこともあるでしょう。でもね、元星には行かないで」
「え...?」
「いい?とにかく、行っては駄目よ」
レイラの忠告は、レオにもよく聞こえた。彼には、『行かせてはいけない』と言っているように聞こえた。彼女の仲間として、しっかりと止めるのだと、そう直接言われたような気すらした。
「いるかいないか分からない家族よりも、今生きているあなたの方が大事よ」
何も言わずに、見上げたまま少女は頷く。薄く見えていた紫色が完全に瞼の奥へと消えた。陽はもう上の方に来ている。別れの時刻が近づいていた。
「その...短すぎる鼻も、裂けた指も、不思議だけど、嫌う理由にはならないもの」
右側の首筋に、その次に左側に。そう言えば毛皮が無いから、この挨拶はくすぐったいんだっけ。肩を持ち上げた彼女は少しだけ彼に似ていた、ような気がした。
「酷いこと言ってしまってごめんなさい。元気でね。あなたに御加護がありますように」
少ないけど、と食料を分けて、簡略化された別れの儀を送る。ばいばい、そう彼女は細すぎる腕をちぎれんばかりに振ってくれた。多分三十分も待ってりゃまた見れるぞ、そう彼は言っていた。待つことは、本当に虚しいことだが習慣でもある。いやになるほど慣れている。あの子たちみたいに、探す道もあったのかしら。庭の濃い匂いにももう慣れているので、そんなことを考えている間に飛行船が真上を横切った。
飛び立つ彼女たち。軌道はちょうど庭の真上だったらしい。ネモフィラの小さな花が一斉に揺れる。空からもこの庭は見えるのかしら。彼女はひとりそうごちた。