大きな犬と小さな人間の宇宙航宙記
視細胞が悲鳴をあげるような無限の暗闇。そこを彩る無数の光り輝く星、銀河、眼下に軌跡を残す流れ星。今度の星は、どうやら海...惑星の大半を占める水たまり、の色が緑のようだった。もっとも、そんな事を気にせるような余裕はどちらにも無かったが。
「レオ!!出力もっと上げて!!」
「くっそ、そんな事言ったって...今朝整備したお前なら分かるだろ!?」
「うん!正直もう落ちるしかないと思う!!」
「あーもう!!」
少し掠れた警告音が船内を満たした。飛行船を象ったような宇宙船は、制御盤のメーターから読み取れるようにほぼ真下に飛行している。そう、平たく言えば落ちているのだ。
「ま、まあハビタブルゾーン内の惑星だしね?正直なんとか、ねえ?」
「船が壊れなければな!?」
少年、と言っても我々の概念からは大きな犬にしか見えないが、彼が顎で力いっぱいレバーを引き戻す。あああハンドルに傷がついちゃうよう、そんな少女の嘆きが遠くで聞こえた。
「あっ、も、持ち直した!奇跡だよ!!すごいねレオ!ほら見て、角度が変わった!」
直角、下手すればそれ以上を示していたメーターの針がゆっくりと元に戻る。重力干渉値も心無しか弱まったようだ。
「やったな!で、地上までの距離はどんくらいだ?」
ぱっと顔を綻ばせた大犬に対し、引きつった笑顔で少女は答えた。
「測定不能距離...つまり、ゼロ」
大きな叫び声が響き渡るより前に、船は緑の海に落下する。
三度の革命の恩恵で、人々が宇宙を自由に行き来し始めた頃。この時代は、後に大航宙時代と呼ばれた。
#1 東の船造り星
「なんだかえらく大きな音がしたねえ」
「本当さね。ひょっとすると、これは...」
がやがや、わいわいといった擬音が似合いそうな酒場。美人なお姉さんも革張りのソファーも無い、本当にただの酒場である。中年半ばぐらいの男性達、皆機械油に汚れた、正しく言えば二足歩行の服を着た獣達が、目を輝かせて口々に言った。
「「金儲けのチャンスだな!!」」
東の船造り星。旧文明のエンジンやら機構やら、船造りには欠かせない資材が地下深くに埋まった星。そこに推定だが、船を壊した客がやって来た。それを金づると呼ばずに、なんと呼べばいいのか。
「あっ!?エドルのやつ、もういねえ!」
「足はええなあ...流石、ブランク家の跡取りってとこかあ」
諦めきれない職人が何人か、あいつには適わんと酒を飲み直す職人も何人か。少し年季の入った女主人が、踏み倒すんじゃ無いよと声をかけた。
その酒場のほど近くにある、緑の海。透明な水の下、遥か下で沢山の珪藻が輝いている。そこにぽかんと浮いた飛行船と、それに掴まる少女と少年。
「あー、駄目だこりゃ。どうしよっかなあ、あとどこを取り替えようか」
「リィに分かんねえなら、オレにも分かんねえな。...まあ、海に運良く落ちて良かったよな」
ざぶざぶと緑の波紋を立てて、少女が船の周りを移動する。幸い分厚い炭素籠は何とか持ちこたえたらしく、損傷は熱によってすり減った跡ぐらいだった。
「ううーん...エンジンの中身は流石に、手が出せないなあ」
「だろうな。...くそ、足止め食っちまう」
「ここは第十六の惑星。幸いにして、ここの産業はね...うわっ」
ざばざば。浮かんでいた宇宙船に水しぶきがかかる。それに捕まっていたリィもレオも、頭の先からびしょ濡れになった。
「げほっ、く、くちに入った...」
「大丈夫かよ。つーかでかい船が来たな。もしも、星間局の役人だったら...」
「レオを十九歳、って登録したの怒られちゃうね」
「馬鹿。怒られるだけですむか。資格剥奪だぞ、剥奪」
ずいぶんとよく喋る船乗りだな、と船の上の人物は思う。そして、明らかに自分と同じくらいか、それよりも下の年齢。もっと目を引くことは、数年に一度見るか見ないかの存在、人間がいることだった。
「...ロープを渡す。これで船、結べ」
「えっと...ありがとうございます!あなたは...その勲章から察するに、二級技士の方ですね?すみません、お代を先に聞いても?」
船上の青年、言ってしまうと金色の毛で覆われた垂れ耳の犬...が、頑丈そうなロープを飛ばす。レオと呼ばれた少年がそれを受け取って船に結びつけた。
「料金は...まあな、応相談ってとこだ。あんたらは移住者か?旅人か?」
「ほうはった」
思い出した、という様子でレオが口にくわえていたロープを離す。リィも同様に、そうだった、と呟いた。
「ここで一番人の集まる場所に連れてってほしい。そのあとでもいいか?支払いは」
「あっ、旅人です。ちょっと用事があって、この星まで来たんです。...まあー、着地はもっと、うまく出来たかなあーって思いますね」
お喋りな旅人。それも珍しい人間と、大犬のコンビ。青年は首を傾げて、その後頷いた。
「そうか。俺はエドル。ブランク家の技師だ。湖からしばらく歩くと...酒場がある。まあ、船に乗れ」
帆船はぽこぽこと旧い蒸気エンジンの音を立てて、呑気に揺蕩う宇宙船を引っ張る。こそこそと情けない会話を交わすのは、甲板にうずくまるレオとリィだった。
「いやー...正直いくらになると思う?レオは」
「あいつがめつそうだからなあ...落ちた瞬間やって来てさあ直すぞとか、金の亡者だろ絶対!」
「お優しいといいねえ...あはは、財布かっる...」
「ここ最近旅人手当も貰ってないしな...はあ、ここには無いだろうなー役所」
かさ、かさと数枚の札と硬貨が音を立てる。これで全財産だもんなあ。二人は顔を見合わせてため息をついた。
「?何をこそこそと話してるんだ。もう着くぞ。あ、船は俺が預かる。お前らは湖沿いに歩いていけば、酒場がある」
かたかたかた。振動は次第に弱まり、一際大きな港にぶつかる衝撃を最後に停止する。エドルに続き二人も港に降りると、既に青年は自分達の船を陸に上げ機構を見ていた。
「勝手なやつ...」
「まあまあまあ。あっ、レオはいつもの通り、頼むね」
「ああ。お前が行っても大丈夫そうなら、後で呼びに来る」
レオはそう言うと身体を震わせてから子気味よくかけていく。リィはばいばい、と手を振ると、びしょぬれのナップザックから、これまたびしょぬれのフードを取り出し頭に被ろうとした。
「...おい、お前、何やってるんだ」
ぎょっとしてエドルが声をかける。彼女の服も酷いくらい濡れているのに、明らかに得策ではない。
「えっ?いや、時々いるんですよ、人買いが」
力いっぱい布を絞りながらリィが返した。そんなものここにはいないぞ、不安なら工房に入ってろ。青年がそう返すと、少女はぱっと笑顔になって布を畳む。
「...良かったです。私だって、この上更に濡れ鼠になるのは勘弁でした。じゃあ中に入ってますね。整備、ありがとうございます」
下半分が開いた入口から、少女が中に入ろうとする時だった。
「待て。...聞いてなかったな、お前達の旅の目的は何だ?」
「...という訳で、はぐれた両親を探す為にここに来たんだ」
静かになっていた酒場が、再びざわめき出した。狭い酒場は、二足歩行種の犬達と猫達、ほんの少しの大犬で埋め尽くされている。
「なるほどな。この星に金を落としに降ってきた訳じゃあ無いのか」
笑い声が上がる。違えっての、レオがむくれた頬で答えた。
「金色の髪の人間と、あと大犬を探しているんだ」
ざわざわ。その音は、ぼんやりと疑問や否定を含むような音だ。
「その苗字は...聞いたことないな。大犬ならともかく、人間なんてここ数年は見ていないしな」
「もっと東方に...人を探してる、って博士ならいたけどなあ。まあ、確かすごい変わり者だが」
「その博士の種族は何だ?人間か?獣人か?それとも大犬の類か...」
「多分、俺たちと同じ犬の獣人だな」
少年はううん、と口を歪めた。
「そうか。...人売りの可能性もあるから、そこだけ注意しないとな。ありがとう。それだけでも大きな収穫だ」
レオが歯を見せて笑った。つられて男達も笑顔になる。
「おうよ。お疲れさん」
「可愛い娘さんと旅できて、幸せもんだな」
「俺もあんたぐらいの頃はなあ...」
親がいない、という話から静かになっていた酒場が再びどっと盛り上がった。未成年と分かっているにも関わらず、発泡酒の瓶が回されるほどに。
「だあーもうこら!!おっさん達!!しっかりしろっての!」
少年が声を張り上げた。違いない、あんた達、働いてきなと女主人が笑う。技術士達もげらげらと笑いながら、次々と酒場を去っていった。
「ったく。おっさん共め...」
勝手にも一本、フードの中には瓶が入れられていた。悪いからいいと言うレオに対し、ああそれなら勘定済みだから気にすんなと言って持たされたものだ。リィと分けよう。水以外の飲み物なんて、役所の不味いコーヒー以来だ。彼は知らないうちに尻尾を振り上げ、乾いた地面をかけていた。
「という訳で、私の両親、それにレオの両親を探してるの。大犬はもうちょっとヒントがあってね、灰色と白のまろ模様で苗字がソフスキー」
「...分かった。覚えておく。苦労してたんだな」
垂れ耳の犬の耳が、心做しか下がる。エドルはうっかり手を止めてリィの話に聞き入っていた。あくまでも明るく、リィが笑う。気づいた頃には敬語は外れ、エドルの目には尊敬の色すら伺えた。
「あはは。まあね。でも航宙者手当、が出てるから...なんとかって所かなあ」
まあ、十八歳未満は単独航宙は認められないからねー!そうそう、役所とかに行く時は別種族、例えば獣人とかを選べば引っかからないで通れるよー!なんて言葉を喉元あたりで押し込む。レオは十五歳、私は十四歳だ。その事実が露呈すれば、保護されるなんてことも有りうる。
「そうか。なら大変だな。役所はここの恒星系だと...ちょうど反対側にしか無いからな。俺たちは近づく度に入植者手当を貰えるんだが...」
「へえ?それは都合がい...んんっと、残念だなあ。入植者手当ねえ...そんなのもあるんだ」
「ああ。九十年前...爺ちゃんの代の、一大プロジェクト、惑星入植」
金色に埋もれそうな黒い鼻先が、くっと空を仰いだ。細長く見える青は、二つの恒星を浮かべて眩しいくらいに輝く。
九十年前、最初の革命の頃。元々全ての種族が住んでいた星、かつて世界と呼ばれていたそこは緩やかな危機に見舞われていた。一世紀前に起こった蒸気革命、大戦の終結、人口減に伴って各国が行った政策の全てが重なって、星の住民が十の桁に乗り上げる。アメイジアと呼ばれる一つの大陸に住んでいた彼らは、広大な乾燥地帯と海に阻まれ、農地が足りず餓死者が出る恐れが日に日に現実みを帯びていった。その時突然見つかった、一つの旧い船。
「爺ちゃんはさ、当時自殺行為と呼ばれていた入植者たちの一員だったんだ。正確には、渡航のあいだとそれからの技術者。四度渡航を繰り返し、辿り着いたのがここ。旧文明の墓場、第十六惑星」
当時の最果てだったその星には、おびただしい数のエンジンだのエンベロープだの恒久炉...今のところ、誰も燃え尽きる所を見たことの無い熱源だの、飛行技術に不可欠なものがとかく一通り揃っていた。技術者の端くれだった少年は、当然のように入植を決意する。
「宇宙進出を目論む人の足になりたいって、それで爺ちゃんは沢山の船を作ったんだ。まあ、作ると言っても過去のがらくたを繋ぎ合わせるようなもんだったが...それは、一般人なんかには出来っこない芸当だ。俺が七つの頃に死んじまったけど、今でもこの星々の人はその名前を知っているくらいだ」
真っ青な、金色の睫毛で縁取られた瞳に星が宿る。さっきまで冷たい夜の色のようだったそこが、今は星いっぱいの釜のようだ。
「...ほんとに、好きなんだね。お爺さんのこと」
つられてリィも笑顔になる。エドルは少しばかり気まずい、といった様子で目を逸らした。
「...俺は今から、エンジンの分解に入る。集中したいから、話しかけないでくれ。暇なら、ここの裏手にある渓谷を降るといい。爺ちゃんが見つけたんだ。...旧文明の墓場は、中々見ものだから」
そう言うとエドルはもう作業に取り掛かっているようだった。空気が違う。ありがとう、と短く呟くと彼の尻尾がぱさりと揺れた。
「...さてと。暇だし行ってみようかなあ、その渓谷」
ふらりと歩き出すリィ。入れ違って工房に入ってきたレオは、まず声が煩いと怒られ、続いてリィと入れ違ったという事実を知って、大きくため息を吐いた。
「あーくっそ。行くか、その墓場とやら」
見送りの言葉の一つも無く、ただその方向を無言で指さすエドル。早く出ていけ、と尻尾は無言の圧力を醸し出している。
「にしても、乾燥酷いなここ」
歩き出したレオを迎えた、からからの大地。地面は度々ひび割れて、植物は生えられないようだった。反対側にあった酒場の周辺には、少しと言えど農地が見られたのに。渓谷と言うにも分からない。水気はほんの一欠片もしないのだ。沸き立つ陽炎の奥、小さな影が見える。
「レオ!おーい!見て!すごいよこれ!!」
彼を発見したリィの元気な声につられて、レオも急いでひび割れた地面を跳んだ。クレーターの中心に向かうように、割れ目は一点に集中しているようである。
「...なるほど、こりゃ確かに渓谷だわ」
足場が途切れるようになり、レオは度々迂回したり跳んだりするはめになった。ひび割れの下は真っ黒で、中々深くまで抉れていることが分かる。遥か下、溶岩のような蛍のような、一瞬光る緑色が見えた。
「どうなってんだここ」
「こっちこっちー!もっとすごいんだよー!あっ、でも足場には気をつけておいで!」
渓谷の真ん中。クレーターの中心。リィはその淵に立って、遥か下に空く大穴と、後から取り付けられた釣瓶のような乗り物を眺めていた。
「...なんだ、この穴」
「すごいよね」
底面が全く見えない深さ。暗闇の中、緑の光が時折瞬く。まるで、地面に開いた星空だった。
「これ全部...機械なのか?」
「うん、きっと...機構の分からないものも、沢山あるんだって」
旧文明の墓場。そんな言葉が頭を行き来する。おびただしい数の機械が、この周辺に埋まっているらしかった。
「あの、地面の緑の光も...全部、機械だったのか」
「多分...こんなの、初めて見るよね。流石東方。『旧文明の色濃く残る星々』たちだ」
ぴぴぴ。同調するように、小さな音が機械から鳴る。すべての生き物たちの故郷、元星の超大陸アメイジア、首都エリコから見て恒星の昇る方向、ただし初めて技術が確立された宵の季節の時のものである東方。そこに集まる星々には皆、特徴があった。極端にハビタブルプラネットの多いこと。そして、隠されたように、でも見つけられるように幾分かわざとらしく...旧文明、どうやら過去あったらしい文明の遺跡が遺っていることだった。
「一体幾千の月日が、生命が、私たちの昔にいたんだろう?」
それは禁忌の問いでもあった。元星のもの達は、こぞってこれを否定する。星の神々が、この宇宙を我々を作ったのだと、そう主張する。三度の革命により工業者や商人に力が集まらなければ、もしくは人口問題など生じていなければ、この文明は見て見ぬふりをされてしまったのかもしれない。誰かがいて、何かを生んだという形跡を、消してしまったかもしれなかったのだ。
「彼らはどこから来たのか、何者なのか、どこへ消えたのか」
ひとつ、同じ恒星系の惑星が影を落とす。大気を通してすら見える巨大なひび割れ。その中にも、きっと同じように文明が埋まっているのだろう。彼らがもしも死に絶えてしまっているのなら、まるで種のようだ。
「じゃあ、私達は?どこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか」
びゅう、と風が吹く。惑星のはしから片方の恒星が顔を出して、金髪のおさげが光を反射して煌めいた。
「...リィ。もう、帰ろうぜ」
呆気にとられていたレオが、ようやく声を発する。
「...あはは、ごめんね」
「酒場で、ジュースを貰ったんだ。一緒に飲もう。あいつのガレージに置いてきたから」
谷に落ちないように、自然と庇う姿勢になるレオ。その後を付いていきながら、彼女は振り返り振り返り緑を眺めた。まるで、鎮魂の為の灯火だ。私たちの静かな終わりを歓迎しようと、歌うような。
「私はこの、宇宙を知りたい」
独り言のように呟かれることば。言葉には不思議な力がある。言ったことは、確かな形をとって、リィの胸の中に決意として仕舞われた。惑星はもう通り過ぎ、ふたつぶんの恒星から眩しいくらいの日が注ぐ。もうとっくに二人の服は乾いて裾が踊っていた。
「にしても腹減ったな。オレ、食いもん買ってくるよ」
「あ...ありがとう」
ぼーっとしていたリィは、レオの言葉で正気に帰る。ひび割れを避けて走っていくレオ。せっかちだなあ、と遠くへ消える尻尾を見て思う。
「...ってかレオ、ほんっとにちょっとしかお金持ってなかったような...」
...まあいっか。点のようになった白い尻を見て、追いかける気にはなれなかった。ジュースかあ、何味かなあ。のんびりとした思考のまま、リィは元いたガレージに戻る。
「存外遅かったな。元々大して損傷してなかったんだ、もう終わるぞ整備」
箱の中、最初に比べ散乱した機械たち。三割ほどは旧文明のものなのだろうか、足の下に広がっていたものと同じ緑が点滅している。機械油に汚れた金色の鼻づらがなんだか滑稽だ。リィは安堵したようにぱっと笑った。
「あっそうなの?良かった、あんまりお金持ってないんだ私ら...」
「まあ、最初からそんなにせびれるとは思ってなかったさ。ここの奴らみんな善良だからぼったくるなんて頭無いだろうし」
正直なところ、落ちた瞬間駆けつけてくる整備士だなんて、守銭奴に違いないと思っていたのだ。加えて素直なリィのこと、思わず口に出していた。
「え、じゃあさ、なんで私たちにあんな素早く近づいたの?」
しまった、といった目とリィの目が合う。さっと逸らされた目線が、あっちに行ったりこっちに行ったり。数瞬の後、観念したようにはあ、と息が漏れた。
「その船...爺ちゃんが作ったやつなんだ」
「そうなの?」
「...俺には、分かる。なんせ小さい頃からずっと憧れ続けて...今なお超えられる気がしない、完全品」
生まれてから何度、あの船に焦がれ、そして絶望させられたことか。彼の視線は、天井に貼られた古い設計図に向けられる。光がまず当たらない、けれども毎日見れる場所。彼が、その父親が大切に扱ってきたことが見て取れた。
「...爺ちゃん達がここで大量の『部品』を見つけるまでは、船は全部丸々旧文明のものを使っていた。大型のものばかりだったらしい。移民船、と言ったふうに使ってたんだってな」
第一革命。船が見つかったこと。
第二革命。それを利用する方法、どこにどんな星があるかを解読しきったこと。
そして、第三革命。
「爺ちゃんは気づいた。エンジンと、星間ガス、炭素繊維、そして制御板。これさえ組み込んでれば、どんな小さなものでも宇宙へ行けるんじゃないかってことに」
小さな船が生まれ、人々がある程度自由に宇宙を渡れるようになったこと。
「だから俺は...爺ちゃんが、後の教科書に名を残すほど、偉大な人だと思っているし、実際そうなんだと思う。だから、絶望する。...二番目ってのは、どうしたって一番目よりも意味を持たない。俺は、何をしたって爺ちゃんを超えられない、名を残せない」
「...」
ぱちり、とくっきりとした少年の目が閉じる。上を向き続け首は疲れたが、目を離すことはできない偉業。端に光る、自分と同じ名字。
「俺の成す事は、きっと誰かも出来ることだ。爺ちゃんは有名だったが、父さんは大した功績は収めなかった。精々、この店を潰さなかった程度だ」
がちゃりと、話している間にも部品がはめられていく。すっかり元の場所に収まった機械たちの上、しっかりと蓋が閉められた。
「俺のいた意味はどこにも残らないんじゃ無いかって。旧文明を見ていると、そう思えてくる。...誰も、あんなに凄いものを作った人すら覚えてないんだから」
ため息と共にその言葉を胸の奥から押し出してから、一秒も経っていないと思われた。
「それは違うよ」
半ば反射的に、けれど確かな裏打ちがあるようにそうリィが返したのは。ぱちぱちと彼が瞬く。どういうことだ、と首がかしいだ。
「名の無い人々の積み重ねが、歴史なんだと、私は思ってる」
自分より年下の少女が言うとは思えない、力のある言葉だった。すん、と鼻が鳴る。
「貴方のお祖父さんは確かに有名なんだよね。けど、資源を取り出すために地面を掘った人を、それを運んだ人を、まして文明を作った人を誰だって覚えてないでしょう?彼らがいなければ、お祖父さんだって成功しなかったはずなのに。全部、どんなに有名な人やことだってそれの繰り返し。きっとそういうもんなんだよ、歴史って」
「...まあ、それは、確かに...そうなんだろうけど」
「でしょう?」
得意気にリィの目がエドルを見つめた。そして、少し遠くを見るように緑が動く。
「私は家族の記憶が無い。...売られた時、あまりにも怖くて、それまでの全てを忘れてしまったから。けど、記憶は無くても、私を九つまで育ててくれた時間は消えない。彼らがいなければ、確かに私は存在しなかったんだから」
「...」
たっぷり数十秒。いや、そんなに長くは無かったのかもしれない。とたん、とたたんとガレージよりも後ろの方を貨物列車が走っていく音が聞こえる。彼の瞳孔がきゅっと閉じ、そのあと緩むように開いた。
「...そっか」
「うん。そうだよ!」
朗らかにリィが笑う。まるで、自分にとびきりの幸せが訪れたかのように。まるで、上手く表現出来ない不器用な彼の気持ちを代弁するかのように。
「...あ、」
「リィ!買ってきたぞパン!」
何か言いかけたエドルの声を、ちょうど帰りついたレオが掻き消す。じとっとした目でエドルが睨んだ。何だよ、とレオが後退する。
「ほら。まだ温かいぞ、やる」
くるりとレオが後ろを向いた。フードの中、大きならそれも久しぶりに食べる肉を挟んだバンズがほかほかと湯気を立てていた。
「うわー!美味しそう!」
「な。冷めないうちに食えよ」
腕ほどはありそうなずっしりとした重さのあるパンを掴むと、違和感を覚えたリィが尋ねた。
「レオのぶんは?」
レオは慌てたようにリィに向き合う。こんな大きな食べ物、おまけに肉なんて入っていたら、とてもじゃないがレオの持っていたお金じゃ足りないだろう。
「いや。いいんだよ。オレはもうひとつ食ったから」
擬音が生まれそうなほどにリィの目線がレオに注がれる。じっと見つめるその色は、この星の半分を占める海のような緑色だ。
「嘘だ」
「うっ」
看破される嘘。リィは見る間に大きなバンズをソーセージごとちぎっていく。口元に差し出されると、もう食べない訳にはいかなかった。
「くそ...カッコ悪い」
「レオは嘘をつくと、右の耳がぴこぴこ動くよね。バレてないとでも思った?付き合い長いんだもん、レオのことなら何でも知ってるよ」
自慢げな顔をして胸を逸らすリィ。その口の端に光る、間抜けな赤いケチャップを拭う。大犬であるレオに渡されたそれはリィの口より幾分か大きい。かぶりつく度増える赤に、レオは諦めたように残りを頬張った。
「ほーはっへ、わはひにふふほうはんへふるはら」
「あーはいはい、オレが悪かった悪かった。ありがとな、リィ」
「ふふん」
真っ赤な口元に、後から来たエドルがぎょっとしたような顔で半歩下がる。ほんの少しになっていたバンズとソーセージの尻尾を口に収めると、再び彼に向き合った。
「どうしたの?」
「...船、出せるようにしといたぞ。出たきゃいつでも出れる。今からならちょうど夜明け頃には隣の星に着くだろう」
「ありがとう!」
「...」
ガレージの扉が音を立てて船が出れるほどの高さまで開く。反射された光が古ぼけた設計図を滑っていった。
「...それを言うのは、俺の方だ」
「え?」
聞こえなかったのか、それとも意味が分からなかったのか。どちらでもいい、とエドルは続けた。
「お前は、俺に、これからを、ありふれた言葉で言えば希望なんてやつをくれたんだから」
ガレージの開閉音でその声は霞む。けれど、確かに聞き取ったらしいリィがぱっと笑顔になった。
「ほら、船だぞ」
彼の後ろには、星間ガスで満たされ半分透けた船が聳えている。それは二つの影を湛えて自慢げに蒼く光っていた。
「わーっ!すごい!新品みたい!」
「おお!これはすげえな...で、どうなんだ」
コレは、と金額のサインを鼻先でレオがする。くはっと口を大きく開けてエドルが笑った。初めて見るような晴れ晴れとした笑顔で。驚いたレオは目を見開く。リィはつられて軽く笑った。
「今回は無料にしといてやる!おまけにリコールまで受け付けてやるさ!またな、旅人。あと、リィ」
からからの大地に風が響く。エドルの金色の耳を揺らして、後方の海にさざ波を立てた。ぐ、と押された船が鳴る。ふいに彼は目の前の少女の前に片膝をついた。そして。
「はあ!?」
「またな」
「うん、またね」
手の甲に小さく鼻先が触れる。満足気な顔で頷くと、エドルはさっさと踵を返した。
「発着まで見送っててやるー!言っとくけど、そこで落ちたらそん時は金払ってもらうからなー!」
大声で少年が言い、乗り込んだレオも任せろと声を張り上げた。操縦席にいるリィの姿は見えない。船は一瞬浮かび上がり、一度だけ船体を下に傾けて、その後一瞬で空の彼方に姿を消した。真っ白なガス塵を残して、空に一直線に跳ね上がっていく、先代と自分の愛した船がそこにはある。
「...彼らの航海に、我らの船が輝けんことを」
残された青年はひとり祈りの指を形作った。その言葉は遥か昔、海という未知に乗り込んだときの名残だ。そして、彼の記憶の奥底にいる祖父の記憶の中に、確かに生きているものだった。
「俺の人生に、彼らの人生に...意味が、あらんことを」
旧式の、それでも比較的綺麗なその船を思い出す。彼女たちはどういう経緯で、あれに出会ったんだろうか?どうして、あんな古い船に乗り続けている?まあいいや、次会った時にでも聞こう。彼は海に背を向けた。ガレージの中にまで風が吹き込む。若き技師は静かに片付けを始める。そして、新しく図面を書き始めた。
「いやあ、ほんとに同じ船かな?ってぐらい、調子がいいね!」
「悔しいけどその通りだな」
成層圏を抜け、点在する緑の海と大地が見えるようになった頃。リィも操縦席を離れ、自動制御へと切り替えた。
「さてと、次はもっと遠くへ行こう。変わり者の博士のいる所まで」
「ああ。そうだな」
完全な宇宙へ進んだ船。微笑む少女の後ろには、無数の星が瞬いていた。