マワリメグルコノセカイ。
人の「死」を初めて実感したのは、中3の肌寒い11月の事だ。
いつものように、朝を迎えて忙しい朝の時間に追われている時だった。
寒いのを我慢して、布団から出る。
追われているのは、俺じゃない。俺以外の家族だ。
中学に上がったばかりの妹、高校最後の冬を突っ走る兄貴。
今年で厄年になったオカン、白髪が目立つオトン。
あ、後まだ眠っている猫のサヤちゃん。
俺の愛猫だ。俺の布団に包まり、ぐっすり眠っている。
俺が食卓に着く頃には、オカン以外はもう出発していた。
別に見たくも無いオカンの顔を、横目にテレビを見る。
「あんた、今日は行くんか?学校。」
「遅れて行く。」即答。俺は毎日こんな感じだ。
高校に行く気は端から無い俺は、出席日数や授業態度なんて気にしてなかった。
だから、朝からちゃんと学校に登校する気も、家でじっとしてる気もなかった。
「弁当いらんわ。抜け出す。」
これも定石で、3年になった今の俺には当たり前になっていて、オカンもまた弁当を作る気は無いようだ。
「あんたさぁ、ほんまのんびりしとんなぁ・・・。兄ちゃん見習いや。」
「一緒にすんなて、あいつとは頭の出来が違う。」
オカンと話すと、何故だか腹が立つ。同じ空気を吸うだけでも、最近は辛い。
二度寝でもしようと思っていたが、やっぱり止めた。
上着を羽織り、何も入っていない鞄を肩に掛けた。
すると、いつの間にか後ろにサヤちゃんがいて、俺に体を擦り付けてきた。
「サヤちゃん、じゃ行ってくるわ・・・。」
顎を撫でてやり、踵を踏んだ靴のままで外に出た。
どうせ、学校に入るのは10時頃だ。例の如く俺は、お気に入りの場所に向かった。
道中、自分の学校の奴を見掛けたが、皆目を合わさない。
そりゃそうだ。髪なんか染めちゃって、朝日に当たれば茶髪も金髪ばりに輝く。
外見で人を判断する。それが今の俺の周りの人間だ。
地毛なんだから、学校側にも文句を言わせないし、言われた所で黒に染める事はない。
素行も良い訳じゃないから、先生受けも同級生受けも物凄く悪い。
友達も居なければ、彼女もいない。中学に思い出もなく。
あるとすれば、不良連中に絡まれるぐらいだ。
俺と不良を一緒にされては困る。ケンカ云々に興味もないし、熱い友情なんて持ち合わせていない。
繋がりなんて求めてないし、あいつらみたいに避けてくれる方が、俺もやりやすい。
そうこう考えてる内、俺の目的の場所に到着した。
ここは眺めがいい。屋上から見下ろすは、俺の中学校。
遅刻ギリギリで焦って走る学生の姿は、中々の見応えがある。
途中で買ったブラックコーヒーと、まだ新品の煙草。
これだけあれば、3時間はここに居座る事が出来る。
第一、この時期にこんな寒い場所に来る奴は俺ぐらいだろう。
煙草が見つかる事もなければ、誰かに遭遇する可能性もない。
そうタカを括り、屋上に繋がる扉を開けた。
肌寒い風を浴びて、最初に目に入ったのは今にも飛び出しそうな女の姿だった。
扉の開く音と、制服姿の俺が煙草を吸っているのを見てか、フェンスに捕まり固まってしまった。
「あの・・・。学生さん・・・ですよね?」
やばいかな、とは思ったがやっぱりそのまま煙草を吸う。
「・・・そうっすけど。」厄介だ。自殺しようとしてるんだろうな。
止めるべきか?いや、たかが学生しかも、不良丸出しの俺の言う事が、あの女に届くとは思えない。
「あの、よろしければ、話・・・聞いてもらっていいですかね?」
「・・・話?」
いきなり、知らない男に話なんかして、最期を終えるつもりなのか?
ごちゃごちゃして、俺には全く分からなくなっていった。
「あ、その変わりに、私の煙草・・・全部あげますから!」
そうまでして、俺に聞いてもらいたいなら、別に悪い気はしない。
「いいっすよ・・・。」
それから、彼女は俺の横にちょこんと座り、話し続けた。
その時の彼女は、自殺を考えているとは思えず、俺もその事を忘れていた。
それが、俺と彼女の初めての出会いだった。
淡い恋物語や青春なんかじゃない。これが俺の、中学最初で最後の思い出だった。
いつもと変わらない空は、あの日と変わらず俺一人を照らしていた。
「藤田佳代って言います。あなたは?」
「俺は、鴇谷零太っす。」
いつの間にか自己紹介をしていた自分に驚いたが、顔色を見る限り明るい人生を歩んではいないだろう。
人の事は言えないが、哀愁を漂わせた雰囲気がある。
「自殺の理由は・・・何かあるんすか?」
直線的に言うのは、俺には出来なかった。これが俺の中で、一番柔らかい物言いだと思った。
「・・・なんて言うか、大きな理由なんて無いんです。ただ・・・疲れたっていうか・・・。」
分からない事はない。存在する意味の無い自分が、これ以上生きる必要がない。差別と偏見の狭間で、俺も何度か考えた事がある。
でも、結局生きてきたし、今更死のうなんて思っていなかった。
「・・・そんなもんっすかねぇ。」
異性と話す事なんて、事務的な事以外にするのは初めてだ。それなのに、自殺しようとする女と話しているとは、俺も成長したもんだ。
「中坊には、重過ぎっすわ・・・・・。」
「えっ?中学生なんですか?」
物凄い驚いている。俺を年上とでも思っていたのだろうか?
「あ・・・そうっすけど。・・・自分は?」
「私・・・高校生です。」
高校生か・・・。社会人に見えた。子供も大人もあんまり変わらないものなんだな。
「・・・敬語なんか使わなくていいっすよ。」今更遅いが、一応言っておいた。
「まぁ、今更ですし・・・・ね。」
彼女も彼女で、もう「今更」なんだろう。
気味悪いものだ。お互いを知らなさ過ぎるのに、案外大事な事を話してくれている。
「私実は、高校でいじめにあってたんですよね・・・・。」
「いじめ・・・。」偏見なんかも、いじめなんだろう。それが、どれだけ辛いのか。俺は知ってる筈なのに、なんだか知らない気がする。
「靴隠されたり、鞄汚されたり、教科書破られたり、いろいろあったんです。友達も居なかったし、助けてくれる人もいなかった。」
「辛い・・・すよね?」聞いただけでも、陰湿で醜い人間の業。
何が悪い訳でもなく、鬱憤や僻みを合わせて2重にも3重にも、彼女に降りかかったんだろう。
酷いものだ。彼女は思いつめているのに、それでも加害者は普通の学生として机に座っているんだろう。
「それで、学校止めたらいじめはなくなったんです。まぁ、学校行ってないからなんだと思いますけ―」
「あの・・・いいっすか?」
彼女の言葉を遮り、俺は重要な事について聞いた。
「恨みは・・・・ないんすか?」
しばらくの間、この空間に静寂が広がった。
考え終えたように、彼女は静かにい言った。
「殺したいぐらい、怨んでます。・・・でも、それが悪い事だって事も分かってるんです。」
どういう心境だろうか?俺には、とても測りしえない。
目の前の物を壊したくて、でもそれは悪い事で。何も出来ず、最終手段が自殺。それが、悲しい心の作り出した副産物。
暖かかったブラックコーヒーも、だいぶ冷え切っていた。仕方なくそれを、一気飲みした。
口いっぱいに、渋い味と仄かな香りに包まれた。
「正直、止めるべきか見守るべきか・・・迷ってるんすよ。」
彼女は黙って聞いている。
「俺も・・・佳代さん程じゃないけど、いじめみたいなのにあってるんすよ。だから、辛さとか悲しさも分かるんす。
自殺せんと生きたって、何か変わる訳じゃないし死んだからって、何も変わらんと思うんす。」
「・・・あなたも、いじめられてたんですね。」
似た者同士というか、同じ境遇というか。彼女に比べれば、俺の受けたものなんて生温いだろう。
俺に出来た事は、彼女の話を聞いてあげる事しか出来なかった。
「零太さんって、良い人ですよね・・・・。」
「そうでもないっす。俺なんて、ただの輩っすよ・・・・。」
稀に言われる事がある。見掛けによらず親切ですね、って。茶化しているのか、俺を馬鹿にしているのか。
どうでも良かったが、今は結構嬉しかった。
愛着と言うのは、意外に早く目付いてしまうもので、彼女に死んでほしくないとさえ、俺は思ってしまった。
でもそれが、彼女にとっての幸せかどうか、それが要であって物凄い重要なのだ。
それでも一緒にいてほしいなんて、自分勝手にも程がある。そんな事、俺に出来る筈なかった。
「自殺・・・・まだ、考えてるっすか?」
「まだ・・話してない事があるんですよ・・。実は、病気・・・なんですよね、私・・・・。」
これではまた、話が変わってくる。この数時間の中で、お互いに変化してきたんだろう。
人の成長は時に儚く、無残なものだ。
最初はほんの、時間つぶしの軽い気持ちも、形の無い感情と共に小さな「愛」に変わった。
だからこそ、彼女も真実のありのままを、俺に語ってくれたんだろう。
「私、そろそろ行きますね・・・。」
彼女は立ち上がり、階段の方へと歩を進めた。
一瞬「死ぬ」のか?なんて思ったが、違ったようだ。
「また明日も・・・話聞いてもらえますか?」
「・・・いいっすよ。」
彼女は笑って手を振っている。
笑ってるようには見えたけど、俺には泣いてるように思えた。
何だろう?このまま、見送ってしまえば、もう二度と会う事が無いかのように。
頭のもやもやが消える頃には、彼女の姿は無くて何処に行ったのかもわからない。
―あれから、もう10年になる。
10年経てば、俺はもう大人になっていて。
24歳。立派な成人。でも唯一つ忘れられないのは、あの日の彼女の事だ。
バーで働き、カウンターで客に酒を振舞う。
そんな日々の中で、俺の中の彼女が消えてしまいそうになる。
忘れてはいけない。何故か、そんな気がする。
あの日。彼女は死ぬ事はなかったが、次の日の屋上に彼女を見る事はなかった。
日に時間が経つと共に、心配だけが膨らんで俺は寝る事さえままならない。
そんな俺の目に飛び込んできたのは、自殺現場を取材するアナウンサーの暗い顔だった。
「先日、某マンションから飛び降りた少女は、市内の高校に通う生徒と言う事がわかりまし た。この生徒は、学校でのイジメに悩まされていて、自殺する前日にある少年と話して、
一度は諦めかけたが、やはりイジメの闇には勝てず、悲痛な心境が書かれた遺書がみつかり ました。」
その衝撃のあまり、俺はしばらく動く事が出来なかった。
自分の部屋に戻り布団を被り、忍び泣いた。悲しいとかじゃなく。
止める事が出来なかった自分が憎くて。
俺は何もやる気がなくなった。
脱力感に俺の体は、固くなって陽の光さえ疎ましくなった。
ピンポーン。力なく、耳障りな音が鳴った。
客が来たんだろうか?まさか―・・彼女?
自分の部屋の扉を開けて、階段を下りようとした所で冷静になる。
彼女は死んだ。ちゃんと、写真も公開されているし、その顔に見覚えがあった。
確かに彼女は・・・死んだ。
「ちょっとぉ〜・・・。あんたにお客さんよぉ〜。」
オカンの嫌にでかい声が、俺を劈く。今はそんな気分じゃない。
「藤田さんって人が来てるわよぉ!」
無視していた俺を更に無視して、オカンが俺の部屋まで上がってきた。
「藤田・・・・?」
口に出してみて、俺はまたハッとなった。
オカンを押しのけて、俺は階段を一段飛ばしで下りた。
玄関まで行き、息を呑んで扉を開ける。
そこにいたのは、オトンよりの歳をとった中年の男だった。
「はじめまして、藤田佳代の父です・・・・。」
「あ・・・どうも。・・ご愁傷様です・・・。」
彼女の父親だった。わかっていたが、やっぱり彼女は死んだんだ・・・。
「君にも、葬儀に出てもらうたくてね・・。止めてくれたんだろう?本当にすまなかった。」
親父さんは、目に涙を溜めながら何故か俺に頭を下げた。
「・・・そんな事ないです。俺も・・・話を聞いてあげる事しか出来なかったんです。」
さっき枯れたと思っていた涙が、また込み上げる。
男二人が玄関先で泣いてるなんて、近所の人も勘違いするだろう。
限界まで我慢して、俺は親父さんの車に乗った。
ちょうど学校帰りだから、制服のままだが確か葬式の格好はそれで良い筈だ。
10分程で、葬式の会場についた。
中には泣き崩れる人がいた。学生の姿は・・・俺だけだ。
「これな。最期に書いた手紙なんだ。」
親父さんが、俺に手紙を渡して「君が持っていてくれ。」と言った。
俺は未だに、その手紙を読む事が出来ない。
読んでしまえば、終わりそうで怖かった。
今でも大事に持っている。
彼女の命日に、いつも墓前まで来て彼女に貰った煙草に火を付ける。
20本あった煙草も今年で終わりだ。彼女の分と俺の分。毎年この日に一本吸う。
今日こそは・・・と。あの時の手紙を懐に入れ、彼女のいる場所へと向かう。
一年ぶりだ。10年経っても、彼女の墓はいつも綺麗だ。
もう、誰かが来ていたらしく。綺麗な花が備えてあった。
煙草に火を付け、手を合わせる。
そして、俺もまた煙草を咥える。
「俺も・・・随分大人になりましたよ・・・。」
まさか、こんな一本の煙草を惜しむとは、俺の人生には無かった事だ。
墓に灰皿を置き、煙を発しながら少しずつ無くなる煙草。
また・・・涙が出てきた。でも、彼女の前では泣きたくなかった。
「また今度・・・・・・。」
俺の青春は確かに、存在していた。彼女には彼女の、俺には俺の。
別々だが、生きる内の一瞬でも、彼女との楽しい時間が愛しい。
回り巡るこの世界。
俺は彼女を忘れない。