白い豚
『穏やかに過ごせますように』
友人に引っ張られ、連れてこられた神社で彼女はそう祈った。恋愛成就のご利益があるというが、そんなことはお構い無し。友人達がきゃあきゃあはしゃぎながら絵馬を描いているのを、一人興味なさそうに眺めていた。
ひょっとすると、それが神様のお気に召さなかったのかもしれない。
その帰り道、彼女は参道の階段から落ちた。
× × ×
(ついてない)
慣れない松葉杖をつき、ゆっくりと彼女は病院を後にした。あの時、背中に何かが触れた感触がした。かなりの高さから落ちたはずだが、幸いにして、右脚を骨折した以外に異常はなかった。
(どこが『穏やか』なのさ)
最近ろくな事が続かない。すぐそばに植木鉢が落ちてきたり、横断歩道を渡ろうとしたら暴走した車が鼻の先を掠めていったり。果ては、駅のホームで押されてあわや転落しかけた。こんな調子だからこそ神頼みをしたのだが、その結果がこれである。
(もっとも神様なんて信じちゃいないけどね)
湿った夏の風がまとわりつく。どこかで遠雷が鳴ったような気がした。
不貞腐れ、俯きがちだった目を上げた。
夕陽に朱く染まった町並み。暑さのせいだろうか、行き交う人は誰もいない。ただただ、黒い影法師が長く伸びていた。
次第に日が落ちていくにつれ、空が赤から橙に、そして紫にと変化していく。東の方からはのっそりと夜がやってくる。
(そういえば、いつもこの時間だ)
彼女はふと、そう思った。轢かれかけたのも、転落しそうになったのもこれくらいの時刻――逢魔ヶ刻だ。
(まさか、ね……)
頭を振り、変な想像を追い払う。そしてまた一歩、松葉杖を進めた時だった。
小さな、しかしハッキリとした鳴き声が耳をついた。
10メートル程道の先、逆光で黒く染まった小さい何かがいた。それはすすすっと彼女の方へ擦り寄ってきた。近くで見れば、それは耳のない白い豚だった。
豚は片脚で立った彼女の左足の周りをぐるぐると回る。右へ行き、左へ行き、終始何か鳴きながら。少し鬱陶しいが、愛らしかったので彼女はそれを眺めていた。白い毛玉の好きにさせる。
『――……ナイ……』
初めは気のせいかと思った。自分以外はここにいないから。声が、言葉が聞こえたのだ。
『……ナイ…………レナイ……』
だんだん大きくなる声。幻聴などではない。それは確かに――
『…………グレナイ……クグレナイ…………ェナイ……!』
ガバッと豚が振り仰いだ。
『喰エナイ……ッ!クグラセロ!』
ぽっかりと空いた眼窩。どこまでも深い闇が彼女を穿つ。豚が――いや、化け物が吼えた。ざわりと空気が揺れる。夕闇とともに忍び寄っていた影が、急に暗さを増し、彼女に迫る。
松葉杖が乾いた音を立てて倒れる。
突然、化け物が彼女に背を向けた。腰を抜かした彼女を置き去りに、一直線に駆けていく。その先の十字路を渡ろうとしている数人の人影。最寄りの駅から帰宅する人達だろうか。彼らは豚に皆目気付かず、道路を横断する。
豚が歩く一人の股下をくぐった。
人影が崩れ落ちる。周囲の人が慌てふためくのが見える。暫くして、誰かが呼んだ救急車の音が聞こえてきた。その高いサイレンに紛れて彼女は確かに聴いた。
『クグレタ!喰エタ!』
神経を逆撫でにする甲高い鳴き声が、嬉しそうに叫ぶのを。
× × ×
翌日、彼女は再び神社へと赴いた。骨折していなければくぐられていたのは彼女であった。因果関係があるとは思えないけど、というより、怪我をしなければあの道を通ることもなかったけれど、それでもここに来たおかげで助かっていたのかもしれないから。
(全部あの時間ってのも気になるし)
非科学的な事は信じていなかったが、ひょっとするとひょっとするのかもしれない。すべて推測だ。本当のことはわからない。人間が知れることではない。
彼方には彼方の道理があるのだから。
だから、些細な予兆には気をつけなくてはいけない。彼らの牙にかからないように。彼らの世界に引きずり込まれないように。
それを彼女が知るのはまだ先の話。
あまり怖くなりませんでしたが、楽しんで頂ければ幸いです。
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