シーン2 美少女忍者の隠密行動・昼休み編
さて、倫堂学園は中高一貫の私学で、進学でも部活動でも結構名門である。
ここに子ども二人を通わせている一葉も冬獅郎も苦労しているのである。
共に一度、連れ合いを亡くして、人生の辛酸はそれなりになめている。
身を粉にしてでも子供たちに高い教育を、と望むのは親心であろう。
一葉のパートは吉祥蓮としての活動の一環でもあるが、冬獅郎の単身赴任は、教育の代償と言ってよい。
それはさておき、構内の環境はたいへん整っている。
生徒数は中高合わせて約二千人、一クラスは三十人まで、特進クラスはその半分以下という少人数教育が売りである。
敷地は公立の農林高校ぐらいあり、学級棟の他に部活動や夏期講習などの大講義のための特別棟が五つ六つ立ち並んでいる。
緑化にも配慮されており、ツブラジイやダケカンバの生い茂る裏山を背景に、校舎の間には芝生の張られた庭があり、木目の美しいベンチが点在している。
昼休みになると瑞希はその庭をうろつき、それらしい人物についての噂に耳をそばだてた。
芝生の張られたベンチで談笑する中等部の女子たちがいれば、その近くにさりげなく立ち、図書館で借りて読みもしないシェイクスピア『マクベス』を開いたりする。
黙って立っていても、女の会話は噂話を提供してくれるのだった。
「ね、三好先輩って、葛城先輩と付き合ってるってホント?」
「あんた知らなかったわけ?」
「一年の時からほら!」
「え、去年の文化祭?」
「ジョージとエミリーやったでしょ!」
「あの、えーと……」
「ソーントン・ワイルダー『わが町』!」
舞台装置のほとんどない舞台で演じられる、アメリカ演劇の傑作とされる作品である。
高等部の生徒がこれを上演する文化祭もさることながら、この名前が中等部の生徒からぽんと出てくるあたり、倫堂学園のレベルは侮れない。
だが、瑞希は以上の会話から、中等部の2年生であることしか分からなかった。
今後、相当の苦労が予想される。
その自覚のない瑞希は、物怖じすることなく話に割って入った。
「あの、先輩?」
え、という顔で見上げる3人の2年生。
ここで不審人物になっていけない。
「私、三好先輩に憧れてここに入ったんですけど……」
おずおずと尋ねる。
生真面目で内気な1年生が思い切って見ず知らずの先輩を頼った、という風を装う。
もちろん、瑞希は「三好先輩」も「葛城先輩」も知らない。
判断できるのは、どちらも高等部の演劇部員で、交際の噂があるということだけである。
そこで瑞希は一方に憧れる下級生を演じてみせたのである。
当然のことながら、3人が3人、しげしげと瑞希を見た。
だが、きょとんとした表情に悪意はない。
しばしの沈黙の後、瑞希の手にした『マクベス』を一瞥した一人が「無理!」と微笑した。
最初に二人の先輩の名前を出した女子である。
いきなり劇やっても、と付け加えたうえで、ボケてみせた。
「あたしが無理なんだから」
何言ってんの、と両脇から突っ込まれたところで、ようやく話題の恋人たちの性別が明らかになる。
瑞希は、なおも芝居を続ける。
「そんな! じゃあ、葛城先輩って、どんな人なんですか?」
三人が三人、それぞれに深いため息をついた。
やがてひとつひとつ事実を挙げ、憐れみを込めて口々に瑞希の身の程知らずをたしなめる。
だが、決して見下してはいない。いい先輩たちだった。
瑞希はいちいち頷いてみせる。
下級生に教えを垂れているという満足感からか、聞きもしないのに欲しい情報を次から次へと投げ与えてくれる。
放っておけばいくらでも引き出せそうだったが、空気を全く読もうとしない一人の少年によって、それはいとも簡単に破られた。
「忘れ物」
瑞希が振り向くと、そこには長身の目立つ玉三郎が立っていた。
視界の外でいささか険しい声がたしなめる。
「あなたね」
瑞希が再び振り向くと、今度は先輩方が眩しい笑顔で立ち上がっていた。
ただし、その表情は強張っている。
一人が言った。
「目の前の幸せを大事にしたほうがいいんじゃないかしら」
明らかにトゲがあった。
遠回しな言い方であったが、言わんとすることはそれほど難しくない。
瑞希はしどろもどろに否定した。
「ち、違います、こいつは……」
弁解は届かなかった。
それじゃ、と、一人ひとりがその場を離れていく。
一人は瑞希たちに背を向け、一人はわざと玉三郎と瑞希の間を通りかかった。
最後の一人はすれ違いざまに、瑞希の肩を叩く。
ま、頑張って、と。
それを見送った玉三郎は、目を吊り上げて睨み付ける瑞希に、その腕に抱えた大きな紙袋を差し出した。
「何これ?」
中を覗きこんだ瑞希は、そこにあったものと同じくらい赤くなった。
真っ赤なランドセルであった。
慌てて紙袋ごとひったくると、玉三郎は「気にすんな」と笑った。
「してない!」
甲高く叫ぶ瑞希であるが、これはどう見ても強がりである。
「気づけよ」
玉三郎は真顔で突っ込んで見せて、再び笑顔を見せた。
瑞希の完全敗北であった。
更衣遁走術は、人混みの中を逃走する際に、誰にも気づかれずに変装をしたり解いたりする技である。
人目を気にして走りながら衣服を着脱するには、俊敏さや器用さの他にたいへんな集中力を要する。だが、一般人が相手なら、いかにあられもない姿であっても見られてはいないという余裕が生じる。
一方、男に見られていると思えば、たとえ靴下一枚であっても、13歳の少女が心静かに脱いだり着たりできようはずがない。
その上、兄が正門に着くタイミングで弁当を届けなければならないとなれば、私服を隠した邪魔なランドセルが消えるのは願ってもないことである。
朝から情報収集のための隠密行動で頭が一杯だった瑞希が恥ずかしいランドセルのことを思い出せなかったとしても、それは無理もないことであった。
「じゃあ、後で」
袋を手にうつむく瑞希を尻目に、見事ライバルを出しぬいた長身の少年忍者は足取りも軽く、見る間に校舎の間へと消える。
もはや、瑞希が傷ついたプライドを癒すには、あの上級生たちの言葉を思い出し、吉祥蓮の忍者として精一杯の情報分析をするしかなかった。
葛城亜矢。17歳。
倫堂学園高等部2年。
才色兼備かつ冷静沈着、頭脳明晰な模範生徒。
演劇部では1年生の秋に、文化祭公演でソーントン・ワイルダー『わが町』のエミリーを演じ、その可憐さで高等部の男子生徒の心を鷲掴みにした。
現在では、癒し系のおっとり型お姉さんとして、中等部男子にも人気が高い。
学園内には隠れファンクラブまであるという。
以上を踏まえて、瑞希は次の結論を下した。
「できれば、やめといたほうがいいと思う……今後の身の安全のために」