シーン3 遠いようで近かった鳩摩羅衆の存在(前編)
倫堂学園の入学式は、高等部の翌日が中等部である。
これは、高等部と中等部の共有棟にある講堂でおこなわれる。
瑞希の母は2日連続で防虫剤臭い一張羅を切る羽目になったわけだが、瑞希は瑞希で大変であった。
原因は冬彦にある。
倫道学園は厳格な学校で、校則も細かく定められていたが、入学してくる生徒は学力もモラルも高いため、それほど不自由を感じてはいなかった。
さらに儀式も古風で、体育祭でも文化祭でも、なにかにつけて上級生と下級生の結束(本当にあるかどうかはともかく)が強調される。
その最初が、入学式翌日の宣誓式だ。
新入生総代が、生徒会入会にあたって校風を守ることを誓うのである。
更に、上級生が学級別に新入生ひとりひとりと並んで立ち、生徒手帳を交換して互いのメッセージを書くのだ。
従って、入学式では生徒手帳の携帯が徹底的に指導されたわけだが、こういうときに蹴つまずくのが冬彦である。
この日ばかりは弁当を忘れることはなかったが、持ち慣れない生徒手帳は自宅に置き去りにされた。
気づいたのは本人ではなく、妹の瑞希である。
無論、高等部の行事など知ったことではない。
ただ単に、入学式後、教室で最初のホームルームを終えて保護者と受ける講堂オリエンテーションで生徒手帳の話が出たとき、出掛けに玄関で見たことを母の一葉に告げたまでである。
「あれ、お兄ちゃんのだよね。何であんなところに?」
「昼から何か先輩に書いてもらうから忘れないようにって言ってたんだけど、いらないのかな」
それを聞いただけで、瑞希は席を立つや一言だけ母に言い残した。
「あと聞いといて」
世話が焼けるんだから、とつぶやいて、瑞希は入学式によくある「気分を悪くした新入生」として、講堂の二つある大扉の一歩をそっと開けると、音もなく走り出した。
無人の廊下を全力疾走する瑞希が向かう先は、自宅に他ならない。
片道30分だから、往復1時間。
冬彦が「何か書いてもらう」のがいつかは分からないが、まだ昼前だ。
螺旋状になっている広い階段を駆け下り、玄関を出ると左右対称の花壇をはさんだ広い道を抜けて正門を出ることができる。
中等部は入学式、高等部は授業中で、敷地内には誰もいない。
郊外の昼下がりのこと、校門の外は人っ子一人通る者はない。
だが、敷地の外へ出てゆくその途中で、すぐ隣に追いすがった者がいた。
ふ、とわざとらしく鼻で笑って耳元で囁く。
「その技……飛燕九天直覇流鬼門遁甲殺到法『旋風』だな!」
ぎくりと表情をを強張らせた瑞希だったが、横目でその少年を一瞥しただけで、足を止めることはなかった。
「アンタ……私が見えるの!」
全く同じ速さで疾走しながら、少年は名乗る。
「覚えておけ! 鳩摩羅衆が一人、白堂獣志郎! 獣の志と書いてジュウシロウだ!」
「鳩摩羅衆だって!」
それまで鳩摩羅衆の存在は、母の一葉から聞かされていただけだった。
瑞希の驚きように、「獣志郎」は不敵に笑う。
「ここで勝負するか?」
「バカの相手は一人でたくさん」
冷たく言い放つや、校門を目前にして踵を返して逆走した。
一瞬遅れて再び隣を走る少年の振り切るように、再び反転して疾走する。
フェイントをかけられた鳩摩羅衆の少年忍者は、その場で立ち止まった。
ハイトーンの声が鋭く叫ぶ。
「まだ温いな、吉祥蓮!」
振り向きざまに、一本の鍼が放たれる。
だが、校門へ走る瑞希が一回転して投げた鍼も、一瞬遅れて獣志郎を襲った。
それを受けとめた獣志郎の手に、彼自身が投げた鍼が返ってくる。
瑞希が投げ返したのだ。
獣志郎がそれを受け取った次の瞬間、瑞希も戻ってきた鍼を指先一つで受け止めて、校門に達していた。
だが、風のささやきが瑞希の足を止めた。
……その忘れ物なら、学園内でどうにかなるぜ。
瑞希は息を詰めて、低い声で尋ねた。
「……なんで分かったの?」
「鳩摩羅衆だぜ、俺は」
気負って答える獣志郎は、得々と説明した。
保護者が帰らないのに入学生が全力疾走で校門を出るのは、その場で何か足りないものがあるからだ、と。
吉祥蓮の少女忍者を背中から冷ややかに眺めてつぶやいた。
「世話が焼けるな」
「誰が!」
挑発に乗るのは忍者として下策であるが、瑞希は一瞬で間合いを詰めてしまっていた。
「……飛燕九天直覇流鬼門遁甲殺到法『間殺』……」
興味深げに笑う獣志郎には答えず、瑞希は食ってかかる。
「別にアタシがドジったわけじゃないんだからね!」
「じゃあ、兄さん?」
白々しく天を仰ぐ。
桜の花びらが舞い散る空は抜けるように青い。
その空に、おそらくは忍者同士にしか聞こえない叫びが吸い込まれていった。
「何でそれを!」
背の高い少年は、小柄な少女を見下ろして、諭すように説いた。
この日は中等部の入学式。
高等部では生徒会入会のセレモニー「宣誓式」がある。
この学園で中等部に入った吉祥蓮の忍者が術を使ってまで取りに帰らなければならないほどの緊急性。
それは、高等部にいる兄か姉が午後の宣誓式で使う生徒手帳ぐらいしかない。
しかも、瑞希が言うには「バカの相手は一人でたくさん」。
姉妹でも同性なら相手にもするまい。
というわけで、鳩摩羅衆の読みは見事に当たっていたわけである。
自信たっぷりの推理は続く。
「入学生が上級生と手帳を交換して、互いにメッセージを書く大事なイベントだからな。午後は高等部の購買は休みで手帳は買えないし……」
みなまで言わないうちに、瑞希は獣志郎の喉元に鍼をつきつけた。
「どうにかなるのね? どうするか言わないと……」
一瞬でその腕をすり抜けた獣志郎は嘲笑った。
「お前には無理だな」
鍼の代わりに飛んできた鉄拳をかわすや、親指で学園講堂のある巨大な本棟をぐいと示した。
「俺にしか分からない。ついてこいよ」
忍者の歩みは早く、二人が本棟裏の非常階段を上がるまでには5分とかからなかった。
そのてっぺんには、ペンキの剥がれかかった鉄製の扉がある。
ドアの取っ手にある鍵穴に鍼を突っ込んで開けられないこともないが、万が一の場合、見とがめられる恐れがある。
こめかみを二度三度掻いた瑞希は、鍼を隠した懐に手を突っ込む。
すると、獣志郎は自分の懐から複雑に曲がった針金を取り出して渡した。
なにこれ、と眉をひそめる瑞希に、大仰な答えが返ってくる。
「鳩摩羅衆秘法『地獄極楽通行自由自在鍵』だ」
「長っ! 名前だっさ」
吐き捨てる瑞希など気にも留めないかのように、自慢げな説明が滔々と始まった。
まず、必要なものは講堂裏の倉庫にある。
扉は講堂から入るものの他に、外から入るものがもう一つあるが、今は使われていない。
そこからこの非常階段までには、ほとんど開かずの間と化した小部屋がいくつもある。
「全部通り抜ければいいんだけど、使った扉は……」
「全部閉めるわよ。万が一ってこともあるから」
そんなこと忍者の常識、と言わんばかりである。
もし、誰かが気づいたら一巻の終わりだ。
滅多にないことだけに、言い訳が利かない。
目立たずに行動するのは、忍術の基本である。
だが、「地獄極楽通行自由自在鍵」を瑞希につきつけた獣志郎が強調したことがあった。
「この鍵で開けた扉は、自動的に鍵がかかるんだ」
ふうん、と鼻先で返事をした瑞希は、相手の顔を見ていない。
それに気づいていないのか、鳩摩羅衆の忍者は異なる組織の相手に、力を込めて説いて聞かせた。
「倉庫の裏扉は、内側からも鍵をかけるようになってる。これをなくしたり壊したりすると……」
最後まで聞かず、瑞希は鍵穴に「地獄極楽通行自由自在鍵」を差し込んだ。
軽く動かすと、鍵の回る音がした。
話を中断して「ちょっと待て」と止める獣志郎を無視して、瑞希は扉の中に滑り込んだ。
内側から閉じた扉に自動的に鍵がかかって、ドアノブにある縦のツマミが横に倒れた。
「へえ、便利」
開けろ、という獣志郎に「閉めとかないと怪しまれるでしょ」とだけ言い残して、瑞希は人の気配がない、埃のかかった廊下を歩き出した。
黄色く変色した壁紙の途中に塗装の剥がれた扉がすぐに見つかった。
鍵を差し込むと簡単に開く。
そこは、壊れた机や椅子の積まれた物置だった。
扉を閉めると、再びかたりと鍵が勝手に回る。
次に入った部屋は、カビ臭い布団の積まれた部屋だった。
鍵を開けては部屋を次々に抜けていく。
古い額縁や掛け軸、理科の実験道具などの間を通って、瑞希は倉庫に裏扉から入ることができた。
壁沿いに高々と積まれた無数の木箱。
歴代の制服を着たマネキンが並び、古い教科書が巨大な棚にびっしり並んでいる。
校旗が壁にフック付きで何本も立てかけられた校旗。
伝統ある倫道学園の歴史が埃をかぶった、大机や彫刻の施された肘掛け椅子に大きな鏡。
その他、日の丸や校章のパネルなどがきちんと整理されて置かれている。
その隙間を迷路でも歩くように探し歩いた末、瑞希は革に似せたビニールの表紙に校章の押された生徒手帳が並ぶ小さな棚を発見した。
一冊取ってページをめくり、今年度のものであるのを確認する。
よし、と懐へ収めようとしたが、そこで事故は起こった。
薄暗い壁に一条の光が射したのに振り向いてみたところ、もう一つある講堂側の扉が開いていた。
瑞希がとっさに鏡の後ろに隠れて息を潜めていると、足音が近づいてきた。
気づかれることは、まずない。
なぜなら、気配を消すのは忍術の基本だからである。
さらに、薄暗い中で鏡に机や棚などが映れば、その場にあるものと勘違いしやすい。
だが問題は、何を持ち出したのかは知らないが、倉庫への用が済んだ人影が扉を閉め、鍵をかけてから起こった。
瑞希の用は、既に済んでいる。
セーラー服のポケットに生徒手帳をしまって、収納物の隙間を擦り抜けた先にある裏扉を「地獄極楽通行自由自在鍵」で開けようとした。
鍵は開かなかった。
針金を引き抜いてみたが、どうという変化はない。
というより、こんな複雑に曲がった針金をどうすれば鍵が開けられて、どうするとそれができなくなるのか、流儀の違う吉祥蓮の忍者に分かるはずもなかった。
おそらく、獣志郎が最後に警告したかったのは「使いすぎると出られなくなる」ということだったのだろうが、瑞希はそれを相手のせいにした。
「最後の扉だけは開けといてもいいでしょうが!」
全部閉めるというのは自分の判断なのだが、そこは棚に上げて、瑞希は次の行動に移った。
鍵穴に鍼を差し込む。
この鍼は独特の製法で作られており、ちょっとやそっとのことでは折れたり曲がったりしない。
古くは職人の道具であったクナイと呼ばれる刃物を手裏剣などにも使ったものだが、かさばる上に目立つので、吉祥蓮でも鳩摩羅衆でも鍼を使うようになったらしい。
だが、忍者としての技を使っても、鍵は開かなかった。
どうやら、鳩摩羅衆の「地獄極楽通行自由自在鍵」で開けた扉は、他の鍵を受け付けなくなるようだった。
違う流儀の忍法を中途半端に使うと、後始末ができなくなるといういい見本であった。
再び難儀をして、先ほど閉じられた扉を確かめてみた。
ツマミも鍵穴もなかった。
当然といえば当然のことで、裏扉から入って鍵をかければ、人を閉じ込めてしまわない限り表の扉を内側から開ける必要はないのである。
逆に言えば、設計者の想定外の行動をとった瑞希は、想定外の事態に直面したわけである。
つまり、閉じ込められてしまったのだ。




