シーン5 伝統ある倫堂学園演劇部の物語(前編)
ところで、話題となっている割に表舞台に顔を出すことのない三好藍について語っておかなくてはなるまい。
退学した頃にはすでに、葛城亜矢との関係も公認の事実だったが、入部当時の彼は違った。
浮いた話などひとつもない、純粋にパフォーミングアーツを愛する熱心な部員だったのである。
そんなわけで、それから1年間はひそかに憧れる女子も数知れなかったが、その分水面下の暗闘と牽制はすさまじかった。
女子の間のパワーバランスは国際政治よりも絶妙に機能し、誰一人抜け駆けする者はなかっのである。。
こうして無垢な美少年は恋を知ることなく、仲間たちと男女を問わず清らかな信頼関係を築くこととなったのだった。
一方、入学当時の葛城亜矢はといえば、まさに掃き溜めにツル、もっと修辞を利かすなら、不毛の荒野に舞い降りた熾天使ともいうべき美少女であった。
初めて部室に入ってきた瞬間、部員はおろか顧問にいたるまでが息を呑んだ。
流れるような黒髪の少女は、倫道学園の制服のデザインが本来持つ意味「燃えるような(ブレザー)」を、その紺色の生地にもかかわらず醸し出していた。
それでいて、立ち居振る舞いは常に清楚で冷静だったのである。
彼女に対しては、入学当時の三好の場合の女子と同様に、男子の間で「抜け駆けなし」という暗黙の紳士協定が結ばれた。
女子の間なら多少のやっかみがありそうなものであるが、亜矢については「張り合うだけムダ」という空気が流れた。
下手に喧嘩を吹っ掛ければ逆に男女を問わない集中砲火を浴びかねない有様だったのである。
つまり、葛城亜矢は部室に足を踏み入れた瞬間から、メンバー全員の崇拝を受ける立場になったのであった。
それが全校にまで広がったのは、去年の秋に文化祭でソーントン・ワイルダー『わが町』を上演したときである。
伝統ある倫堂学園高等部は演劇部も古い歴史を誇り、かつては全国大会を制したこともある。
現在でもそれなりの実力はあるのだが、時代が下ってくると大会の出場校も増え、メソッドも普及したために他校の後塵を拝することとなって久しい。
だが、少子化が進んで私学が生き残りを図るようになると次第に学力が重視されるようになり、大会結果もそれほど問題にされなくなっていった。
かくして、倫堂学園高等部の生徒たちは毎年、実力ある部員たちが学業の合間を縫って丹精込めた舞台を堪能できるというわけなのであるが、それを支えるのは3年生引退後の後輩たちであった。
引退といっても、3年生にとってはこれが最後の公演となる。
その大切な公演にあたって、三好は日ごろの鍛錬によって鍛え上げた体躯と磨き抜かれた表現力で、農場主ギブス家の息子ジョージ役に抜擢された。
大学進学を目指す野球少年の役どころである。
一方、亜矢はその相手役であるエミリー役に選ばれた。
エミリーは地元新聞編集長の娘である。
ジョージとは家が隣同士で、幼いころから部屋も向かい合わせということになっている。
この可憐な少女は、プロの劇団でも看板となる新人女優が演ずることが多い。
ジョージ役を演ずる方にしてみれば、願ったり叶ったりというところだ。
ところが、この亜矢を前にしたプロポーズのシーンになると、三好は萎縮した。
当然、そのたびに稽古は止まる。
「おい、ジョージ!」
その頃、三好を役名で怒鳴りつけていた演出担当も、今の部長である。
面倒見の良さが買われ、引退する3年生から部長を任された彼は、入部当初から三好のよき相談相手であった。
「何だよ」
渾身の力を振り絞って、亜矢の演じるエミリーの前で人生最大の選択をしていた三好は不貞腐れる。
「ちょっと休憩。ごめんね亜矢ちゃん……おまえちょっと来い」
まぶしい笑顔で小さく手を振る亜矢をステージに残して、部長は稽古場のある校舎から出て、秋だというのにまだ蝉の鳴く外へ三好を引きずっていく。
この措置は、演出のダメ出しに役者がキレたときによく使われる。
人のいないところで罵詈雑言を浴びせるための手段である。
三好はそうそう逆上する性質ではなかったが、よく話を聞いてくれる部長に甘えることは多かった。
稽古場の規律を保つのも演出の仕事であるから、他の部員の前では相当に怒っているように見せかけることも必要なテクニックだったのである。
実際のところは、そこらにしゃがんで休憩時間いっぱい脱力トークが続く。
まず、情けない声でぼやくのは部長である。
「悪いけどお前、下手」
「うわ、直球」
「回りくどいのイヤなんだよ、時間ないし」
「はい、稽古」
ふざける三好に覆いかぶさるように立ち上がって、部長は凄む。
「話聞けコラ」
はい、と小さく頷く三好は小首をかしげて部長を見上げる。
「お前がやっても可愛くない」
そこでダメ出しがくどくど始まった。
内容は、最後の一言でまとめられる。
「幼馴染に恋してない」
「だって葛城は」
そこで言葉に詰まった三好の肩を、部長はぽんと叩いた。
「分かる。言いたいことは分かる。確かに違う。すでに違う」
本来なら、無垢な心を持つが故に子どもっぽいジョージは、それにいら立つエミリーに罵倒され、男としての決断を迫られる立場である。
だが舞台上の三好は、声を張り上げて怒鳴り散らすやんちゃ坊主でしかなかった。
それは、葛城亜矢の放つ、厳しくも妖しい霊気に圧倒されまいと強がっているようでもあった。
いわゆる高嶺の花についての不毛な会話も途切れ、男2人がうなだれてしゃがんだまま、時間だけが過ぎていく。
三好は深い溜息をついて、「悪いな」と立ち上がった。
「ま、気楽にぼちぼちいこうや」
そう答える部長は、わざとらしく右へ左へ身体をふらつかせながら稽古場へ戻る三好の頭をつかんでまっすぐに歩かせた。
やがて同じシーンが再開されたが、葛城亜矢はともかく、三好は相変わらずだった。
そんなある日のこと。
その日も、何の解決もないまま部長のダメ出しは繰り返された。
重苦しい雰囲気の稽古を終えて、三好は暗い帰り道を一人で歩いていた。
公演まで、1週間を切っていた。
セリフは完璧に入っていた。
だが、覚えたセリフを動作付きで間違いなく暗唱するだけでは、学芸会とそう変わらない。
入学当初から、倫堂学園高等部の演劇部ではそのポリシーを叩き込まれる。
人一倍、それを守って真剣に取り組んできた三好が、決して寒くはない初秋の夜道で肩をすくめて歩くのは、無理もなかった。
そこへ、亜矢が追いすがってきたのである。
「センパイ!」
それは、学校では絶対に聞くことのない嬌声だった。
後ろから飛びついたとき、その夏服のブラウスを突き上げる豊かな胸は、三好の背中に押し付けられる。
それは、三好にとって生まれて初めての感触だったろう。
「か、葛城?」
三好は夜闇にも分かるほど真っ赤になって、亜矢を振りほどこうとする。
だが、悩める上級生の首に巻き付いたしなやかな腕は、もがけばもがくほど締まっていく。
さっきとは別の意味で真っ赤になった三好は呻く。
「ぐるじい」
その耳元で、亜矢は囁いた。
可愛らしい唇が、ラベンダーの甘い香りと共に微かに耳をくすぐった。
その吐息は、微かな声でこう告げた。
「エミリーは、ジョージを待ってます」
茫然と立ち尽くす三好の首から、亜矢の腕が白蛇のようにするりとほどけた。
身じろぎひとつできない少年を、長い黒髪の少女が追い越す。
夏服の背中が、闇の中へ溶けるように消えていった。
その次の日からである。
三好がジョージとして、亜矢の演ずるエミリーに「進学も野球もやめて、君と結婚したい」と告げられるようになったのは。
文化祭公演は終わり、三好藍と葛城亜矢は会場の大喝采を浴びた。
普段はお互いを牽制しあっていた隠れファンたちも、この日ばかりは無礼講とばかりに、二人への積極的なアプローチを試みた。
文化祭の喧騒が静まっても、学園内にはしばらく、三好や亜矢と共にスマートフォンやデジカメで取った画像がサイバー空間を通じて飛び交ったのである。
亜矢の可憐さや演技力もさることながら、生徒も教員も保護者も驚嘆させたのは三好の演じるジョージのリアルさであった。
特に、エミリーへのプロポーズには多くの女生徒が胸をときめかせた。
さらには幕切れで、老いたジョージが夭折したエミリーの墓の前で泣き崩れるシーン。
切ない雰囲気と、舞台上に出現した世界のはかなさに、客席のあちこちからすすり泣きの声が聞こえた。
三好の演技にそこまでの真実味を与えたのは、初めて知った恋であったのはいうまでもない。
そして、公演後の部室で打ち上げが行われ、一同が散会するのを待って、三好は亜矢を校舎の屋上に呼んだ。
モニュメントや垂れ幕の撤収が終わって、山の端に沈む夕日の最後の光が、裏山のダケカンバやツブラジイの枝葉を一瞬だけ朱に染めて消える頃だった。
三好は亜矢に、励ましの言葉を聞いたあの夜から秘めてきた思いを伝えた。
「ありがとう。君のおかげだ」
「……私、そんな」
亜矢はうつむいた。
言葉が続かなければ一生後悔すると言わんばかりの勢いで、三好はまくしたてる。
「あの時、分かったんだ」
「……何が、ですか?」
昼間の公演からは考えられないようなたどたどしい言葉が、つっかえつっかえ尋ねた。、
薄青い闇の中で、彼を見つめているであろう表情はよく見えなかった。
それがかえって良かったのかもしれない。
まっすぐ見つめ返されていたら、三好は何ひとつ話すことはできなかっただろう。
だが、かなり回りくどい、言葉の上で行きつ戻りつする、長い長い告白がようやく終わって短い沈黙が二人の間を通り過ぎた後。
亜矢は微かに頷いた。




