シーン1 お好み焼きとストーカー
そして週明け、月曜日。公演は週末である。
図書館から眺めた稽古の様子が和やかだったのに加えて、玉三郎がちょっかい出してくることもなかったので、瑞希は特に何をすることもなく早い時間に帰宅した。一葉は、まだパートから帰っていなかった。
「さあ、これからまだ特訓だからね」
と言いながら一人で待っていたが、1時間待っても2時間待っても冬彦は帰ってこない。
ちょうど一年前も、こんなことがあった。
冬彦くん中学3年生の秋のこと。
ある日曜日、無言で家を出た冬彦は、日が沈んでも帰らなかった。
冬獅郎と話し合って決めた家庭での教育方針として、携帯電話もスマートフォンも持たせてはいないので、一葉はたいへん心配した。
吉祥蓮のネットワークを駆使した結果、他県の山奥にある大学のキャンパス内でそれらしき姿を見たという情報が得られた。
流石に一葉も己を失い、現場に急行しようとしたが、これを瑞希が止めた。
これまでの冬彦の行動パターンから、何が起こったのか察しがついたからである。
「何らかの事情で女子大生に惚れて会いに行ったが、それが叶わず、帰る手段も失って途方に暮れている」
こう考えて「迎えに行く」と言い出した瑞希を、今度は一葉が止めた。
まだ小学6年生の女の子を夜遅く、他県の山奥に遣るなど危険極まりないことであった。
だが、瑞希はこう説いたものである。
「お兄ちゃんはもう15歳よ。それなりに意地も見栄もあるわ。これで子どもみたいに母さんが迎えに行ったら、きっと傷ついて立ち上がれなくなる。でも、勝手に探しに来た私を連れて帰るんなら、まだ面目が立つはずよ」
そして、最後の一押しはこの一言だった。
「大丈夫。あたしは吉祥蓮の女よ」
数時間後、日付が変わる直前に瑞希を「連れて帰った」冬彦は、一葉の叱責に「大学見学に行ったら、帰りのバス代が足りなくなった」とだけ答えた。
初めての反抗に一葉も戸惑ったが、「男の子には言えない秘密があるものだ」という点で瑞希と長期出張中の冬獅郎の意見が一致していたので、それ以上追及することはしなかった。
それ以来、冬彦が家族に隠し事をすることはなかったが、事情が分かったのは、瑞希と一葉が独自に収集した情報を総合してみてからである。
「教育実習に来た美しく優しい女子大生のことが忘れられず、学部と所属サークルの名前だけを頼りに大学まで会いに行った」。
抜けているようで、恋のためなら時々こういう思い切った行動を取るのが菅藤冬彦という少年である……。
その上、雷が鳴ってすさまじい夕立になったので、瑞希はその日の役割を終えたセーラー服を再び着て、傘を片手に、兄の傘をもう片手に、学園へと急いだ。
暗い雲の下、叩きつける雨の中を急ぐ瑞希が聞き覚えのある声の談笑に足を止めたのは、それから間もなくのことである。
近所にある広島風お好み焼き屋「カバチタレ」。
店に一歩足を踏み入れると、そこにいたのは冬彦と玉三郎だった。
よお、と手を挙げて挨拶する玉三郎に、瑞希はつかつかと歩み寄った。
「たーまーさーぶーろー!」
「俺の事は獣志郎と……」
「たまさぶろーをたまさぶろーといって何が……」
他の客のもはばかることなく怒りに震える妹を、割と冷静に冬彦がなだめる。
「知り合い?」
「お兄ちゃん、なんでこいつと」
「いや、今日、帰りに芝居のことで話が盛り上がっちゃって。詳しいね、白堂君」
「そこでいきなり道草食ってお好み焼き屋入る、フツー?」
「まあまあ、ここは仲良く豚玉でも」
「おにーちゃん!」
怒りの矛先を向けられて、冬彦は縮み上がった。
「何かまずい事でも?」
「太るとか?」
茶々をいれる玉三郎を、瑞希は鋭く睨みつける。
「おだまり!……いい加減にしてよ、お兄ちゃん!」
かわりばんこに当たり散らすやかましい女子中学生に、店のおっちゃんは空気も読まず「ご注文は?」と声をかける。
「いりません!」
ずかずかと店を出る瑞希を追いかけて、冬彦は自分の食べた分をきっちり払って暖簾をくぐった。
その後ろから、玉三郎は「またね、お兄ちゃん」と声をかける。
小降りになった雨の中、不機嫌な妹から無言で傘を渡された冬彦はおずおずと言い訳する。
「たまにはいいだろ?」
並んで歩く兄の顔も見ないで、「しょっちゅうでしょ!」と瑞希は切り捨てる。
弁解はなおも続く。
「息抜きもたまには……」
怒りを抑えた低い声が遮った。
「1日やれば、1日分鍛えられるの。1日休むと、10日分の稽古が無駄になるの!」
幼いころから一葉に繰り返し聞かされてきた、飛燕九天直覇流奇門遁甲殺到法の極意である。
だが、それは冬彦の理解を超えていた。
「何その体育会的な非論理的計算」
「うるさい!」
歩を早めて先へ行く瑞希を、冬彦は片手の傘をふらつかせながら、もたもたと追いかけた。
その様子を遠くから見つめている影があることに、この兄弟は気づいていない。
降りしきる雨の中、男物の黒い傘を差した長い髪の少女である。
誰かを待っているようでもなく、ただひとり佇む少女。
だが、その唇は、帰りを急ぐ人々が通り過ぎるたびに小さく動いている。
まるで、言葉を交わしているかのように。
いや、雨音にかき消されてはいるが、時折こんな会話が微かに聞こえなくもなかった。
……あの程度の男か……。
「充分よ、穴埋めには」
……なぜ、あの男を……。
「最初のがドロンしちゃってね、せっかく育てたのに」
……おぬしの務め、分かっておろうな……。
「ここに足場を作れっていうんでしょう、早いところ」
……己の仇は己で取るのだぞ……。
「こっちこそ願い下げ。手出し無用」
……敗れし者に在処なし。覚えておろうな……。.
「くどい」
雨脚が強まったせいか、話す声も、それに応える声も聞こえなくなっていった。
やがて、瑞希と冬彦の姿は夜の闇に溶けて消える。
その頃には、少女の影もいずこかへ失せていた。




