俺と親友、たまに焼肉
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どこで聞いたのかも、誰が言っていたのかも定かには覚えていない。
――焼肉を二人で食べている男女は、デキている。
という、都市伝説にもならないような、根も葉もないこんな噂。
だってほら、今俺は向かいに座る色気のない女となんかデキてない。
友人との食事、メニューの一つとして焼肉を選び、こうして向かい合って網を挟み、肉を焼いて食う。それだけだ。
小さな個室に、掘り炬燵、心地良く効いた空調、BGMにはお洒落なジャズ。個室の入り口にはわざわざ朱色の麻布で出来たカーテンが引かれている。
こそこそ隠れて肉を食う必要がどこにあるのだと俺は思うが、この町家風・隠れ家的な焼肉屋は、清潔感があってお洒落という理由で女性客には人気があるらしい。
別に俺は肉が食えて冷えたビールが飲めりゃ、どんなに汚い店でも十分なのだが、今日はこの女が目をつけていたという小洒落た焼肉屋に連れて来られた。
「んで?何で今日はそんなに機嫌悪いのさ」
「あ?俺が?」
「あんたね、ものすごく気分が顔に出やすい質だっていうことを、そろそろ自覚したほうがいいよ」
「……うるせーな」
「あ、すいませーん。ハラミもう二人前追加で」
「かしこまりましたぁ」
カーテンの向こうに店員の気配を察し、呼び鈴があるのにその場で注文をしているこの女は、大学時代の同期である。さばさばとした男っぽい性格のせいか話が合ったため、互いに何でも腹を割って話せる親友として、四年間何の間違いも起きないまま今に至る。
名前は桂吉乃、現在二十八歳独身。
そして俺は吉澤颯、同じく二十八歳独身。
「彼女と喧嘩した?それとも結婚でも迫られた?」
「彼女ねぇ。ここ三ヶ月くらい連絡とってねーし、もう別れてんじゃない?」
「何だそりゃ」
分かっている。俺が不機嫌なのは、あの先輩が勝手にまた俺から離れていってしまったからだ。
死んだ恋人の娘を養子にしようなんて言い出したかと思えば、親になるならしっかりしなくちゃと一人で決意し。俺の気持ちなんかお構いなしで、気まぐれに去って行った大学の先輩。ちなみに性別は、男。
「春木先輩のことか」
「……何で分かるんだよ」
「分かるよぉ、だって酔うとあんたいつも先輩の話するし。何年前だっけ、急に連絡取れなくなったとかで、しばらく荒れたじゃん?」
「ばっかやろ、荒れてなんか」
「今も荒れてんじゃん」
と、吉乃は俺に構わず肉を食らいつくしながらそう言った。俺は慌てて、網の上に残っていたヒレ肉を箸でつまむ。
「お前さ、何でこうあっさりした肉ばっか選ぶわけ?まぁどうせカロリーがどうとか、太るからとか、翌日の胃の具合が……とか言うんだろうけどさ。それなら焼肉屋来なきゃいいだろ」
「何言ってんの、これは前菜みたいなもん。これからが本番。すいませーん。特上ロースと、厚切りカルビ、あとこの極上豚トロ、全部四人前ずつね。あ、豚トロは塩で。はーい、よろしくー。あ、あとビールお代わり。颯も?」
「あ、うん……」
そうだった、こいつはこういう女だ。
ぱっと見はそこそこに細いのに、大食漢。学生時代は柔道四十八キロ級の選手だったためか、代謝がすこぶるいいのだろう。
酒はビールに始まり日本酒、ワイン、焼酎という無節操極まりない飲み方をする癖に、酔わない。見ているこっちが二日酔いになりそうな飲み方を平然とする女だ。
――春木先輩のほうが、しとやかだよな。
すぐ赤くなって、目尻のほくろが艶っぽく見えて、とろんとした目つきが妙にエロくて……。
なんてことを思った自分に、俺はまた無性にイラッとした。
「あー、くそっ!!」
「何だよ、うるさいね」
「そうだよ、春木先輩だよ。またどっかに消えやがったんだ」
「あーらら。でもあんた、先輩のことはセフレだって本人に言ったんでしょ?だから先輩も、後腐れなくあんたを利用できたわけじゃん?」
「利用って……」
まぁ、その通りかもしれない。
俺は、普通の人生を歩みたい。男も女も、その気が湧けばどっちともやれるけど、最終的には女と結婚してごく普通の家庭を築き、一般的な道を外れることなく歩きたいわけだ。
仕事の上でも、家庭を持っていればそれだけで人間としてきちんとした男に見られるし、世間体も気にならない。いつまでも独身でいるつもりはないから、三十過ぎて付き合った女とは結婚しようと思っている。
だから男とのセックスは遊び。そう決めていた。
なのに、何でこんなに春木先輩ことが気になるんだ。
「あのな、俺は誰とでもやるような尻軽男じゃない」
「は?何言ってんのいきなり」
「相手は選ぶんだぞ。女だって、男だってそうだ。誰とでもやれるわけじゃない」
「知ってます知ってます。てかそれが、普通だし」
「春木先輩は、俺のことを誰とでもやるやつだと思ってるんだ。だからあんなにあっさり」
「そりゃー"先輩はセフレですから"なんて言っちゃったら、相手はそう思うんじゃない?」
「だってほら、付き合うわけじゃないしさ、そう言えば気軽に会ってくれるかなと思ったんだよ」
「馬鹿だなー」
高校生三年の夏、引退後に陸上部の後輩に迫られた。
長距離選手だったその後輩は男にしては華奢で、いかにも美少年という綺麗な顔立ちをしていたから、気持ち悪くはなかった。怖いもの見たさでやってみたところ、そこまで興奮はしなかったけど、やれることはやれた。
相手は滅茶苦茶喜んだし、付き合ってほしいとも言われた。
でも俺は普通でいたかった。だから断った。何が悪い。
先輩のことは、一目見てそっち側の人間だって分かった。雰囲気といえばいいのだろうか。俺に迫ってきたその後輩と、同じ匂いがしたからだ。
でも先輩は、どうもそれを隠そうとしているように見えた。
優しくていい先輩だ。頭が良くて、ここぞって時はなかなか頼りになったし、話もよく聞いてくれて信頼出来た。
華奢な身体に色白の綺麗な肌、長い睫毛に縁取られた二重瞼の大きな目、やたら色っぽい泣きぼくろ。童顔で小柄だから、最初は同級生かと勘違いしていたから、四つも年上だと知った時は驚いたもんだ。
近くに来られる度、ちょっとどきどきした。いい匂いがした。この人に頼まれたら、俺は喜んで相手になるのになぁと思いながら、先輩を見送った卒業式。
その一年後にゼミ飲み会で再会。疲れ果てている先輩のスーツ姿に、無性にむらむらした。酒に弱いのを知ってて、俺はがんがん先輩にビールを飲ませた。
そして、俺はお持ち帰りに成功した。
二十三歳にして、ファーストキスだったらしい。散々俺に唇を舐め回されたあと、先輩は頬を熟れた桃のように火照らせながらそう言った。
そんな告白をわざわざしてくる先輩が可愛くて、興奮しまくった。そして俺は当然のように初セックスもいただいた。
大学では決して見せることのない表情を、俺だけが見ている。こんなにもエロい先輩の顔、声、身体……知ってるのは俺だけだ。そんな状況にも、興奮した。
そして、俺は手に入れた。
優しくて、皆に愛される春木先輩の秘密を。
あのおっさんの話は、聞いたことがある。
幸せそうに話をする先輩を見ていて、何だか無性に苛立ったから、あまり深くは聞いてないけど。
二年間のセフレ関係の後、先輩は俺の前から消えた。おっさんと上手く行ったんだろう。めでたいことだが、それが無性に寂しくて苛立って、まるで俺が捨てられたみたいな気分になったもんだ。
そしてその七年後、先輩は再び俺に抱かれにやって来た。あの頃と少しも変わらぬ、若々しい姿のまま。
変わったことといえば、本気で愛した相手を失って、空っぽになっていたということくらい。
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気付けばジョッキが机の上にずらりと並んでいる。肉の味だけではなく、じゅっと脂が焼ける小気味いい音と、鼻をくすぐる煙の甘い匂いで食と酒が進む。
カルビから溢れた透明な脂が、網の下で弾けた。炭の中で燻っていた小さな炎に命を注ぐように、めらめらと燃え上がるオレンジ色に、目が眩む。
景気よく燃える火を見つめながら、俺は改めて実感した。
「あぁー、先輩、会いてぇなぁ……」
「お、ようやく本音が」
「だってさぁー、可愛いんだよ、あの人。お前なんかよりずぅ――っと」
「腹は立つが、それは私も同意見。女子も憧れてた子多かったもんなぁ」
吉乃は焼酎のグラスを傾けながら、遠い目をしてうっとりしている。中身は勿論ロックだ。
「お前が知らねーような春木先輩の顔、俺いっぱい知ってんだからな、どーだ、羨ましいか」
「はいはい。羨ましいよ」
二人で会う時は、必ず俺の家。先輩は照れ屋だから、必ず少し酒を飲ませて、リラックスさせて。
目元を赤くして瞳を潤ませ、こっちを見て恥ずかしそうに笑う先輩にキスをして、あとは俺の好きなようにさせてもらって。
「あーくそ、やりてー」
「私はお断り」
「ばっかやろ。こっちこそお断りだ」
「そんなに好きなら、何であっさり手放したのさ」
「だってさ、死んだおっさんのこと、いつまでもいつまでも引きずってさ。挙句、そのおっさんの娘養子にして育てようなんて、どんだけ好きなんだよ。もうおっさんだぜ?もうすぐ五十のおっさんをだぜ?」
「それが悔しいわけ?」
「だってさ、死んだ奴には敵わねーよ」
だんっ、とテーブルが揺れる。
びっくりして顔を上げると、吉乃が机にグラスを叩きつけた音だった。
下から掬い上げるように睨めつけてくる実花の三白眼に、ぎょっとする。
「ったく優しく聞いてりゃ情けないことばっかり!!こんな男だから、先輩もあんたを見限ったんだわ!」
「はぁ?どういう意味だよ」
「そのおっさんとやらに拘ってんのはあんたも一緒じゃない。ちゃんと先輩のことを見てない気がする」
「え?」
「そのおっさんを亡くした先輩が、もう一回会いに来たとき、その悲しみに向き合ってあげたの?」
「……いや」
……やっぱり俺のところに戻ってきた。慰めてほしいなら、いくらでも抱いてやろう……みたいなことを、考えた気がする。
そして、相手が死んだのだと聞いた時、これで先輩は俺だけのものになった……なんてことを考えた。
――なかなか、最低だ。
「これから親になろうっていう先輩のこと、励ましてあげた?」
「いや……」
「あのさ、先輩は先輩なりに、そのおじさんが亡くなったこと受け入れて、娘さんと一緒に先へ進もうとしてるんでしょ?」
「……あ」
「先輩のこと好きなら、何でそこを応援してあげようとか支えてあげようとか、思わないのよ」
「……」
「あんたは自分のことばっかり。自分から人にやさしく出来ないガキ」
「……ぐぬ」
返す言葉もない。
「普通に生きたいのは分かるよ、私もそうだもん。でも、ただここで私相手にぐちぐち愚痴ってるだけなんて、みっともなさすぎ。その亡くなったおじさんにかなうわけないわ」
ぐうの音も出ない。
先輩の春風のような笑顔が、目の前をかすめてゆく。
ぬるくなったビール。ジョッキの縁に残った泡。
――颯が羨ましいな、男女問わず好きになれるなんて器用なこと、僕にはできないから……。
そんなことを言って、腕の中で悲しげに微笑む先輩。
――うわっこれ、酒じゃん!!水じゃないじゃん!馬鹿!
唯一先輩の飲めるアルコールは、ビール。
ふざけて日本酒を飲ませた時、予想以上に怒られたっけ。
――どうした?仕事でなんかあった?
仕事でトラブった時、悔しくて情けなくてどうしようもなかった夜。呼び出した先輩と、玄関でそのままやった。ちょっと乱暴に。
でも先輩はそんな俺に付き合って、落ち着いた後で話を聞いてくれた。
励まして、勇気づけてくれた。
春木先輩……。
俺は、ふらりと立ち上がる。吉乃の怪訝な眼差しを感じながら、俺は言った。
「電話して、謝る……」
「そうしな」
「……また会ってもらえるように、頼んでみる」
「うむ、それがいい」
吉乃はくいっと焼酎を煽り、男らしく拳で口を拭った。
「ついでにここ、颯のおごりね」
「……まぁ、今日は仕方ねーか」
「そうっしょ?感謝しなさい」
「はい。ありがとうございます」
「うむ」
吉乃は満足げに笑い、またドリンクメニューを開いている。恐ろしい女だ。
俺は店の外に出て、深呼吸。梅雨時の湿った空気と排気ガスの入り混じった現実的な匂いが、俺の酔いかけた頭をしゃんとさせる。
俺はスラックスのポケットから黒いスマートフォンを取り出し、緊張から微かに震える指で、先輩の名前をタップした。
終
*09/28 諸事情により、親友桂さんの名前を吉乃に変更しました。