第九話 青い瞳(後)
1
夜の公園の中で篠崎八潮は、その場の気温が一気に数度下がったような感覚に襲われた。
カルラは携帯電話を片手に持ちながら、ゆっくりと八潮たちのもとへ歩み寄ってくる。頬をひくつかせた佐々森忠成がベンチから立ち上がり、よろけるように後ずさる。
佐々森から意識を逸らすことなく、カルラは八潮とタマメに冷たく言葉を投じた。
「何故お前たちがここにいる」
通話状態の端末から老人の声が流れる。
『どうした、カルラ』
「佐々森が『竜』と接触しています」
数瞬の沈黙の後、声が問う。
『つまり公安もいるのだな』
カルラの姿を見たのか、慌てて無線でどこかへと連絡を取っている公安職員を視界の端に捉えながら、彼は短く答える。
「はい」
『……佐々森と『竜』を殺せ。だが深追いはするな』
「御意」
そこで通話は終了した。カルラが端末をコートの内ポケットに収める。再び現れた右手には抜身の刀が握られている。
公園の中にエンジン音が響いた。数台のワンボックスタイプの車両がタイヤを唸らせながら近付いてくる。明らかに民間人のハンドルさばきではなかった。
カルラがポケットから小さな笛を取り出して口にくわえた。その笛のデザインに見覚えのあるタマメが眉根を寄せる。
正確なリズムで息を吹き込まれた笛から発せられた、可聴域から外れた音の連なり。それらは『命令』となって、速やかにあるシステムを起動する。
断続的な地響きが轟き、何物かの気配が暗闇の奥から飛び出してきた。
車両の進行方向を塞ぐように出現した巨大な『人型』の物体を避けようとドライバーはステアリングを切る。速度がある程度落ちた段階で車体側面のドアがスライドして開き、戦闘服姿の隊員たちが自動小銃を構えながら機敏な動作で転がるように降り立つ。車両はそのまま停まることなく再加速し、八潮たちの方へと進行方向を変える。
身の丈三メートルに達する白い巨人、<石傀儡>の姿に隊員たちは最大級の警戒を強いられていた。
隊員たちは一つ所に留まることなく、常に移動を続け<石傀儡>から一定の距離を取る。常日頃の訓練によって培われた阿吽の呼吸が、一々申し合わせることもなく状況に応じた陣形を維持することを可能にしていた。
車両が八潮たちを回収すべく彼らの眼前に迫ったその時、隊員たちに包囲されていた<石傀儡>が僅かな予備動作とともに大きく跳躍した。白い巨体があっさりと隊員の頭の上を飛び越え、八潮たちへ一気に距離を詰める。
ドライバーがとっさに<石傀儡>の方へハンドルを切り、その巨体の横っ腹へ車両を突っ込ませた。鈍い音と共に吹き飛ばされた<石傀儡>が、二度三度路面の上を回転しながら長い腕を器用に地面に突いて巨体を起こす。車両の前面は大きく凹みフロントガラスも蜘蛛の巣のようなヒビが入っていたが、走行自体に重大な支障が生じた様子は無い。
車両が八潮たちの目前でスキール音を鳴らし停車する。隊員たちが飛び降りた後も開け放たれたままだった側面ドアからドライバーの大声が響いた。
「乗れ!」
腰が砕けたような足取りで佐々森が車両に転がり込む。続いて八潮もタマメの腕を掴んで車内へと駆け込もうとした刹那、少女が弾かれたように視線を上方へ投じた。タマメは小さな体が出せる限りの全力で八潮の腕を引っぱり車両から引き剥がし、二人の体勢が崩れる。
タマメがドライバーに怒鳴りつけた。
「上だ!」
少女の言葉とほぼ同時に、ドライバーは上空に出現した影を視認し素早くアクセルを踏み込む。車体の側面をかすめるように巨大な白い物体が轟音を上げて落下してきた。
『二体目』の<石傀儡>を紙一重でかわした車両が急加速してその場から離脱する。それとすれ違うように十数人の隊員たちが<石傀儡>へと発砲しながら二人の元へと疾走していく。
脚や頭部にライフル弾の衝撃を受け、装甲を貫かれはしないものの、たたらを踏まされた<石傀儡>。その巨体が隊員たちの猛攻の圧力によって、八潮とタマメから距離を徐々に開けさせられる。
車両に跳ね飛ばされた方の<石傀儡>がすでに体勢を整え直し、八潮とタマメの方へとしなやかな動きで歩み寄ってくる。それを見た八潮は射線を避けるように身を低くして、タマメを抱きかかえ隊員たちの方向へ走りだす。
駈け出した二人の方へ距離を詰めるべく自分も走り出そうとしたカルラが、周囲の殺気に気付き足をぴたりと止めた。木々の陰から自分へと狙いを定めている銃口の気配を感じ取る。
自分にその存在を悟らせずにこの距離まで密かに接近してきた隊員たちの技量に、カルラは相手に対する評価を修正する。
これ以上『竜』に接近するようなら、彼らは警告なしに発砲してくると直感できた。一瞬思案してから、カルラは口にくわえた笛に再度息を吹き込み新たな命令を発する。
カルラを包囲していた隊員の一人が、背後に感じた『気配』に背筋を凍らせて、のけ反るように飛び退る。その直後、凄まじい衝撃音が辺りに響き渡る。
本能に従ったことは彼にとって紛れもない幸運であった。最前までその隊員が遮蔽物にしていた大樹に巨大な白い腕が深々と突き刺さっている。
『三体目』の<石傀儡>の出現によって、戦況は混沌を極めつつあった。
その不意をついてカルラが超人的な加速で走りだす。
それをさせじと隊員たちが周囲に散開しつつ、カルラの足元に弾丸をばらまく。カルラが小さく舌打ちをして、笛で<石傀儡>へと命令を出す。
二体の<石傀儡>が同時に走りだす。その巨体は隊員たちに目もくれず、八潮とタマメの背中を追っている。
二人と合流していた五、六人の隊員が、迫り来る<石傀儡>に弾丸を浴びせかける。その中の一人が闇の向こう、木々の間から漏れる街明かりを指差して大声を上げる。
「森を抜けて街に出ろ!」
うなずく暇も惜しいとばかりに、八潮はタマメの腕を引いて指示された方向へと走る。
<石傀儡>に向けられた自動小銃の発砲音が連続して響く。脚を重点的に狙うことで、破壊はできないもののその運動性を低下させることができることに、隊員たちは気付き始めていた。
その時、<石傀儡>は自身に下された命令を執拗に妨げようとする隊員たちに対して焦れるような人間臭い仕草を見せた。
<石傀儡>の白い半球形の頭部。のっぺりとしたその表面に埋め込まれた八つ目の一つが素早く『点滅』する。その瞬間、<石傀儡>にもっとも近い位置にいた隊員の戦闘服が燃え上がった。
それが『魔法による発火』であることを見て取ったタマメの目が険しくなる。
突然自身の間近に現れた炎に一瞬怯んだ隊員を、<石傀儡>の腕が薙ぎ払った。吹き飛ばされた体が背後の隊員を巻き込んで地面へと叩きつけられる。
包囲網が崩れた一瞬に<石傀儡>が機械的に反応する。猫のようなしなやかさで高く跳び上がった白い巨体が、隊員たちの背後に着地し、相手に振り向く間すら与えず彼らに向かってその長く頑強な腕を振り回す。
骨や肉の砕ける鈍い音。数秒の交錯によって六人が戦闘不能に陥れられた。
八潮とタマメを追う二体の<石傀儡>を阻むものはいなくなった。額に汗を浮かべ、足元もおぼつかなくなり始めたタマメが声を絞り出す。
「ヤシオ。お前は一人で逃げろ。あれの狙いは儂だ」
八潮はその言葉に答えるかわりに少女の手を強く握り直した。
二組の白い巨体は風のような速さで木々の間を駆け、あっという間に二人の背中に迫る。逃げ切れる可能性は微塵も無かった。
八潮は後悔した。
自分の浅はかな行動がもたらしたこの状況を。自分の無力さを。そして、せめて自分の隣にいるこの少女だけでも守る手段があればと願った。
感情の欠片もない<石傀儡>。その長々とした白い腕が二人を薙ぎ払うように伸ばされる。
それをかろうじてかわし、地面に倒れ込む八潮とタマメ。再び<石傀儡>の無情な魔手が自分の目の前に迫ってくる。八潮は地に座り込んだまま、タマメの小さな体を抱きしめるようにかばう。
彼が思わず目を閉じたその瞬間。
闇の中から木々をすり抜けるように飛び出してきた一台の乗用車が、猛スピードで<石傀儡>へと激突した。
弾き飛ばされた<石傀儡>が木に叩きつけられて地面に倒れる。衝突の反動で乗用車は土を巻き上げてスピンしてから、八潮とタマメのそばでがくんと停まる。
目の前の出来事に認識が追い付かない八潮が、木の幹を支えにしてふらふらと立ち上がり、崖っぷちの状況で救いの手を差し伸べてきたその車に視線を巡らす。
車体に<GKIインフォメーション>とロゴの入っていることに八潮は気付いた。
運転席と助手席のドアが相次いで乱暴に開き、中から二人の人物が現れる。
「いてて……むち打ちになるかと思った」
「修理、高くつきそうすね」
「別にアタシらが払うわけじゃねえよ。必要経費だ」
天童静と野呂栄作が呑気な会話を交わしながら、八潮の前に降り立った。
くわえタバコのまま、静が頭をポリポリとかく。彼女は子供をたしなめるような微笑を唇に浮かべて少年を見つめた。
「お前らあんまチョロチョロすんなよ。探すの手間取ったぞ」
静と栄作は、動きやすさを重視した柔らかい素材の服を身に付けている。質問することが多すぎて戸惑う八潮の頭を、静が雑な手つきで撫で回す。
「話は後だ。っていうか何だありゃ」
そう言って彼女は<石傀儡>たちの方へ視線を向ける。新たな闖入者を排除すべく、二体の巨人は静と栄作の方へゆっくりと歩み寄りつつあった。
八潮の手を借りてふらつくように立ち上がったタマメが警告する。
「気をつけろ。間合いに入ったら魔法で攻撃されるぞ」
先ほど隊員の戦闘服を燃え上がらせた光景を八潮も思い出す。黒眼帯の男が使っていた<術石>よりも強力な効果を持っているはずだった。恐らく、<石傀儡>の両手が届く範囲は『魔法が有効化』されている、とタマメは推測していた。
アゴに手を当てて考えこむ静。徐々に距離を詰めてくる白い巨人に対しても動揺を見せることは無かった。
八潮がここから逃げるべきだと声をかけようとした矢先、静はぽつりと呟いた。
「つーことは……逆に言えば、あいつの間合なら『魔法が使える』ってことだな」
彼女は、横に控える栄作に視線を向ける。その口調には楽しげなものさえ浮かんでいるように八潮には思えた。
「栄作。やっぱりこれ気のせいじゃねえな」
栄作が簡潔に返す。
「そのようで」
「さっきからビンビン感じるんだよな。体ん中を走ってるんだよ、『力』がさ」
誰に向けた言葉でもなく、静が続ける。
「ガキの頃から叩き込まれてきたこの技……本当にジジイが言うほどの物なのか確かめてやろうじゃねえか」
静が準備運動のように首と腕を軽く回しながら、<石傀儡>に自ら無造作に歩み寄っていく。三メートルに達する巨体に不用心に近づくその姿は、八潮の目には血迷った蛮勇にしか見えなかった。
声を上げて制止しようとした八潮の腕を、タマメがつかんだ。少女は確信に満ちた眼差しで八潮を見上げている。
「大丈夫だ。見ていろ」
不敵な笑みを浮かべた静が腕組みをして<石傀儡>の前に立ちはだかる。
<石傀儡>が予備動作なしに腕を振り回す。巻き上がった風で周囲の枝や葉が飛び散った。
その巨大な腕が静の顔面に直撃する寸前、彼女は<石傀儡>の視界から煙のように消え失せた。
離れた位置で見守っていた八潮の目にもそれは異常な動きだった。人体を紙細工のように容易く破壊できる<石傀儡>の腕をミリ単位でかわした静は、電光石火の足運びで<石傀儡>の側面に位置取っていた。その速度は明らかに常人の域を凌駕している。
静は姿勢を低くしてすり足で踏み込み、軽く握った右の正拳を<石傀儡>の脇腹に軽く触れさせた。
こつん、という音がした次の瞬間。紙風船が破裂するような乾いた音が夜の公園に響く。
静の拳の先。螺旋状の巨大な『穴』が<石傀儡>の胴体に穿たれていた。
<石傀儡>の体内から弾け飛んだ内部構造の破片が、数メートルに渡って散乱している。その一部は衝撃の大きさを証明するように近傍の木の幹に深く突き刺さっていた。
一撃で機能を停止させられた<石傀儡>がぐらりと傾き、そのまま地響きを上げて大地に横倒しになる。
唇をぺろりと舌でなめた静が悪魔のような笑みを浮かべて言った。
「なるほどね」
そして、もう一体の<石傀儡>と相対していた栄作。彼は目を閉じて両手をだらりと垂らした自然体の姿勢でその場に佇んでいた。
不意に<石傀儡>が巨体に似合わぬ身軽さで踏み込んでくる。
巨体が振り回した腕が栄作を捉えようかと見えた寸前、それは空を切る。そして<石傀儡>は栄作の姿を見失っていた。巨大な腕が視線を遮り死角となる位置。そこに稲妻のような動きで回り込んだ栄作が、<石傀儡>の腕を掴む。
それはかつて自分が黒眼帯の男に仕掛けた技に通じる型だと八潮は気付いた。
三メートルの巨体がくるりと宙を舞い、その体が地面に轟音とともに叩きつけられた。凄まじい衝撃に、栄作が掴んでいた<石傀儡>の腕が肩からねじ切れる。
<護皇院流>の体術は、体を走る『気』の流れを擬似的な術式回路として展開し魔力を発現させる、れっきとした『魔法』。八潮はかつてタマメから聞かされたその言葉を思い出していた。そして『これ』こそがその本当の姿であると直感した。
片腕を失いながらも、ふらつきつつ再び立ち上がる<石傀儡>。静が<石傀儡>へと優雅に歩み寄りながら微笑を浮かべて八潮とタマメに向かって言い放つ。
「心配すんなガキんちょども。このガラクタはお前らにゃ傷一つつけれねえよ」
そして、それは全員の注意の外にあった『闇』の中から滑るように出現した。
一瞬でタマメの目の前に迫るその影は低く冷たい声で告げた。
「ならば、俺が『死』を与えよう」
カルラは氷のような視線をタマメに向けていた。彼の右手から凄まじい速度で突き出される刀の切っ先は正確にタマメの心臓を指し示している。
タマメは自分へと近づくその殺意の塊に凍りつく。少女の心の中、時間の流れが突然ゆるやかになり、無数の思いが脳裏をよぎり色を失っていく。『死』というのは意外にあっさりしている物だと、奇妙に平静な境地へ瞬間的に至った。
そして時間は再び元の速さを取り戻す。
タマメは自分が横合いから突き飛ばされ、地面に叩きつけられていることに気付いた。衝撃によって肺から押し出された空気を取り込もうと、ひきつけを起こすように呼吸をする。
何が起こったのか確かめるべく視線を上げた先。そこに見える光景が、タマメの心を再び凍りつかせる。
カルラが突き出した七十センチほどある刀身が、タマメを突き飛ばすように躍り出た『八潮』の右目から後頭部までを完全に貫いていた。
下らない物を見るような目をしたカルラが、曲線を描きながら刀を無造作に振り抜き、八潮の頭から血や肉片が弾け飛ぶ。
くさびを抜いたような形に大きく欠損した少年の頭部、その真っ赤な断面から血が溢れ、ピンク色の組織がぼろぼろとこぼれ落ちる。
脱力した八潮の体が地面へぼろきれのように投げ出された。
表情を硬直させたタマメがぎくしゃくとした四つん這いで八潮の元に近づく。
おずおずと八潮の体に触れるタマメ。か細い声が絞り出される。
「おい……ヤシオ……?」
呆然とした面持ちで、小さな手が力なく少年の体を繰り返し揺さぶる。自分が目にしている物を拒絶するように、少女の瞳からは焦点が失われていた。
八潮にすがりつくタマメの背後にゆらりと赤い影が立つ。
右手に持った刀をくるりと回し、逆手に構えるカルラ。その視線は今度こそ確実に少女の命を捉えようとする冷徹な意思を持っていた。
その瞬間、カルラの左右から凄まじい殺気が飛んでくる。
静の正拳と栄作の下段蹴りをカルラは同時にかわす。だが静の拳はカルラがくわえていた『笛』の先をわずかにかすめ、それを弾き飛ばすことに成功した。
そちらに一瞬意識をそらされたカルラの隙を栄作は見逃さなかった。彼はカルラの右手首と刀身を素早く掴んで、テコの原理で右肘を叩き折ろうと体を回転させる。その意図にいち早く反応したカルラは迷わず刀を放し、栄作の拘束から力ずくで脱した。刃を掴んだ栄作の手のひらから血が流れ始める。
素早くステップを踏んで静と栄作から距離を取るカルラ。子供たちをかばうように静と栄作が立ち、構えを取る。八潮の姿を見た静の目が血走る。
「てめえ……」
カルラは怒りに震える静に動じることなく、視線をちらりと横に振った。そこには完全に破壊された二体の<石傀儡>の残骸が転がっている。
小さく息をついたカルラは刀を失ったことも気にならない様子で、ゆっくりとした足取りをもって静と栄作に近づく。
佐々森を逃してしまった以上、『竜』だけはこの場で殺しておくつもりだった。
先に仕掛けたのは栄作だった。遠い間合いからカルラへと掌底を放つ。牽制にも思えたその動きの真の目的は、刃を握ってできた手の傷からあふれる血をカルラの目へと飛ばすことだった。
しかし、場数に勝るカルラはそれをあっさりとかわし、栄作のこめかみに上段蹴りを叩きこみ一撃で昏倒させた。
息つく暇も与えずに後ろから静がカルラの後頭部を拳で狙う。背中に目がついているかのような動きで静の腕を取ると、カルラは彼女の肘関節を逆方向にくじきながら一本背負いで地面へ叩きつけた。
痛みに表情を歪めながら立ち上がろうとした静の顔面をカルラは無造作に蹴り上げ、その意識を刈り取った。
邪魔者を苦もなく排除したカルラが、タマメの方へと振り返る。
地に横たわる八潮の体に手を置いたまま、座り込んだ少女は全てを観念したように顔を伏せていた。
カルラは一歩ずつ確実に少女の方へと歩み寄る。
その時、タマメがゆっくりと顔を上げた。
彼女の瞳に浮かんでいたのは、カルラが予想していた『恐怖』ではなく、強い『生存の意思』だった。
少女の唇に先ほど自分が取り落とした『笛』がくわえられていることを見て取ったカルラは、そこから一気に飛び退った。
風を切る音が夜闇の上空から近づいてくる。
唸りを上げて落下してきた巨大な白い物体が土煙を巻き上げ、それが収まるのを待たずに、タマメが笛に息を吹き込んだ。
ここまでの戦闘の中で<石傀儡>が<大喪失>以前に作られた『自動人形』に手を加えた物であることをタマメは看破していた。それを操る基本的な手順も彼女の知識の中にはある。
その命令規則がオリジナルの自動人形と変わっていないかどうかは一種の『賭け』であったが、少女はそれに勝利した。
飛び跳ねるように<石傀儡>がカルラを襲う。
タマメの笛の命令に合わせて繰り出される巨大な両腕の攻撃は、速度に勝るカルラを捉えることはできなかった。だが、少女の目的は時間を稼ぐことだけであり、そこに注力するだけならさして難しい話ではなかった。
ついに遠くから車両が数台接近する音が聞こえ出す。距離を開けてタマメと八潮の防御に徹する<石傀儡>を突破することは、刀を喪失したカルラでは時間がかかるはずだった。
瞳に怒りと殺気をたぎらせたカルラが、<石傀儡>から一気に距離をとる。
「次は殺す」
カルラはそう低く言い放つと、タマメへ射抜くような視線を向けたまま闇の中へと姿を消した。緊張から解放されたタマメが、体から力を抜いて大きく息を吐き出す。
タイヤを鳴らしながら急制動した車両から鷹城が飛び出してくる。それに続いて降りた隊員たちが自動小銃を<石傀儡>へと向けた。タマメはくわえていた笛をしまうと、片手で彼らを制して告げる。
「心配ない。これはもう動かん」
そして彼女はその場に膝をつき、八潮の体に手を当てる。体温が目に見えて低下している。脈拍や呼吸も確認できない。何よりも頭部の損傷があまりにも激しすぎる。
タマメの目尻に、じわりと涙がにじむ。自分の失策だと思った。無理矢理にでも止めるべきだった。少年の心の内を汲み取り切れなかった自分の愚かさを強く悔やむ。
八潮の姿を見た鷹城が一挙動で携帯電話を取り出す。最優先で救命隊を呼んだ。それがもはや無駄な行為であると認めるしか無かったとしても。
しかし、タマメだけは諦めていなかった。たった一つだけではあるが、自分には手立てがあることを知っていた。
少女は、隊員の一人が胸のホルダーに挿したナイフに青い瞳を向けた。
「タカシロ。三分だけ時間をくれ……そして絶対に儂の邪魔をするな」
2
八潮が目を覚ましたのは翌日の朝だった。
薬品の匂いが、この場所が病院であることを彼に直感させる。
病室の天井を不思議な気分で見つめた後、自分が検診衣を着ていることに気付く。視線を巡らせると、ポケットに入っていた物や靴が部屋の一角にまとめて置かれているのを見つける。
ぼんやりする意識のまま靴を履いた八潮は、そのまま病室から廊下へと出る。
廊下は片側が中庭に面しており、大きなガラス窓がずらりと並んだ構造をしている。窓枠にもたれかかるように外を眺めている静と栄作がいた。
八潮は落ち着かない声色で話し掛けた。
「……あ、あの」
ぴくりと反応する二人。静は鼻に大きなガーゼを当て、右手を三角巾で吊っている。栄作は頭と右手のひらに包帯を巻いていた。
静が八潮の瞳を見つめながら口を開く。その言葉には普段の図太さは微塵も感じられなかった。
「おう……起きたか、小僧。気分はどうだ」
「気分は……悪くないですね」
「そうか。ならいいや」
ぽつりと呟く静の視線が、妙に自分の瞳に向けられているような気がした。
奇妙な違和感を抱えたまま、八潮が尋ねる。
「あの、タマメさんは……?」
栄作が答える。彼の視線もまた、八潮の瞳をじっと捉えているように思えた。
「隣の部屋だよ。厳真さんも一緒にいる」
状況をよく飲み込めないまま、八潮はその病室のドアを開いた。
タマメはベッドの上に横たわっていた。
入室してきた八潮に気付いた少女はわずかに寝返りを打って彼の様子を眺め回す。
壁際でパイプ椅子に座っていた厳真が、八潮の顔を見上げる。その視線はじっと少年の瞳に向けられている。厳真の左腕に当てられたガーゼに八潮の注意が向く。
その視線に答えるように厳真は口を開いた。
「タマメに輸血の必要があった。人間の血では不都合が出るらしくてな。篠崎家の血もたまには役に立つ」
「輸血? タマメさん、怪我したんですか?」
八潮は必死に記憶を辿っていた。よく思い出せない。手掛かりを得ようと彼はタマメのそばへ進んだ。枕元に置かれた椅子に座り、少女の顔を眺める。
タマメが優しく微笑んでいる。その顔の『右目』とその周囲を覆うように痛々しく巻かれた包帯の白がまぶしく見える。
記憶がまだはっきりしていなかった。カルラがタマメを刺そうとして、自分がその前に飛び出して。
目の前に迫る刃と、頭を貫いた焼けつくような激しい痛みの記憶。無意識に自分の顔に手をやる。特に傷ついている様子はない。その理由が分からない。
左目だけで少年を見つめていたタマメがゆっくりと体を起こす。
「お互い、無事で何よりだな」
拍子抜けした声で八潮は返す。
「え? ええ……そうですね」
タマメは腕組みをしてうんうんとうなずきながら楽しそうに語る。
「<竜眼>の治癒能力を目の当たりにしたのは初めてだったが、中々の見ものだったぞ。骨格や組織が見る見るうちに再生されていく様子は実に興味深かった。撮影でもしておくべきだったな」
何のことを言っているのか理解できなかった。その瞬間、少年の脳裏に以前タマメと交わした会話が蘇る。
――特に効き目があるとされているのは、竜の『眼球』だな。高位医療魔術師数十人分の上級治癒魔法に匹敵する、とさえ言われている――
八潮の心臓が大きく跳ねる。
タマメが八潮の右目を覗き込むように、包帯だらけの端正な顔を寄せてくる。その表情に含むところは一切なく、純粋な安堵の想いだけが浮かんでいた。
「色も元通りになれば文句無しだったが……そう都合良くはいかんらしいな。悪く思うなよ、ヤシオ」
眉を可愛らしくひそめて言うタマメに、八潮は血の気の引いた表情で椅子から立ち上がる。
病室の壁に据え付けられた洗面台によろけるように歩み寄った。動揺でこわばる体を無理矢理動かして、鏡で自分の顔を食い入るように確かめる。
即死レベルの損傷を受けたはずの頭には傷ひとつ残っていない。それは昨夜の出来事が夢であったかのようでもある。
しかしそれが紛れもない現実であることを、鏡の中の自分は示していた。
右の瞳。それは彼がいつも見てきたタマメの瞳と同じ輝きに満ちていた。
自分の右の瞳が『青く輝いている』様子を、八潮はただただ呆然とした思いで見つめていた。




