第八話 青い瞳(前)
1
応接室の巨大なガラス窓は成人男性の背丈を優に上回る高さであった。そこから眼下に広がる景色は、この建物が小高い山の中腹に設けられていることを示している。
三方を山に囲まれたこの土地に築かれた大小様々の建築物が、あたかもミニチュアのような遠近感で並んでいる。
信者が暮らす居住施設、雇用を生み出す種々の企業施設、幼児期から成年期までの一貫育成を実現した教育機関。その間を繋ぐように整備された道路には盛んに車両が行き来し、それらがまさに活きたシステムであることを一望させた。
全国の在家信者や関連企業まで含めれば、そのコミュニティの規模は政令指定都市としての要件を遥かに凌駕するものである。
全て自分が成し遂げた仕事だと、彼は自負とともに再確認していた。その表情に刻まれた深い皺は、彼が積み重ねてきた労力の歴史でもある。
『教主』は自分が一代で築き上げた<教団>が織りなす世界を眺めおろしながら沈思に浸っている。彼の後ろには血のように赤いコートを羽織ったカルラが膝をつき、今回の任務の報告を淡々と続けていた。出入口である豪勢なしつらえのドアの横には沙久耶が直立不動で控えている。
カルラの報告が終わると、教主は満足そうにうなずいて振り向いた。デスクの上にはカルラが持ち帰った本が仰々しい装丁の表紙を上に鎮座している。
教主は一分の隙もない微笑を浮かべて言った。
「御苦労だったな、カルラ。お前の信仰の篤さは、我らの教義を更なる高みへと導く物だ」
カルラは床へと視線を伏せたまま言葉を返す。
「もったいないお言葉です」
教主はゆっくりと部屋の中を進み、カルラの肩に手を触れた。
「だが、世界には未だ邪悪の火種がくすぶっておる。失われた古の術、『魔法』。それが<教団>の教義を解さぬ野蛮な輩の手に落ちれば、世界は災厄に包まれるだろう」
カルラの肩に当てられた教主の手に力がこもる。
「故に、竜が持つ魔法の知識は危険だ」
小さく頭を下げ、肯定の意を示すカルラの耳元に教主が囁く。
「こちらに取り込めなければ、『処理』するしかない。そのつもりで今後も事に当たれ」
均質な闇に覆われた黒い瞳を微動だにさせずカルラが答える。
「御意」
そのまま流れるような動きでカルラが退室したのを見送って、教主はソファにゆっくりと体を沈めた。長々とため息をついて天井を見上げ、教主がぼそりと呟く。
「儂はまだ死ぬわけにはいかん」
沙久耶が歩み寄り、彼の肩にそっと手を置いた。教主の最愛の娘は慈愛に満ちた視線を彼に投げかける。
「お父様。御心配なさらずとも、計画は進んでおります」
2
<教団>本部の教育機関が立ち並ぶ一角。その地下に密かに設けられた区画では、詳細を決して外に漏らすことの出来ない作業が日々続けられている。
照明は暖かく柔らかい色の物が選ばれ、精神的な安定を促進している。殺風景ではあるが広く清潔な部屋の中にはベッドが整然と並び、その全てに『被験者』が横たわっていた。
全員の体には様々な機器が接続されている。中でもとりわけ奇異に映るのはその枕元に据え付けられた柱状の透明ケースであった。
ケースの中に充填された粘性の高い液体。そこに浮かべられた<術石>の赤い輝きが、薄暗い部屋の中で脈打つように明滅している。
男性被験者の一人がベッドの上で激しく痙攣している。それは五分以上も続いたあと、唐突に終わりを迎えた。苦悶に歪んだ顔のままぴくりともしなくなった被験者は、いつもの手順通り『処理』される。適当な原因をでっち上げた上で病死として扱われ、家族にもその旨が伝えられる。
そしてまた新たな被験者が供給されるのだ。教義に身を捧げるという崇高な信念によって、自発的に恍惚とこの狂気の研究に体を差し出すのだ。
老い先短い一人の人間を『魔法』によって『延命』させる。その手段を探し出すためだけに。
佐々森忠成は幼いころから<教団>の教育機関で育った。それでもとうの昔に理性が耐えられる限界を過ぎていた。
教義を信仰する事について否やがあるわけではなかったが、これは違うと思っていた。きっと自分以外のスタッフも同じ考えの者がいるはずだった。しかし、それを口に出すのはあまりにも恐ろしかった。
背教者として爪はじきにされる恐怖は、他者に心内をつまびらかにさせることはない。互いに相手を暗黙裡に監視しあうことで生まれる、かりそめの結束だけが存在していた。
佐々森はくたびれた白衣のポケットから飴を取り出し、口に放り込む。甘いというぼんやりとした感覚だけが意識の上っ面を通り過ぎる。彼の下した決断から生じる動揺が、自身の味覚すら鈍らせていた。
彼は研究区画の端にある休憩ブースのソファに座り、一人黙考していた。密かにデータベースから抜き出した情報を記憶の中で確認する。
何の変哲もない一人の『少年』の顔写真と個人情報。
自分をこの狂った状況から救える力があるとするなら。それを持っているのは、この少年から辿った先にいるはずの『竜』だけだと信じていた。
3
「篠崎くーん。次はこれお願いできるかな」
<GKIインフォメーション>一階資料室の扉が開き、芹岡がダンボール箱に詰め込まれた書類封筒を運び入れる。
篠崎八潮はそれを見て、嫌な顔一つすることなく快活に答える。
「はい、いつもの手順でいいんですよね?」
「そうそう。悪いねえ……夏休みなのに、こんなしょっちゅう来てもらっちゃって」
申し訳無さそうに言う芹岡に、八潮がにこやかに返す。
「いえ、自分も色々と参考にさせてもらってますし。情報を扱う仕事に就きたいとは思っているので」
芹岡が腕組みをしてため息をつく。
「はあー。その歳で偉いね……どっかの誰かとは大違いだ」
ソファに寝転んで新聞を眺めていた天童静が、目をぎょろりとさせて芹岡を舐めるように睨みつける。
「あ? 何か言ったか、オッサン?」
「いーえ、何も」
そう皮肉たっぷりの笑顔で、芹岡が資料室から出て行く。
ふん、と鼻を鳴らした静が八潮に目を向ける。長い手足を器用に回して、彼女はソファからすっくと立ち上がった。長身の静がぽんとその手を八潮の頭に乗せて、髪ごと撫で回す。まじまじと見つめてくる静の視線に、八潮がごくりと唾を飲んだ。
「な、何ですか?」
小さく息を吐き出して、静は面倒くさそうに返す。
「いーや。何でもねーよ」
少年の頭をぽんぽんと優しく叩いてから、静は資料室から外に出て行った。ぽかんとした顔でそれを見送った八潮が、ソファに座る野呂栄作に問いかけるような視線を巡らせた。
栄作はいつものように穏やかな笑顔で紙パックのコーヒー牛乳を飲んでいる。少年の視線に気付いた栄作がにっこりと笑いかけた。
「姐さんも、たまには色々と考えることもあるんだよ」
「はあ」
栄作の言葉をよく理解できないまま、八潮は書類作業を再開した。
そしてここ最近妙にはつらつとして物事に当たる八潮を、タマメは訝しげな表情で眺めていた。
4
この日の篠崎家の夕食は、八潮とタマメが準備をしていた。立原文乃は久しぶりに家に戻ってきた子供たちの世話をするために、しばらくはこの二人が家事全般を取り仕切ることになっている。
味噌汁の鍋に蓋をしたエプロン姿の八潮が包丁を取り出す。
「静さん、なんか変でしたよね」
戸棚から食器を取り出しながら、タマメがぼんやりと返した。
「そうか?」
ネギを刻みながら、八潮が昼間の記憶を辿る。
「だって、いつもなら僕に向かってあんな……いったっ!」
包丁をまな板の上に置いて、眉間にしわを寄せた八潮が手を見る。
「あー、やっちゃった」
人差し指の先に深々と入った傷から結構な量の血が滲み始めている。皿をテーブルの上に戻したタマメが、八潮のそばにちょこちょこと歩み寄る。青い瞳が八潮を見上げた。
「ちょっと見せてみろ」
言われるまま、八潮はタマメに手を差し出した。
八潮が何事かを尋ねるより先にタマメは彼の指を掴んで、ぱくりとその小さな口にくわえこんだ。
「あ、あのっ」
思わず体を引きかける八潮。それを咎めるような視線で制するタマメが、指を口に含んだまま言葉にならない声を出す。
「んいいんら、ああえお」
「何言ってるか分かりません」
そして八潮はその違和感に気付いた。指先にあった痛みが、むず痒さに変わり、それも徐々に収まりはじめている。
ちゅぽん、と音を立ててタマメの唇から彼の指が解放される。
あっけに取られた表情で指先を見つめる八潮。深めに入ったはずの傷口が薄く白い膜のような物で塞がっている。それが徐々に自分の皮膚と同じ色に変わっていくのを、八潮は言葉もなくただ眺めていた。
「儂と初めて会った時の事を憶えていないか? <血の盟約>を交わした時、お前の手の傷を塞いでやっただろう」
「ああ……そういえばそんなことも」
「あれはな、竜族がお前の先祖の母親たちを救うため知恵を絞る中、偶然見つけた現象だ」
タマメが自分の唇をつるりと撫でて、いたずらがバレた子供のような顔をする。
「竜の体液や体組織は、篠崎家の人間に対してのみ『治癒能力』を持つのだ」
タマメがにんまりと笑いながら自分の顔を指差す。
「特に効き目があるとされているのは、竜の『眼球』だな。高位医療魔術師数十人分の上級治癒魔法に匹敵する、とさえ言われている。儂も実際に見たことはないのだが」
それは人の命を守るために、竜族が自身の体を使ってまで試行錯誤していたという事実を暗に示していることに八潮は気付く。唇を結んだ彼の表情から何かを読み取ったのか、タマメが軽く肩をすくめて話を締めくくった。
「まあ、それをもってしてもお前の先祖たちを救うことは出来なかった。それにしても、篠崎家に災いを与えた竜の血が、同時に癒しの力を持つ……何とも皮肉な話だな」
そして二人は支度の続きをする。やがてタマメが先に出来上がった料理を居間へと運んでいく。しばらくして後から残りの皿を持っていった八潮は、そこで珍しい光景を目にした。
「ほれ、親父殿。遠慮するな。たまには儂の給仕も良かろう?」
ビール瓶を持ち上げて、厳真に差し出すタマメ。少女の笑顔に、思わずグラスを取ってうなずく篠崎厳真。
「ん……? う、うむ」
なみなみと注がれたビールに、厳真が困惑気味の表情を見せる。どんなにアルコールが入っても顔色一つ変えないはずの厳真。その頬にうっすらと赤味が差しているように八潮には見えた。
父親の意外な一面にふっと微笑んだ八潮。それに気付いた厳真が、気まずそうにグラスを一息で飲み干した。
5
次の日の午後、<GKIインフォメーション>での仕事もなく、八潮とタマメはぶらぶらと街を歩いている。
カジュアルな格好で出歩くのも久しぶりに思えていた。
アイスクリームの移動販売車の前であれこれ迷っているタマメを、八潮は微笑ましげに眺めている。
ふと携帯電話の振動が体に伝わってくる。ポケットから端末を取り出して画面を開いて発信者を確認した。
未登録の番号であったため、八潮はそのまま端末が留守番電話モードで録音を始めるのを眺めていた。
『あ……すみません。こちら篠崎八潮さんのお電話でしょうか。私、佐々森と申します。ええと、その『竜』のことでお話があるのですが……』
反射的に八潮は通話ボタンを押した。
6
日没からしばらく経ち、夜風が日中の熱気を幾分か和らげ始めていた。
多くの文化施設に隣接するこの公園は木々も豊かで、街なかで自然を手軽に楽しむ散策にはうってつけの場所であった。
その一角のとある池のほとりに設けられたベンチに、八潮とタマメは並んで座っていた。周囲に人通りはほとんどなく、秘密の会合にはおあつらえ向きに思える。
白いTシャツにデニムのオーバーオール姿のタマメが疑わしげに言った。
「<統法機関>の技術者か。本当にそう言ったのか?」
柿色の半袖Tシャツの襟から空気を入れながら、八潮が答える。
「ええ。自分を保護してほしいと。とにかくかなり切羽詰まっているみたいです」
「だったら警察にでも駆け込めば良かろう」
不満そうにベンチの上で足を組むタマメ。八潮は左右を見回しながら言葉を返した。
「誰が<統法機関>と通じているか分からない以上、警察もあてにならないと言ってました」
「だからといって、お前に助けを求めるなど胡散臭すぎるぞ」
「僕じゃなくて、『竜』の力で助けてほしいという話ですが」
渋い表情を見せるタマメが金髪をかき上げる。
「ヤシオ。これはオオギとの約束を反故にすることに思えるぞ。<統法機関>への中立を破る行為ではないのか?」
タマメから視線をそらした八潮が言い訳をするように呟く。
「この佐々森さんは既に機関から抜けた人です。だから、問題無いと思いますけど」
「そういうのを屁理屈と言うのだ……儂らが直接そのササモリとやらと接触する事を、タカシロには連絡してあるんだな?」
そう言ってため息をついたタマメに、八潮はうなずいてみせる。
「ええ。最初は止められましたけど。何とか無理を聞いてもらいました。普段から僕らを監視している人もいるわけですし、大丈夫ですよ」
八潮が視線である方向を指し示す。二人が座るベンチから見える木々の隙間に、ちらりと背広姿の男が垣間見える。
完全には納得できない様子のタマメが言葉を積み上げる。彼女は最近の八潮の言動に何か不安のようなものを感じていた。それもあってか、タマメの口調にはところどころ強いものが混じり始めていた。
「大体だな、<統法機関>が何か犯罪をしでかしたところで、基本的に儂らとは関係無いのだぞ。それは警察やタカシロの領分だ。儂らは正義の味方でもないし、救国の英雄でもないのだ」
少女の言葉に、八潮は口を結んでただ地面を見つめる。それは反論できないのではなく、自分の意思を変えるつもりがないという主張のようにタマメには思えた。
案ずるような色を瞳に浮かべて、タマメが八潮の腕をつかんで小さく揺する。
「ヤシオ。お前は最近、変だぞ。何を考えているのだ?」
八潮が小さな声でぽつりと返す。
「タマメさんの力になりたいんです」
耳にした言葉が理解できないような顔で、タマメがゆっくりと八潮の顔を見上げる。
「もっと強くなりたいんです。だからもっと世界に関わって自分を変えていかなきゃ……もう子供のままじゃ嫌なんです」
「……ヤシオ。儂は」
その時、野球帽を目深にかぶった男が八潮の隣に座る。八潮の体に軽く緊張が走るのを、つかんだ腕を通してタマメは感じ取った。
男はちらりと八潮を見やり、低く呟いた。
「ありがとうございます。私が佐々森です」
佐々森は神経質そうな頬のこけた顔の中、目だけが妙にぎらついている。ひんぱんに周囲に視線を巡らせ、遠くを通り過ぎる人影まで全てに疑いの眼を向けている。
八潮の顔を再び確かめるように見てから、佐々森がその奥のタマメに目を止める。
「あの、その子は……?」
佐々森の全身を注意深く観察しながらタマメが無愛想に答える。
「儂が『竜』だ。信じられんかもしれんがな」
アゴがかくんと下がった佐々森だったが、しばらくタマメの姿を見回してからゆっくりとうなずいた。
八潮が佐々森に問いかける。
「で、どうします? 公安に信頼できる知り合いがいますけど」
八潮の顔を見つつ、自分の口元に手をあてて考えをまとめる仕草をしていた佐々森が、やがて腹をくくったように強く首肯した。
「分かりました。では、その方に私の身柄を預けます。少し厄介な相手に追われていて、いい加減休みたいところなんです」
八潮が木の陰で待機する公安職員にうなずいてみせる。
その時、佐々森が「あ」と気の抜けた声を出す。
公安職員と反対方向の木々の間に一人の長身の人物が立っている。
赤いコートが闇に浮かぶ。浅黒い肌と肩まで伸びる黒髪。その瞳もやはり黒く染まり、刺し貫くような視線が八潮たちに向けられている。
『紅衣のカルラ』は、素人の八潮でさえも容易に察知できるほどの禍々しい殺気をまとって立っていた。