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第四話  紅い衣の男


 朝の涼しげな空気は、煌々とした朝陽によって早くも火を入れられつつあった。


 篠崎家の日々の朝食風景に、一人の少女が加わるようになってからしばらくが経つ。しかし、そこで交わされる言葉の総量はさして増える事は無かった。この朝も居間において篠崎八潮と彼の父、篠崎厳真の間でやりとりされた会話は実に淡白な物だった。

 

 八潮がほぼ日参している職業体験活動の現場について、二つ三つの短い問いと応答。肯定か否定の意を一言で返すだけの少年は、父親と視線を合わせることは無かった。

 

 いつも通り篠崎家の朝食の準備を終えていたスーツ姿の立原文乃は、半分食べかけのバナナを手にしたまま、八潮と厳真を見て小さくため息をついた。


 そして文乃の隣に座る制服姿の小柄な少女は、彼らの様子にもまるで頓着することなく、正確な箸使いと咀嚼リズムで朝食を摂っている。世界最後の竜、タマメは味噌汁の最後の一口を優雅な動作で飲み干し、そっと椀を置いた。






「こういうの反抗期って言うのかしらねえ」


 朝食が終わり、台所で皆の食器を洗いながら文乃がぼやく。てきぱきとした手際で洗い物を終わらせた文乃はエプロンを外しながら、弁当の蓋を小さく開けて中身を確認しようとしているタマメを無言の視線で制する。


 少女はすごすごとランチボックスを黄色いバッグにしまった。居心地の悪さを誤魔化すようにタマメは長い金髪を指で整えながら文乃を見た。


「昔は違ったのか? ヤシオと親父殿は」


「うーん、篠崎家には父親が代々、その子供にだけ伝えている秘密の習い事みたいなものがあってね。中身は私もよく知らないんだけど。で、それが終わったあたりからギクシャクしてる感じなのよ」


 少女はテーブルに頬杖をついてつまらなそうな表情を浮かべ、文乃の言葉に耳を傾けていた。






 駅から学校までの短い道のり。その中間点にある歩道橋の階段を登りながら、タマメは後ろを歩く八潮に視線を向けた。

 

「ヤシオ。お前は、親父殿が嫌いなのか?」


「そんなこと無いですよ」


 少年は心中を押し隠すような一本調子の声で返す。たすき掛けにした鞄の位置を歩きながら直し、タマメは幾分かの呆れた調子を言葉ににじませた。


「どうもお前は頑固というか、融通の効かんところがあるよな」


「そうですか?」


 タマメは歩道橋の中央で立ち止まり、八潮に振り向く。金色の長髪が宙に柔らかくカーブを描いた。少年もそれに釣られて立ち止まり、二人は向かい合ったまま見つめ合う。タマメは何かを思案するように視線を一度横にそらしてから、意を決したように八潮を見上げた。


「お前は」


「おっすー」


 護皇院姫子が八潮の背後から陽気な声を飛ばしてくる。八潮とタマメは白けた表情で、その少女の快活な笑顔を眺めやった。


「うん。おはよう、姫子」


「今日も元気そうだな、ヒメコ」


「タマちゃーんっ!」


 歯を見せてにっこりとする姫子が、小走りでタマメに抱きつく。豊かな胸に顔の左半分を埋没させられたタマメが仏頂面になった。姫子はもはや日課とも言える、タマメの頭を撫で回す作業を満喫しながら歩き出す。


 ぐいと、全力で腕を押し出して姫子の拘束から逃れたタマメが、乱れた髪を指で直しながら、逃げるように八潮の隣についた。


 玩具を取り上げられた子供のような表情になった姫子が、再びタマメに襲いかかろうと両腕を肩の高さに上げて構えを取った。と、姫子の表情が雷に打たれたかのごとく一変し、飼い主に散歩をねだる犬のような落ち着きの無さが彼女の全身から溢れだした。


「あ、そうだ! 今度の休みさ、二人とも暇?」


「うむ。儂らは暇だぞ」


 出し抜けに質問をぶん投げてくる姫子と、それに対して自分の分まで勝手に返事をしたタマメ。八潮は信じ難い物を見る目で二人の少女を非難しようとしたが、姫子が畳み掛けた言葉がそれを許さなかった。


「おー、良かった。ウチのお祖父ちゃんがね、二人に遊びに来ないかって」






 大小様々な企業の施設が立ち並ぶ地域の一角、趣きを異にする建物があった。

 

 緑々とした生け垣に囲まれた敷地の中に佇むそれは、純和風の瓦葺き平屋。その内部は広々とした畳敷きの武道場となっている。

 

 姫子は白の上衣と濃紺の袴姿で構えを取っていた。踏みしめた素足の両足は根を張ったように畳へ吸い付き、その背筋は芯が通っているかのように、彼女の体は揺らぐことがない。

 

 少女は涼しい顔で視線を隣に向けていた。その見つめる先では、息も絶え絶えなジャージ姿の八潮がフラフラになりながらも、姫子の構えを模倣しようと悲壮な努力を続けている。夏の暑さのせいでもあったが、既にTシャツは汗で肌に貼り付き、顔や首元にも玉のような滴が浮いている。

 

「ほら、ダメだよ八潮。右足もっと引いて。あっ、背中丸まってる! ヒジ下がってる!」


「な、なんで、僕がこんな事……ひ、姫子、ちょ、ちょっと休憩」


 決して激しい運動とは思えなかった。にも関わらず、ただ構えをとって立つというだけの行為が、少年の体に対して想像以上の負荷を与えていた。

 

 もはやこれまでという表情で、八潮がその場にへたり込む。がっくりとうなだれる少年の頭に、姫子が飼い犬を愛でるかのような仕草で手を乗せる。


「たまにはこうやって体動かしなよー。タダでさえモヤシみたいなんだからさ」


「ジャ、ジャージで来いって……こういう意味だったのか」


 道場の出入口そばの壁際では、背筋を伸ばして正座をしている野呂栄作が、八潮と姫子のやり取りをにこやかに見守っている。一分の隙もない道着姿からは、普段彼が漂わせている人の好さそうな空気とともに、その奥にある確固とした信念のような物が感じられた。

 

 彼の隣には赤いジャージ姿の天童静が、畳に寝転がって頬杖をついている。彼女は八潮と姫子の様子をからかいたくて仕方がない、という色をまるで隠そうとしていなかった。


「ははっ。いい感じに尻に敷かれてるじゃねえか、小僧」


 火の点いていないタバコを器用にくわえたまま、静が茶化す。少し離れたところでは、タマメがピンクのジャージを着て座っており、壁にその小さな背中を寄りかからせている。


 息を切らしながら壁際に戻ってくる八潮と、出来の悪い子を見るような目で後に続く姫子。少年が歩いた後には、顔から流れ落ちた汗がぽうぽつと落ちている。八潮は、栄作と静を交互に見て尋ねた。


「はあ……お二人は……あの……なんでここに……いるんです」


 ムスッとした表情になった静が、ため息とともにボヤく。


「業務命令だよ。師範代が急な法事でしばらく休むから、アタシらに代理で幼年部の指導しろって。ったく面倒くさいったら」


「業務って……<GKIインフォメーション>と……何か関係が?」


 会話も苦労するほど呼吸が乱れている八潮に、栄作がかたわらに並べてあるペットボトルの一つを差し出す。恐縮しながら受け取る八潮に、栄作が説明をする。


「この道場を経営してるのが、<GKIグループ>なんだよ。ま、会長が半分趣味で続けておられるような物かな」


 うんざりしたような声で、静が続ける。


「会長命令にシカトこいたら、後で何されるか分かんねーからな」


「えー、お祖父ちゃんそんなに怖くないよー?」


 小首を傾げる姫子に、苛立つように静が応じる。


「世のジジババが皆、孫に甘いのは当たり前だっつーの」


 その会話の流れから感じた情報の不整合が、八潮の思考の歯車に楔を打ち込む。理解が追い付かない八潮が、姫子と静を交互に見て、まとまらない考えを心に落としこむように呟く。


「GKI……ごこういん……『護皇院』? え、<GKIグループ>って、えっ?」


「ウチのお祖父ちゃんの会社だよ? やだ、八潮知らなかったの? 信じらんない」


 口をあんぐり開けて、呆れて物も言えないと首を振る姫子。気まずそうな顔でペットボトルの水を一口流し込んでから、八潮が言い訳するように口を開く。


「……姫子の家の仕事とか、考えたこともなかったよ」


「なーんか冷たいとこあるよね、八潮ってさ。昔っから」


 目をすがめて見てくる姫子から、八潮はたまらず顔を横にそらす。両足を畳の上に伸ばしていたタマメが、壁にもたれかかったまま天井をぼんやりと眺めている。タマメはその視線を姫子にふっと向けた。


「ヒメコの祖父殿が儂らに用、というのは何だ?」


「知らなーい。何だろね?」


「孫娘のムコ候補を品定め、ってとこじゃねーの? 良かったなー小僧、とびっきりの逆玉じゃねえか。頑張れよ、未来のGKI社長。そんでアタシの給料も増やしてくれ」


 静の緩みきった笑顔は、自身のバラ色の未来をひたすら願うという意味では純粋さに溢れている。両手に腰を当てた姫子が、呆れるように呟いた。


「私、八潮とそんなんじゃないよ……お、噂をすれば。やっほー、お祖父ちゃーん」


 途端に、びくりとする静。恐る恐る後ろを見上げる。

 

 屋外から入り口に差し込む陽光を背にし、その和服の老人は立っていた。

 

 苔色の長着をまとった体は、曲がり始めた背や腰を考慮しても、八潮よりやや小さいくらいだった。その立ち姿はごくごく自然体で、両手はゆったりと後ろ手に組まれている。丁寧に整えられた短い白髪は、やや後退し始めた生え際から長いもみ上げへと続き、そこからアゴの先まで白い髭が途切れることなく繋がっていた。


 糸のように細い目からわずかにのぞく黒い瞳は、遥か遠くを見通すような光を帯びていた。


 栄作は老人の方へ丁寧な仕草で座り直すと、一層背筋を伸ばしてから頭を深々と下げた。


「先生、ご無沙汰しております」


「栄作か。半年振りだったか? 元気そうじゃな」


 多少しわがれているが、その声色は何がしか力強さのような物を八潮に感じさせた。栄作が頭を下げたまま答える。


「はい。お陰様で。先生もお変りなく」


「これでも歳は順調に取っとるぞ」


 にっと笑う老人。前歯の一本が金歯になっているのが見える。老人は八潮の方へ向き直り、少年の肩に軽く手を当てた。邪気のない老人の笑みに、思わず八潮も釣られて笑顔を返す。


「八潮くんもよく来てくれたの。赤ん坊の頃に会ったきりじゃて、儂の顔は覚えておらんだろ。ま、今日はゆっくりしていきんさい」


「は、はい。どうも」


 そして老人の笑顔の質がわずかに変わり、その視線が畳の上でだらしなく寝転がる静に向けられた。目が不自然に泳ぎ始めた静に、老人が穏やかにそれでいて心なしか冷めた調子で言葉をかける。


「静も、無駄に元気そうじゃのう」


「は、はは。ど、どうも」


 視線を合わせようとせずに、静は心ここにあらずといった返事を返す。老人の口元にどこか嗜虐的な笑みが浮かぶ。


「どれ、少し体をほぐしてやろうか。立ってみい、静」


 静は青ざめながら体を起こすと、道場の出口に向かって半ば駆けるように逃げ出した。


「あ、いや、間に合ってまうぉわぶっ!」


 老人の横をすり抜けようとした瞬間、静の体がくるりと半回転し、顔から畳に叩きつけられ、車にひかれたカエルのようになる。


 老人は、左手一本で静の右足裏を掴み、足首の関節を支点に軽く捻りを入れている。苦悶の表情で体を震わせる静と対照的に、老人が力を込めている様子は全くない。


「道場でタバコを吸うなと、何度言えば分かるのだ?」


「火、点いてねえだろ! 離せ、ジジイ!」


 静は歯を食いしばりながら、顔を畳に押し付けて苦痛を堪える。


「なかなか威勢がいいな。これならどうだ、ほれ」


「あだだだだっ! ちょっ! ああっ!」


 八潮からすれば何とも荒っぽいコミュニケーションに思えたが、栄作や姫子の表情を見る限り、特に珍しくもない風景らしかった。その時、八潮は道場の外のざわつく気配に気付いた。


 低い位置から朝の挨拶が次々とこだまして、道着姿の小さな子供たちが道場の入り口に現れる。彼らが深く一礼してから続々と道場に入って来るのを、八潮は目をしばたかせながら眺めた。少年の目には、子供たちの多くは未就学児のように映った。


 さらに、彼らの保護者と思しき大人たちも挨拶とともにぞろぞろと入ってくる。隅に荷物を整然と並べた子供らが、わいわいとじゃれあいながら道場の真ん中に正座で並び始めた。武道場の半分以上を占拠するほどの人数に八潮は少なからず感心した。


 子供たちの数を目で確認した栄作が立ち上がり、畳の上に正座で待つ彼らの前に出る。途端、しんと子供たちが静まりかえる。栄作は壁際で見守る保護者たちに軽く会釈すると、にこやかな口調で第一声を発した。


「はい、おはようございます。えー、今日はいつもの先生はお休みなので、僕とあそこに転がってるお姉さんが、みなさんの稽古を見ます。よろしくお願いします」


 はーい、と綺麗に揃った返事が道場に響く。そして栄作の号令で、子供たちが黙想を始める。

 

 道場を満たす静寂に遠慮した小さな声で、八潮は姫子の耳元にささやいた。

 

「しかし、随分と盛況だね」


「幼年部は基本無料で教えてるからね。ちっちゃい子たくさんで、面白いよ」


 茶目っ気のある笑顔で姫子がささやき返す。ようやく解放された足首を押さえながら畳にうずくまる静の尻を、老人が軽く蹴飛ばした。


「ほれ、さっさとお前も稽古に参加せい。念を押しておくが、今日のお前は『しずかせんせい』だからな、心して振る舞うのだぞ。子供らの手本になるようにな」


「くそジジイ……いつか見てろよ」


 涙を浮かべた静の表情に、何となく可愛げを見出してしまった八潮は軽く自己嫌悪に陥った。






 子供たちの掛け声が道場に響く。習熟度や本人のモチベーションに個人差はあるが、特に型をはめず伸び伸びと体を動かすことを主眼に置いた指導方針のように見えた。


 幼年部の稽古の邪魔にならないように、八潮は隅の方で再び鬼教官姫子からの特訓を強いられていた。

 

 姫子が何度も手本として見せている一連の動き。それを彼らからやや離れた壁際に座っているタマメが、真剣な眼差しで見つめていた。


 タマメの横に現れた気配に、彼女はちらりと視線を向ける。彼ら二人の会話を漏れ聞く者は周囲になかった。老人は目上の者に対するような礼節のこもった声で少女に話し掛けた。


「護皇院恭斎と申します。失礼ながら、『竜』とお見受けしますが」


「いかにも。世界最後の竜、『タマメ』である」


「本日はこのような場所へわざわざお越し頂き、感謝の言葉もございません」


 恭斎はそう言って少女へ頭を下げた。タマメは視線を八潮の方へ戻すと、特に気のない調子で言った。


「儂らに何か用があるとか?」


「いやなに。冥土の土産に、竜の御尊顔を拝見しておこうかと」


 少女はふっと微笑んで、肩を小さくすくめた。


「失望させて済まないな。もっと威厳のある顔と思ったろう」


「いえ。『御役目』の竜は若く聡明な者が選ばれる、と伝え聞いておりました」


 タマメの目に意外そうな色が宿り、老人の表情を探るように見上げた。恭斎は穏やかな笑みを浮かべたまま、少女の視線をやり過ごしている。ため息をついたタマメが、八潮と姫子の方を見やる。


「今、ヒメコがヤシオに指南している技は興味深いな。<護皇院流>とやらの本質が垣間見える」


「はて? 竜にお褒め頂くほどの代物ですかな?」


「手足を通る経絡の『型』と、呼吸の『間』が肝と見るが」


「ほっほっ。さて、何の事やら」


 のらりくらりと返す老人にタマメが苦笑する。少女はゆっくりと立ち上がり大きく伸びをした。続いてタマメは子供たちに視線を向け、真剣味を増した口調で言う。


「そう容易く修められる技でも無さそうだな……幼年部は数をかき集めて天稟を探す場、といった所か? <大喪失>が起こった世界で、かような技に意義を見出し継承していくのは難儀であろうな」


 そう言ったタマメに合わせるように、恭斎が応える声には微かな重みが加わっていた。


「竜の慧眼は、不心得者の目には金の成る木と見えましょう。くれぐれもご用心を」


「覚えておこう」


 少女がそう応えた時、道場の入り口から背広姿の男が老人に向かって歩み寄って来た。


「会長、そろそろ」


「もうそんな時間か。では、タマメ殿。私はこれで失礼致します。半ば隠居の身ですが、まだまだあちこち引っ張り回されておるのです」


 そう言って頭を下げた恭斎に、タマメも向き直り軽く頭を下げた。


「そうか。今日は話せて良かった、キョウサイ殿。色々と為になった」


「この爺も同感です。では、ごゆるりと」


 道場から出ていく恭斎の後ろ姿を見送ってから、タマメは今にも崩れ落ちそうな八潮の方へと向かった。


 その後、タマメを加えた女性陣二人に散々しごかれ、同じ型を三時間以上も反復させられた少年は、完全に消耗しきっていた。


 タマメの提案で近所のファミレスで昼食を取ろうという話になり、姫子は着替えるために更衣室に入っていた。身動きもままならず壁にもたれるように座り込んだ八潮の横で、タマメがのんびりとした調子で呟く。


「お互い、自分の身くらいは守れるようになりたい物だな」


「……タマメさんは気楽でしょうね。いざという時は竜に『変身』して暴れるだけなんですから」


 ぽかんとした顔で、タマメは八潮を見つめた。長い金髪をかきあげて、記憶をたどるように天井を見やる。


「……そういえば教えてなかったな。竜は一度でも人の姿になってしまえば、二度と竜の姿には戻れんのだ。今の儂は見た目通りのか弱い少女だ」


 少女から返ってきた予想外の応えに、八潮は疲れも忘れて腰を浮かせる。


「え、火とか吹いたりも出来ないんですか」


「馬鹿を言うな。竜族は猫舌なのだ」


 全く使い道の無い雑学知識に脳細胞を浪費させられた脱力感が、八潮の疲れきった肉体に追い打ちをかけた。






 足を引きずるようにしてようやく自宅に辿り着いた八潮は、ジャージのまま居間で大の字になり、苦行からの解放感を全身で味わっていた。足の指を伸ばして扇風機のスイッチを入れ、自分に風が向くようにもう片方の足で土台ごと引き寄せる。


 情けない物を見るような視線を向けてくるタマメに少年は気付く。八潮はごろりと寝返りをうってその視線から逃れ、口ごもりながら呟いた。


「格闘技みたいなのは向いてないんです。暴力とか、荒っぽいのは嫌いなんですよ」


「<護皇院流>は人が生きる上での『作法』を追究するものであって、体術はその一面でしかないと、ヒメコは言っておったがな」


 麦茶の入ったグラスに口をつけながらタマメがそう言った。少女は飲み干したグラスをテーブルに置き、黙りこくったままの少年の背中に言葉をかける。


「魔法も『暴力』だから嫌いなのか?」


「そうは言いません……でも、今の世界に必要だとも思えません」


「お前は少し、難しく考え過ぎなのではないか?」


 タマメはテーブルに頬をつけ、グラスの側面についた水滴を指と視線でなぞりながら言葉を続ける。


「儂は、人が魔法と共に生きる時代をこの目で見ていた。魔法があろうがなかろうが、人の生き様はそうそう変わらんと思うぞ」


「昔は昔、今は今でしょう」


 少しばかり苛立ちを感じた八潮は体を起こし、不満をぶつけるようにタマメを見る。その視線に応じるように顔を上げて、テーブルに頬杖をつく少女はどことなく切なげな目で少年を見つめていた。タマメの青い瞳に憂いの色が混じる。


「では、今の話をしよう」


 少女は畳の上を四つん這いで八潮に近づいた。ぎょっとして後ずさる八潮に構わず、半ばのしかかるようにタマメは少年の動きを封じる。突然間近に寄せられたタマメの顔とほんのりと漂う汗の香りに、八潮は狼狽した。少年の動揺をよそに少女は真剣な面持ちで言葉を紡ぐ。


「竜は常識を外れた存在だ。本来ならばこの世界に生まれ出る筈もない、言わば『理の外』にある種だ。故に、その命は魔法の力によって支えられている、と結論せざるを得ない。それは分かるな」


「……ええ」


「魔法を否定するということは、お前自身の中に流れる『竜の血』をも否定するつもりなのか? 千年の血の連なりを否定するのか?」


 そう言って、タマメは八潮の胸に人差し指を押し当てた。吸い込まれるような瞳の青に見入ったまま、少年は口をつぐむ。タマメが顔を少しだけ曇らせて、八潮から体を離した。


「少し意地悪だったな。答えやすい質問にしよう」


 畳の上にぺたりと座り込んだタマメの両手の指が、太ももの上で所在なさげに絡み合う。少女の視線が、少年との正対を避けるように心持ち伏せられた。


「魔法が嫌いというならば、『竜』である儂のことも……嫌いなのか?」


「そっちの方が意地悪です」


 ぽつりと呟いて、八潮は体を起こして座り直した。開け放たれたガラス戸から見える庭に視線を向けたまま、少年はただたどしく言葉を続けた。自身の心に誠実に、嘘のない言葉を出すように努力した。そうしなければならない、と思った。


「自分の血や、そういう事について話し合える相手がいるのは、何というか……気が紛れます。嫌いでは……ありません」


 そう言って、八潮はちらりとタマメを見た。少女は俯き加減のままで、その瞳の表情は前髪に隠れて読み取ることが出来なかったが、頬に少しばかりの紅みがさしているように思えた。

 

 少年はその時ようやく理解した。全てを見通すような自信ある態度を決して崩さないこの少女でさえ、『不安』という感情を持つ事があるのだと。






 その日、学校の授業終了とともに八潮とタマメは<GKIインフォメーション>へ続く道を並んで歩いていた。

 

 駅前の繁華街を抜けて通りを一本裏に入ろうとした時、少しばかり速度超過している乗用車が鋭くブレーキを鳴らして二人の進行方向に停車した。反射的に警戒の表情を浮かべた八潮とタマメの前に、背広姿の体格のいい男二人組が降り立った。


 男の一人はさり気なく、それでいて油断の無い視線を周囲に巡らせている。もう一人の男が軽く会釈をした。


 無意識にタマメの方へ体を寄せた八潮が、警戒心を露わにして男達に問いかける。


「どちら様ですか」


 少年の腕を優しく押さえてタマメが言った。


「心配いらん、公安の人間だ。以前に顔合わせした。儂の護衛と監視を兼ねている」


 少女の説明に頷いた男が、前置きなしに口を開いた。


「市内で不穏な動きがあります。鷹城課長の指示で、お二人を直接ご自宅までお送りするようにと」


 タマメが八潮を安心させるように頷く。公安職員の一人が少年と少女の背後につき、周囲の車両や歩行者の動きを訓練された目付きで追う。


「では、車の中へ」


 職員が後部座席のドアを開けて、八潮とタマメを促す。少年と少女の背中に手を添えた公安職員二人が子供たちを車内へ誘導しようとした。

 

 その時、彼らの上空に何かの気配が生まれた。


 どん、と音を立てて、公安職員二人の背後に影が降る。

 

 職員二人の反応は速やかだった。八潮とタマメを車に押し込みつつ、片手で懐から拳銃を抜き出す。素人目には視認するのも困難な速度で振り出される手の中から、セーフティを外す音が小さく響く。


 その男は公安職員達に比べてかなり小柄な細身の体格を、何かの工事業者のようなインディゴブルーの作業服に包んでいる。ヒジまでまくりあげられた両袖からのぞいている腕は筋肉質ではあったが、鍛えぬかれた公安職員らから見れば何ら脅威を感じさせる物では無かった。


 しかし、その男が左目に付けている黒い眼帯。それこそ男が内に潜在させている危険の傍証であると、彼を見る者に強く直感させていた。男は小さく笑みを浮かべたまま、公安職員の存在など歯牙にもかけない様子で後部座席のタマメの顔を見た。


 何も持っていない両手をだらりと垂らした黒眼帯の男の眉間に、二つの銃口が正確に突きつけられる。

 

 片方の公安職員の口が、動くな、と声を発するために開きかける。

 

 その瞬間、彼の口の中に大砲が撃ち込まれたような衝撃が生まれた。

 

 頭部の下半分の骨格が一撃でほぼ全て粉砕された職員の上半身が、その衝撃によって大きく反り返る。すでに絶命している職員の体が、スローモーションのように地面へと崩れ落ちていく。倒れる様を見届けるそぶりもなく、黒眼帯の男は血塗れの右拳を前方へ無造作に突き出したまま、もう一方の職員にコウモリのような微笑を向けた。

 

 公安職員はその凶行を前にしてもなお冷静に、黒眼帯の男の頭部を正確に照準して引き金を二度引いた。

 

 発砲の衝撃を彼の右腕が感じた時には、黒眼帯の男の姿は職員の視界から風切り音とともに消えていた。職員は目の前の事態を理解できないまま、自身の肉体に生まれた違和感に慄然とする。

 

 視線を下に落とす。自らの腹部に深々と突き刺さった、決して太くはない腕が視界に入る。そして熱く痺れるような感覚が、体の中心から全身へと伝わり始めた。内臓への致命的な損傷がもたらした出血が、気管と食道を通って職員の口から押し出される。

 

 血の泡を吹き出し、声にならない声を絞り出しながら、職員は朦朧とし始めた意識の中、足元で姿勢を低くする黒眼帯の男の頭に拳銃を向ける。

 

 再び風を切るような音が鳴り、男が職員の視界から消え去る。その瞬間、職員の側頭部に黒眼帯の男の左拳が凄まじい音と共に叩きつけられた。

 

 職員の体は風車のようにくるりと回転し、脱力したその両手両足を慣性に振り回されながら、血の帯を路上に描きつつアスファルトの上を数メートル向こうへ滑っていった。


 縫い止められたような静寂がその場に満ちた。


 十分な訓練によって鍛えられた上、銃器で武装した人間を二名。それを圧倒的な膂力で瞬時に殺害した黒眼帯の男は息一つ乱す様子もない。そしてドアを開け放たれたままの車内で呆然とする八潮とタマメを、男はぎらりとした眼光で見下ろした。

 

「抵抗すれば殺す」


 そして彼らの後ろにワンボックスタイプの白い車が停まり、扉が開く。中には自動小銃を持った男達が数人、隙のない視線でタマメと八潮が乗る車を見つめていた。黒眼帯の男が人差し指で招くようなジェスチャーを男たちにすると、彼らは少年と少女に銃口を向けつつ周りを取り囲んだ。


 タマメが小さな声で八潮に向かって呟く。


「あの眼帯、『島』で兵を率いていた男だ」






 その建物は表通りから少し離れた人目につきにくい、ありふれた雑居ビルだった。


 ビルの入り口に横付けした車から降ろされた八潮とタマメは、そのまま階段を昇らされる。二人の携帯電話は既に取り上げられ、ここに来る途中で通りすがりの軽トラックの荷台に投げ込まれていた。


 建物の中にいる人間の多くは自動小銃を携えた、明らかに日本人とは違う顔格好の兵士たちだった。通路をうろうろ歩きまわる兵士たちの様子から、このビル全体が彼らの占有空間になっていることが容易に想像できる。


 そのビルの三階にある、ごくありふれた事務所のようなレイアウトの部屋。開け放たれたその入り口から、八潮とタマメは黒眼帯の男に突き飛ばされるように室内へ押し込まれる。男を見る八潮の顔が思わず険しくなった。


「何だそのツラは」


 黒眼帯の男は吐き捨てるように言うと、八潮の首を右手一本で鷲掴んだ。男はそのまま片手で八潮の体を軽々と天井近くまで持ち上げ、腕をその位置でぴたりと静止させる。男の体格からは想像もできない怪力だった。少年の顔は見るまに紅潮し、目尻に涙がにじみ、喉からかすれるような呼吸音が響く。

 

 宙で足をバタつかせながら激しく暴れまわる八潮にも全く動じることなく、男はドアの外にたむろする仲間に向かって指示を出す。


「二人一組で周囲の警戒に当たれ。ビルには誰も入れるな。ここは俺一人でいい」


 黒眼帯の男がドアを閉めた。そこでようやく、男は八潮から手を離す。突然支えを外され、床に落下するように倒れ込んだ少年は、うずくまったまま激しく咳き込んだ。地面を這う虫に対するような表情で、男は八潮を見下ろす。


「調子に乗るなよ、ガキ」


 立ち上がれる様子にない八潮と男の間に割って入るように、タマメが毅然とした眼差しを男に向ける。


「子供相手に乱暴なことをする物では無い」


 タマメの鋭い視線を苦もなく受け止めた男は、アゴで事務所内のソファを指した。


 まだ呼吸がおぼつかない八潮を支えながら、タマメがソファに座る。少年もそれに続いてタマメの隣に崩れるように腰を下ろした。その様子を見ながら、黒眼帯の男は携帯電話に充電用ケーブルを繋ぎ、デスクの上にあった大型の封筒を取り上げる。


 男は二人と向かい合うソファにどっかりと座り込むと、この場には似合わない上品なティーセットにインスタントコーヒーの粉を入れ、かたわらのポットから湯を注ぎ込む。


「お前が『竜』だな」


 男は確信を持った声でタマメに言い放ち、封筒の中から大判の写真を数枚、テーブルの上に投げ出すように並べる。それは、八潮とタマメが出会った『島』を真上から撮影した映像のスナップショットだった。


 タマメが竜から人の姿に変わるまでの経過を収めたその連続写真は、かなりの解像度を持つ機器からの撮影と思われ、少女の姿形の特徴を完全に捉えている。


「しらばっくれても無駄だぞ。他にもネタは上がってる」


 そう言いつつ男が銀のスプーンで砂糖をたっぷりとコーヒーの中に流し入れるのを、タマメはじっと見つめていた。


 タマメは事務所の中をちらりと見回す。室内にいるのはこの三人だけだった。


 前触れ無くタマメがソファからゆっくりと立ち上がる。少女の突然の行動に、男は警戒の色を顔に浮かべると、タマメの後に続き腰を上げた。タマメは何事かを思案するような表情で、一歩ずつ確かめるように歩き出した。男はそんな少女をいつでも拘束できる距離を保ち、タマメとの間合いを計りつつ歩みを進める。それは黒眼帯の男が『八潮』へと接近する方向でもあった。

 

 八潮と視線を合わせないまま、<竜言語>でタマメが呟く。


『返事はするな。ヒメコと稽古した時の『型』を覚えているな? 儂があやつを誘導する。間合いに入ったら躊躇せずにやれ。『正しい型』と『正しい呼吸』でやるのだぞ』


 ようやく呼吸が落ち着いたばかりの八潮の心臓の鼓動が一段階速まり、彼はごくりと唾を飲み込んだ。


 少女の口から流れ出た意味不明な音節の羅列に面食らった黒眼帯の男は、八潮の存在を完全に失念した。そして男は自分の手首に何かがぽんと当てられる感触によって、その存在を思い出した。


 八潮が両手で、黒眼帯の男の左手首を掴んでいる。一瞬戸惑う表情を見せたが、男はにやりと笑い、八潮の次の行動を待った。


 この時、男が取るべき最善の選択はこの手を振り払い、八潮の頭蓋骨を一撃で叩き潰すことだった。しかし、自身が手にしていた超人的な力は男に対し全能感を与え、それが心に余裕を持たせ、ひいては致命的な一瞬の隙となった。


 八潮が小さく息を吐いた。少年は左足を半歩踏み出し、床をしっかりと叩き体重を乗せる。息を吸いながら、右足から螺旋状の力を指先へと伝えるイメージ。体をわずかに沈み込ませ、溜め込んだ息を一気に吐き出すと同時に、相手の手首を両手で軽く時計回りにひねる。


 黒眼帯の男の体がふわりと浮いた。男のぽかんとした顔が逆さになる。次の瞬間、男は重力加速度を完全に無視した勢いで、脳天から床に叩きつけられた。フローリングの下のコンクリートが砕ける音と、床に穿たれた十センチほどの深さの窪みがその衝撃の強さを如実に表現している。


 体を逆さにして床に突き立てられた男。その指が、びくっと震えた。八潮は思わず手を離して後ずさる。そして、黒眼帯の男の体は、ばったりと床の上に転がった。


 少年の付け焼き刃の技でさえ、この威力であった。理想的な条件が満たされた場で『達人』が同じ技を行使したならば、男の上半身は紙細工のように押し潰され即座に絶命していただろう。

 

 あおむけになった男の目は開いていたが、それは微動だにせず、鼻からどくどくと溢れだす血にも反応する様子は無かった。時折思い出したように小さく痙攣する手足が、男の生存をかろうじて証明している。


 八潮が自分の両手を見つめる。何が起こったのか全く理解できなかった。


「お見事」


 タマメが誇らしげな調子で言った。八潮は呆けた顔でぎこちなく首を少女の方へ回した。


「こ、これって……?」


「説明は後だ」


 失神したままの男の頭をタマメが足で軽く踏み、薄く笑みを浮かべる。


「この男から情報を取る必要がありそうだな。<大喪失>の正体を見極める手掛かりにもなる筈だ」


 いまだに混乱する思考の中、八潮は少女に言葉を掛ける。


「で、でもこいつその内、目を覚ましたりしないですか……」


 絞められた際の指の跡が軽い内出血を引き起こしている自分の首を、八潮がこわごわとさする。


「ん? うむ……そうだな。まあ、死体からでも情報は取れるだろう。殺しておくか」


 そう言って、タマメは黒眼帯の男の腰についているホルダーからナイフを抜き取った。刃の輝きは少女の力でも十分目標を達成できる切れ味に見える。しゃがみ込んだ少女がナイフの切っ先を男の喉に近づける様を見て、八潮の顔色が変わる。


「ちょ、ちょっと待って下さい」


 慌てて止めに入った八潮を、タマメが胡散臭げな顔で見上げた。


「何だ? もし今こいつが目覚めたら、儂らは今度こそ手詰まりだぞ。仲間もいつ戻ってくるか分からん」


 ナイフを軽く揺らしながら、タマメが立ち上がり言葉を続ける。


「それに儂が島で人を殺した時、お前は何も言わなかったではないか。今更何だというのだ?」


「それは、あの時は……無我夢中で、何というか」


 いまいち判然としない態度の少年にため息をついて、タマメはデスクの上にある黒眼帯の男の携帯電話を指差す。


「いいから、あれでタカシロに連絡しろ。公安の遺体を見て、儂らを必死で探しまわってるはずだ。すぐに駆けつけてくれるだろう。こやつは儂が今、始末しておく」


 その時、部屋の壁から硬い果物を切るような音が四回ほど連続して聞こえた。


 二人の視線が音の方向へ引き寄せられる。


 黒眼帯の男が伸びている背後の壁に、違和感が生まれていた。

 

 白い無地の壁紙の一角。縦二メートル、横一メートルほどの長方形を描くように切れ込みが入っている。そしてその部分の壁が型を抜くように、前方にズルズルとせり出してきた。

 

 あまりに非日常的な光景に、八潮の思考が追いつけずにいた。

 

 やがてその切り抜かれた壁が、がたんと外れてホコリを舞わせつつ床に重い音を響かせて倒れこむ。

 

 ちょうど人間一人が通り抜けられる形に開いた穴。

 

 その男は、そこからゆっくりと部屋の中へ進み入って来た。


 八潮は全身の毛穴が一息に開くような感覚に襲われた。

 

 明確に言語化できない直感に従い、少年はタマメの手を掴んだ。八潮の手を通して、タマメの体の緊張が伝わってくる。少女も男の一挙手一投足に最大限の警戒心を持っているように見えた。蜘蛛の巣に絡め取られたようにこわばる足を懸命に動かし、八潮はタマメを引きずるように男から距離を取った。


 血のように赤いコートを身にまとったその男が、部屋の内部を一瞥する。両手はコートのポケットにしまわれたままだった。

 

 八潮の視線と一瞬交差した男の瞳が、恐怖を感じ取るための本能的機能を万力のように締め付けた。

 

 八潮より二回りは高い身長。まっすぐに伸びた黒髪は肩にかかっている。浅黒い肌は日焼けなどではなく、この男生来の物に見える。その瞳は平坦な淀みに彩られ、人の情理とはかけ離れた物を感じさせている。

 

 八潮の位置からは、紅衣の男が出てきた隣の部屋の情景が壁にできた穴を通して見える。隣室の壁や天井に飛び散った血痕や、床にごろごろと転がる『何か』の塊。それを目にした八潮の背筋が、氷を押し当てられたようにこわばった。

 

 紅衣の男は片膝をつき、傍らで気を失っている黒眼帯の男の頭をぐいと持ち上げた。鼻血にまみれた顔からうめき声が上がり、男は目を開けた。

 

「カルラ……」


 絞りだすような声で名前を呼び、黒眼帯の男は唇に安心したような笑みを浮かべた。彼が次の言葉を発する前に、カルラと呼ばれた男の声が響く。


「船はどこだ」


 何の仮借をも感じさせない声が、八潮の体温をわずかに下げさせた。

 

「あの船は<統法機関>の所有物だ。返してもらう」


 その声色に黒眼帯の男の笑みが消える。彼は体を起こして這いずるように背中を壁に預けると、震える指で胸ポケットから鍵を取り出し、カルラに差し出す。


「だ、第二支部の目の前だ。誰にも見つからないようにしてある」


 カルラは鍵についた鎖を指でつまむと、それをくるりと回した。流れるような動作で立ち上がりつつ、鍵をコートの内ポケットにしまい込み、再び黒眼帯の男を見る。

 

 カルラの右手にはいつの間にか刀が握られていた。六、七十センチ程の刀身が鈍い輝きを見せている。その切っ先は黒眼帯の男の喉元に当てられていた。


「何故、船を盗んだ?」


「ち、違うんだ、カルラ。『竜の島』を見つけたんだ。海自に見つからないように国外から人を送るには、あの船のステルス性能が必要だったんだ」


「竜? 何故、機関に報告しなかった?」


「じ、実物の竜を捕まえてから、連れて行くつもりで」


 カルラの目がすっと細められる。


「偵察衛星の撮影データをお前に流した米国諜報員は、<統法機関>の協力者でもある。お前が『何らかの機密』の引き渡しと交換条件で、米国に相当な金銭を要求していたことを教えてくれたぞ」


 黒眼帯の男の顔がひきつっていく。


「頼む、見逃してくれ。そいつをやる」


 男が、タマメを指差す。

 

「そ、そいつが『竜』だ」


 カルラがゆっくりと少女に視線を向け、タマメの全身をくまなく観察する。八潮が握っている少女の手がこわばった。


「この娘がか?」


 必死にうなずく黒眼帯の男。カルラは八潮にちらりと視線を投じた。


「隣の男は何だ?」


「竜の知り合いかなんかだ。公安が来たら人質に使えるかと思ったんだが、何か妙な技を使いやがる。気をつけろ」


 カルラはタマメから視線を外さずに、黒眼帯の男へと言葉を投げた。


「お前は<術石>も持ち出した筈だ」


「あ、ああ。もちろん返す。ほら、ここだ」


 そう言って眼帯をずらし上げる。本来眼球が入っている場所には、赤く輝く宝石のような物体が埋め込まれていた。それを見たタマメの視線が鋭さを増した。

 

 カルラがその赤石をちらりと見やった瞬間、黒眼帯の男の頭から血と肉と骨片が飛び散る。彼の頭部の左半分が一瞬で消散した様を、八潮とタマメは呆然と見つめた。

 

 宙高く撒き散らされた血飛沫の中、赤石が一際鮮やかな光を放ちつつ、くるくると回転している。

 

 カルラは刀を一振りして、刀身に着いた黒眼帯の男の血を払い、もう片方の手で空中の赤石を無造作に受け止める。

 

「確かに返してもらった」


 悲鳴も上げずに絶命した黒眼帯の男の体が、ズルズルと壁にそって床に倒れこむ。

 

「一緒に来てもらう」


 カルラが少女に視線を向け、一歩進み出る。タマメが唇を軽く噛み後ずさるが、背後のソファに阻まれてもう後は無かった。隣に立つ八潮は緊張に満ちた表情で、カルラとの間合いを計るように上体をわずかに前傾させる。

 

 その時カルラの意識が、八潮の脇にあるデスクの上に置かれた『鏡』に向いた。そこには八潮の背中が映し出されている。

 

 そして、少年が後ろ手にした右手の中、携帯電話が握られている事にカルラは気付く。黒眼帯の男が持っていたそれは、数分前からとある番号への回線を繋いだままになっていた。

 

 超人的な直感が、窓の外へカルラの視線を振らせた。向かいのビルの屋上の縁から覗く小さなシルエットと光の反射が、カルラにこの状況の全てを悟らせた。

 

 予備動作も無しに、カルラは凄まじい速度で刀身を自身の顔の前に振り上げる。その瞬間、窓ガラスが砕け散り、カルラの目の前で火花が散る。折れはしなかったが、ライフル弾の着弾を逸らした衝撃で刃はたわみ、カルラの体勢も一瞬崩れる。

 

 同時に事務所の反対側のドアが開き、外から金属製の小さな筒状の物体が投げ込まれた。八潮は反射的に目をつぶり、タマメをソファに押し倒してその上に覆いかぶさる。金属筒が床に落ちた瞬間、室内は閃光と轟音に満たされた。

 





 雑居ビルの中からの死体搬出は、まだ時間がかかりそうだった。


 国籍不明の兵士達の死体は、発砲する暇もなく喉や心臓を突かれている者が多かった。そうでない犠牲者は原型をとどめないほどに『解体』され、血を周囲に撒き散らしていた。


 鷹城はビルの内部を一通り見て回った後、スーツ姿の部下からの報告を歩きながら聞いていた。彼らの後ろには、狙撃用ライフルと短機関銃を携えた三人の兵が付き従っている。


「足跡から見ますと、ビル内の死体は全て一人でやったようです」


「カルラ、だったか。あの状況を凌ぎきるとは、とんでもない化け物だな。警察の検問も期待薄か」


 黒背広のネクタイを緩めながら、鷹城がため息混じりに呟く。

 

 彼が見上げた先、子供たちが監禁されていた三階の事務所の窓ガラスは破られており、その真下にある乗用車の屋根は大きくくぼんでいる。

 

 後ろについていた、狙撃用ライフルを持った兵士が神妙な表情で鷹城に近付いた。


「課長。次は対物ライフルの使用許可を」


「そう気負うな。我々の仕事は『殺し』じゃない。ここはもういい、本隊に合流しろ」


 そう言って鷹城は宥めるように笑みを浮かべ、兵士の肩を軽く叩いた。部下達と別れて一人になった鷹城は立ち止まり、シルバーフレームの眼鏡を外すとそのレンズを胸ポケットから取り出した布で軽く拭く。

 

 やや離れた場所に停まっている一台の車両に視線を移すと、鷹城は眼鏡をかけ直し表情をわずかに険しくした。





10


 ベージュ色の毛布を肩から羽織る二人は後部座席で押し黙ったままだった。車内には八潮とタマメ以外に誰もいない。車の周囲に護衛の警官が数人立っているのが、窓ガラス越しに見える。


 八潮とタマメは車内で距離を置き、それぞれの側の窓から外を眺めていた。


「さっき、僕が使った力は何なんですか」


「あれは『魔法』だ」


 事も無げに答えた少女の言葉に、八潮の肩が小さく震えた。少女は窓の外を見つめたまま話を続ける。


「<護皇院流>の体術は、体を走る『気』の流れを擬似的な術式回路として展開し魔力を発現させる、れっきとした『魔法』だ。身体強化や、打撃威力の増幅を狙ったものなのだろうな。なかなか創意に富んでいる」


「……今の世界で魔法は使えない筈です。先日のようなボヤ騒ぎは例外として」


 疑わしげな口調の八潮に、タマメはビルの中から引っ切り無しに運びだされる『袋』の列を眺めながら答える。


「そうだな。どんなに正しい術式を組んでも、今の世界で魔法は発動しない筈だ」


 少女の瞳が鋭さを増した。


「だが、あの眼帯男は明らかに魔法による身体強化を施されていた。つまり、この世界が<大喪失>によって『魔法の失われた』世界であるにも関わらず、あやつは『魔法を使える』状態だった。どういうカラクリか分からんが」


 少年が窓の外から、タマメの方へ顔を回す。少女の言葉に含まれた重大な意味に表情が引き締まる。タマメの顔は相変わらず窓の外へ向いていた。


「そして、そのカラクリはあやつが『触れて』いる物に対しても、『魔法を使える』状態にする作用があった」


「何故、そんなことまで分かるんです?」


 タマメは少年の方に向き直る。その表情には微かな怯えのような色が浮かんでいるように思えたが、少女の声音から沈着さは失われていなかった。


「やつが茶を用意した時の事を覚えているか。砂糖を匙ですくった時の事だ」


「ええ。それが?」


「銀と砂糖の組み合わせはな、微小な発光魔法を発現するのだ。やつが匙を持っている間だけ、わずかに輝きが確認できた」


 少年が言葉の意味を飲み込んだことを表情から察したのか、タマメは再び窓の外へ視線を戻す。


「であれば、お前があやつに触れている間だけなら、お前も『魔法を使える』状態になる筈だ、と踏んだのだ」


 タマメが座っている側の扉が開き、鷹城が車内を覗きこんだ。


「落ち着いたか」


 鷹城のいたわるような言葉に答える代わりに、八潮は質問を返した。その口調にはとげとげしい物がはっきりと浮かんでいる。


「何ですか、<統法機関>って」


 少しの逡巡の後、鷹城は答える。


「……この現代において『魔法を実用化』した疑いのある団体だ。組織の詳細は我々もまだ掴みきれていない」


 八潮の呼吸がわずかに荒くなった。噴き出す感情を抑えるように、言葉を少しずつ絞り出す。

 

「これ、魔法のせいなんですよね」


 少年はタマメの体の前に身を乗り出すようにして、少女が座る側の扉から外に視線を向けた。建物から何体目かの死体袋が運び出されていくのを怒りの目で見つめる。


「魔法は根絶しなきゃ」


 八潮は苦々しげに言葉を吐き出す。


「魔法は『悪』なんだ」


 少年の瞳が黒い炎に彩られていく。声の端々から、少年の胸の内に淀む憎悪がくっきりとした輪郭を持って現れ始める。


「存在していては駄目なんだ」


 八潮自身気づかぬ内に、彼の手はタマメの小さな肩に載せられていた。少年自身の言葉に呼応するように、その指先へ力が込められていく。少女の体に走った強い動揺にさえ、激情に駆られ始めた少年は気付くことが出来なかった。


「ヤシ……オ……?」


 今にも消え入りそうに震える、ささやくような声で名前を呼ばれ、はっと八潮は声の主に視線を向ける。

 

 八潮を呆然とした面持ちで見つめるその少女は、触れるだけでその全てが崩れ去る砂の像のような儚さに満ちていた。

 

 その青く透き通る瞳から一粒こぼれ落ちた『涙』。

 

 そして少年は思い出す。

 

 『魔法の否定』は、『竜の否定』であることを。

 

 血の盟約に基づいて、少年に全てを捧げると誓った少女を『否定』する行為であることを。


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