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第三話  ワンワンパニック


 窓から見える入道雲の一部が、炎天下の外界の様子を容易に想像させている。


 年間を通じ、一定の温度と湿度を保つように調整されたその部屋の一角で、制服姿の篠崎八潮は大量の書類と組んず解れつの戦いを繰り広げていた。


 窓際に置かれた作業机の上。そこに広げられた書類の文面を、少年は真剣な面持ちで追いかけていた。

 

 かたわらに置いたメモ用のノートには、要点と思われる部分が箇条書きに記録され、足元には『未処理』、『処理済』とマジックで書かれた二つのダンボール箱。箱の中には書類バインダーや書類封筒が縦にいくつも差し込まれて、横から見ると蛇腹のような様相を呈している。

 

 ざっと書類に目を通し、その概要をまとめて分類番号とともに目録用のバインダーへとファイリングする。整理の意思を初めから放棄された膨大な書類。それらに対する分類作業が、少年に課せられた目下の任務であった。


 書架に入っているバインダーだけではなく、部屋の隅に高く積まれたダンボール箱の中へ無造作に放り込まれている書類封筒の山、そして山。そこに待ち受けている作業量を想像して、八潮は深くため息をついた。


 そもそも、会社が持っているこういう情報を外部の学生に任せていいのだろうか、という疑問が少年の頭からは離れずにいた。


 <GKIインフォメーション>の三階建て社屋。その一階に位置するこの資料室には怠惰な空気が満ちていた。

 

 八潮は椅子を回すと、その暇を持て余していそうな人物に話しかけた。

 

「タマメさん、ちょっと手伝って欲しいんですが」

 

「ああ。後でな」


 夏用制服に身を包み、ソファに小さな体を沈み込ませるような姿勢で新聞を広げている世界最後の竜、タマメ。彼女は気のない調子で答えた。


 何回かこの会社で、職業体験活動として業務補助をこなしていく内に、この職場の勝手が分かってきた八潮ではあった。もっとも、この場所を「職場」と呼んで差し支えないかどうかという点は、異論のある向きが少なからずあるだろう。芹岡が腐るのも無理はないような気がしていた。


「アンタも熱心だねえ。タダ働きみたいなもんだっつーのに。チビ助見習って、適当にダラダラしときゃいいじゃんよ」


 赤のタンクトップにデニム地のボトム、肩のあたりで雑に切り落とされた茶髪がその性格の表れにも思える。接客スペースのソファにだらしなくあぐらをかき、ガラステーブルに広げた折り込みチラシの上で足の爪を切っている女性が呟く。


 天童静。何て上品な名前だろう、と八潮は思う。


 この人は、自分に名前をつけてくれた時の親御さんの気持ちを考えたりはしないのだろうか、とも思った。もちろん少年がそれを言葉に出すことは決してない。


「社会人としてどうなんですか、それ」


「おーおー、言ってくれるじゃないか、小僧」


「っていうか、午後はずっとこの部屋にいますよね」


 だから何だといった表情で、静は横にあるタバコの箱に手を伸ばす。


「ここが一番涼しいんだよ。三階はクーラー全然効かないし、二階の事務所は芹岡のオッサンがうるせえし」


「……天童さん、本当に仕事しなくていいんですか?」


「アタシの事は『静』でいいよ。堅っ苦しいのは肩がこるさね……大体、仕事ならやってるってーの……あれ、おーい栄作。火くれ、火」


 タバコをくわえた唇をぞんざいな態度で横へ向ける。

 

 静は最後の一本を取り出したタバコの箱を握りつぶし、ゴミ箱へ向けて放り投げる。それがいつも通り狙いを外れて壁際に転がっていくさまを、八潮は仏頂面で見送った。


「へい。ただ今」


 彼女の斜め後ろに控えていた野呂栄作は、低い声で応える。

 

 彼は、白いジャージの上下で包まれたずんぐりとした体をきびきびと動かし、静の横に位置取りをした。その手には既に火の着いたライターが握られている。


「ん」


 実に簡潔な一言でねぎらいの意を示す静に、栄作は会釈をする。

 

 そして彼は床に転がるタバコの箱の残骸をひょいと持ち上げ、ゴミ箱の中に入れた。再び元いた位置に戻った栄作は、両手を後ろ手に組み直立不動で次の指示に備え始めた。八潮はある意味、感嘆の意をもってそれを見ていた。その視線に気付いたのか、栄作が八潮にふっと注意を向ける。


 特に言うべきことを決めていたわけでは無かったのだが、栄作の優しく問いかけるような視線に思わず少年の口が開いた。


「野呂さんは……」


「オレも『栄作』でいいよ、八潮くん」


 そう言って、栄作は作業机の上で斜めになった書類バインダーの山をさり気なく丁寧に直した。そして、彼は壁に立てかけられていたパイプ椅子を引き寄せると、八潮の隣によっこらしょと声を出して座る。


 丸々とした肉付きの手足であったが、栄作の所作に無骨さは無く、むしろ流れるような優雅さを見てとれる気がした。何かを尋ねあぐねているような八潮の表情を見ると、栄作は優しく口元を緩め、気遣うように会話の端緒を開いた。


「オレと姐さんはね、道場では八潮くんのお父さんの弟弟子だったんだ」


 初めてこの二人と会った時に、父の名前、篠崎厳真の名前が静の口から出ていた。その時からずっと疑問だったが、父と彼らの関係について確かめるきっかけを、少年はついぞ見つけられずにいた。


「へえ……」


 八潮は予想外の言葉に、意図せず呆けたような声が出る。


 栄作の物腰の柔らかい表情が、遠くを見つめるような視線と穏やかに調和している。いつも変わらぬ柔和さを漂わせるその顔は、短く刈り込まれた髪やその丸々とした体格とも相まって、大仏のような風格を感じさせていた。


「まあ結構、歳は離れてたけどねー。強かったなあ、厳真さん。八潮くん、厳真さんから聞いてないの? 道場のこととかさ」


「……父とはあまりそういう話をしないので」


 少し気まずい思いになった少年は、そのまま会話を打ち切るように作業机の上へと視線を戻した。


「ふーん……そうなんだ」


 栄作はそう言うと、特に八潮への言葉を続けることもなく、窓の外へ視線を巡らせると腕組みをして体を背もたれに預ける。


 ソファで新聞を読みふけっていたタマメが立ち上がる。書架の列の前で何かを思案する風を見せた後、バインダーを一つ取り出した少女は、立ったままその中身に目を通し始めた。


 そういや、と静が視線をぐるりと八潮へ巡らせる。


「あのチビ助は何なんだ? 芹岡のオッサンは、どっかのお偉いさんの隠し子だと思ってるみたいだな。腫れモノに触るようなあの態度は笑えるわ」


「ええと、ウチの遠縁の親戚……ですね」


 タマメの背中を見ながら、言葉を選んで返す八潮。一応それは嘘ではないはずだった。






 夕飯の買い物客が行き交う商店街の中を、八潮とタマメは駅に向かって歩いていた。


 その体には少しばかり大きい学生鞄を、小さな肩からたすき掛けにしているタマメは、八百屋や肉屋の店先を通り過ぎるたびに食材やら何やらに視線を奪われているように見えた。


 タマメは青い瞳を輝かせながら、八潮に向かって言う。


「今日の夕餉は何だろうな。そういえば儂と同じ名前の魚がいるらしいぞ。知ってるか? いつか食してみたいものだ」


 その時、小刻みな足音が突然背後から現れた。振り返った少女の前に白い影が大きく伸び上がる。その正体を確かめる間もなく、タマメは自分の両肩が強い力に押さえつけられるのを感じた。


「ふぎゃっ!?」


 八潮の目の前で、タマメは長い金髪を振り乱しながら尻餅をついた。さらにその影は跳びかかった勢いのまま、少女を地面に押し付ける。タマメの身長をも超えようかという大きさの白い物体が、息を荒げながら少女にのしかかっていた。

 

「ヤ、ヤシオ……た、助け、てくれ、ひゃっ!? や、やめっ!」


 首輪とリードのついた白い大型犬に、顔中を舐め回されている世界最後の竜の姿というのは、中々に珍しいだろうなと八潮は思う。

 

 滅多に使わない携帯電話のカメラ機能に出馬願うべきだろうかと思い迷う。結局、八潮はタマメを積極的に助けようとするでもなく、この一人と一匹による一方的な寝技合戦を眺めていた。


「あらあら、ごめんなさいねー」


 後ろから追いかけてきた、ジャージ姿の品の良さそうな主婦が声をかけてくる。彼女はリードをぐいと掴むと、白犬にやや強い調子で言い聞かせる。

 

 白い尻尾をぱたぱた振りながら名残惜しそうに、その大型犬がタマメから離れる。怪我はないですかと平謝りする主婦に対して、お気遣い無くと返す八潮のやり取りがしばらく続いた。

 

 いつの間にかタマメは立ち上がり、少年の制服の裾を掴んで彼の陰に隠れている。いまだに隙あらば、との意欲を隠そうとしないその犬を、少女は小刻みに震えながら窺い見ていた。やがて、その主婦は頭を何度も下げながら白犬とともに夕方の喧騒の中へと消えていった。


 少女がようやく、ふうと息をついて落ち着きを取り戻した。


「タマメさん、これどうぞ」


 苦笑いしながら八潮が差し出したハンカチを、ぶすっとした顔で受け取るタマメ。唾液まみれになった自分の顔をふくれっ面で拭うその頬には、心なしか紅みが差している。


 不意に、遠くから消防車がサイレンを響かせながら近づいてくる。通りを一つか二つ挟んだあたりを通ったかと思うと、その音は速やかに遠ざかっていった。


 タマメがハンカチを八潮に返しながら呟いた。

 

「なんだ。やけに騒々しいな」


「ええ。ボヤ騒ぎが続いてるとか。放火の疑いもあるみたいで、警官もしょっちゅう見かけますよ」


 日が傾き、赤みを帯び始めた町並はいつもと変わらない日常に思えた。






 昼休みの教室はいつもと変わらぬ喧騒に満ちあふれていた。


 八潮は自分の席につき、片手にもった文庫本のページを器用にめくりながら、もう一方の手で弁当に箸をつける。すぐ隣からは、わいわいと賑やかな女子たちの声がひっきりなしに漏れ聞こえている。


 護皇院姫子を含めた四、五人の女子生徒と机をくっつけて、仲良く談笑しながら昼食をとるタマメ。クラスに仲間入りしてからそれほど経っていないというのに、すでにタマメは女子生徒の間でマスコット的な存在となっていた。

 

 姫子がウインナーをぱくつきながら呟く。

 

「最近、火事多いよねー」


「こないだなんか、真っ昼間の道の真ん中でいきなり火が出たんだって。ママが言ってた」


「うっそ、何それこええ!」


 一人の女子生徒がタマメの手元を覗き込み、目を輝かせる。


「おっ、タマちゃんのお弁当おいしそー」


「これはフミノ殿が作ってくれるのだ」


 もぐもぐと肉団子を頬張りながらタマメが応える。その名前を聞いた姫子が、フォークを口にくわえたまま天井を見上げた。


「文乃おばちゃんかー、最近会ってないなー。八潮の家にも全然行ってないしなー」


 また別の女子がサンドイッチをかじりながら、感心したようにタマメを見つめる。


「タマちゃん日本語上手だよねえ。ちょっとレトロな感じだけど」


「言葉を覚えるのは得意なのだ」


 そう自慢気に言うと、タマメは最後の白飯を口に放り込んだ。再び同じ女子が少女に尋ねる。


「ねえねえ、タマちゃんも『篠崎』って、篠崎くんの親戚なの?」


「ん、元々はだな、儂の生まれた所では姓を名乗る風習は無いのだ」


 そう言うと、タマメはランチボックスの蓋をぱたんと閉じて、黄色のバッグにしまう。かすかに低くなった少女の声のトーンに、周りの関心がそれとなく向く。タマメと同席していない他の男子や女子も、少女の言葉の行く先をちらちらと気にし始めていた。


 タマメは長い金髪を軽く指で整えると、言葉を続ける。


「色々あって、身寄りが全員いなくなり天涯孤独の身になってな。それを知った遠縁の篠崎家が、親切にも儂を引き取ってくれることになったのだ」


 どこからともなく、小さく鼻をすすり上げる音が聞こえる。


「まあ、日本で暮らすならば姓を持ったほうが何かと都合が良いだろうと、篠崎姓を名乗らせてもらっている、という次第だ」


 そう言うと、タマメはその人形のような整った顔に微笑を浮かべる。途端に周りの空気が和やかさを取り戻した。感極まったように瞳を潤ませた女子生徒の一人が頷いた。


「良かったねえ。篠崎くんも優しいお兄ちゃんって感じだしね」


「分っかるー。何かそんな感じだよねえ」


「うむ。儂とヤシオはもう家族と同じだ」


 タマメはそこで一計を閃いたような微笑を浮かべ、ちらりと八潮に視線を向けて言葉を続ける。


「なにしろ出会った次の日には、『生まれたままの姿』を隅々までヤシオに見られたくらいだからな」


 その瞬間、八潮は咳き込み、飯粒が辺りに飛び散った。そして彼を中心に教室が静まり返る。


 タマメが竜から人の姿となった時の場面が、少年の脳裏に思い起こされた。確かに今の発言は事実ではあるが、この文脈の中で言及する話題としては実に不適切な代物であり、八潮は突然の動揺の中で自身の立場が急変していくのを感じた。


 皆の血走り始めた視線が、錆びついた歯車のような動きで向きを変え、八潮に集まっていく。


 そんな沈黙を意に介さぬ様子のタマメが、頬に両手をぺたりと当てて、恥ずかしそうに続ける。


「更に言えば、儂とヤシオは『血』を流して『ちぎり』を結んだ仲でもあるのだ」


 教室の温度が更に下がる。畳み掛けられる絶望が少年の心を覆い尽くそうとしていた。


 確かに今の言葉も事実であることを否定できなかった。あの時、八潮の手のひらから流された血によって、かの盟約は成立したのであるから。


 殺気すら感じられる視線の刃が、四方八方から突きつけられる。八潮の背中に冷たい汗がひとしずく流れた。


 教室のところどころから、驚愕と怒りと軽蔑が混ぜあわせになった声が漂い始める。


「篠崎、お前……」


「え……信じらんない……」


「……最っ低……」


 姫子がタマメを抱きかかえて自分の膝の上に乗せる。八潮を睨みつけるその視線は、ありありとした敵意に満ちていた。


「タマちゃん、こっちおいで。もう八潮に近寄っちゃダメだよ。今日から私の家で暮らしなね」


 あちらこちらから「通報」とか「ロリ」とか物騒な単語が聞こえてくる。


 ぽんと、八潮の両肩に手が載せられ、友人たちの深刻そうな顔が左右から近づけられた。


「篠崎、心配するな。オレは中学の卒業アルバムを週刊誌に売ったりしないからな」


「篠崎、テレビのインタビューにはちゃんと『そんなことするような奴じゃない』って答えてやるからな、安心してお勤め行ってこいよ」


 少年は友情の素晴らしさをじっくりと噛み締める。それが砂の味だったこと以外に不満は無かった。






 夏の強い日差しに目を細めながら、タマメが隣を歩く八潮に気の毒そうな声をかける。


「ひどい目にあったな、ヤシオ」


「絶対わざとですよね。ちょっとひどくないですか」


 誤解が解けたのは奇跡と言ってよかった。ディベートの才能が花開いたのではないかと思うほど、少年の舌は回りに回ってクラスメイトを半ば煙に巻くことに成功した。人間は生命の危機に直面すると頭脳の回転が数倍増しになる、というのは事実らしかった。


 八潮の文句に、タマメは不服げな視線をつんと横に向け、小さな唇を軽く尖らせる。

 

 普段の少女の言動からは少々かけ離れた態度だった。しかし意外にもしっくり来るその様子を見て、八潮は少しばかりの驚きを内心に抱いた。


 タマメが口ごもりながらも反論する。


「ひどいのはお前の方だ。先日は儂をあの犬っころから助けてくれなかったではないか」


「結構根に持つタイプなんですね……」


 二人が<GKIインフォメーション>資料室の扉を開けると、気の抜けたような女性の声が響いてきた。


「防犯パトロールだあ?」


 静は今日もソファの上でだらしなく体を横たえ、向かいに座る芹岡の言葉を面倒くさそうに聞いている。管理職の悲哀を一身に背負うような芹岡の頭髪は、最近さらに薄さを増しているように八潮には感じられる。


「地域貢献だよ。最近、ボヤ騒ぎが続いてるからね。今夜から頼むよ。やってくれれば、ボーナス査定にイロつけてもいいけど」


「……しょうがねえな」


 ボーナスと聞いた途端に頬をゆるめた静が、ソファの上で姿勢をほんの少しばかり正す。八潮とタマメに気付いた芹岡が、手を振って話しかける。


「ああ、そっちの二人は気にしなくていいからね。このグータラ正社員どもにやらせるから」


 静の顔が今にも噛み付きそうな形相を見せる。


 テーブルの上には、頻発するボヤ騒ぎを地図付きで報じた新聞が広げられていた。それをじっと見つめていたタマメが、顔を上げる。


「いや、セリオカ殿。儂らも手伝おう」


 目を丸くして反対しようとする八潮の脇を手荒に突っつくタマメに、少年は渋々黙り込んだ。

 

 その後、例によって静や栄作と益体のない雑談を繰り広げながら、少年は資料室の書類整理に終業時刻まで明け暮れた。

 

 パトロールの準備をしてくるといってどこかにふらりと消えた静。彼女を夜の町で待つ間、八潮は携帯電話を片手に申し訳無さそうな声を出していた。


「ええ、今日は僕らの夕飯はいらないんで。すみません、文乃伯母さん」


 そう告げて八潮は通話を切り、視線を上げる。そこには既に静が到着しており、彼女は遠足前日の子供のような喜色を浮かべた顔で少年に視線を向けていた。


「おーし、行くぞ、ガキんちょども。特別にメシもおごってやろう。今夜のアタシは機嫌がいい」


 珍しくやる気を見せる静は、本格的な装いで夜の繁華街に仁王立ちしている。

 

 黄緑色の反射材が表面を覆うチョッキの背中には、町内会の名前が入っている。肩からかかっているのは『防犯パトロール』と印字されたタスキ、さらに右手にはバトンの形をした誘導ライトを握っている。静のチンピラ紛いの人相にさえ目をつぶれば、彼女はどこからどう見ても夜の治安を守る人間の格好だった。


 そして完全武装の静を先頭に、普段着の栄作と制服の八潮とタマメが付き従って夜の町を練り歩く。途中ファミレスで食事を取った際、会計時に静が会社の名前で領収書をもらっていたが、八潮は見なかったことにした。


「くっそー、つまんねーな。何か起きねーかな」


 静がくわえタバコで周囲を睨めつけながら、ガニ股で歩いている。防犯パトロールとは言うものの、静を夜に出歩かせることそれ自体が、街の治安悪化に繋がっているように思えた。もちろん少年がそれを口にすることは無かった。


 ふと、ある三叉路で、タマメの足が止まる。少女は立ち止まったまま、何かを目測するかのように片目をつぶって親指を立てた腕を前に伸ばしている。各々の道が続く方向を交互に見比べていたタマメに気付き、八潮が問いかけた。


「タマメさん?」


「……いや、何でもない。行こうか」


 消化しきれない思案を腹に残したままのような声で、タマメは応える。

 

 その夜は結局何のトラブルもなく、彼らの足を棒に変えただけだった。


 翌日の<GKIインフォメーション>資料室では、社員三名と学生二人のメンバーが勢揃いしていた。

 

 彼らはガラステーブルの上に広げられた、会社周辺の地図を囲んでいる。それは人一人がやっと通れるくらいの細い道までをも網羅した極めて詳細なものだった。


 やや不安げな面持ちで芹岡がタマメに問いかける。


「タマメちゃん、これでいいのかな?」


「うむ。かたじけない、セリオカ殿」


 芹岡がほっと顔をほころばせて手を振る。


「いいのいいの。本社に問い合わせたらね、バイク便ですぐ送ってくれたよー。返さなくてもいいっていうから、自由に使ってね」


 タマメが人差し指をくいっと曲げて、八潮を見る。


「ヤシオ、何か書くものをくれ」


 小さい手に握られたボールペンが、すらすらと手際よく丸印と日時を地図の中に書き込んでいく。


「確認されているボヤ騒ぎは、全部で十八件か」


 全ての場所をチェックし終えたタマメが、口元に手を当てて考えこむ。栄作が新聞記事の切り抜きと見比べながら、地図を横から覗き込んだ。


「時間帯も曜日もバラバラに見えるね」


 静が、閃いたとばかりに指を鳴らし、得意げな顔で言う。


「あ! 放火魔はあれだな、仕事してない野郎だ」


「それキミたちのことだよね?」


 間髪入れずに突っ込んだ芹岡に、静が般若のような表情で凄む。歯をむき出し、視線から火花を散らして睨み合う静と芹岡。

 

 横で繰り広げられる漫才には構うことなく、タマメは地図の上に記された点をじっと見つめていた。


 ひとしきり睨み合った後で、芹岡は仕事の続きがあると二階に戻り、静と栄作も遅目の昼食を取るべく資料室から出て行った。


 八潮も、押し黙ったままのタマメを気にしつつ、自身に割り当てられた作業の消化を始めることにした。


 結局、タマメは一時間近くも地図に見入ったまま動こうとしなかった。

 

 声をかけるのもはばかられる雰囲気だったが、そろそろ帰宅の準備に入る時間が迫ってきている。この日の作業に目処がつき始めた八潮が、タマメに話しかけようかと思ったその時、少女が右手をゆっくりと持ち上げる。


「次に火が出るのは『ここ』だ」


 タマメが地図の一点、まだ何も印がついていない場所に指を置く。小さな指先を目で追った少年の顔が、少女を咎めるような色に変わる。

 

 その時、扉が騒々しく開き、静と栄作が食事から戻ってくる。他人の不幸に笑いがこらえられない、という調子の大声が室内に響く。


「ウケるな、消防署で火事とか! 税金返せって感じだわ!」


 少女の指の下にある『消防署』の文字を、八潮は半ば呆然としたまま再度確認する。


 タマメは地図を見つめたまま、静かにささやいた。


「これは『魔法』によって引き起こされた事件だ」






 日が沈むまでには、まだ間があった。

 

 早めに<GKIインフォメーション>での作業を切り上げた八潮は、タマメに促されるまま、繁華街と住宅街の境界付近に通じる一車線道路に来ていた。人通りはさほど多くはないが、途切れる様子もまた無かった。


 タマメが辺りを油断ない視線で見回しながら、少年に言葉を向ける。


「町全体を囲うように、発火現象を特定の場所に生み出す『術式』が形成されている」


「されているって……えっ、放火犯が魔法を使ってるってことですか? いや……そもそも<大喪失>以降、魔法を再現する試みは全て失敗しているはずですけど……?」


 素っ頓狂な声を出す八潮に、不満そうに眉をひそめて少女が応える。


「そこが、よく分からんのだ。まあ、これを見ろ」


 タマメは地図を両手で広げ、八潮に向けて見せる。正面から見ると、少女の小さな上半身は完全に地図に覆い隠されていた。

 

 八潮は少し腰を曲げて、地図に自分の顔を近づけた。

 

 地図上の道路の一部が黄色の蛍光ペンでなぞられている。その軌跡は、一見複雑だがある規則性をもったシンボルが滑らかに連なった、いわば『ドーナツ』の輪となって町全体を囲んでいた。

 

「町を縦横に走る『道』それ自体が、魔法術式の回路を組み上げている。呪印単位は『まじない』に近い原始的な手法だが、その構造は複雑を極めている。並の術士では、これが術式であることにすら気付かんだろう」


 流れるように説明をしていたタマメは、少年の不審そうな気配に気付いた。


「ん、何だ?」


 地図を下げ、顔をひょいとのぞかせる少女に、八潮はおそるおそる尋ねる。


「いや、あの……竜は魔法を使えないんじゃ?」


「魔法を『使えない』とは言ったが、『知らない』とは言ってないぞ」


 少女の挑みかかるような微笑と上目遣いが、ぞくりとするような怜悧さを持って八潮に向けられる。


「竜の知恵を侮るなよ。魔法の理論と行使に関しての知識。<大喪失>以前の高位魔術師相手だろうが、決して後れを取るものではない」


 そしてタマメはため息をついて、地図の向きを自分に戻し、それをしげしげと眺め回す。


「それはともかく、術の発動にはあと一手が足りん。この手の術式では『発動媒介』の『継続』が必要になるのだ」


 少女は何かを探すかのように、再び周囲を見回し始める。


「この術式構造だと、発動媒介は『水』になる」


 そう言って、タマメはあてもない様子のまま歩き出した。それに付き従いながら、八潮が聞き返す。


「水? 火を起こすのに?」


「火をもって水を生じ、水をもって火を生ずる。魔法運用の定石の一つなのだが、さて」


 帰宅途中の小学生の集団や、犬を散歩させている主婦などとすれ違う。タマメは歩みを止めぬまま、その心を思考の奥へと潜り込ませるように、声の調子を落とす。


「要するに、術式のツボである『柱』に対し、『水』を捧げる行為。それがこの魔法の発動契機なのだ」


 そして少女は地図をくるくると丸めて持ち、歩くリズムに合わせて自分の肩を叩きはじめる。


「しかも、今回のように町を囲むほどの規模の術式では、この水を捧げる行為を日々、定期的に『十年以上』は継続する必要があるだろうな。十年だぞ、十年」


 苛立ち紛れとばかりに、地図をぐしゃりと握る。この少女は自分の理解の及ばない物があるという事実が我慢できないのだろうか、と少年はふと感じた。そこでタマメがようやく足を止めて、八潮を見上げる。


「そんな手段を選ぶ動機が疑問なのだ。火付けをしたいだけなら、こんな回りくどい事をする必要はないだろうに」


 ふと、八潮は心に浮かんだ疑問をそのまま口にする。


「その術式の『柱』っていうのは?」


「うむ、全部で十二箇所ある。ほれ、あの手のヤツだ」


 少女が指さした方向には、『電信柱』が屹立している。


「ああ、確かに柱ですね……」


 そして、二人が今まさに視線を向けている電信柱に、一人の上品な老婦人がプードル犬を散歩させながらテクテクと近づいてきた。


 電信柱の根本をひとしきり嗅ぎまわったプードルは、片足をひょいと上げて用をたす。そして彼らが去った跡に残された、少しばかりの「水たまり」。


 タマメと八潮の間に何とも言えない、気まずさの混じった沈黙が流れる。八潮がぽつりと呟く。


「『柱』に日々、定期的に『水』を捧げる、でしたっけ」


「うむ。全ての謎は解けたな」


 何もかも合点がいったとばかりに、満面の笑みでタマメがぽんと手を叩いた。






「火付けの下手人は単独では無かった、ということだ」


 二人は自宅へと戻り、夕飯後の時間を八潮の部屋で過ごしていた。

 

 タマメはピンク色のジャージを着て、学習机に向かい何やらレポート用紙に書きものをしている。

 

 八潮はベッドに腰掛けてその様子を眺めていた。筆を走らせる手を止めずに、少女は話を続けている。


「術式の『柱』に該当する電柱に『引っかけた』犬全てと、日々その経路で散歩させている飼い主の全員が犯人……犯犬か? と、いったところだな」


 八潮はため息をついて、ベッドに寝転んだ。疲れた声が思わず漏れる。


「なんだか、凄い徒労感が……あれ? でも、これじゃボヤ騒ぎはいつまでたっても収まらないんじゃ?」


 いつの間にか書き込みを終わらせていたタマメは、レポート用紙を揃え、脇に置いてあった封筒に入れて丁寧に封をする。


「対策は簡単だ。ほれ、これをGKI本社に提出しておけ。どこの誰かまでは分からんが、儂の『正体』を知ってる者に届くはずだ。それで全て解決だ」


 タマメはそう言って、<GKIグループ>のロゴが入った書類封筒を差し出した。






 <GKIグループ>のロゴが入った数台の工事車両が、電信柱の撤去作業を行っている。その様子を制服姿の八潮とタマメは少し離れたところから眺めていた。


「これでこの術式は機能を失う。ボヤ騒ぎも終了だ」


 くるりと体を翻し、タマメが歩き出す。八潮もその横に並んだ。


「昔はこういった不測の魔法発動を防ぐため、人は町づくりの段階で配慮していたのだがな」


「そうなんですか? 初耳です」


「今の時代でも、方角に吉凶を当てはめる風習があるだろう? その頃の名残のはずだ」


 タマメは空を眺めやり、流れていく雲に目を細めて、ふっと呟く。


「<大喪失>から三百年。魔法に対する関心は本当に低くなったのだな」


 黙ったまま歩き続ける八潮に、タマメは前を向いたまま語りかける。


「何を考えてるか分かるぞ」


 少年の視線がちらりと少女を見下ろす。タマメの口元には微笑が浮かんでいた。


「案ずるな。今回のこれは、偶然と偶然が重なり、その上長い時間の蓄積によって引き起こされた事件だ。そうそう頻発する類の物ではない」


 八潮は何事かを反論するような表情で口を開きかけたが、結局それを言葉にすることは出来なかった。少女はその様子を横目に言葉を続ける。


「ただ、別の謎は残る。今回ほどの大規模な術式なら、本来は山や川の形を変えるほどの威力を持つ魔法が発現したはずなのだ」


「や……ま」


 言葉を失う少年に、タマメは心持ち真剣さを増した声で続ける。


「<大喪失>とは、魔法が失われた現象、ではなく、魔法の発動効率が著しく低下した現象、という可能性もあるな」


 そこまで言うと、少女は大きく伸びをして、いつもの人をからかうような青い瞳で八潮を見上げる。既にその声から重々しさは消え去っていた。


「ま、結論を出すには、材料が少なすぎる。気長にやるとしよう」


 背後から聞き覚えのある小刻みな足音が近づいてくる。さっと顔を青ざめさせたタマメが振り向こうとする前に、少女は巨大な白い物体に押し倒された。

 

 飼い主の手から再び逃れた白い大型犬に、地面の上で体ごとのしかかられて、首から額までをくまなく存分に舐め回され、力なく悲鳴を上げるタマメ。

 

 それを見て、八潮は少しだけ肩から力が抜けるのを感じ、その口元を緩めた。

 

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