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第二十三話 千年の祈りの先に(後)


 タマメは『祭壇』の上に腰掛け、腕組みをして瞑目していた。


 ぼんやりと光る四方の石壁の紋様。それら全てを自らの目で確認してから二時間ほどが過ぎている。


 祭壇の端に刻まれた<竜法術式>と読み取れる古代文字。


 この部屋の術式の目的。その設計上の誤り。それは自分が空の紋様から推測した通りの物だった。

 

 ゆっくりと目を開け、床に刻まれた簡素な魔法陣を見る。

 

 <竜法術式>の構造的欠陥から生まれる世界規模の災厄。それを回避しようとして何者かが三百年前におこなった行為。竜が自分の身を賭して作り出したものは三百年の猶予期間だった。

 

 どこの誰かは知らないが、なかなか機転の効く竜だったようだと少女は口元をほころばせる。

 

 三百年前に使われたその手法は、今回も大いに参考になりそうだった。






 <GKIインフォメーション>の前で、社用車がエンジンをかけたまま最後の一人が乗り込むのを待っている。

 

 運転席では天童静が、助手席の野呂栄作と地図を見ながら話し合っている。

 

 後部座席の篠崎厳真は携帯電話で鷹城とやり取りをしている。鷹城の話はあまり良い知らせとは言えなかった。


 今回の一件、いくつかの国は日本にその原因があると推測している。すでに日本領海周辺に艦隊を展開する兆候が見られていた。国内でも公的あるいは秘密裏に情報を集めるべく活発に動き出した各国の政府関係者がいる。

 

 極めて不安定な位置に立たされ始めている日本は、細心の注意を払って彼らへの対応にあたる必要がある。その中で大規模に公安の人員を動かすことが、どこの誰にどういう憶測をさせるか分からなかった。

 

 政府あるいはそれに準じる機関が不用意に行動を起こすこと。それはどこかに隠れた未知の政治的導火線に火を点ける事態を招きかねない。今、鷹城らが部隊を展開させることは非常に困難だと、彼の『上』は結論せざるを得なかった。

 

 それは得心のいく事情であり、厳真も特に落胆することは無かった。

 

「分かった。こちらは独自に動く。まあ、家出娘を連れ帰るだけだ、気にしなくていい」


 そう冗談めかして電話を切った厳真が窓から息子の姿を見る。


 篠崎八潮は、不安そうな護皇院姫子に微笑んでみせる。


「心配しなくていいよ。タマメさんは、きっちり連れて戻るから」


「ちゃんと帰ってくるんだよね……?」


「もちろん。また皆で学校に行こう」


 うなずいて車に乗り込もうとする八潮の手を、姫子が掴んだ。不意をつかれた八潮が、姫子の茶色の瞳に見入ってしまう。かすかに潤んだその瞳が、すがるような色を浮かべる。

 

 姫子の手に更に力が入った。

 

「絶対だよ……絶対タマちゃんと一緒に帰ってきてよ?」


 こんなにも誰かをまっすぐに想える姫子を少しだけ眩しく思う。もし自分に篠崎の血が流れていなかったら、彼女をもっと深く知りたいと考えたかもしれない、とほろ苦い感情を持った。


「うん。絶対に帰ってくる」


 強く握り返してうなずく。八潮が後部座席に乗り込んだ途端、車はすぐに走り出した。ルームミラーから見える姫子の姿はあっという間に小さくなり曲がり角の向こうに置き去りにされる。


 シートに身を預けた八潮を見ながら、厳真が携帯電話をポケットにしまう。


「公安からの応援は難しそうだ」


 ハンドルを片手で操りながら、静がボヤく。


「肝心なとこで役に立たねえな、あのメガネ」


「諸外国の動きがかなり緊迫しているらしい。それへの対応で人員が取られているようだな」


 八潮は迷いのない表情だった。もう迷う事など何一つなかった。


「行こう。僕たちだけでも」


「ああ」


 厳真は息子の顔つきに心なしかの頼もしさを感じながら、そう答えた。






 薄暗い石造りの部屋の中で、何かを削る音が小さく反響している。


 タマメは膝をついて、小石で床に魔法陣を刻んでいた。


 部屋の中央にある祭壇の周囲に緻密な図形や文字列を描きこんでいく。

 

 ただ一つの間違いさえ許されない作業である。だが、タマメはそれを実現できる能力があった。竜族の中でも魔法理論に関しては桁違いの適性を示し、数多の魔術師とも対等に議論を交わすほど訓練された見識。その全ては今、この瞬間のために活かされるべき物だったのだ、と彼女は確信する。


 この作業が始まって既に一時間ほどが経過している。額に浮いた汗を袖で拭う。もうすぐ必要な要素がほぼ全て揃うはずだ。


 これで地上への被害は軽減する。魔力の暴走自体を完全に抑制することはできないが、最悪の事態は回避できる。少なくとも、<大喪失>ほど悲惨な災厄にはならないはずだ。


 時間はどれくらい残っているだろうか。


 少女がそう思った時、祭壇の表面で淡く光っていた文字列の色が変化する。祭壇に歩み寄って、その発色のパターンと輝度から術式全体の状態を推測する。


 そして、<竜法術式>の崩壊が一段階進行したことをタマメは悟った。だがまだ時間はある。少女は大きく深呼吸してから、再び魔法陣を床に刻み込む作業に心と体を戻した。


 しかし、少女はある事実に気付くことができなかった。<竜法術式>の一部の魔力回路において、この時生じた活性変化がある『システム』を起動したことを。

 

 それは<竜法術式>とは直接の相関がなく、祭壇の前にいるタマメには察知することは不可能だった。

 

 黒い竜はそのシステムを『不死兵』と名づけていた。

 

 三百年前、<竜法術式>起動させる媒介を探す過程で黒い竜が犠牲にした数多の人間。彼らの死体を魔法的に強化して祭壇への通路を守護させようと、黒い竜は考えたのだ。

 

 部分的に活性化した<竜法術式>の祭壇から漏れだす魔力の変化。それに呼応し本来の役目を果たすべく、三百年越しに彼らは死の眠りから目覚めようとしていた。






 日没をやや過ぎた頃。八潮が地図上に示した点の周辺で、彼らはタマメを探し続けていた。


 鉄道の駅から子供の足ではかなりの距離がある地域のため、彼らは近隣にある幾つかのタクシー会社に問い合わせをかけていた。


 そしてそれらしい情報を聞き出すことに成功した彼らはその近辺で車を走らせている。


 やがて、静がその『感覚』に気付く。


「栄作、これってさ」


 地図を畳んで栄作もうなずいた。


「あの時と同じすね」


 <石傀儡いしくぐつ>と対峙した時、体の中を巡る『力』を感じた。それと同じものを今の静と栄作は体験している。


 それは『魔法』が有効化されていることの証左であり、取りも直さず自分たちの『目的地』が近いということも同時に示していると確信する。


 その感覚に従い車を停め、窓から小高い山を見上げる。体をざわざわと巡るものが一層強さを増していた。


 車から降りた静が、山の上へと続く石段を見つめて唇をなめた。


「あれだな。小僧はここで待っ」


「行きます」


 そう言い切る八潮に静がため息をついた。少年の頭に手を置いて、優しく撫で回す。むっとした視線の八潮を困った顔で見ながら諭した。それは八潮が聞いた彼女の言葉の中で、もっともその心情がストレートに現れているように思える。


「ヤバい感じがするんだよ。何が出てくるか分からねえ。守り切れるか正直自信がねえんだ」


 八潮が静の手を押しのけて反論する前に、厳真が彼女の言葉を押しとどめた。


「大丈夫だ。八潮にはカルラの刀をかわすだけの技量がある」


 驚きの混じった疑わしげな視線が八潮に向けられる。


「……マジで?」


 こくりとうなずく八潮の青い右目がほんのりと光を帯びたように見える。気のせいではあるが、それは静の不安に思う心にある程度の説得力を持って語りかけている。


 ため息をついた静が自分の隣から離れるなと手招きし、八潮もそれに真剣な顔で従った。


 静と八潮が、先行して石段を上り始めている栄作の後に続く。最後尾についた厳真ははたから見ても分かるほどの集中力で周囲の気配を探っている。


 ほどなく石段を上りきった先で、彼らは息を呑まざるを得なかった。


 そこは『亡者』が群れているとしか表現できない光景だった。


 数十体の『不死兵』が何をするでもなく、沈黙のまま佇んでいる。彼らの周囲には、掘り返された墓のような窪みがあちらこちらにできていた。


 『祭壇』から漏れだす微量な魔力と体の各部に埋め込まれた<術石>によって腐敗を遅らされていた死体たち。すでに命を失って久しい彼らは完全に死ぬことも許されず、三百年間この場所で眠り続けていた。

 

 長年の間、土の下で眠っていた彼らが、<竜法術式>の活性化にともなって、その本来の役目である『祭壇』の守護を果たそうと土中から這い出してきていたのだ。


 ほとんどはボロ布のような衣服を腰に巻いただけの格好であり、そこから露出した肉体は飢え渇いたようにあばらが浮き、肉もまるで付いていない手足は枯れ枝のようで今にも折れるかとさえ思わせる。乾ききってしなびた皮膚のところどころは朽ちた漆喰のように剥がれ落ち、内側の骨やどす黒く変色した肉がかろうじてこびりついている様が見える。

 

 不死兵たちの表情は生にすがり付こうとする哀れな亡者のようでもある。瞳は死んだ魚のように濁り、口もだらしなく半ば開けられたままだった。


 彼らが単なる案山子かかしでないことはそのふらふらと揺らぐすすきのような立ち姿からもはっきり分かる。その『額』と『手足の甲』にはいずれも<術石>が埋め込まれており、闇夜に浮かぶその赤い輝きは、亡者の怨念が顕現した鬼火を思わせていた。


 静がげんなりとする。


「何かヤバそうだな」


 その直感は完全に正しい。本来ならば五個の<術石>がもたらす負荷に生身の人間は耐えられない。生と死の双方の特性を備えた不死兵だからこそ、その力を受け止め切れる。そしてその戦闘能力は一個の<術石>だけを埋め込んだ<教団>の『信徒』たちとは比べ物にならない領域に達している。


 人類が経験したことのない異形の気配に彼らは気圧されつつある。だが彼らの中でも唯一冷静さを失うことのない厳真が、ある一点を指差した。やしろの裏にそびえる斜面の一角に大きな穴があき、深い闇の奥へと続いている。


「タマメはあの中だな」


 厳真がゆっくりと前に進み出る。何をするでもなくぼんやりと立ち尽くしていた不死兵たちが一斉に彼の方へ頭を向ける。不死兵の視線から発せられる、感情の入り込む余地のない機械的な『殺気』がその場を満たす。


 更に厳真が言葉を継ぐ。


「八潮、行け。私たちが道を開く」


 静が思わず声を上げる。


「や、厳真さん。アタシらもついてった方が。穴ん中にもコイツらいるんじゃないすか?」


 その時、<竜眼>の力で『気配』を察した八潮が静の方へ踏み込んだ。少年の意外な速さと行動に目を丸くする静。その横を風のように通り過ぎた八潮が、彼女の背後で腕を振り上げていた不死兵の手首を掴み、<護皇院流>の技で地面に叩きつけた。


 地響きと共に石と土が巻き上がる。その勢いのまま、不死兵は石段から派手な音を立てながら転げ落ちていった。


 ぽかんとする静の横で、栄作が嬉しそうにうなずく。


「うん、綺麗な<つぶ落とし>だね、八潮くん」


「ああ……そういや、お嬢に習ってたっけか」


 静が自身の頭をがりがりとかきむしる。舌打ちして、回りに蠢く不死兵に体を向けた。


「しょうがねえな、行って来い、小僧。ケツは持ってやる」


 厳真がやしろへの道を通すように踏み出し、不死兵たちの動きに鋭い視線を注ぐ。


「あのバカ娘を頼んだぞ。いいな、八潮」


「うん」


 きっぱりとうなずくと、八潮は斜面に開いた穴に向かって一気に走り出した。


 その動きにぴくりと反応した不死兵の一体が、バネ仕掛けの人形のように跳躍し十メートル近い距離を一瞬で詰め、少年の背後へと肉薄した。

 

 その鋭い指先が八潮の体に届く刹那、不死兵の側頭部に静の渾身の上段飛び蹴りが叩き込まれる。

 

 もんどりうって吹き飛んだ不死兵が地面に叩きつけられ、小石や草の切れ端が舞い上がり、骨格のどこかが砕ける音がこだまする。


 静は今の蹴りの違和感に小さく舌打ちする。手応えはあった。

 

 だが不死兵は何事もなかったようにゆっくりと立ち上がった。骨をはめ直すようにかくん、と頭を回して静をめつける。その眼窩は白濁し、機能しているのかさえ定かではない。しかし、確実に自身に危害を加えた者の存在を認識している動作だった。


 八潮が飛び込んだ通路を塞ぐように、厳真と静、そして栄作が立つ。彼らの周囲をじりじりと取り囲み始める不死兵の集団は、戦意ではなく本能に近しい何かによって行動を決定されているようにも感じられる。


 構えを取りなおした静が、周囲の不死兵をざっと目算で数える。


「これちょっとキツいな」


 栄作が応じる。


「時間かかりそうすね」


 しかばねに苦痛や恐怖は無い。意識の無い屍を失神させることは出来ない。生きているとは言い難いこの存在を無力化するには、生半可な攻撃では通じそうにない。


 加えて先ほどの跳躍から推測される身体能力は、生きている人間を<術石>で強化しただけの連中とは明らかに次元が違う。


 それが一見するだけで数十体。一瞬でも気を抜けばあっという間にこちらが亡者の仲間入りだろう。

 

 にやりと、静の唇がゆるむ。

 

 そうでなくては、と彼女は思う。何しろ世界を守る戦いなのだ、これくらいでなくては拍子抜けという物だ。ふつふつと湧き上がる熱い情動に全身の神経が研ぎ澄まされていく。


 背後に立つ栄作の気配も、自分と同様の歓喜に近い熱を発している。


 何よりも篠崎厳真という、<護皇院流>の歴史上でもおそらくは最高峰の達人が隣にいるのだ。命を預け合う相手としてはこれ以上の誉れはない。


 厳真の力強い声が、赤い光の紋様に覆われた夜空の下に響く。


「始めるぞ」


 それに応える静と栄作の凛とした咆哮が鏑矢かぶらやとなり、生者と亡者の凄惨な戦いの火蓋を切って落とした。






 タマメは祭壇の前に立ち、静かに瞑目していた。

 

 祭壇の周囲に描かれた複雑で巨大な魔法陣。全ての準備は整っている。時間的にぎりぎりだったが間に合いさえすれば自分の勝ちだ。

 

 これで世界は救われる。少女が愛した世界と、そこに生きる人々が救われるのだ。

 

 竜族の罪、すなわち<竜法術式>の誤りを補正し、その内部に渦巻く桁外れの魔力の『大部分』を惑星ほしの『外』へと解き放つのだ。


 やり方は簡単だ。三百年前、どこかの竜がやった事の応用にすぎない。


 タマメが、『竜』である『自分自身』を<竜法術式>の内部に組み込めばいい。


 そして少女は、暴走する魔力を制御する『回路』となるのだ。

 

 一部の魔力は制御しきれずに地上に降り注ぐだろう。その影響でどこかの国の一つか二つは消えるのかもしれない。だがこれが今の自分に出来る精一杯だ。惑星ほしが砕け散るよりはずっとマシなはずだった。これから失われるであろう人々の命に、心からの謝罪を向ける。

 

 そして最期に一人の少年の穏やかな笑顔を心に浮かべ、少女は全てを終わらせる決意をする。


 右目を覆う眼帯に、そっと指を触れる。


 恐怖などない。後悔もない。

 

 ただ、一人の少年のためだけに自分の全てを捧げる。


 それは<血の盟約>を遥かに超越した、少女のありったけの想いだった。


 タマメが目をゆっくりと開き、祭壇に自身の両手を置こうとする。

 

 その瞬間、背後で凄まじい衝撃音が響き渡る。


 少女は信じられない表情でゆっくりと振り向いた。


 不死兵の体が通路の石床を砕くように叩きつけられている。その四肢は幾度とない衝撃によって遂に完全にねじ切られ、もはや身動き一つできなくなっていた。


 そのむくろをまたいで、部屋の中に進み入る人物。


 篠崎八潮は呼吸を荒らげながら、タマメをじっと見つめていた。


 通路の中に一体だけ待ち構えていた不死兵。その攻撃を八潮は<竜眼>の力でかわしつつ、<護皇院流>の技で何度も何度も床や壁に相手を叩きつけながら、少年はようやくここに辿り着いたのだった。


 彼の制服はあちこち破け、露出した肘や膝、頬や額も傷ついて血がにじんでいる。


 八潮はタマメを掴みとるような力強い視線を向けている。

 

 そして、ゆっくりと少年は歩き出した。


 いつまでも一緒にいると約束した少女のもとへ。


 タマメの頬が紅潮する。二度と見ることのないと思っていた少年の顔に涙がこみ上げそうになる。


 少女は無理やり笑顔を作ってみせる。それでも、きっとひどい顔になっているだろうと内心で自嘲した。


「よくここが分かったな。場所は伏せたつもりだったのだが」


 治まらない呼吸の荒さは、少年の感情のほとばしりでもあるのかもしれない。


「みんなが……助けてくれました」


「そうか」


 ぽつりと返すタマメ。手が届く距離で立ち止まった八潮が、ゆっくりと手を差し出した。その指は爪がところどころひび割れ、あちこち擦り傷だらけになっている。


「帰りましょう」


 少女は小さく首を左右に振る。金色の長髪が柔らかく舞った。


「これを放置するわけにはいかない。止められるのは儂だけだ」


 祭壇を囲むようにタマメが描いた魔法陣が、淡く光り始めている。


 八潮は手を差し出したまま下ろそうとしない。そんなつもりは毛頭無かった。


「それを止めたあと、タマメさんはどうなるんです」


 嘘をついても無駄だろうと少女は思った。きっと何を言っても少年は自分の行為を止めようとするのだろう。


「儂は……『向こう側』に行くことになるな」


「帰って来るんですか」


 タマメは答えなかった。八潮の表情が懊悩に歪む。

 

「何が……何が必要なんですか。皆で力を合わせればきっと何とか……」


 八潮が真っ直ぐに見つめる視線と、真っ直ぐに差し出した手。ならば、自分も最期まで少年に嘘をつかずにいようと、タマメは心に誓った。


「ほんの少しの『魔力』だ。ただし、とてつもなく高い『純度』が絶対条件だ」


「純度……」


「例えるなら……何百年もの間、一瞬も途切れず直向ひたむきに『祈り』を捧げられた物に宿る魔力。分かるか、その意味が?」


 その言葉の意味を八潮は考える。人間は百年かそこらで死ぬ。物は容易に朽ちる。論理的に存在し得ない物なのだという事実が、彼の胸を残酷に突き刺す。


 黙りこむ八潮に、タマメが優しく微笑みかける。


「そんな物はどこにも存在しない……するはずがないのだ」


 会話を打ち切ってしまえば、少女はきっと消えてしまう。そんな恐ろしい確信が八潮の口を動かした。


「なら、どうやってこれを止めるつもりなんですか」


 タマメは自分の胸にそっと手を当てて、青い視線で八潮を見つめる。


「まるで不完全な代替品ではあるが、『竜の生命』を『変換』することでそれに近い機能を作り出すことはできる」


 足元の魔法陣に目を落としてから、四方を囲む石壁の紋様を見上げる。遠い過去を思い描く少女の表情がどこか憂いを帯びたものになった。


「三百年前、災厄が世界を襲う寸前、それを回避するためにどこかの竜が使った手だ。それは結果として<大喪失>を招いてしまったのだが、やむを得ない手段でもあったと思う」


 少年のぽつりとした声が二人の間に落ちる。


「嫌です」


「儂を困らせんでくれ。他に方法はないのだ。時間も無い。文字通り、惑星ほしが砕け散るかどうかのきわなのだ」


 少年は一気に歩み寄り、少女の小さな体を抱きしめる。絶対に離したくない。こんな終わり方は絶対に間違っている。


「嫌ですっ! 貴方がいなくなるなんて嫌なんです!」


「頼む……お前がそんなでは、儂の決心も鈍ってしまう」


 タマメの瞳が潤み、一粒の涙がこぼれる。小さな肩が震えだす。八潮の体の温もりが少女の心までも、残酷なまでに心地よく包み込んでいく。


 少女をかき抱く八潮の腕に力がこもる。


 八潮は必死に思考を巡らせる。考えろ。絶対に諦める事は出来ない。何百年もの『祈り』を捧げられた何か。どこかにあるはずだ。


 祈り。何かを想う心。人を衝き動かす力。


 その時、八潮は理解する。


「ある」


 八潮はタマメを抱きしめていた腕を解き、自分自身の胸にそっと手を当てた。


「『ここ』にあります」


 少年は自分の『血』の意味を理解した。


「千年の『祈り』が僕の中にあります」


 一度だけまばたきをした次の瞬間、少女が雷に打たれたような表情に変わる。

 

 タマメの明晰さは八潮の言葉の意を即座に読み取った。


 八潮の血には、篠崎家の血には『祈り』が連綿と刻まれている。

 

 それは千年の間、一瞬足りとも尽きること無く繋がれてきたのだ。

 

 篠崎家代々の母たちが、文字通り命と引き替えにして子を産んだ『想い』。それはたった一つのものにだけ向けられた想いであり、『祈り』であるはずだ。


 そこには、きっと『純粋な魔力』が顕現しているだろう。

 

 例え母が子を産み落とし彼女自身の命を失ったあとも、子の心臓が一つ鼓動を打つたび、それは同時に一つの祈りと等しい価値を持つはずだ。その祈りもまた魔力の一欠片となって、子の『血』の中にほんの少しずつ蓄積されてきたはずだと。


 他の何者にも模倣できない純粋な魔力となって、血の中に刻み込まれているはずだ。篠崎家の子の血にのみ、何よりも純粋な魔力が宿っているのだ。


 人にも、竜にも真似の出来ない、純粋な祈りが結晶した魔力。


 タマメの瞳に、思考によって道を開こうとする強い意思の光が輝く。今までもずっとそうだったように。


 上手く行けば、被害はほぼゼロに抑えこめるだろう。だが、それはとてつもなく危険な挑戦だ。自分の命だけなら構わないが、それにこの少年を巻き込んでしまうことに迷いは隠せない。


 タマメは八潮にまっすぐに向き合う。少年がどう答えるかは分かっていた。それでも少女は尋ねずにはいられなかった。


「お前が言っている事は、お前自身の体を失う危険も大きい。それは分かるか?」


「何があっても、貴方から離れるつもりはありません」


 迷わず言い切る八潮に、タマメが「ふう」と息を吐き出して、呆れたような笑顔を向ける。


「お前は本当に馬鹿だな」


「その馬鹿に、竜の力と知恵を捧げた貴方も」


「ふふ。違いない」


 思いのたけをぶつけるように、八潮の胸へタマメが飛び込む。互いをしっかりと抱きしめて、どちらかともなく笑いが生まれた。


 やがて二人は手をつないだまま、ゆっくりと祭壇に向き直る。


 タマメが祭壇表面の文字の幾つかに指を触れる。床に刻んだ魔法陣はそのまま流用できる。祭壇から<竜法術式>にアクセスする手順に簡単な修正を加えるだけで済むだろう。


 八潮に向かってタマメが目で合図する。二人は祭壇の上に互いの手を重ねて乗せた。


「お前の血と、儂という竜の命。この二つを組み合わせても、術式を完全に無力化できるかはの悪い賭けだ。だが、この惑星ほしの破壊だけは確実に阻止できる」


「ええ。それで十分です」


「儂らが体ごと術式に飲み込まれる可能性も高い。それでもいいんだな?」


 祭壇に乗せた手とは逆の、二人の間で繋がれた手に優しく力が込められる。


「僕は嬉しいんです。ずっと嫌っていたこの血が何かの役に立つってことが」


 それは世界最後の竜であるタマメにとっても、救済の言葉だった。タマメは繋いだ手に一層力を入れてみせる。


 そして意を決して祭壇を見つめ、少女は短く呪文を唱えた。


 足元の魔法陣と、周囲の石壁の紋様が明るく輝く。魔法陣から湧き上がる光が、二人の体を包んでいく。

 

 そして、凄まじい圧力が二人の全身の感覚を押し潰し始めた。<竜法術式>の持つ貪欲なまでの構造が、少年と少女の存在そのものを呑み込もうと荒れ狂う。


 立っていることすら困難な苦痛が、二人の全身を繰り返し執拗に襲う。


 自らの『命』という無形の概念を通して、<竜法術式>を正しい論理構造に書き換えるプロセス。それは彼らの存在そのものをも無情に別次元の彼方へと取り込もうとする。


 急激に抜けていく力と、薄れる意識。それでも二人が繋いだ手は離れることは無かった。


 しかし、やがてはその苦痛すら感じることもできなくなるほど、心が希薄になっていく。少年と少女の心を支えているのは、ただ互いの手の温もりだけだった。


 これが自分たちの限界か。

 

 それもまた一つの結末なのだろうと、安らかささえ感じ始める。


 今まで自分たちと触れ合ってきた人たちの顔が浮かんでは消えていく。これで本当に終わりなのだ。だが悔やむことはない。自分たちは本当に望む通りの道を貫き通したという自信がある。


 そして彼らを包む世界の全てが白く塗り潰されるその瞬間。


 ぽん、と二人の背中に暖かいものが当てられた。


 その正体を、八潮とタマメは五感に頼ること無くその『心』で感じ取った。


「二人とも、しっかり立て」


 篠崎厳真が二人の背を支えるように両手を当てている。


 厳真の全身を流れる気の経路が、正確無比な型と呼吸によって一つの魔法術式を組み上げる。


 それは<護皇院流>の奥義とも言える技だった。自身の生命力を臨界にまで高め、癒しの力と化し他者に注ぎ込む術。禁術として伝えられ、当主が認めたごく一部の達人にのみ継承されてきた技。


 厳真は命を削り、それを子供たちに惜しみなく注ぎ込む。


 今にも崩れ落ちるかと思われた八潮とタマメの瞳に再び光が蘇る。


 魔法陣の輝きが増す。石壁の紋様から発せられる輝きがまばゆいばかりに部屋を照らす。


 世界の空に投影される赤い光の紋様の輝きがそれに呼応する。


 術式が支えきれなくなった魔力が紋様の上を禍々しい輝きを放ちながら駆け巡った。それが全ての終わりを告げるものだと、空を見上げる世界中の人々は本能的に悟り絶望する。


 <竜法術式>の崩壊の瞬間はすぐ目の前に迫っていた。


 だが二人は確信していた。全てがこれで決着するということを。


 八潮とタマメが力を振り絞るように叫ぶ。


 それは<竜法術式>が崩壊する数千分の一秒ほど手前のことだった。

 

 <竜法術式>が魔力の濁流に耐え切れず崩壊する寸前、八潮の血が持つ純粋な『魔力』がタマメの竜としての生命を通して刻みこんだ小さな魔力回路。


 それは<竜法術式>の論理的欠陥を埋め、本来あるべき機能へと術式全体を遷移せんいさせる。そのプロセスは瞬時に完了し、崩壊寸前の術式構造を強靭な無謬性むびゅうせいで縫合する。


 過去三百年間、世界中の人類の『祈り』や『まじない』といった儀式的行為から発現し、増幅された膨大な魔力。それは<竜法術式>の内部で整流され、やがてある方向からこの次元の宇宙へと出力される。

 

 観測可能なエネルギーとなった魔力のベクトルは完全に制御され、光学的な現象として世界の空に出現した。


 それは地球を囲むように現れた一本の青い光の『リング』だった。

 

 惑星そのものを砕き割ることも可能な膨大な魔力が、そのリングからゆるやかに外宇宙へと放出されていく。その過程は予想された最大の災厄を基準にすれば比較的穏やかで、術式内部に滞留する魔力が完全に放出されるまでは数世紀は必要になるはずである。


 昼夜問わず空を青く貫く光のリングが一部の天文学者たちの不興を買うだろうが、そこはご愛嬌として認めてもらうべきだろう。


 世界は救われたのだから。






 精魂尽き果てた静と栄作が、広場の真ん中で互いの背にもたれるように座り込んでいる。


 衣服のところどころは鋭く裂かれ、傷つき血がにじんでいるところもある。荒い呼吸で肩が大きく上下していた。この場に彼ら二人以外に動くものは存在していない。


 不死兵だった物の残骸が辺り一面に散乱している。完膚なきまでに破壊された四肢や大きく穴を穿うがたれた胴体があちらこちらに転がっていた。


 それらは皆、遥か昔に死んだ者なのだろうとは思うが、それをこんな形に叩き壊すのは何とも後味の悪い気分だった。


 静が夜空をぼんやりと見上げる。毒々しい赤い光の紋様はいつの間にか消滅し、後には青い一本の光の帯が天を横切っている。


 やれやれとため息をついて、ポケットからタバコの箱を取り出す。


「終わったみたいだな」


 顔の横でかちりと音がして、仄かな光が手元を照らす。火の着いたライターを差し出した栄作がいつもの大仏のような穏やかな表情をしている。


「みたいすね」


「ったく、手間かけさせやがって」


「ホントに」


 くっくっと、どちらかともなく笑いが漏れる。やがてそれはあけすけな大笑いとなって、静かな夜の空気の彼方に溶け込んでいった。






 佐々森が窓から身を乗り出して夜空を見ている。やがて彼は大きくうなずくと、背後に立つ鷹城に振り返った。


「安心していいと思います。レポートにあった対策案の一つに、この光学現象が言及されていました」


 鷹城がやれやれといった様子で眼鏡を外して、レンズをポケットから取り出した布で拭う。


 いきなり急転した状況に、フロア中の人間がまたもや混乱の極みに陥りつつある。まあわざわざ出て行って解説してやることも無いだろう。どうせ彼らは自分の聞きたいことしか聞くつもりは無いのだから。


 とりあえず一段落ではあるが、これからが大変だった。事態の説明責任やら何やらで、内外からの突き上げがとんでもない事になるだろう。とりあえずは政治家の皆さんへの頑張りを期待しつつ、鷹城はまずコーヒーのお代わりを取りに行こうと決めた。


 世界は救われたのだ。それくらいは許されるだろうと誰にともなく言い訳をした。






 姫子は<GKIインフォメーション>の屋上で空を見上げていた。


 赤い光の紋様が突然消え去り、代わりに空に出現した青い光の帯がどことなく心を落ち着けさせてくれる。ずっと心をざわめかせていたさざ波のような感覚はもう消えている。


 終わったのだという、確信にも近い直感が彼女の中に生まれていた。


 ドアがきしむような音を立てて開く。護皇院恭斎がひょいと顔を出して、ゆったりとした足取りで空の下に進み出る。


 GKIグループを指揮して世間の混乱に対応していた老人が、一通り仕事を済ませてから孫娘の顔を一目見るべくここにやってきたのだった。


 あるいはこれが人生最期に見る姫子の姿か、と思わなくもなかったが、ここに来る途中で空に生まれた驚異的な変化は、どことなく暖かな予感を彼の中に降り積もらせていた。


 姫子の隣に立ち、恭斎がそっとささやく。


「終わったようじゃな」


 ふうと息を吐き出した姫子が、祖父の腕にすがりつく。


「うん。ちゃんと帰ってくるよね。みんな」


「ああ。きっと帰ってくるわい」


 孫の腕をあやすようにぽんぽんと叩いてやる。

 

 いい加減そろそろ人生に見切りをつける頃合いかとも思っていたが、もう少し長生きしてみるのも悪くはないかなと、老人はぼんやりと空を見上げた。






 厳真は薄れつつある意識の中で考えていた。


(ああ、しんどいなあ)


 視界が妙に定まらない。まるで世界がまるごと上下左右に揺さぶられているような感覚だった。


 ふと、自分が支えている子供たちがこちらへ振り向いていることに気付く。


(ん……どうした二人とも? ちゃんと前を見ていろ)


 光の刺激として見えてはいるが、それが何を意味する映像なのか今いち意識の中に落とし込めない。


(お前たち、何を笑ってるんだ? よく聞こえないぞ)


 そこで厳真は「ああ」と思い至る。


(そうか。終わったんだな。良くやったな。さすが俺の自慢の子供たちだ)


 安堵が何よりも先に立つ。こうして二人が無事なら何の文句も無い。ただ、少しばかり疲れていることは認めざるを得なかった。ちょっと頑張りすぎたかな、と内心で自棄気味に呟く。


(ちょっと座っていいかな。もう、しんどくてたまらん)


 厳真はゆっくりと腰を下ろしたつもりだったが、景色が一気にぐるりと回転する。自分が床の上にばったりと倒れこんだことに遅れて気付く。指一本動かす気力も湧いてこないほどの脱力感が全身を包んでいる。


 二組の手が、自分の体を揺さぶっているように思えたが、その感覚すらすでに曖昧になりつつある。


 鉛のように重いまぶたを閉じる手前でこらえつつ、子供たちがのぞきこんでくる顔を安らかな思いで眺める。


(何だその顔は。笑ったり泣いたり忙しいな)


 冷たい石の床に横たわっている厳真は、ふと頭の横に誰かが立っていることに気付いた。

 

 白いワンピースを着たその女性は、彼の記憶の中にあるように、いつもの笑顔で佇んでいる。小さく彼女の唇が動いた。声は聞こえなかったがその意は厳真の心へと確かに届いた。


(ああ、万里絵。俺たちの子供たちだ。上手うまくやるに決まってるさ)


 そして厳真は意識が闇の底へ呑み込まれる最期の瞬間、小さく微笑んだ。





10


 数週間が流れ、<竜法術式>がもたらした世界の混乱はようやく収まりつつある。


 だが、その詳細を求める声は未だに止まない。


 誰に責任を問うのか、それを決めるのが誰なのか。真実を知ったとしても、それは十人十色の意見があるだろう。


 どういう着地点に落ち着くとしても、それは万人が納得するものではないだろう。ただ、あの時、自分がした選択は正しかった。それだけは、世界中の誰に対しても胸を張って断言する自信がある。


 そんな事を思いながら、篠崎八潮は自宅の仏壇の前で手を合わせている。

 

 色々な事があった。楽しかったり辛かったりもした。全てを投げ出しそうになる時もあった。

 

 ここしばらく一人で色々と考える時間があり、自分の中でも様々な物に気持ちの整理をつける事ができている。

 

 父が篠崎家の血を自分に続かせた理由が何となく分かった気がする。今度、立原文乃にも母のことを尋ねてみようと決める。もっと知ることが出来れば、もっと両親のことが好きになれるはずだから。

 




11


 八潮はリノリウムの通路を制服姿で歩いている。

 

 ほとんど毎日通いつめているせいで顔見知りがたくさん出来てしまった。まあ彼らとの話題はもっぱら一人の少女の奔放な振る舞いなのだが。

 

 道のりまでも足が覚えているその病室の扉を、二度ノックしてから返事も聞かずに開ける。どうせいつもと同じ光景が広がっているはずだ。

 

 制服姿のタマメが昼食の皿とスプーンを持ち上げて、入院着姿の男の口元に差し出している。

 

「ほれ、親父殿。しっかり食わんといつまでも寝たきりだぞ。ほれ、あーん」


 ベッドの上に体を起こした篠崎厳真は仏頂面でタマメを押しとどめていたが、その声色からは悪い気はしていないのだろうな、と八潮は苦笑する。


 厳真がタマメから食器を奪い取る。


「だから、手も足も動くと言っているだろう」


「そうやって照れるところが、また親子でそっくりだな」


 けらけらと笑うタマメが、八潮に気付く。

 

「おう、ヤシオ。今日はこれから<GKIインフォメーション>だったな?」


「ええ。タマメさんも行きますよね」


「うむ。最近はヒメコもしょっちゅう顔を出すからな。儂が行かんと、また後からうるさい事になる」


 半眼になった八潮が少女を見下ろす。


「姫子が買ってくるおやつ目当てだって、正直に言ったらいいのに」


 タマメが椅子の上で体を回して抗弁する。


「あ、あれは、ヒメコが買ってくるから、仕方なく儂が処分を手伝ってやってるのだぞ。本当だぞ?」


「そんなだから、夕飯食べられなくなるんですよ。せっかく文乃伯母さんが作ってくれるのに」


「……最近のお前、ちょっと意地が悪いように思うぞ」


 非難がましい目になる八潮に、口ごもるタマメ。ぶつぶつと言葉にならない反論を呟く少女をほったらかしにして、八潮は厳真に向き直った。


「もうすぐ退院できそうだね」


 炊き込みご飯をかきこみながら、厳真がうなずく。


「ん、ああ。いい加減、文乃さんの料理が恋しくなってきた」


「父さんが家に帰ってきたら、ごちそう作ってやるんだって今からやる気満々だよ。純二郎伯父さんも、飲み比べの相手がいなくて最近張り合い無いって言ってるし」


「暴飲暴食で、すぐ病院に逆戻りしそうだな」


 厳真が柔らかく微笑み、八潮も釣られて笑う。

 

 やがて笑い声が途切れ、二人は静かに視線を交わした。

 

「父さん」


「何だ」


「母さんって、どんな人だったのかな」


 冷めかけた白湯さゆの入ったカップに口をつけて、厳真が静かに返した。


「それは今度、ゆっくりと話してやる」


「……うん。楽しみにしてる」





12


「今日もいい天気だな」


 町の中を歩きながら、タマメが欠伸あくびまじりに空を見上げる。


 空の真ん中を通る、青い光の帯。それは青空の中でもくっきりとした鮮やかな輝きを見せている。

 

 それはタマメの瞳と同じ色の輝き。八潮が何よりもかけがえなく思う少女の瞳の色だ。


 歩きながら、八潮はタマメの手を取った。少し目を丸くした少女が、ちょっとはにかんでから八潮の腕にすがるように体を寄せてきた。


 ふとした秋風が金色の長髪を巻き上げる。その様子に少年は視線を奪われた。タマメが乱れた髪をあどけない笑顔でなでつける。

 

 この少女はこうやって、ずっと自分の心を釘付けにするのだろう。きっとそれは誰もが誰かに抱く自然な気持ちなのだろうと思う。


 そうやって、人の命はずっと続いてきたのだろう。これからもずっと続いていくのだろう。それが世界の形の一つだと信じたい。


 八潮の心の中に名前のない、だけどきっと確かな想いが生まれる。彼は隣を歩くタマメを見つめ、彼女も八潮を見つめ返す。それだけで心は安らいだり弾んだりを繰り返す。

 

 今は、まだこの気持に名前をつけなくてもいいだろう。時間はいくらでもある。ずっと続いていくに決まっているのだから。


 いつまでも、ずっと一緒に歩いて行こう。




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