第二十話 選ばれた災厄(前)
1
これは昔日の物語である。
だが、それは文字として記録もされず、人の世に語り継がれることもなかった。
それでも、これは紛れもなく実在した物語である。
その日、白い竜は険しい山岳の峰に立ち、眼下に広がる緑豊かな土地を見下ろしていた。
時間は日没が近づき、竜の視界の中には人間の村々が点在している。レンガ造りの煙突からは炊事の煙が細くたなびいていた。
白い竜は『歴史』について考察を巡らせていた。有史以来、竜族は人間と近すぎず、かといって過度に疎遠になることもなく、適切な距離と礼節をもって交流している。
長命で個体数の少ない竜、短命で繁殖力の盛んな人間。二つの種族は衝突を賢明な態度で避け、棲み分けることで互いの生を尊重しあっている。
その平和はきっと、人と竜が本質的には『違う』生物種である事によるのだろうと、彼女は皮肉交じりに思う。互いに知恵を持ち、言葉を通じ合わせる間柄であっても、その利害が相反しない限り衝突が起きることはないのだろう。
それは一抹の寂しさもあるが、喜ばしい僥倖として誠実に受け入れるべきであるとも理解していた。
白い竜は巨大な体躯をバネのように縮めると、大きく跳躍した。麓の景色が一気に眼前に近づいてくる。
朗らかな春の気配が徐々に強まる時期。草花の鮮やかな緑が山肌のあちらこちらを覆い始めていた。
竜は飛ぶような速度で山を駆け下りる。
山羊の一団を引き連れた少年が、すれ違いざまに笑顔で手を振ってくる。白い竜も足並みを一瞬ゆるめて、彼に会釈と尻尾で挨拶してみせた。
竜が駆ける姿を見た人間は、それを稲妻や疾風に例えることがある。一度、人間の祭で竜を題材にした民謡を聞かせてもらった時は、竜に対するあまりの持ち上げっぷりに、同行していた娘ともども恐縮してしまった物だった。
やがて白い竜はとある小さな滝のほとりにたどり着く。
それは人里にほど近い川の中にあり、農夫や商人たちが日常行き来する道路からも良く見通すことができる。
そこでは、一人の老いた赤い竜が川岸に佇んでいた。
その体躯は白い竜より一回り大きく、爪や尾を含めた体表は長い年月によるくすみとひび割れが生じ始めている。
老竜は頭を川面に伸ばし、冷たい水で喉を潤していた。
白い竜が重量を感じさせない軽やかさで、ひらりと背後に降り立つ。ゆっくりと首をもたげた老竜が、皺の目立つ柔和な面立ちを白い竜に向けた。
「よう、白いの。達者そうで何よりじゃな」
「貴方もお変りなく。確か南の方におられたと聞きましたが?」
「うむ。なかなか面白かった。人間もこの辺りとはだいぶ毛色の違う文化でな。ああいう栄えた国を見るのは、年寄りにも刺激になる」
竜族には、人間が住む土地の近くでは現地の人語を使う暗黙の了解があった。
大多数の人間には理解できない<竜言語>。竜同士がそれで会話する光景を目撃することで、人間たちに要らぬ警戒をさせないための心遣いであった。
赤い老竜が小首を傾げる。
「お前さんの娘が御役目に就いてから、どれくらいだったかね」
「八十年ほどです」
「ほうほう。あれは、ほんに賢い子じゃったな。儂が知る中でも飛び抜けとった」
「ええ、私などあの子の足元にも及びませんよ」
微笑んで返す白い竜に、赤い老竜も目を細めた。
彼らから少し離れた場所、川沿いの道を行商人の馬車が数台連なって通り過ぎていく。
麦わら帽子を軽く上げて挨拶してくる御者に、竜たちもうなずいて返す。
世界中あちこちを渡り鳥のように自由に歩き回る竜たち。ここは彼らの移動経路が集中的に交差する地域だった。そのせいか、この辺りの人間は竜に馴染みが深く、気さくに接してくる者が多い。
馬車を見送った後、周囲に人の気配が無いことを確認した老竜が、眦に思案の影を浮かべた。
「時に白いの。黒い竜のやつと最近話をしたか?」
「いえ、ここ百年ほどは見かけておりません。彼がどうしました?」
「うむ。あやつな、ここしばらく何やら『魔法』に傾倒しているという噂があっての」
白い竜が川岸に体を寝そべらせ、前脚の上に頭を乗せる。それは人間でいうところの頬杖に近い行為だった。
「あら、意外ですね……控えめに言っても、彼は学者肌では無かったと思いますが」
「同感だ。いや、ちと気になってな。あやつは昔から思い込みの激しいやつじゃった。よもや妙な気を起こすまいか、とな」
白い竜は記憶の中にある件の黒い竜の言動を継ぎ合わせ、その行動様式を自分なりに解釈と推測を与えてみた。
「あの者が同族に対して強い影響力を持つことは認めます。ですが、彼の考え方には馴染めません。ありもしない脅威に怯えているというか……」
赤い老竜が口を結んでうなずく。
「それでな、お前さん。黒いのの様子をちょいと見てきては貰えんか。『魔法』が絡んでいるならば、それに詳しい者の方が適任じゃろうしな。あやつ、今は東の方にいるそうだ」
白い竜は夕陽で赤くなりはじめた川の水の流れをじっと見つめつつ思案を巡らせていた。
2
白い竜は、その巨体にそぐわぬ滑らかな足取りで地下通路を進んでいた。
丁寧に石を組んで造られたこの通路は、『人間』の手を借りなければ不可能な細やかさを持っていた。
いくばくかの不審感を抱きつつ、通路の途切れた先に広がる巨大な部屋の中に白い竜は足を踏み入れた。
明かりは無かったが竜の敏感な目なら、部屋の四方の壁の様子は手に取るように観察することができる。
壁一面に彫り込まれた紋様の組み合わせが、魔法理論に造詣の深い白い竜の興味を強く惹きつけ始めていた。
『黒い竜』は、部屋の中央に設えた石造りの祭壇のような物体に向かっていた。
白い竜の気配に、彼はゆっくりと振り向く。額の中央から生える銀色の角が闇の中でも鈍く輝いていた。
黒い竜は突然の来訪者に動じることもなく、淡々とした声色を向けた。
「お前か。ちょうど良い所に来た」
部屋の中央に進みながら、白い竜は周囲を見回す。
「随分と大規模な魔法術式ですね。貴方が一人でこれを?」
「うむ。石壁への彫り込みは人の手を借りる必要があったが、基本構造は我によるものだ」
白い竜は相手の言葉に込められた熱のような物に微かな不安を感じる。
「これは何を目的とした術なのです?」
「そう急くな。この術式に誤謬が無いか検めて貰いたい。魔法に深く通じている者の目から見た意見が欲しかったのだ」
白い竜は黙って周囲を眺めた。ゆっくりと石壁のそばに歩み寄り、紋様に目を凝らす。
部屋全体に刻み込まれた術式の紋様を把握するまで、一ヶ月ほどを要した。その間、二人は言葉を交わすことも睡眠や食事を取ることもなかった。極めて長大な寿命を持つ竜にとって時間の感覚は人のそれとは大きく異なっている。
やがて術式の全体像を心に収めたところで、白い竜は小さく息をついた。
「風変わりな魔力の発現式ですね。いくつか未知の呪印構造も……まるで、『人では無い生命』と『魔力』を『繋ぐ』ような」
黒い竜が彼女の隣に立ち、壁を見上げる。その視線は自信にあふれていた
「然り。これは『竜に魔法を与える』術式である」
「竜に魔法を与える? 竜が魔法を使えるようになるのですか?」
信じがたいという思いを隠すこと無く、白い竜が相手を凝視する。彼が冗談を言うような性格で無いことは理解しているつもりだったが、それでもにわかに受け入れがたい言葉だった。
「そうだ。これこそ今の竜族に必要な『力』だ」
『力』という言葉に白い竜は違和感を持つ。その表情を察した様子の黒い竜が言葉を続ける。
「我は竜族を守りたい。そのためには強い力が必要なのだ」
白い竜はため息をついた。やはりこの者はありもしない物を恐れているのだと。
「お話が見えないのですが。我らに敵などおりませんでしょう」
「敵は『人間』だ」
ある意味で予想通りの答であったが、それでも白い竜は落胆せざるを得なかった。
「いい加減になさいませ。竜族と人間が争う理由など何一つありません」
黒い竜は彼女に背を向けると、部屋の中央に進んだ。『祭壇』と彼が呼称しているそれの前に立ち、爪で軽く表面を撫でる。
ちらりと白い竜の側を見やる。
「言葉が悪かったな。我は人と敵対するつもりなど、毛頭無い。我らの敵は『世界の理』とでも言うべきだった」
白い竜は黙ったまま、黒い竜の言葉の続きを待った。
「人は驚くべき速度で領土を拡張し続けている。短い寿命がより多くの子をなすことを後押しし、世代の入れ替わりの激しさが変化を促し、更なる拡張へと繋がる」
一旦言葉を切った黒い竜が、天井を見上げる。床を掴む爪に心なしか力が込められた。彼はゆっくりと白い竜に近寄り、やや小さな彼女の体を見下ろした。
「そして何よりも、人間には強い『力』がある。それが何か分かるか? 白き竜よ」
「……『魔法』ですね」
黒い竜は自身にも言い聞かせるように頷く。そして部屋の中を壁の術式をじっくりと確かめつつ歩きまわりながら、どことなく焦燥のにじむ声になる。
「そうだ。竜が数千年の試行錯誤を続けても、欠片すらも使うことの叶わぬ魔法の業。それを人は容易に使いこなし、強力な力としている。あまつさえ魔法その物の技術も、日々進化を続けている有り様だ」
「竜族とて知恵の研鑽は怠っておりません。人間の優れた魔術師相手に対等な議論を交わすことも珍しくないのですよ」
「竜にとっては所詮、机上の遊戯にすぎん。実を伴わぬ知恵など何の意味がある?」
語気を強めた黒い竜が視線を鋭くし、言葉を継ぐ。
「竜は長命ゆえに日々生まれる子も少ない。魔法を使えるわけでもなく、ただ根無し草のように世界を歩き回るだけの種族だ」
「それは竜が竜たる質とでも呼ぶべき物です。我らの身に備わった、誇るべき生き方だと私は信じております」
目を見開いて、黒い竜が咆哮する。部屋全体をびりびりと震わせるその音声が、白い竜の眼差しを哀れむような色に変えた。
苛立ちをぶつけるように、黒い竜が怒鳴りつける。
「違う! それは我ら自身の『弱さ』なのだ! このままでは、いつか竜族が世界から押し出され、滅ぶだろう。たとえ人が意図せずともな」
相手の頑迷さに諦念し始めた白い竜だったが、それでも忍耐強く言葉を選ぼうと努力する。
「種が滅ぶのは自然の摂理です。それが竜族の運命であるのなら、私は受け入れるべきだと考えます」
「自然の摂理に抗うのが何故悪い? 人は魔法を使って自然を手懐け、生活圏を日々拡大している。それこそ自然の摂理に抗う行為ではないのか? ならば我らが滅びの運命に抗うことも、また許されるはずではないのか?」
睨めつけるように顔を近づけてくる黒い竜の瞳は激情に彩られ、もはや常軌を逸し始めているように思える。
白い竜は相手に最後の正気が残っていることを願いながら語りかけた。
「この術式は危険です」
そう言い切って、石壁の紋様にとんと前脚を当てる。
噛み付きかからんとばかりに迫る黒い竜が、ぴくりと身動きを止めた。
白い竜は内心ほっと息をつく。まだ理性的に話をする余地は残っているようだった。白い竜が畳み掛けるように折り目正しく説く。
「これは『惑星全土に渡って影響力をもたらす』、極めて強力な術式です。これほどの規模で術式回路を展開、維持するなど正気の沙汰ではありません。仮に制御を失えば、世界に未曾有の災厄を招くことも十二分にあり得ましょう」
整然と語られる白い竜の言葉。次第に怒気を鎮めていった黒い竜が、やがてぽつりと呟く。
「それでも……座して滅びを待つことは出来ん。我は竜族の居場所を守りたいだけなのだ」
子供を諭すように白い竜は、相手の頬に自身の顔をそっと触れさせる。それは一定の共感の表明と、互いの歩み寄りを提案する仕草だった。
「この術式が決して完成しないのは、貴方にもお分かりでしょう。術式の中枢に接続する『媒介』が無ければ『絶対』に起動しないのですから」
無言のままの黒い竜。彼にもこの術式の欠陥は分かっているようだった。白い竜は追い打ちを掛けるように宣告する。
「そして、その『媒介』を用意することなど、『竜』には不可能です」
黒い竜は押し黙る。彼はやがて部屋の中央に戻り、その場に巨体を寝そべらせた。言葉を発することもなく、ただじっと目を閉じて無限の眠りについたように身動きを止めた。
ようやく話し合いは済んだ。これで彼も思い直してくれるだろう。やっと肩の荷が下りた気分になり、彼女は息をつく。
白い竜は相手に小さく呼びかけてから、その部屋から立ち去った。
黙ったまま返事もしない黒い竜は、身動きもせずその場で石像のようにじっと横たわっていた。
黒い竜の沈黙。それが『納得』ではなく、『決断』から現れた行為であることに、この時の白い竜は気付けなかった。




