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第二話  さらば、安らかな日々


 目覚まし時計のアラームが鳴る二分前にスイッチを切り、ゆっくりと体を起こす。

 

 篠崎八潮は、ぼんやりとした頭をすっきりさせるように、畳の匂いを含んだ空気を胸一杯吸い込み、ここが自室であることを改めて確認する。

 

 学校指定の制服に袖を通すのが久しぶりに思える。行き帰りに要したのは二週間ほどだったが、服のサイズにも違和感を持ってしまう。

 

 島から本土に戻る帰りの船の中で鷹城にこってり絞られた記憶がふっと蘇り、意識せずとも眉間にしわが寄る。部隊の人らが遠巻きにニヤニヤしながらこちらを見ている思い出など、まさに個人の尊厳に関わる問題であり、訴えてやりたいくらいだった。

 

 客観的には少々見苦しい開き直りであることを内心渋々認めると、八潮はため息を一つついて、ふすまを開け部屋を出た。

 

 庭に面した板張りの廊下を二部屋分ほど進む。空は雲ひとつ無く晴れ渡っていた。突き当りのガラス戸の向こうから響く、包丁がまな板を叩くリズム。それは少年が幼いころから聞き慣れた物だった。

 

「おはよう、ヤッちゃん。ご飯持ってってちょうだい。お弁当もね」


 四十代半ばほどの、すらりとした体の女性がスーツの上にエプロン姿で台所に立っている。手際よく皿の上に食材を盛り付ける様子は堂に入ったものだった。

 

「はい。おはようございます」


 少年の返事が終わった時にはもう、テーブルの上の漆塗りの長角盆には二人分の朝食の完成品が並んでいた。数秒前まで野菜を刻んでいた包丁はすでに水洗いされ、収納に戻されている。


 立原たちはら文乃ふみのは穏やかな笑みを浮かべ、エプロンを外しながら壁の時計を見た。


「叔母さんもうお仕事行くから、食器は流しに漬けといてね。あ、今日はお夕飯何にしよっか?」


「あの、朝と弁当だけなら自分で何とかできますから。もう高校生ですし」


 彼女のまくし立てるようなしゃべり方はちょっと苦手だったが、その人柄は誰もが親しみを感じずにはいられないものだった。


「いいのよ。うちの子供たちみんな家から出て暮らしてるから、結構暇なのよ、これ」


 文乃はそう言ってケラケラ笑いながら、今夜はお肉でもいいかしら、とひとりごちると八潮の返事も聞かずに、パタパタとスリッパを鳴らしながら玄関の方へ風のように去っていった。

 

 八潮はため息をついて、食事の載せられた盆を持ち上げた。

 

 居間は静まり返り、新聞を時折めくる音だけが、そこに人がいることを示していた。

 

 四十かそこらの相貌をしたその男は、濃紺の着流しの上からも分かるような骨太の体格をしている。

 

 後方へと丁寧に撫で付けられた黒い髪は、猛禽類の頭部を思い起こさせた。その唇は常に一文字に結ばれ、それが緩むさまは八潮の記憶の中に存在していない。

 

 彼の瞳は黒く深い光に満ち、その心うちを微塵も他人に明かすものではなかった。

 

 少年は盆を持ったまま、その男に言葉を掛けた。

 

「おはよう、父さん」

 

 男は紙面から目を離さずに、八潮に返す。

 

「ああ、おはよう。文乃さんはどうした」


 低く響く声は、その無愛想さを更に際立たせている。


「もう仕事だって」


 八潮はそう言って、朝食の載った盆をテーブルに置き、差し向かう父と自分の前に茶碗や皿を並べていった。


 篠崎しのざき厳真げんまはそうか、と一言頷いて新聞を畳み、朝食に手をつけた。八潮も父の向かいで座布団に座り、手を合わせてから茶碗を持つ。

 

 テレビもなく、静かに咀嚼する音だけが続く。


「今日から学校か」


「うん」


 ぽつぽつとしたやり取りの中、二人の視線が合うことは無かった。


「何故、『島』に行った」


 少年は押し黙った。厳真は箸を置くと、湯呑みの中の冷めかけた茶に口をつける。節くれだった太い指に支えられた湯呑みが、滑らかな動きでテーブルの上に音もなく戻される。

 

「島で『竜』が人を殺すのを見たのか」


「うん」


「大丈夫か」


「うん」


「そうか。家を出る前に母さんに挨拶をしておけ」


「うん」


 最後まで二人の視線が交わることは無かった。


 食器を洗い終わると、八潮は身支度を確認してから、居間の隣に続くふすまを開いた。

 

 仏間はしんと静まり返り、普段使いされていない部屋特有の篭った匂いに包まれている。

 

 少年は仏壇の前、座布団の上に居住まいを正す。位牌の前に置かれた、遺影というにはあまりに簡素なポートレートを見つめた。

 

 写真の中では、二十歳を大きく越えてはいないであろう女性が、真っ白い半袖のワンピースに身を包んで微笑んでいる。肌に落ちた陰影から見ると、陽射しのかなり強い日に撮影された物にも思える。

 

 自分の記憶を総ざらいしても、思い出の一欠片すら見当たらない女性。そんな人に何を挨拶すればいいのだろうと、少年はぼんやりと考えていた。

 





 電車に揺られること三駅、八潮は改札を出て軽く伸びをした。校舎に続く歩道橋へ足を進めながら、定期券の入ったパスケースをズボンのポケットに戻す。

 

「おっすー」


 そう後ろから背中を叩かれ、少年は振り向いた。相手の顔を確認した八潮は、大して興味も無さそうに返す。


「うん。おはよう」


 護皇院ごこういん姫子ひめこは、少年の覇気のない様子を見て、栗色の大きな瞳で八潮の顔を下から覗きこむ。


「どしたん? 久しぶりに見たと思ったらダルそうにしちゃってさ……あれ、なんか八潮、日焼けしてね? ゴルフ?」


 学校サボってコースを回る男子高校生はあまりいないんじゃないかな、という突っ込みを心の中に隠して、八潮は再び歩き出した。この少女と会話をしていると、凄まじい勢いで話題が脱線してキリがなくなるのを、少年は幼少の頃から身にしみて理解していた。

 

 少年の無視に頬をふくらませた姫子が、小走りで八潮の隣に追いつく。

 

 瞳の色とよく似た、明るい色のショートカットヘアがふわりと揺れる。その表情は同年代の女子よりも少々大人びて見え、体つきもそれに見合うだけのボリュームある丸みをおびている。丈を詰めたブラウスとスカートからチラチラのぞく肌は、学校の男子からも色々な意味で人気のようだった。

 

 正直に言って、姫子と並んで歩くのは苦手だった。自分が少々小柄で、彼女が平均よりやや長身であることもそうだが、姫子はやたらとパーソナルスペースが狭い、というのが理由の大半だった。

 

 彼女の祖父と自分の父親が、何とかという名前の道場で師弟関係だったという繋がりがあるらしい。その縁で、どちらかの家が子供を残して外出する時は、もう一方の家でひとまとめにされて世話をされる、というのが八潮と姫子の幼少の頃からの日常だった。

 

 そういう経緯からもたらされた結果なのだろうが、姫子の八潮への絡み方は実に馴れ馴れしく、彼女を特別視する男性層から少年に向けられるトゲにも似た視線は、日に日に鋭さを増している気がしていた。

 

 八潮が頑として口を割らない様子を見た姫子は、もういいやと言った感じで、今流行りの歌謡曲のサビを口ずさみ始めた。

 





 数人のクラスメイトからノートを一揃い借りてパラパラと眺めたところ、八潮が二週間のブランクから来る授業の遅れを取り戻すのは、それほど困難ではなさそうだった。


 あっという間に時間は流れ、やがて教室のスピーカーから、この日最後の授業終了を知らせるチャイムが流れる。途端に生徒たちがガヤガヤと無秩序な喧騒をあちらこちらで響かせ始めた。

 

 そして、あらもうそんな時間、と呟いたその人物は板書を手早く終わらせてから、手をハンカチで拭った。


「では、今日はここまで。ああ、篠崎八潮くん。この後、職員室に出頭しなさい。二週間もサボってくれた落とし前をつけてもらいます」


 雛瀬ひなせ千鶴ちづるが、少年に向けて宣告する。その整った相貌から放たれた氷の笑顔は、クラスメイトの深い同情が八潮に向けられる理由としては十分すぎるほど、静かな迫力をみなぎらせていた。

 

 八潮のクラス担任でもある彼女は、大抵きっちりとしたスーツをその長身にまとうのを好み、生来の直情さも相まって校内屈指の近寄りがたい女性として認知されている。


 少年が引きつった顔でさり気なく視線を窓の外に向け、何も聞かなかったことにしようと必死の努力を試みる。


「おい、聞いてんのか?」


 見目麗しくもあり、また切れ味も鋭い女教師が発する、臓腑を鷲掴みにするような声色に、少年の努力はあえなく頓挫する。


「今、聞こえました。すぐうかがいます」


 千鶴は「よろしい」と返し、きびきびとした所作で教室から出て行った。


 非常に気は進まなかったが、やむを得ず少年は鞄を脇に抱えて席を立つ。視界の端では、姫子が「成仏しろよ」とばかりに八潮に向かって手を合わせている。

 

 少年にクラスメイトからかけられる、励ましやら茶化す声には片手を力なく上げて応え、廊下に出る。八潮は額を押さえながらため息をつくと、足を引きずるように職員室へと向かった。


 職員室で、千鶴が八潮に突きつけたのは一枚の許可書類だった。


 既に各欄に必要事項は書き込まれ、自分の氏名その他の個人情報まで細大漏らさず記してある。仏頂面で文面に目を凝らした少年が首を傾げる。


「この……『職業体験活動』、というのは?」


「貴方、サボってる時に何かやらかしたみたいね」


 腕組みをして椅子の背もたれに上体を預ける千鶴。椅子の金具がぎしっ、と鳴る音に合わせて八潮の心臓も一瞬どきりとする。


「うちのカリキュラムって、エキスパート育成の予備教育を念頭においた、実質的な『官立学校』でしょ。上級の役人目指したり、その方向に見合った大学なりなんなりに進む子が半数以上って、知ってるよね? そういう子ってね、結構いいとこの生まれが多いのよ」


「はあ」


「で、坊ちゃん嬢ちゃんが何かお痛をしても、後々の事を配慮して、何やかんやで揉み消したり有耶無耶にしたりってのも、まあ、よくある話なの」


「はあ」


「で、普段そういう『不始末』を学校側に伝えてくれる親切なルートがあって、今回はそこからこの書類がやってきたの」


 そう言って、千鶴が机の上に置かれた書類をとん、と指で叩く。そこはかとなく生まれた罪悪感が、少年に不自然な笑顔を作らせた。


「そういう話って生徒に聞かせていいんでしょうか……」


「大人のやり方を教えておくのも、教育の一環ってやつよ」


 そう千鶴は冗談っぽく笑うと、八潮に問いかけるような視線を向けて、彼の言葉を待った。


 職業体験活動という文言に胡散臭さを隠し切れない口調で、少年が尋ねる。


「事実上の強制参加命令、ですよね」


「どうなのかな。断ったらどうなるかは彼の方が分かってるだろう、って話だったけど」


 少年が不審げに眉を寄せる。


「……え? 誰が言ってたんです?」


「書類持ってきた人よ。結構いい男だったわね」


 わずかに頬がゆるむ千鶴を見て、八潮はある意味新鮮な気分を味わい、またある男の顔を不承不承思い出す。


「黒い背広で銀縁眼鏡だったりしないですよね」


「貴方にエスパーの素質があるとは知らなかったわ」


 とうとう諦めをつけた少年は、机の上から書類を取り上げた。


「私も悪い話じゃないと思うけど」


 書類を鞄にしまおうとする八潮に、千鶴は笑顔の中に真摯さを混じらせて言う。


「進路希望。士官養成校の情報コース志望でしょう、貴方。その手の実務に触れておくのも、いい経験じゃない?」


 その言葉には一考の余地があると認める他なかった。

 

 

 



 夏の昼下がり、アスファルトからの強烈な照り返しが少年の体を汗ばませていた。


 その建物は、位置的には八潮の自宅と学校のほぼ中間の商業地域に位置し、駅からもさほど遠くない、中々の物件に思えた。


 しかし、その立地的な好条件に反するように、三階建ての古めかしいビルの外壁はくすんだ灰色をしている。周りのモダンな建築物と比べると痛々しささえ感じる悪目立ちぶりであった。出入口横のサビが目立つ郵便受けには、相当な期間処分されていないダイレクトメールの束が、親の仇と言わんばかりの強引さで詰め込まれている。


 <GKIインフォメーション>と白文字で小さく書かれた金属製のドアの横には、インターホンが据え付けられている。

 

 八潮はボタンを押し、その場で応答を待つ。

 

 学校の制服で良いという話だったので、少年は指定された日の授業が終わってから、その足で件の職業体験の現場とやらに足を運んでいた。

 

 一分ほど待ったが、応答は無かった。レバー式のドアノブに手をかけて、そっと引いてみる。

 

 施錠されていなかった扉は音も立てずに開き、八潮はゆっくりと中を覗き込んでから、恐る恐る室内に入った。

 

 かすかに聞こえる空調の低く唸る音が、その場を支配していた。屋外とは別世界のようにひんやりとした空気が、ほてった体に心地よく感じられる。

 

 小さな図書館、といった風情のその部屋は、壁際にレールの上を移動させるタイプの書架が並び、その各々に大小色とりどりの書類バインダーが無秩序に収められている。

 

 かさっ、と紙をめくるような小さな音が、制御された静寂をわずかに破った。

 

 少年が音の方を見やると、接客用と思われるスペースがあった。そこには三人がけソファが一組と、一人がけソファ四組がガラステーブルを囲むように配置されている。

 

 長ソファの座面は八潮の位置から死角になってはいるが、今の音は確かにそこから聞こえていた。

 

 少年がゆっくりと長ソファの横に回り込むと、そこには仰向けにだらしなく寝そべりながら、何かの書類らしきものを顔の前で読みふけっている人物がいた。


 かたわらのガラステーブルの上には、大量のバインダーや書類がうず高く積み上げられ、崩れないのが不思議なくらいのバランスを保っている。


 明るいピンク地に、袖に白いラインが入ったジャージの上下が、その小じんまりとした体をぴったり包んでいる。

 

 顔の上に支え持っている書類のせいでその容貌は覆い隠され、うかがい知ることはできない。それでも、美しい金髪がソファの端からはみ出て、床近くまで垂らされている様は八潮の視界に入っていた。

 

 その人物は、八潮の視線に応えるように、書類を顔の上から脇に除けた。

 

「ヤシオか。一週間ぶりだな」


 世界最後の竜を名乗った少女、タマメ。彼女はソファの上で寝転がったまま、にんまりと笑った。


 少年が口をぱくつかせながら自分が言うべきことを探そうとした瞬間、八潮が入ってきた背後の扉が騒々しく開き、ドスの利いた女性の声が室内に飛び込んでくる。

 

「四時間も寝過ごしたじゃねえか! なんで起こさなかったんだよ、ボケ!」


 それに弱々しく応える低音の利いた野太い声。


「や、何度も起こしましたよ、姐さん……」


 会話の主である、カジュアルな格好の男女二人組が、少女の傍に立っている八潮の姿に気付いた。

 

 室内の空気が固まる。

 

 その見るからにガラの悪い女性は、八潮に視線を固定したまま、考えをまとめようという風体で自らの口元に指を当てた。結論が出されるまでにさほど時間は要しなかった。


「真っ昼間から空き巣とは、いい度胸だな」


 女性はずかずかと少年に近づくと、八潮に反論する暇も与えずに彼の夏用制服のネクタイを人差指と親指でつまんで、くいっと持ち上げる。

 

 少年よりも頭一つほど高い彼女が、八潮の人相をあらためようと、その飢えた狼のような表情を、互いの唇が触れんばかりの距離にまで寄せた。タバコの臭いが少年の鼻腔を刺激し、大人の女性との近接接触による心臓の鼓動の高鳴りをより一層強くさせる。


 今にも噛み付こうかというその女性を、少女の楽しげな声が押しとどめる。


「待て、シズカ。そやつがもう一人の『雑用係』だ」


「あ? じゃあ、お前が厳真さんの息子か」


 タマメの言葉に、シズカと呼ばれた女性が八潮のネクタイを引っ張り上げていた力を緩める。


「……あんま似てねえな」


 ぽつりと呟いた女性に対して、いつの間にか八潮の横に付きしげしげと二人の様子を眺めていた男が応える。

 

「ですかね? 俺は似てると思いますけど……」


 男の方は八潮よりやや上回る程度の背丈だったが、骨太で丸々とした体格は間違いなく成人男性のそれであった。


 そして、少年は今のやり取りの中から生まれた疑問について尋ねようと、口を開きかけた。


 しかし、それは再び開いたドアからの声によって妨げられた。


「おーい、君たち、そろそろ学生くんが来る頃合いなんだ、が……ん?」






 <GKIインフォメーション>の『全』社員三名が勢揃いした一階資料室の片隅にある接客スペースで、八潮は部門責任者の芹岡せりおかと名乗る男と膝を突き合わせていた。


 芹岡は四十代半ばといったところで、歳相応に贅肉のついた体に、かなり薄さの目立つ頭部をなけなしの髪でカバーしていた。


「……『分類不能事例』? ですか?」


「そうそう。ええと、<GKIグループ>って知ってるかな」


「はい。名前は」


 軽く頷く少年に、芹岡はパンフレットを見せる。分子構造の概念図やら、牧場で草を食む牛の写真、飛行機やタンカーのイラストなどを象徴的に組み合わせたデザインの表紙だった。学生の自分が知っているのだから、相当に大きな企業なのだろうと、八潮は考える。

 

「非常に広い範囲の業界に手を伸ばしている総合企業でね。当然そこで行き交う『情報』も大量であると同時に、日々速やかに処理する必要があるのだよ」


「はい」


「情報と一口に言っても様々だ。社内でやり取りされるべきものや、国内外から様々な伝手で寄せられるもの、顧客からのクレームなんかもそうだね。で、その中にはまっとうな社員には手に余る物も時々出てくるんだ」


 落ち着いた口調で、芹岡は説明を続ける。


「そういった一般的業務の枠から外れた情報、すなわち『分類不能事例』を取りまとめて、保管、調査、分析、評価する部門が我々、<GKIインフォメーション>なんだよ。どうだろう、ここまではイメージできたかな?」


「ええ、まあ。何となく、半分くらいは」


「うんうん、大したもんだ。私なんぞここに回されてくるような情報は、何もかもが与太話に見えるよ」


 向かい合う八潮と芹岡の脇、ソファに足を広げてどっかりと座る、シズカと呼ばれた女性が、くわえタバコで新聞を広げながら呟く。


「都市伝説とかUFOの話もあるよな。あれウケるわ」


 彼女の後ろの床に座り込み、弟分のような態度を見せる男性が、口いっぱいに頬張った惣菜パンをコーヒー牛乳で流し込んでから、思いついたようにシズカを横から覗き込む。


「あの辺のネタ、雑誌とかテレビに売ったら儲からないですかね? 姐さん」


「おめー、天才じゃね?」


 茶々を入れてくる二人をいまいましげに睨みつけた芹岡だったが、すぐに引きつった笑顔を取り戻すと、八潮の耳元で声を低めた。


「ところで、ええと。篠崎くん? つかぬことを尋ねるが」


「はい?」


「君のご家族にGKI本社の偉い人とかいるのかな。いや、今回の君の件ね、本社から直接指示が飛んで来ていてね、それでその辺どうなのかな、と」


 突然深刻さを増した口調の芹岡の目が、ドロドロとしたものに蝕まれていく。その迫力に呑まれながらも、八潮は言葉を押し出す。


「ええと、ウチは、その……自営業なんで。多分そういうのは無いのでは」


 途端、芹岡は気の抜けたような顔になり、肩を落として俯いた。


「そう……なのか。いや、済まなかった。その、もしや上に口を利いてもらえたりはしないかな、と思ったんだが」


「は?」


「いや、そもそもだね……私がこんな場末のグループ会社に飛ばされるわけがないんだよ」


 俯いたままの肩が震えだす。


「私はね、これでも元は京都にあるGKI系列の製薬会社でバリバリの営業課長だったんだよ。バリバリだよ?」


 芹岡は、溢れ出す激情を抑えこむように、ガラステーブルの枠を両手で握りしめた。肩だけでなく、力が込められた指先までがわなわなと震え始める。


「それがある日突然、こんなお先真っ暗でちっぽけな会社に飛ばされて。こいつらみたいに仕事を仕事とも思わんような、グータラとクズを足して二を掛けた連中の世話をしなきゃならんのか。妻と息子にも合わす顔が無いんだよ」


「オッサン、時々すんごい失礼なコト言うよね……どうせ給料アタシらより貰ってんだからいいじゃんよ」


 シズカはそうぼやいて、タバコの煙をふーっと芹岡の顔に吹きかける。タガが外れたように芹岡は立ち上がり、彼女に指を突きつける。


「社内は禁煙だと言ってるだろう! 言うこと聞きなさいよ! もう信じられないっ!」


「ほら、このオッサン、興奮するとオカマ言葉になるんだよ。面白いだろ?」


 そう八潮に言いつつゲラゲラ笑い転げるシズカが、芹岡を指差してみせる。

 

 少年は、仕事って大変なんだな、としみじみ思った。

 

 そしてタマメは少年の隣、ソファの上に寝そべりながら周囲の騒ぎにも動じること無く、物静かに書類を読みふけっていた。

 

 

 

 

 

「それで、どうして貴方まであの会社で、ええと『職業体験活動』を?」


「タカシロの口利きだ。あの会社な、少なからず政府の影響下にある。勤めている連中に自覚は無いかも知れんがな」


 タマメの思わぬ言葉に、八潮は思わず立ち止まりかけた。


 八潮とタマメは連れ立って、駅からの道を歩いていた。町の景色は夕陽の燃えるような色に染め抜かれている。


 夏の夕方はまだまだ蒸し暑く、タマメはピンク色のジャージの上着を脱ぎ、その袖を腰布のように体に結びつけていた。黒いTシャツの袖から伸びる腕は対照的に抜けるような白さで、夕焼けの中でくっきりとしたコントラストを描いている。


 二人で並ぶと、タマメの背は八潮の胸のあたりまで届くかどうかという頃合いで、少女の長い金髪さえ除けば、高校生と小学生の仲の良い兄妹に見えそうだった。


 すれ違う人々がもれなくタマメのほうに感嘆の視線を向けていたが、彼女はそれをまったく気にする様子が無かった。


 今日のところは顔合わせだけだ、と憔悴しきった芹岡から今後のスケジュールを言い渡された八潮は、<GKIインフォメーション>社屋からの帰途についていた。


「つまりあの会社なら、儂を監視するにもさほど不都合はなく、そして儂もお前と日常的に同道する口実が出来る。皆が得をする、素晴らしい案なのだ。タカシロはなかなか知恵が回るな」


「僕は、あまり得をした気がしませんが……」


「得ならあるぞ」


 タマメはそう言うと、少し小走りで八潮の前方に出る。高めの塀の上から彼らを見下ろしている三毛猫に、少女は手を伸ばした。

 

 彼女の上背ではもちろん届きはしないが、一心に好奇心を向けてくる少女の様子が警戒心にスイッチを入れたのか、その猫はぷいと塀の向こう側に飛び降りていった。


「この世界から魔法が『完全に』失われたわけではない、とお前は考えているのだろう?」


 少年の口元がほんの少し引き締まる。その様子を目ざとく見つけた少女がにやりと微笑んだ。


 八潮は、見透かされた事による苛立ちがわずかに混じる声で聞き返す。


「……根拠は?」


 再び八潮の前を歩き始めたタマメは、子供に言い含めるような調子で話しだす。


「お前は『儂の存在』を確認したからだ。竜は魔法を使えないが、存在自体は魔法に依拠した生命だと言っていい。生態が明らかに他の生物のことわりからかけ離れすぎているからな」


 少年は黙ったまま、少女の小さな背中を見つめていた。


「本当に世界から魔法が失われたのなら、儂はとうの昔に『消滅』しているはずなのだ」


 小さな橋を渡りながら、住宅街の複雑なシルエットの向こうに沈み始めた夕陽をタマメは見る。少女の横顔は微笑んではいたが、それ以上に深い何かの想いを八潮に感じさせた。


「つまり、お前があの島に来た本当の目的は『竜の存在』では無く、『魔法の存在』を確認するため、なのだろう」


 八潮は返す言葉をうまく見つけられなかった。自分の沈黙が肯定を意味することも、彼自身分かっていた。


「お前は儂を見つけ、魔法が世界に現存することを確信した。だから『魔法を根絶する』という台詞をお前は吐けたのだ」


「……仮にそうだとしても、あの会社が僕にとって何の得になるんですかね」


 ようやく言葉を絞り出した少年に、待ってましたとばかりタマメが人差し指を立てて、にやりとした横顔を見せる。


「件の『分類不能事例』だよ。なにも暇つぶしで、この数日あそこの書物を読み漁っていたわけではない。いくつかの事例に『魔法』の関与が疑われる物を見つけた」


 八潮がぴくりと反応する。


「タカシロは、すっとぼけていたが、あの会社を選んだのは儂の監視以外にも理由があるのだろうな」


 少女が小さく肩をすくめた。


「政府もある程度は情報を掴み、危惧はしているのだろう。これは魔法の復活の兆しなのか、またそれより悪い何かなのか。それは国に、民に対して災いをもたらすのではないだろうか、とな」


「あまり、そういう感じには思えないですが」


 色々と腑に落ちない表情を見せる少年に、タマメは続ける。


「危機に備えるのは上に立つ者の務めだ。たとえ、それを民が知らずとも、また望まなくてもな」


 いずれにせよ、と少女は前を向いたまま、諭すように言葉を紡ぐ。


「魔法の根絶がお前の願いならば、あの会社に関わり見聞を広めるのもまた糧となろう。違うか?」


 肯定してしまうのはなんだか敗北を認めるようでしゃくだったので、少年は鼻でふんと息を吐き出して黙り込んだ。


 タマメも何か言葉を続けるわけでもなく、住宅街を物珍しそうに流し見ながら、八潮の前を歩いていた。

 

 つい先日も似たようなことを言われたな、と八潮は思い至る。そしてふと、ここしばらく頭の中を時折行ったり来たりしていた疑問が心に浮かび上がってきた。


「竜が人に化ける技は『魔法』じゃないんですか?」


 何を言うかと思えばといった苦笑いで、タマメは振り返り少年を見上げる。

 

「化ける、とは酷い言われようだな……何度も言うが、竜は魔法を使えないのだ。あれは何というかだな、うむ……とにかく違うのだ。上手く説明できん」


 周囲の家屋と比べてやや広い敷地を持つ、いかにも和風な佇まいの家の門前で、八潮の足が止まる。辺りはいつの間にか夕陽の赤から、夜の黒に染まり始めていた。


「あ、僕の家はここなんで。それじゃ」


「うむ」


 そう言うと、八潮はタマメに目もくれず門をくぐり、玄関を開ける。


「あ、お帰りなさい、ヤッちゃん」


 音を聞きつけた文乃が顔を出す。少年は玄関の革靴に目を止めた。

 

「純二郎伯父さんも来てるんですか?」


「そうそう。ご飯出来てるから」


 玄関の上がり口に積まれた三つ四つのダンボール箱を不審げに思いつつ、少年は靴を脱いだ。






「ヤシオ。これは何という食い物だ?」


「ハンバーグです」


「これは?」


「ポテトサラダです」


「ほう……むぐ……ほう! なかなかの味わいだな! 悪くないぞ!」


「外人さんのお口に合うか心配だったけど、良かったわー」


 ビール瓶の載った盆をテーブルに置きながら、文乃がほっとした面持ちで微笑んだ。居間のテーブルには普段にもましてバラエティ豊かな料理がずらりと並んでいる。


 あれがうまい、これがうまいと話を弾ませている文乃とタマメは、まるで仲の良い親子のようであった。

 

 そして八潮の思考はようやく回転を取り戻し、現状を正確に認識することが可能になった。


「って、なんでウチでご飯食べてるんですか!?」


 半ば腰を浮かせて、八潮が声を震わせる。


 箸を器用に使って白飯をかきこみながら、もごもごとタマメが答えた。


「ん? 今日からここが儂の家だぞ。聞いとらんのか」


「鷹城くんからも頼まれてな。断る理由も無かった」


 厳真が言い添える。彼は文乃の夫、立原たちはら純二郎じゅんじろうに肩を抱かれてビールの追加分を手に持ったグラスに注がれている。

 

 純二郎は食事が始まる前から既に出来上がり、文乃の苦言にもはいはいと一本調子な返事を繰り返すだけだった。ここだけなら少年にとって、見慣れたいつもの風景ではあった。


 厳真の口から出た名前に文乃がぽんと膝を叩く。


「あら、懐かしいわね。鷹城くんって、今は公務員さんなんでしょ? 大学出てからは、とんと見かけてないわよねー。昔はしょっちゅうヤッちゃんや姫子ちゃんと遊んでくれてたのに」


 純二郎がグラスを持ったまま、真っ赤な顔でフラフラになりながら応える。


「仕事が忙しいのは良い事じゃないか。お国のために頑張ってるんだろお。なあ、八潮くん? 君も頑張らなきゃなあっ」


 なぜか扇風機に向かって語りかける純二郎。彼は限界を突破しているようだった。






 洗面所から聞こえていたドライヤーの音が止まり、居間のふすまががらりと開けられる。


「この姿になってから知ったが、湯船というのは良いものだな」


 ふう、と艶っぽく息をつき、ほんのりと頬を染めたタマメは八潮の横、畳の上に腰を落とし、だらりと足を楽に伸ばす。湿り気をわずかに残す金髪から、石鹸の香りが漂ってくる。


 麦茶で喉を潤していた八潮の体へ背中を寄りかからせる少女に、彼は苦情を述べようとした。しかし、八潮は自分の視界に入った光景に言葉を抑えこまれる。


 丈の長いモスグリーンの半袖Tシャツ、その裾は少女の股下までを余裕を持って隠している。太ももから爪先まで何も覆われていない素肌の両足が、八潮には心なしかまぶしく見えてしまった。

 

 下には何も履いていないのではと錯覚させる様子に、少年は一瞬どきりとする。錯覚のはずだ、何か履いているはずだ、と八潮は自身に言い聞かせる。


 後片付けの終わった文乃が台所から戻り、顔を出す。


「タマメちゃんのお布団どうしようかしら? 引っ越し荷物の中には無かったと思うけど」


 座布団の上であぐらをかいて、ビールにちびちび口をつけていた厳真が顔を上げる。


「奥の部屋に来客用の物が何組かあるはずですが」


 純二郎に付き合って相当な量を飲んでいたはずだが、彼の顔色に目に見える変化は無かった。そして当の純二郎は大いびきをかきながら畳の上に転がっている。体の上に掛けられたタオルケットは妻の最後の良心でもあった。


 文乃が頬に手を当てて考えこむ。


「うーん……朝の内に干しておけば良かったかしら?」


 テーブルの上にあった麦茶の容器に手を伸ばしながら、タマメが彼らの会話を遮る。


「いや、フミノ殿。それには及ばん」






「なんでこうなるんですか」


 枕が二つ並んだ自室のベッドの中で八潮は呟いた。壁に向かって体を回し、背後の気配を必要以上に意識しないように努める。


「まあそう言うな」


 抑えた声が静かに応える。少女の声の向きから、彼女は天井を見つめているのだろうと見当がつく。


 一人で寝るのは怖いと同衾をねだるタマメと、当然のごとく拒絶する八潮。わざとらしく目を潤ませる少女に味方して、責めるような目で少年を見つめる文乃。まったくもって理不尽な圧力に抗しきれず、八潮はこの状況を許すはめになっていた。


 タマメが毛布の中で、少年の背後から彼のシャツをつまんで軽く引っ張る。


「妙な気は起こすなよ。お前がどうしても、と言うのなら考えんでもないが……その時は、くれぐれも『優しく』してくれよ?」


 小さな指が背中で『の』の字を描き、少年の全身に電流が走る。八潮は逃げるように、壁際へと更に体を寄せた。


「そんな気、起こしませんよっ」


「ふふ。まだ、『お楽しみ』は残ってるからな」


 笑いを堪えるようにぽつりと呟いた、タマメの謎めいた言葉。それに疑問を呈する気力もわかず、少年はこの現実から一時的にでも逃れるため、さっさと目を閉じた。





10


 雛瀬千鶴が黒板の前で、ざわめくクラスの生徒たちに向かって告げる。


「あー、突然ですが、このクラスに新しいお友達が入ります。仲良くするように」


 肩から下は教卓の陰に隠れてしまうような身長と、適正サイズより少々大き目の制服が、人形のように整った相貌や美しい金髪と奇妙な調和を生んでいる。


「見ての通り、飛び級制度の利用対象者です。まだ十歳との事ではありますが、編入試験において非常に優秀な成績を残しています。諸君にとっても、色々と手本にできるところが多いでしょう。では」


 千鶴が、隣に立つその人物に促すような視線を落とす。その少女は軽く頷いて、一歩前に進んだ。


「儂は『篠崎タマメ』である。皆、よろしく頼む」


 その言葉遣いとは裏腹に、ぺこりと可愛らしく頭を下げるアンバランスな姿は、正体を知らぬ者にとっては愛嬌の塊に見えたのかもしれない。


 教室のところどころから母性本能を刺激された女子生徒の声が上がる。


 逃れられない物の事を現実と呼ぶのだと、少年はその時初めて理解した。

 

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