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第十九話 竜が眠る日


 日の出の時間が近づきつつあった。

 

 明るくなり始めた空は、普段の朝焼けよりも遥かにぎらついた赤い光が混じっている。空全体に禍々しく刻みつけられた『光の紋様』が昼夜問わず発し続けている赤い輝きは、人々の体内時計の感覚すら狂わせかけていた。

 

 天童静は不愉快そうな顔で窓から赤い空をひとしきり睨みつけた後、ふんと鼻を鳴らし事務所のブラインドをばさりと閉じた。

 

 窓から無遠慮に差し込む赤い光は遮られ、室内は蛍光灯の几帳面な白色の下に正常な色彩を取り戻す。

 

「昨日からずーっと夕方な気分だな」


 吐き捨てるように呟き、片手に持ったマグカップに口をつける。

 

 振り返った先、ソファに腰掛けて床に視線を投じたままの篠崎八潮の姿。少年は黙りこくり、ひたむきに思考を集中させている。

 

 事務所のドアが開き、制服姿の護皇院姫子が入って来る。普段の快活な表情はなく、判然としない心残りに瞳を曇らせていた。

 

 静が紙コップに注いだコーヒーを差し出す。

 

「チビ助、ちゃんと寝たか?」


 受け取った紙コップの中身をのぞきこみ、姫子がそっと口をつける。ミルクと砂糖の優しい風味が少しだけ心をほぐす。


「うん。ベッド貸してくれてありがと。静さんの部屋って結構カワイイ系なんだね。ぬいぐるみとか一杯あったし」


「ひとこと余計だ」


「いてっ」


 姫子のおでこを指でぴんと弾いた。軽口で出来たやりとりだったが、二人の表情はぎこちない微笑を浮かべるのが精一杯だった。


 姫子が八潮の隣に腰を降ろし、膝の上で両手を組む。指を絡ませたり、ほぐしたりしながら黙りこくって虚空を眺めていた。


 八潮は視線をぎこちなく彼女の方へ向けてその場の沈黙をそっと破る。


「姫子……」


 タマメを案ずる心が言葉を濁す。それに返す姫子のぼんやりとした声は、もどかしさの裏返しにも感じられる。


「タマちゃん、布団の中でずっと謝ってたよ」


「……そう」


 姫子が紙コップのふちを指でそっと撫でる。


「ずっと泣いてた。あんなタマちゃん見るの初めて」

 

 姫子はそれ以上、八潮に何かを追求することは無かった。

 

 八潮の足先から無力感がじわじわと体全体に這いよってくる。今、世界を脅かしている物は形のある相手ではないのだろう。タマメの様子からそれは感じ取れた。


 自分に何か出来ることは無いのだろうか。

 

 目の前に広がっているのは、頼れるものが何一つない、出口があるのかさえ定かでない迷路。立ちはだかる壁の前、自分に何の力も無いという事実を無理やり突きつけられた気分になる。

 

 それでも、少年は諦めるつもりなど微塵も無かった。






 タマメは眠りに引き込まれていた。

 

 彼女の意識の奥から、記憶の中にあるはずのない景色が散発的に浮かび上がっては消えていく。


 それを夢というのは正確ではない。


 少女が長い時を生きる中で経験してきた数多の記憶が意識下、無意識下を問わず直感的に連結、記述された結果である。

 

 それはどことなく懐かしく、心やすらぐ物であり、少女はそこに意識の焦点を合わせていった。曖昧だった映像がくっきりと像を結び、それはありありとした臨場感を生み出していく。


 あるいは実在したかもしれないエピソードが徐々に形を整え、一つの物語として意識の奥に析出していく。


 心に浮かぶ映像の中、木々の隙間からのぞく青空は美しく澄み切っていた。

 

 人の手がほとんど入っていない森は、風にそよぐ枝葉の擦れ合う音や、虫や鳥の鳴き声が飛び交い、むせるような土の匂いとともに生命の力強さをありありと見せつけている。


 森の奥深く、木々が切り開かれた一角。そこから石と金属がぶつかり合う小気味良い乾いた音が、規則正しいリズムで響いている。


 斜面にぽっかりと空いた、人一人が通れる程度の穴。その前で十人ほどの人夫が、ノミやタガネにつちを打ち付け、巨大な石材を削り形を整えていた。

 

 彼らの姿は皆一様に日に焼けて浅黒い。

 

 粗末な着物を尻端折りにした腰から伸びる足、たすきを掛けてまくり上げた袖からのぞく腕。それらはいずれも細身ではあるが頑健であり、日々の肉体労働によって培われたものであることをうかがわせる。

 

 人夫たちから『親方』と呼ばれ親しまれている年長の男が、額に浮いた汗を手拭いでぬぐう。

 

 親方の頭上にすっと影がさす。彼に向かって上方から呼びかける声は、低く響き渡る荘厳さに満ちている。

 

「一休みしてはいかがです?」


 『竜』がその巨体を持ち上げ、木々の間からぬっと頭を突き出している。その体表は雪のように白く、この世のものとは思えぬ神々しさを放っている。

 

 親方がこの白い竜を最初に目の当たりにした時は肝が震え上がった物だが、今では彼を含めた人夫たちはその巨体に愛嬌さえ感じ始めていた。


「おう、そうだな。おめえら、一服すんぞ」


 その一声に歯切れよい応答で、人夫たちがぞろぞろと日陰へと集まる。

 

 竜がその巨大な爪で保持している木樽をゆっくりと人夫たちの前に置く。中は澄んだ水で満たされ、陽光を受けゆらゆらときらめいている。

 

「悪いね、竜さん。いつもわざわざ奥の泉まで行ってもらっちゃって」


 親方が柄杓ひしゃくで中身をひとすくい口に入れ、臓腑全体に染みわたる心地よい冷たさにぶるっと体を震わす。


 白い竜はゆらりと木々の隙間から日差しの下に巨体をあらわし、親方に軽く頭を下げてみせた。


「いえ、無理を言ってお手伝いしていただくのです。これくらいお安い御用ですよ」


「しかし、竜ってのは何でも出来る神様みたいなもんかと思ってたがな。『術士』先生が俺らんとこに仕事持って来た時は、ホントたまげたぜ」


「人に頼み事をするのはしばしばある話なのですよ。この通り、竜の体は細かい仕事に向かないのです」


 前脚をひょいとあげ、丸太のような指をくいくいと動かしてみせる。この指で石工いしくの真似事をするのは確かに不都合がありそうに思える。


「はあー。難儀な話だねえ」


 親方は首を振って更に一口水を含む。口をぬぐった親方が近場の岩に腰を下ろし、斜面の穴を眺めやる。


 穴は地下へと向かう闇にゆるやかに続いている。入り口の周囲には石造りの枠がすでにしつらえてあった。術士が穴の中から戻りしだい、人夫たちが今作り上げた石扉で穴に封をする手筈になっている。


「術士先生はまだかかるのかね? 朝からずっとこもりっきりだけどよ」


「さて……日暮れまでには戻るとおっしゃっていましたが……おや、噂をすれば何とやら」


 穴の奥の気配を竜の耳が敏感に捉える。間もなくそこから一人の男が姿をあらわした。

 

 初老の術士は上下を小奇麗な狩衣かりぎぬ装束に包み、さほど高さのない烏帽子を白髪の混じり始めた頭に載せている。


 歩み寄る親方に軽く頭を下げ、術士が言った。


「お待たせいたしました」


「おう、先生。用は済んだんですかい?」


「はい、とどこおり無く」


 丁寧な物腰が印象的なその術士が、白い竜に視線を上げる。


「ここは豊かな地脈が通っておりますな。良い『眠り』の術式を組めました。あの『子』にも十分な『気』が注がれることでしょう」


 術士の長い眉が優しく下げられ、言葉を継ぐ。


「今はまだ小さな幼竜ですが、百年もすれば立派な成竜の体となりましょう」


 白い竜が術士に頭を軽く下げて謝意を示す。手を上げて返した術士が親方に向き直った。


「では、親方さん。扉の方をよろしくお願いします」


 術士の言葉に、おうっと応えた親方が、人夫たちに掛け声を飛ばす。威勢よく立ち上がった男たちが、ころとテコで巨大な石扉を穴の方へと手際よく運び始める。


 やがて穴の枠にぴたりと嵌めこまれた石扉。その表面は複雑な紋様が刻み込まれ、中央には乳白色の勾玉が埋め込まれている。


 術士が扉の前に立ち、懐から一枚の呪符を取り出す。ある特殊な術式を血と墨で筆書きしたそれを勾玉に押し当て、呪文を唱えた。それに呼応するように扉の紋様が淡い青に輝き始め、見守る人夫たちから小さく感嘆の声が漏れる。


 呪文を唱え終わった瞬間、呪符がぽんと音を立てて燃え上がる。宙に浮かんだままの呪符は瞬く間に燃え尽き、その燃え殻が勾玉の中へと吸い込まれていった。


 やがて紋様の青い輝きは消え、術士は扉に向かってうやうやしく礼をする。


 小さく息を吐き出した術士が皆の方へ振り返り微笑みを向けた。


「お疲れ様でした。『御役目おやくめ代替りの儀』は、これにてしまいです」


 仕事を終えた達成感が、森の中に人夫たちの場違いで陽気な喝采を響かせ、それはひとしきり続いた。






 人夫たちが作業の後始末をしている。その様子をやや離れた場所で見守りながら、術士は背後の白い竜を見上げた。


「御役目の竜はどういった目安で選ばれるのです?」


 竜が小さく頭をもたげて瞳を術士に向ける。


「<血の盟約>を遂行する役目は、若い竜の中でも最も賢い者を宛てるしきたりとなっています。そして、かの一族に連なる人間が竜の力を求める日まで……御役目の竜を目覚めさせるその日まで、ただ眠り続けるのです」


 術士がふと首を傾げる。


「……誰も竜を目覚めさせなかったら、その竜はどうなるのです?」


「命尽きるまで眠り続けるだけです。先代の御役目もそうでした」


 さらりと言った竜に、わずかな驚愕に揺れる術士の視線が注がれる。


「求められるかも定かでない盟約のために、竜族は才ある者を差し出すというのですか?」


「それが竜族の信念であり矜持なのです。かの一族の『子』たちから『母』を奪い続ける血の呪い。それをかけた竜の罪は許されません。それでも、せめてもの罰を自身に与えたいという我儘な話なのです」


 そう自嘲するように語る竜の瞳。その陰に浮かんだ色が、術士の心にある疑念を抱かせた。


「一つ伺って良いですかな。此度こたび眠りについた御役目の竜とは、もしや……」


 続く言葉を濁す術士に、淡々とした調子で白い竜は返した。


「はい。私の娘でございますよ」


 竜の誇りと母の慈愛が相反しつつ混じりあう視線は、封じられた石扉をいつまでも見つめていた。






 この島に人夫たちを本土から迎えに来る船。その姿が水平線の先に小さく現れている。


 ここは船着場もない無人の島であった。そのため、来た時と同様に竜が人夫たちを背に乗せて、海岸とその近くまで寄せた船の間を往復することになっている。


 まだ遥か遠くの船に向かって朗らかに手を振る人夫たち。彼らからやや離れた場所で、白い竜と術士は並んで海を眺めている。


 竜がぽつりと呟く。それは感情とはあまり関係の無い、純粋な疑問から出た言葉だった。


「術士殿。何故、かの一族は未だその血を絶やすことがないのでしょうか? 人と竜の血を引く子を産めば、母親は必ず命を落とします。何代にも渡る人と竜の努力も甲斐なく、それは覆しようのない事実ですのに。何故、あえて自らの命と引き換えてまで人の母親たちは子をなそうとするのです?」


 問いかけられた言葉に、術士はひげを撫でながら考えこむ。


「さて……かの一族とは私も知己ではありますが、そこまではしかと分かりかねますな」


 居心地の悪い沈黙が流れ、竜がわずかに目を伏せたその時。


「そりゃあれだろ、惚れた男の子供だし、何より自分の子供だからだあな」


 道具袋を肩に担いだ親方がにんまりとした笑顔で二人を見ている。その後ろにはいつの間にか人夫たちが寄り集まっていた。


 鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった術士と竜に、親方が途端にバツの悪そうな顔になる。


「ああ、わりい。よく事情も知らねえで口挟んじまったな。忘れてくれ」


「いえ、聞かせて下さいますか。是非」


 真剣に見つめてくる白い竜に、鼻をぽりぽりとかきながら親方がどこか照れくさそうに答える。


「いや、ウチのかかあも、しょっちゅう言ってんだよ。『確かにアンタに惚れはしたけど、腹痛めて産んだ子供がやっぱり一番だ』って」


「その後に『だからもっと稼いできな』って続くんだろ?」


 後ろから飛んできた人夫たちの合いの手に、どっと歓声が起こる。違いねえ、と言ってゲラゲラと笑い合う人夫たちを竜は目を丸くして見ていた。


 術士が竜に向き直る。


「竜殿。事は案外単純なのかも知れません。親が子を想った結果……それが全てなのでは無いでしょうか」


 諭すように語る術士。それでも竜の瞳は曇ったまま、地をぼんやりと見つめる。


「竜の力も知恵も何一つ、かの一族の役には立ちませんでした。私はそれがどうしようもなく、もどかしいのです」


 術士は竜の前に立ち、頭を下げた。そして彼自身の矜持を貫く言葉が紡がれる。


「では『護皇院家』の当主として約束いたしましょう。誇り高き竜族に代わり、我らがかの一族を後世まで庇護いたします。この身に賭けて誓いましょう」


 白い竜は、しばしの沈思に浸ってから、やがてゆっくりと頭を術士に下げた。


 物語の映像はそこで停止し、ディテールを失い急速に色あせていく。


 意識に浮かび上がっていた景色が黒く塗り潰され始める。

 

 それに合わせて、タマメはゆっくりと目を開いた。

 

 天井に吊るされた照明の豆球。そのオレンジ色が闇の中で奇妙に際立つ。

 

 眠りの中で見た景色が一体何を意味するのか、自分には分からない。益体のない妄想と言ってしまえばそれまでだが、そうあっさりと断ずる気にもなれなかった。


 タマメはベッドの上でゆっくりと体を起こす。


 カーテンが閉め切られた窓を見る。隙間からわずかに漏れ入ってくる赤い光を睨みつけた。

 

 世界に残された時間はそれほど多くない。

 

 だが、自分には出来ることがあるはずだ。タマメは右目を覆う眼帯に指を当て、決意する。何を引き換えにしてでもこの世界を守ってみせる。


 膝の上で、拳を強く握りしめた。


 少女の左の瞳に強い意思の光が蘇った。



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