第十八話 光る空(後)
1
テレビ、ラジオをはじめとした全てのメディアは、天空に顕現した光学現象に対する緊急報道体制を敷いていた。
空を覆う紋様は『地球全体』に出現している。
篠崎八潮が目撃した<光の矢>と同様の現象は、すでに世界中で数百件の事例が報告されていた。
陸上、海上を問わず撃ち込まれた<光の矢>は凄まじい『破壊』をその周辺にもたらし、被害をヘリから捉えた映像がいくつかテレビで報じられていた。
クレーター状に深々とえぐられた地表は垂直方向に百メートル近く掘り下げられ、そこから生まれたと思しき衝撃波が周辺の樹木や家屋を放射状になぎ倒している。
今のところ人口密集地への被害は避けられているものの、世界全体を見た暫定的な合算では数千人の死傷者が発生している。
異変発生から最初の一時間は大規模テロや、国家間の軍事衝突の可能性が取り沙汰されていた。しかし、徐々に各国から被害報告が集まるにつれその無差別性が明らかになっていく。
現在では、これはいかなる政治的、宗教的その他の明確な人為的意図に基づいた攻撃ではないという、半ば願望が込められた推測に落ち着きつつあった。
自分たちの頭上に出現した光の紋様は、現在の人類の技術から大いに逸脱している。対処するすべのないこの圧倒的な力。それが悪意を持って振るわれたならばという想像をすること自体、人々は本能的に拒絶せざるを得なかった。
報道メディアは内外の専門家からかき集めた硬軟入り混じるコメントを紹介すると共に、世界各国の政府機関の声明、及び未知の脅威に備えた軍事行動の予兆にも言及している。
世界は突然目の前に突きつけられた『終末』の気配に怯え、麻痺し始めていた。
2
鷹城は深く息を吐き出すと、眼鏡を外してレンズを布で拭い始めた。
そのフロアでは背広姿の人間が盛んに行き交い、蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。
長テーブルを三つ寄せて作った大きな作業台。その上に並べられた多くの画像のプリントアウトは、ここ一時間以内に衛星軌道上から地表方向を撮影した物である。
各種光学観測データから、世界中の空を覆っている『光の紋様』は実体を持っておらず、成層圏上層付近に何らかの手段によって投影された物であると確認されていた。
現在では各国の衛星が撮影したそれらの映像を繋ぎあわせ、紋様の全体像がほぼ明らかになっている。
しかし、それが真に意味するところを理解した者は世界中に誰一人として存在しなかった。
佐々森忠成は液晶モニタに映しだされた画像と机上の写真をしばらく眺め比べた後、鷹城にうなずいた。
「ええ。共通するパターンが見られます」
そう言って傍らのバインダーをテーブルの上に広げてみせる。<術石>の内部を拡大した写真の一部を佐々森が指差した。
「この部分ですね。『魔力』が発現経路を活性化する際のシンボルに酷似しています」
「つまり現状、空に浮かんで無差別に地上を攻撃している『あれ』は……」
視線を険しくする鷹城に、佐々森が首肯する。
「ええ、『魔法』です」
3
空を覆う赤い紋様のせいか、夕焼けはふだんよりも赤みがかったオレンジ色となり、<GKIインフォメーション>社屋の外壁を照らしている。
二階事務所の壁際に置かれた小さなテレビ。そこでは、海外メディアが今回の異変について報じる様子が映しだされている。
ニュース映像では海外の著名な宗教指導者が緊急の声明を出していた。会見の場となっている広場には一万人を超える信者がひしめき合っている。
その宗教指導者は、心を落ち着けて神に祈ろうと信者へ呼びかけている。それに熱心に聞き入る信者たちは十人十色に不安の色を浮かべ、多くはその手を胸元で合わせて祈りを捧げているように見えた。
椅子に座って画面を見つめる八潮と姫子から離れたところでは、芹岡が携帯電話で十分以上話し込んでいる。漏れ聞こえる単語から、相手は恐らく家族なのだろうと八潮は見当をつける。
この異変の原因について八潮は、そこに『魔法』が絡んでいることを薄々ではあるが感じ始めている。タマメの言葉少なな態度からもそれは容易に察することができた。
八潮は、先ほどからテレビにじっと見入っている姫子に視線を向けた。
「姫子、家に帰らなくていいの?」
両手で頬杖をついている姫子が、テレビを見つめたままぼんやりと返す。
「ん。大丈夫。お母さんには言ってあるし。八潮とタマちゃんもまだここにいるつもりでしょ?」
「え、うん。<GKIグループ>経由で情報もらえるから、家よりはここの方が都合がいいって、タマメさんが」
「ふーん。タマちゃん、何か分かるのかな。本社から送ってきた写真とか、どっさり持って一階にこもりっきりだけど」
何と説明したものかと、八潮が言葉に詰まる。さすがに竜やら魔法やらの話をここで明かすべきでは無いような気がしていた。
ふと、姫子がじっと見つめてくることに気付く。その大きな栗色の瞳に心の奥まで見通されそうな気分がして、背筋がわずかに冷たくなる。
姫子が八潮を見上げるようにさらに顔を寄せる。その一途な視線が何を意味しているのか掴みきれず、八潮は困惑するしか無かった。
その時ドアが開き、静と栄作が入ってきた。二人が両手に持った盆の上には食材を盛った皿と、スープ用の小鉢が人数分乗っている。
静のエプロン姿という実に稀少な光景に衝撃を受けるとともに、自分を追求するような姫子の視線から逃れる契機が生まれたことに八潮はほっとする。
「待たせたな、ガキんちょども。アタシのお手製チャーハンだ。特別にタダだからな、ありがたく食うように」
「やだ、美味しそう! ちょうどお腹空いてたんだよねー」
「どうしたんです、これ?」
目を丸くする八潮の前に、栄作が皿を並べていく。静が腕組みをしてじろりと少年を見下ろす。
「アタシが作ったって、今いっただろ」
「いや、台所なんてあったんですか、この会社?」
「アタシ、ここの三階に住んでるんだよ。ちなみに家賃は会社持ちな。いいだろ」
「……そ、そうなんですか」
そういえばだいぶ前に彼女が無遅刻無欠勤を自慢していたと思い出し、そういうカラクリだったのかと八潮は内心で納得する。
静がラップのかかった皿と小鉢を八潮に差し出す。彼女の視線がどことなく穏やかさと憂いの混じったものになった。
「小僧。これチビ助の分な。お前が持ってってやれ」
4
八潮は片手に盆を持ったまま、そっとドアを開けて中をのぞきこんだ。
一階資料室の床一面に敷き詰められた数十枚のプリントアウト。
それは『光の紋様』を撮影した国内外の衛星写真を<GKIグループ>が独自に収集し、さらにタマメがパズルのように継ぎ合わせて並べたものだった。
タマメはその前に座り込み、些細な情報も見逃すまいと真剣な表情でつぶさに画像を検証している。
八潮の記憶にある限り、タマメがここまで鬼気迫る表情を見せたことは無かった。
大きな音を立てないように、料理の乗った盆をテーブルの上に置く。タマメはそれにも気づかないのか、相変わらず作業に集中している。
八潮は少し逡巡してから、少女の背中におずおずと声をかけた。
「あの、食事です。静さんが用意してくれました」
「ん、すまんな。そこに置いてくれるか」
写真の上に乗り出すようにしてそれらを見つめているタマメが、八潮へ視線を向けることなく言葉を返した。
自分の世界に入り込みすぎているタマメが、まるでそのままどこかに消えてしまいそうな錯覚に八潮は駆られる。彼はほんのわずかに声の調子を強めた。
「あの……少し休んだ方が」
八潮の声のトーンにようやくタマメが振り向いた。
「……もうこんな時間か」
壁の時計を一瞥し、ため息をついた。床から立ち上がりぐっと背中を伸ばしながらソファへと向かう。少女は出来立てのチャーハンを前にすると、スプーンを片手に微笑んだ。
ひとすくい口の中に入れてゆっくりと味わい、目を輝かせる。
「うむ、なかなかの物だな。シズカもやるではないか」
一口食すことで空腹を思い出したのか、タマメは夢中でチャーハンをかきこむ。隣に腰掛けた八潮が、床にずらりと並ぶ写真をしばらく眺めてから、窓の外に目をやる。
夕焼けと『光の紋様』がグロテスクに絡み合っている様子は否が応にも見る者の不安をかき立ててくる。
「これからどうなるんでしょうか……?」
独り言のようにぽつりと呟く八潮。タマメはスープを一口すすって、スプーンを揺らしながら天井に目を向けた。
「全体像がようやく見えてきた。今あの空に浮かんでいるのは、言ってみれば魔法術式の『鏡像』だ。だがまだ不明瞭な部分がある。少しばかり情報が足りん」
「何か手伝えることは……?」
八潮の問いかけに首を振り、チャーハンをもぐもぐと頬張りながらスープで流し込む。少女は一息ついてから、テーブルの隅に置かれた携帯電話をスプーンで指した。
「先ほど、タカシロから連絡があった。政府が持っている情報がこちらの役に立ちそうだ。夜の内にここに届けてもらう手筈になっている」
あっという間に料理を平らげたタマメが、満足した風に息を吐き出しソファの背にもたれかかる。
「それで全てがはっきりするはずだ」
その言葉は自信に満ちていた。だが八潮は少女の表情の裏にある微かな戸惑いのような物を感じとっていた。
5
真夜中近く、八潮はふと目を覚ました。
<GKIインフォメーション>二階事務所は照明が落とされ、しんと静まり返っている。
窓の外に見える夜空は、相変わらず赤い光の紋様によって不気味に染め上げられている。
八潮は会社備品の毛布にくるまり、応接用ソファで仮眠を取っていた。向かいのソファでは姫子が同じく毛布の下で寝息を立てている。
タマメはまだ一階資料室で作業を続けているはずだった。少女は一刻も早く光の紋様の解析を済ませたいと、自分に構わず二人に睡眠を取るように勧めていた。
他の三人の社員はすでに皆帰宅している。未成年をこうしてほいほい外泊させるのもどうかと思われたが、一応同じ建物内に静も居住しているのでどうにか言い訳は付きそうだった。
なぜ姫子まで八潮たちに付き合ってここで夜を明かす気になったのか、少年にはその意図がまだよく分かっていなかった。
物音を立てないようにそっと体を起こす。携帯電話の時刻表示を見て、タマメの事を想う。いくらなんでも徹夜などして体でも壊されてはたまらない。
毛布を脇に除け、姫子が目を覚まさないように抜き足差し足で事務所から廊下に出る。
一階に降りて資料室のドアをそっと開けた。
明かりは消えていた。
窓から差し込む『光の紋様』の赤い輝きだけが室内をぼんやりと照らしている。
タマメは床に並べられた無数のプリントアウトの上に両手をついて座り込み、縫い止められたように微動すらしていない。
少女の顔は床へと向けられたまま、左の瞳が見開かれている。八潮の目には少女の白い肌がさらに蒼白になっているように見えた。
ゆっくりとタマメのそばに歩み寄り、自分も床に膝をついた。少女の顔をのぞきこむ。
少女の表情に浮かんでいたのは『絶望』だった。
八潮は心の奥がぎゅっと締め付けられる感覚を味わいながら、そっと囁きかける。
「タマメさん……?」
少女の肩がぴくりと震える。床につけられた小さな両手に思わず力が入った。指の下にあるプリントアウトが数枚くしゃりと握られて形を変える。
タマメはぎこちなく首を回して八潮の顔を見た。
そこにあったのは怯えきった幼子の目だった。
言葉を発する方法も忘れたように、口を小さく開けて閉じるのを繰り返す。
思わず手を伸ばした八潮に、タマメがよろけるようにすがりつく。
か細い声が八潮の心に突き刺さった。
「ヤシオ……儂は……儂は、どうしたらいい」
少女の指が苦悶にあえぐように袖を掴んでくる。何が起きているのか理解できないまま、八潮はタマメの震える肩を優しく両手で抑えた。
「タマメさん? どうしたんです?」
少女が顔を伏せて、さらに体を大きく震わせる。今にも消え入りそうな声が押し出された。
「これを作ったのは『竜』なのだ」
八潮の思考が止まる。
「え……?」
力の抜けた少女の指が、八潮の袖から離される。ぺたりと座り込んだまま、タマメは自分の顔を両手で覆い、体を折り曲げる。
丸められた小さな背中が震え、絞りだすようにようやく言葉を吐き出す。
「これは全て『竜』の罪だ」
ゆっくりと両手を顔から離す。震えが止まらない指先を焦点の定まらない瞳で見つめた。
「三百年前……<大喪失>を起こし……人類の半分を殺したのは『竜』なのだ」
左の青い瞳から涙が一気に溢れ出す。
少女がそれ以上言葉を続けることは出来なかった。
体を震わせ、声を殺して嗚咽する世界最後の竜を前に、八潮はかける言葉を何一つ見つけられなかった。




