第十四話 子供たちの前を往く人(中)
1
夕焼けを浴びる町並みを見つめながら、篠崎八潮は視界に混じる奇妙な違和感について思いを巡らせていた。
意識を集中して何か物を見ようとすると、時折視界に含まれる情報密度が急激に上昇するように感じる瞬間があった。
映像がクリアになるというだけでなく、視界の中で流れる時間の『解像度』のような物が異常なほど密になり、その細部まで詳細に知覚できるように思えていた。
自分の目の正常さを確かめるように、隣を歩くタマメをさりげなく見る。夏用の制服にたすき掛けにした鞄。夕陽を照り返す長い金髪はいつも通りの美しさを見せている。ふと自分を見上げてくる端正な面持ちは何度見ても飽きたりすることは無い。
ともすれば無遠慮とも思える八潮の視線を受け止めたタマメが、ほんのりと赤らんだ頬をふくらませる。
「あまり見つめるな。悪い気はしないが、少し照れくさい」
「いや、そういうわけじゃ無いんですけど」
半ばからかうような目になったタマメに、八潮は仏頂面で返しつつ何度かまばたきしながら青い右目を気にする。その様子に気付いたタマメが不審げな顔を向ける。
「目がどうかしたか? 痛むのか?」
「いえ……時々、見え方が妙になると言うか。気のせいのようにも思えるんですが」
タマメが八潮の手を取って自分の方へと振り向かせる。目をすがめて少年の右目をしげしげと眺め、少女は更に眉を寄せた。
「特に異変があるようにも見えないな。だが、あまり前例の無いことだから確かな事も言えん。時期を見て詳しく調べてもらうのがいいだろう」
「そう……ですね。その内に」
色々と考えながら、そう答えた八潮は前を向く。ふと、タマメの手が自分の手首を掴んだままなのに気付いた。ぷいと反対を向いている少女の頬が更に赤らんだように見える。
ごくりと息を呑みつつ逡巡を繰り返した後、八潮はゆっくりと手首を回し、タマメの手と自分の手を重ね合わせた。八潮の手の中にすっぽりと収まるほどの小さく柔らかい手のひらを優しく包む。一気に速まった自らの胸の動悸がやけに近くに感じられ、少年の耳朶が心持ち熱くなる。
別にやましい考えがあるわけではない、はぐれでもしたら一大事だし、右目の事もあってこの少女は視界が覚束ない場面もあるだろう。そうだ、こうするのは当たり前だと八潮は自分に言い聞かせる。
繋がれた手は離れることなく、二人はその後特に言葉を交わすこともなしに自宅へとたどり着いた。
八潮がふと見ると、自宅の門の横に一台の乗用車が停まっている。運転席に座る男が、二人に向かって小さく頭を下げる。反射的に会釈を返した八潮は半信半疑のまま玄関に入った。
居間に入った二人が目にしたのは、いつになく重々しい空気で向かい合う篠崎厳真と鷹城の姿だった。
鷹城に無言で促されるまま畳に腰を下ろした八潮とタマメ。二人に向かって鷹城は単刀直入に告げた。
「明日、<統法機関>の本拠と目される施設に立入検査を行う」
目をしばたかせる八潮がタマメと視線を交わす。補足するように厳真が口を開いた。
「相談した結果、私も鷹城くんの部隊と同行することにした」
父親の意外な言葉に八潮がぽかんと口を開き、訝しむように首を傾げる。
「父さんが? どうして?」
眼鏡を外してレンズを布で拭いていた鷹城が代わりに応じる。
「魔法を用いた妨害が予想される。現時点では<護皇院流>だけがそれらに対する現実的な対抗手段だ」
<術石>を頭に埋め込んだ黒眼帯の男、公安の武装隊員をなぎ倒した<石傀儡>の映像が八潮の脳裏をよぎり表情を暗くさせた。
厳真が自身の頭を指で軽くかきながら安心させるようにうなずく。
「心配しなくていい。静と栄作もいる。私はただの保険みたいな物だ」
着流しの胸元で腕を組み、厳真が八潮を見つめた。その視線に込められた物が少年の意識を引き付ける。
「それより、八潮。お前にはこれを見届ける義務があると思う」
「えっ……?」
「佐々森研究員だったか。彼に会うという決断を『お前』がしたことから全てが動き出した」
厳真が八潮とタマメを交互に眺め、深い思慮が浮かぶ声色で穏やかに語りかける。
「お前も……タマメも明日、私と一緒に来ないか? お前がしたことの結末を、お前自身の目で確かめておくべきだと、私は思う」
タマメがちらりと八潮の表情をうかがう。少年はじっと黙り込んだまましばらく考え込んでいた。
2
数機のヘリコプターが一定の間隔を置いて飛行している。
三方を山に囲まれた土地を見下すように位置し、上空からの監視の任に当たっている。
この日、<教団>本部がある地域一帯は朝から物々しい雰囲気が立ち込めている。
トラックやワンボックスカーが列をなして道路を進んでいき、それを道路脇から信徒たちが不安そうな顔で見守っている。
その様子を窓から見ていた背広姿の教主は、携帯電話のコール音に耳を傾けている。朝から何度となくかけている沙久耶の番号。そこからの応答はただの一度も無かった。
小さく息をついて、彼は通路から<統法機関>の研究区画へと早足で移動する。その足運びは病魔に侵された老人のものとは一線を画していた。
やがて教主が到着した区画では、大勢の研究員が忙しく動きまわっていた。ただしそれは知識を追い求める行為とは全く逆の理由による慌ただしさから来る物だった。
作業服姿の男たちが機材をハンマーや鉄パイプで破壊して回る光景を、壁際に立っている仰木邦光が身を切られるような表情で見つめていた。
書類等の燃やせる物は一箇所に集められている。目ぼしいものが一通り回収されればすぐに火をかけられることになっていた。
自分が人生を捧げてきたものが目の前でずたずたにされていく情景が仰木の意識を苛んでいく。
何故こんなことになったのだろうか、どこで自分は間違えてしまったのだろうか。ただ世の中の平和を追い求めていたはずの自分の人生の記憶が砂のように崩れていく。脳の奥を焼かれるような感覚が理性を押し流し始めていた。
歯を食いしばるように口を結ぶ仰木の視界に、廊下を進む教主の姿が入る。仰木は思わず後を追ってその区画から離れた。
教主が作業用エレベーターに入るところで仰木が追いつく。邪魔者を見るような目を向ける教主に構わず、エレベーターに仰木も乗り込む。
鼻を鳴らした教主がボタンを押し、エレベーターが静かに動き始める。この二人が誰もいないところで話し合うのは久しぶりの事だった。
仰木は努めて冷静な口調を保つように心がけた。そうしなければ目の前の老人に思わず掴みかかってしまうような気がしていた。
「教主。もはやこれまでです。研究の痕跡を完全に消し去ることはできません。言い逃れることは不可能でしょう」
教主は無愛想な目で仰木を見る。
「儂がここから立ち去る時間を稼げればよい。『被験者』に<術石>を埋め込んで暴れさせるように指示もしてある」
「なっ……無意味な混乱を引き起こしても事態は好転しません」
声をかすかに荒らげた仰木を宥めるように教主が言葉を向ける。
「問題ない。『祭壇』に辿り着けさえすれば何とでもなる」
ため息をついて仰木が首を振った。
「まだ起動の段階ではありません。技術的な調整が必要です」
半眼になった教主が仰木をぎろりと睨みつける。その瞳に現れた色は、自分のしていることを完全に理解している人間の物だった。
「術式は完成している。魔力損失を度外視すれば、準振動状態にある双樹型大法陣の魔力負帰還ループが持つノイズは許容範囲内だ」
教主の口から発せられた言葉に仰木が凍りつく。この老人が魔法の運用や理論に関して専門的かつ正確な知識を持っていることなど想像すらしていなかった。
ぎらつく瞳の奥に潜む底知れなさを感じさせる老人。彼を単なるスポンサーとしか見ていなかった自分の認識の甘さを仰木は思い知らされる。
痺れるような思考の中、仰木は言葉を絞り出した。
「い、一体、何を」
教主が唇を醜く歪め、歯をむき出す。わずかにネクタイをゆるめ、首の付根をさらけ出す。
そこに癒着するように埋没した<術石>の赤い輝き。
仰木の目が驚愕に見開かれる。言葉を発しようとした仰木の喉を、教主が片手で掴む。老人どころか、人間としてもありえない怪力が仰木の体を片腕一本で持ち上げ、エレベーターの壁に押し付ける。
首の骨がきしみを上げる。急速に薄れゆく意識の中で、仰木は教主の言葉を絶望の中で聞き入った。
「儂をカリスマ性だけの人間と思ったか? 貴様が持っている程度の知識はすでに儂もモノにしている。<統法機関>が長年かけて積み上げた全ての知識は『儂』が有効に活用してやる。安心して逝け」
喉に食い込む指へ更に力が込められる。次の瞬間、枯れ枝が折れるような音とともに、仰木の体から力が抜けた。
3
沙久耶から公安へともたらされた情報はここまでの所、非常に正確なものであった。
複数の施設はかなりの部分が破壊、あるいはその設備が何処かへと持ち出され、明確な証拠品となり得るほど原型をとどめた物品はこの時点で数えるほどしか確保できていなかった。
しかし、物証は少しずつではあるが確実に揃い始めている。周到に準備された上で断固として実行された今回の立入検査の流れからは、証拠隠滅に使える十分な時間は無いはずであった。
比較的スムーズに検査が行えると予想された区画に関しては一般的な調査官が指揮に当たり、書類等の押収を続けている。
そしてその裏で、鷹城は数十人規模の武装隊員を指揮し、より『危険度』が高いと見込まれる区画の調査を行っていた。
沙久耶から手渡された情報は全てが明確に記されている物ではなく、状況から彼女が推測した物も多数含まれている。しかしその内容については十二分な信憑性があると判断されていた。
現在、鷹城は部隊を二手に分け、この施設を東西から順に捜索、危険要素の排除を命じていた。
鷹城が直接指揮する部隊には厳真、もう一方の部隊には天童静と野呂栄作が同行し、<術石>によって強化された者や<石傀儡>による万一の襲撃への備えとしている。
鷹城らが施設のある一角へと差し掛かった時、彼が持つ無線機からコールが鳴る。
「鷹城だ」
『例の<術石>持ちと思われる連中に襲撃されました。数は六。すでに<護皇院流>によって制圧済みです』
「分かった。施設の調査を続けろ」
通信を切った鷹城が、つい今まで隣にいた厳真が姿を消していることに気付き辺りを見回す。
「厳真さん?」
いつの間にか厳真が部隊の先頭に立っている。片手を挙げて後続を押しとどめ、周囲の気配に意識を集中させている。
通路を数メートル先進んだところの扉が内側からゆっくりと開いた。
隊員たちに緊張が走り、数丁の短機関銃の銃口がそちらに向けられる。
次の瞬間、そこから影が飛び出す。不規則な軌道で床すれすれを這う超人的な速度に、隊員たちは銃の狙いを付ける暇すら与えられず、その影はあっという間に隊列の先頭にいる厳真に肉薄する。
コマ落としのようなその動きに反応すらできず、隊員たちの意識が凍りついた。
薄緑色の祈祷服を身に付けた『信徒』が跳び上がるように体を伸ばし、目前に立つ厳真の顔面を叩き潰すべく拳を放った。
厳真の鋭い眼差しが信徒に注がれる。
その刹那、激しい音と共に信徒が横の壁へと叩きつけられ、コンクリートの破片が勢い良く飛び散る。
信徒の手首をいつの間にか掴んでいた厳真は、相手が身動きしなくなったのを見て取ってからその手を離した。
衝撃の凄まじさを示すように壁の中へ体の右半分をめり込ませている信徒は、失神していると見えぴくりとも動かない。
つい今しがた圧倒的な殺意と、目を疑うほどの身体能力を見せてきた信徒に気も留めることなく、厳真は耳を澄ますような仕草で扉の向こうの気配を探っていた。やがて厳真が待機していた隊員たちに振り向き小さくうなずく。
「ここで待っていてくれ。すぐ終わる」
厳真はそう言って無造作に扉を抜けて、滑らかな足取りで部屋の中に入る。すぐさま室内から複数の叫び声や、さまざまな物が砕けたりへし折られたりするような音が響き渡る。
時間にして十秒かそこらの後、ひょいと通路に顔を出した厳真が涼しい顔で鷹城たちに手招きしてみせる。
恐る恐る室内を覗き込んだ隊員たちの前には、異常な光景が広がっていた。
十人ほどの信徒が意識を失って累々と転がっている。
壁に穴を穿つように体をねじ込まれて下半身だけが見えている者、床のコンクリートを砕くように頭を埋め込まれ深い祈りを捧げるような姿勢で這いつくばる者。ある者は天井に上半身をめり込ませて洗濯物のようにぶら下がっている。
厳真が室内を見回しながら平静な口調で言い添える。
「しばらくは目を覚まさないと思うが、早い内に佐々森くんを呼んで彼らの<術石>を無力化するべきだろう」
うなずいた鷹城が、のされた信徒たちの監視を数人の隊員に任せ、残りは再び施設の最奥部へと足を進めた。
数カ所の区画を確認したところで、先行させていた隊員が通路の陰から鷹城に合図を送ってきた。
「課長、こちらを」
突き当りにある簡素なエレベーターの扉が開かれている。その中に横たわる男の姿を見て鷹城は眉根を寄せる。
仰木の首が不自然な方向へとねじ曲げられ、四肢は脱力し床の上に投げ出されている。探るように仰木の喉元に手を当てていた隊員が、鷹城に向かって首を左右に振る。
その時、エレベーターの向こう側にあるドアが前触れなしに音を立てる。
隊員たちは素早い反応を見せ、ドアが開ききる前にそちらへ短機関銃の銃口を一斉に向けた。
「待て」
ドアから現れた人物を見て、鷹城は隊員に銃口を下げさせる。
沙久耶はわずかに憔悴を浮かべた表情で鷹城を見ると、ほっとしたように肩から力を抜いた。
鷹城は彼女を落ち着かせるように穏やかな口調で語りかける。
「教主は今、どちらですか」
武装した隊員たちを前にしても冷静さを失っていない沙久耶が鷹城を見る。
「今しがたここから離れたようです。私用車が一台無くなっています」
そう言って車種とナンバーを書いたメモを鷹城に差し出す。内容を確認しながら鷹城が更に尋ねる。
「行き先は?」
沙久耶が疲れたように首を振る。
「存じません。誰も連れずに一人で行動しているようです」
『一人』という言葉が、鷹城の胸に不安の影をよぎらせる。その不安の正体に思い至った鷹城が、沙久耶の肩に手をかけた。
「カルラはどこです?」
鷹城の詰め寄り様に一瞬目を丸くした彼女が再び首を横に振った。
「彼も今朝から姿を見かけません。父とは別行動を取っているようです」
頬に手を当てた沙久耶が記憶をたどりながら言葉を続ける。
「カルラがここを出る直前に『竜』の所在を調べていた、という話を先ほど信徒の一人から聞いたのですが……手掛かりになるでしょうか?」
返事をする手間も惜しむように、鷹城が素早く携帯電話を取り出す。
横で彼らの会話を聞いていた厳真が唇を引き結び、上空を飛ぶヘリコプターを窓から見上げた。




