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第十三話 子供たちの前を往く人(前)


 昼休みの教室で、篠崎八潮は友人二人と共に昼食を摂っている。

 

 やや離れた場所ではタマメを含めた女子生徒が五、六人寄り集まって、会話を途切れさせること無く食事を続けるという、彼から見れば尋常ならざる離れ業を実践してみせていた。


「そういやさ」


 友人の一人が八潮の顔を見ながら言葉を継ぐ。


「お前のその目、治らんの?」


 自分の右目を見つめてくる友人に、八潮は少々うろたえながら答える。


「え? ああ……うん、そうかな。よく分かんないけど。別に普通に見えてるし、大丈夫だよ」


「ふーん」


 友人が自分で質問しておきながら気のない様子で相槌を打つ。とは言え、八潮にしてみれば過度に気にされるよりはずっとありがたい態度だった。


 夏休みが明けてから一週間ほど経つが、彼の右の瞳が青く変わった事を殊更ことさら気にする者は結局いなかった。タマメの傷の方が遥かに皆に衝撃を与える事件であり、八潮の異変はその隙間に埋もれる格好となっている。


 意識せずに八潮の視線がタマメの背中へと吸い寄せられる。

 

 少女の傷に対して自分の中でのわだかまりが完全に解けたわけではないが、いつまでもくよくよ考えこむような行為はすっぱりと断ち切ろうと心に決めていた。


 真剣な眼差しの八潮の視線を追ったもう一人の友人が、声を潜めて問いかける。


「つーかさ、お前、最近タマメちゃんの事、やたらと見つめてるよな」


「へっ?」


 思わず間の抜けた声が漏れた。友人が八潮の方へ顔を寄せ真顔で言い含める。


「悪いことは言わないから、せめて後五年は待てよ」


「何がだよ……」


 ああ、また始まったと思いながら、八潮はランチボックスの中に意識を戻す。友人は腕組みをしてうんうんとうなずきながら、訳知り顔で言葉を続けた。


「いや、だからさ、気持ちは分からんでもないよ。ありゃ将来的に間違いなく全国を狙える女の子になる」


 何の全国だと聞き返す気にもならず、八潮はもぐもぐと白飯を咀嚼する。しらっとする八潮に対し友人が更に熱弁を振るうべく、弁当箱の中から豆を掴み上げた箸で、宙に弧を描いてみせた。


「大体だな、お前はあんなかわ……」


 その時、勢い余って友人が指に込めた力が、箸から豆を空中に弾き飛ばす。


 八潮はその一部始終を何の気なしに眺めていた。豆が複雑に回転しつつ、緩やかな放物線を描いて自分の頭上を飛び越える軌道を取り始める様を彼は『完全に知覚』していた。


 その不自然さを特に意識する事無く、八潮は箸を持った右手を無造作に上へ伸ばした。


 宙を飛んでいた豆は吸い込まれるように、八潮の箸にぴたりと受け止められた。


 刹那の沈黙が下りた後、「おおっ」と二人が声を上げる。一瞬遅れて、八潮自身が目を丸くして「うわっ」と声を漏らした。


 自身の行為に驚愕する八潮の顔を見て、引きつるように笑い出した友人たちが肩を震わせる。


「ど、どこの武蔵ですか、先生!」


「もっかいやってみようぜ。あ、ちょっと待って。携帯で撮るわ」


 落ち着きを取り戻した八潮がうんざりしたように眉を寄せる。


「食べ物で遊ぶなよ」


 豆を掴みとる瞬間、自分の右目に生まれた奇妙な違和感。それをこの時の八潮はただの気のせいだと思っていた。






 静まり返ったある事務所の中、二人の男が向かい合っている。一人は机に座り顔の前で両手の指を組み合わせ、もう一人は机の前で相手をじっと見下ろしていた。

 

 重厚な作りの机と椅子。そこに座る初老の議員は、正面から飛んでくる鷹城の冷たい視線を感じながら必死に思考を回転させていた。

 

 与党の重鎮として幅を利かせている自分が、年端もいかない若造に首根っこを掴まれている現実をどうしても受け入れられずにいた。

 

 鷹城は隙のない立ち姿のまま、言い含めるような口調で繰り返す。

 

「<教団>の犯罪行為を立証するための材料は十分揃っています」


 そう言って、鷹城は机の上に広げた数枚の写真を改めて指差す。そこにはっきりと写っている、<石傀儡>の内部に収められた『被験者』の頭部。『被験者』と同じ顔をした男が<教団>信者独特の祈祷服を着て、家族らしき者達と共に<教団>施設の一角で談笑している姿。

 

 それらが意味する物を推し量り、議員は表情を更に険しくする。


「だから何だね。私が『これ』に関与しているとでも?」


 鷹城の声の温度が更に下がる。


「貴方の周辺で、幾つかの不明瞭な資金操作の痕跡が見られます。例えば、<教団>取引先企業へ不自然な額の物品発注。貴方の元秘書が取締役を務めている企業です」


 黙り込んだまま、議員は鷹城を睨みつけた。議員の立場を理解する相手はこの視線の力で大抵黙らせることができた。だが、この男相手にはそれが蟷螂の斧でしかないことを議員は実感し始めている。


 声のトーンは変わらないまま鷹城の視線の中に滲み出し始めた、聞き分けのない相手に対する半ばうんざりしつつある色。それが議員の胃をゆっくりと冷たく締め付け始める。


 鷹城の言葉は淡々と続けられた。


「二年前には<教団>関連企業が進めていた不動産取引に口添えもしていますね?」


 議員がつばを飲み込みながらどうにか言葉を押し出す。


「あれは個人的な付き合いの延長だ。金銭のやり取りは無い」


 短く息を吐き出した鷹城が、ふっと視線をいずこかへと漂わせる。何気ない雑談とも思える調子で、独り言のように言葉を紡いだ。


「そう言えば……党内人事の噂がちらほら聞かれますね。特に大きな争点も無く、各派閥そろって決め手に欠けるご様子ですな……今の時期に妙な噂が出回りでもしたらお困りでしょう? 次の選挙にも響くかも知れませんね」


 加齢によってたるみはじめた議員の頬がぴくりと引きつる。


「私を脅すつもりかね」


「特定団体への偏った利益誘導を是正していただきたい、という話です。そして公安への圧力も控えていただきたい。我々としても貴方の地位を積極的におびやかすつもりはないのです」


 言葉を切って、鷹城は議員の応答を待った。たっぷり一分近く黙考した後、議員は観念したように瞳を閉じ、弱々しく息を吐いた。


「一人、会ってもらいたい人物がいる。その後で私から君に返事をする」


 奇妙な提案に鷹城が小さく首を傾げた。


「誰です?」


 議員が背広からタバコを取り出し、口にくわえる。ライターを探りながらどこか怯えるような表情を鷹城に向けた。


「会えば分かる。このような状況になったら、そうするように指示を受けていた。あるいはこうなる事を予見していたのかも知れん」


 訝しげな鷹城の視線に、議員は苦虫を噛み潰したような顔を見せる。


「老婆心ながら忠告しておくが、ある意味で私よりも手強いぞ」






 湾を囲むように向かい合う二つの半島。その両端を結ぶ航路のほぼ中間で、鷹城はフェリーの甲板へと出た。

 

 潮の香りが混じる風が、夏の太陽の下でも心地よく体を吹き抜けていく。船体後部に設けられたデッキからは長い航跡が白く尾を引いている様子が見える。

 

 指定された場所でその人物はベンチに座り、静かに海とその向こうに小さく横たわる陸地を見つめていた。

 

 二十代半ばと見えるその女性は、鷹城もはっきりと見覚えのある人物であった。

 

 教主の一人娘であり<教団>の顔としても知られている女性が、鷹城の姿を見とめ優雅な所作で立ち上がる。

 

 沙久耶さくやは背中で束ねた長い黒髪を海風に揺らしながら、鷹城に軽く頭を下げた。その表情は資料で見る以上の美しさを持つと同時に能面のようにぴくりとも動かず、彼女の本性を推し量ることを困難にさせている。

 

 用心深く周囲を警戒しつつ、鷹城は沙久耶の元へ歩み寄った。

 

 まず口を開いたのは沙久耶だった。その声に歓迎の色は浮かんでいなかったが、敵意に類するものもまた読み取ることはできなかった。

 

「わざわざお越し頂き、感謝いたします。おおよその経緯いきさつは先生から聞き及んでおります」


 彼女の切れ長の瞳はガラス玉を思わせるように澄み、鷹城の体の向こう側を透かし見るような視線を形作っていた。


 周囲への警戒を怠ること無く、鷹城は声を低めて応じる。


「こういう形で捜査対象の関係者と接触するのは、色々とさわりがあるのですがね」


 注意深く観察しなければ気づかないほどの微笑が彼女の唇に浮かぶ。


「一市民による情報提供の一環、ではいけませんでしょうか? 少しお話ししたいこともございますので」


 鷹城が諦めたように小さくうなずいた。


「お伺いしましょう」


 その返答に目礼で返した沙久耶が、穏やかな海を見つめながら話しだした。


「現在の<教団>の構成人数についてはご存知でしょうか?」


 彼女の整った横顔にほんの少し魅入られる自分を戒めながら、鷹城が答える。


「ええ。関連企業とその周辺まで含めれば相当な物ですね。票田ひょうでんとしても魅力的だ」


 言葉に含ませたトゲは相手の反応を引き出す意図でもあったが、沙久耶は完全な無反応でそれを受け流した。


 彼女は淡々としつつそれでいて決して異議を差し挟ませる余地を見せない口調で言う。


「私には信徒を守る『義務』がございます。<教団>はもはや私や父個人の所有物という枠を遥かに超えた存在であり、無数の人々の心や生活を支える社会基盤と言って差し支えないでしょう。もしそれが破壊されたなら、多くの人々が日々の糧にも難儀し、またあらぬ非難を受けて後ろ指をさされる事態にもなりかねません」


 鷹城の直感が、沙久耶と教主との間に横たわる『距離』のような何かを感じた。彼はその直感に従い、言葉を発する。


「我々は<教団>そのものを罪に問うつもりはありません。あの規模のコミュニティに対してそれは事実上不可能だ」


 沙久耶の瞳がじっと鷹城の顔に向けられている。互いの言葉が誠実さから生まれたものであって欲しい、という個人的な感情が無いといえば嘘になる。そう鷹城はうっすら自覚し始めていた。


 彼女の方へ半歩距離を詰めた鷹城が、更に言葉を続けた。


「だから妥当な着地点を見つけたい。貴方がそれに協力する用意があれば、より良い結果が得られるかも知れません」


 不意に強く吹きつけた風が沙久耶の目を細めさせた。鷹城は初めてこの女性の素の表情を垣間見た気がした。足元に目を伏せてしばらく考え込んでいた彼女が、やがて片手に持っていたポーチの口を開ける。


 沙久耶が中から取り出した、小指ほどの大きさの一つの記録メディア。それをそっと鷹城に差し出す彼女の瞳には、何かを背負う人間の意思がはっきりと浮かんでいる。


 記録メディアを受け取ろうと指を触れた鷹城に、沙久耶がわずかに陰りの浮かぶ視線で尋ねた。


「私の行為は裏切りなのでしょうか」


 鷹城は記録メディアをそっと掴むと、彼女の視線を真っ向から受け止めて静かに答える。


「何事にも常に表裏が存在します。それでも、自分の道理に従って行動する人を私はさげすんだりしません。たとえ私と道をたがえる立場にある者だとしても」


 彼の言葉を噛みしめるように聞き入っていた沙久耶は、やがてゆっくりと記録メディアから指を離した。



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