第十話 二人の始まり(前)
1
畳敷きの武道場へ窓から差し込む光が、空中の埃をきらきらと輝かせている。
相対する二人の人物が、数秒の睨み合いから互いに間合いを詰める。
道着の袖の取り合いは目にも留まらぬ速度であり、牽制と呼ぶにはあまりにも強い打撃力を持つ拳の突きと蹴りが稲妻のように交錯する。またそのどれもが有効打に至る寸前に互いにかわされ、ブロックされるさまは、彼らの技の練達度を容易に推測させるものだった。
天童静が一旦相手から間合いを離し、構えを解く。それに応じるように野呂栄作が体を弛緩させ、ゆったりとした基本の立ち姿となる。
互いに息を荒げ、滝のような汗が全身に噴き出している。夜明け前から数時間続けられていた組手の痕跡は、畳の上に残る汗の跡からもその激しさが想像できる。
静が組手を中断させた理由は、武道場の出入口に現れた老人の気配だった。
鳶色の長着をまとった護皇院恭斎がゆったりとした足運びで二人の間に進み出る。
恭斎はからかうような微笑を、未だ組手の熱気冷めやらぬ静に向けた。
「珍しく真面目に励んどるな」
頬を伝う汗を袖で拭い、彼女は深く一呼吸してから応じる。
「あの二人、大丈夫なのか? また襲われたりしねえだろうな?」
恭斎は白い髭をさらりと撫でてうなずいた。
「公安は人員を増やし警戒度を上げているし、GKIグループも本腰入れて介入を始めた。もはや相手の出方をうかがう段階は過ぎた。連中が手を出してくれば、むしろこちらの思う壺でさえある」
「ホントに大丈夫なんだろうな、それ」
腕組みをして不審げな目を向けた静に、恭斎が肩をすくめる。
「まあ、しばらくの間だけ耐えれば良い」
老人の言葉に、栄作が首を傾げる。
「……『しばらく』と言いますと?」
恭斎が二人を交互に見やる。その口調は穏やかなれど、裏に含まれる断固とした意志がにじみ出ていた。
「座して待つだけでは埒があかん。ここ一連の騒動は近い内に終わらせる。公安とも連携してな」
唇をぺろりと舐めて、静が視線を鋭くする。
「本気でやるつもりなんだな、ジジイ」
くるりと背を向けた恭斎が、じろりとした視線だけを二人に寄越してくる。その声色には普段の彼が持っている寛容さの欠片もなかった。
「護皇院家は篠崎家を庇護するために在り、彼らに仇なす者は例外なく我らが駆逐する。その数百年の歴史を儂の代で覆すつもりは無い」
冷やりとした空気が静と栄作の背筋を伸ばす。ごくりと唾を飲んだ静が口を開いた。
「ジジイ」
恭斎は返事をする代わりに眉をぴくりと上げて見せた。静が一歩踏み出す。その視線に浮かぶ決意に揺らぎは無かった。
「ちょっと稽古つけてくれねえか」
殊勝な調子の静に目を丸くした恭斎が、ちらりと栄作へ目を向ける。上背はないが丸々とした筋肉質な体が礼儀正しく曲げられた。
「私もお願いします」
にやりと笑って見せた恭斎の金歯がきらりと輝く。
「無論そのつもりだ」
2
自室で机に向かう篠崎八潮の背中を、ベッドの上で膝を抱えたラフな格好のタマメが見つめていた。
少女の右目は白い眼帯で覆われている。
右目周辺の皮膚にできた傷はすでに抜糸され、傷跡を安定させるためのテープの端が眼帯の下から小さく顔を出している。眼球が失われた眼窩内部には仮の義眼が入れられており、経過を見ながら本義眼を入れる予定になっていた。
夜の公園で繰り広げられた命がけの立ち回りから、二週間以上が過ぎている。
数日前に退院してきたタマメは、以前と全く変わらぬ様子で周囲に接している。話を聞いて飛んできた立原文乃がタマメの傷を見て卒倒しそうになるのを夫の立原純二郎が支える様子を、少女は困ったような顔で眺めていたものだった。
携帯電話の時刻表示をちらりと見て、八潮が参考書を閉じる。すでに普段の就寝時刻をすぎている。
彼は照明のスイッチに手を伸ばして、呟くように言った。その視線は部屋のどこかにぼんやりと向けられ、特定の場所に焦点が合っているものではない。
「消しますよ」
「うむ」
枕を抱きかかえた少女が答えると同時に部屋が闇で満たされる。
もぞもぞと毛布の下に入ってきた少年の表情は闇に沈み確かめることはできない。暗がりの中で自分に向けられるタマメの視線から逃れるように、八潮が寝返りを打って彼女に背を向けた。
少女は身じろぎして少しだけ少年の背中に体を寄せ、ぽつりとささやいた。
「夏休みももう終わりだな」
それに返す八潮の言葉の短さは、自分の感情を悟らせまいとする試みにも思える。
「ええ」
タマメは八潮のTシャツの背中を軽く掴み引っ張った。
「何故、儂の方を見ようとしないのだ?」
「すいません」
小さくこわばる少年の体を指先に感じながら、少女は確かめるように続ける。
「儂の入院中も、顔を出してくれなかったな」
「……すいません」
自分自身に言い聞かせるように繰り返す八潮。タマメが彼の背中に顔を埋めるように抱きついた。
「ヤシオ。もし、お前が気に病むというのなら、儂は別の部屋に移っても……」
「いえ、いて下さい。一緒に」
少年が、ぐすっと鼻をすする音が闇に浮かび、泡のように消えていく。
タマメは『これはお前の責任ではない』、と言おうとしてそれを思いとどまる。その言葉は少年の心を満たしている罪悪感を緩和するものでないように思えた。
少女は自分の行動が少年に与えた物について考えていた。竜の知識や知恵が人のそれをどれだけ凌駕する物であろうとも、自分と彼の間にある巨大な隔たりを埋める役にはまるで立っていない。
今こうして体を触れさせてその心臓の鼓動まで感じているのに、少年の胸の内を頑なに凍りつかせている物を融かすための手立てはどこにも見当たらない。
指先で眼帯をそっとなぞる。
少女は、死に瀕した少年の前で自分が下した決断が間違っていたとは思わない。だが何が『正しいこと』なのかと問われたならば、それに確信を持って答えられる自信もまた持ち合わせていなかった。
目の前で身を丸める少年を、なけなしの小さな腕で優しく抱きかかえる。そのくらいしか出来ない自分を不甲斐なく思う。
今はただ寄り添って、時の流れの先に逃げ道が偶然にでも生まれることを儚く期待していた。
3
仰木邦光は人気のない廊下を進みながら、今まで数十年かけて自分が積み重ねてきた仕事に思いを巡らせていた。
廊下に敷かれた赤い絨毯のしつこいまでの柔らかさは、ほころび始めた足元を暗喩しているようにも思える。
かつて彼は力を持つために<教団>に話を持ちかけた。
人生の半分以上を費やして自分が独自にまとめあげた『魔法』の知識。それを形ある力として『人のために活かす』にはどうしても組織的なバックグラウンドが必要だと考えたのだ。
『教主』はその話に大いに興味を抱き、仰木に対して破格の協力を約束した。仰木が必要な物を<教団>は持っている。優秀な人材を選別する教育機関、外部の目を気にせず先鋭的な知識の追究を可能にできる施設と維持に要する莫大な費用。それらに関する一切の裁量権を仰木は与えられた。
<統法機関>誕生の瞬間である。
それは同時に『巨大な組織』という抗い難い概念に対する妥協の連続の始まりでもあった。
合法非合法を問わず、常に最善の選択を行ってきたつもりだった。その過程で失われた命を数えるのを諦めたのはもはや遥か昔の事である。全ては未来で失われるかもしれない『多数』を救うための犠牲であると割りきってきた。
しかし、数年前に教主が『病』を発症したことが全てを狂わせ始めた。現在の医療技術では完治が困難と判断とされてから、<教団>から<統法機関>に対する介入の頻度が目に見えて上昇した。
技術の開発から実用までは順を追ったプロセスを踏むべきだとする仰木の再三の提言にも関わらず、教主は自身の体を快復させることを至上の命題と課し、いくつかの非人道的な行為に対しても積極的な推奨の姿勢を表した。
<教団>信者の子弟がほぼ全てを占める<統法機関>は仰木の意志とはほぼ無関係に、教主一個人の命を永らえさせるためのエゴにまみれた存在へと徐々に傾いていった。
取り返しの付かない何かが自分の背中に刃を突きつけているように思える。
やがて仰木は一つのドアの前に立ち、背広の襟を整えてネクタイを締め直した。
ノックと応答を確認してから、室内に入った仰木は目の前の相手へ単刀直入に問いを投げた。それは普段の彼に比べれば実に礼に欠けた態度に見える。
「何故、カルラに『竜』を襲わせたのですか」
最先端の医療機器が周囲に並んでいる。その中心のベッドに横たわる『教主』のそばには、沙久耶が佇んでいる。
教主のほぼ普段の居室となっているこの部屋は二十四時間体制で隣に医療スタッフが待機している。もし教主の体に異変があれば十秒以内にドアから彼らが駆けつける手筈になっていた。
目を閉じたまま、教主は静かに答えた。
「竜は諦めろ。魔法復活が果たされた暁には、その技術は我らが独占する形でなければいかん」
仰木が辛抱強く返す。
「佐々森が持つ情報が外部に流出すれば、公安が動き出すのも時間の問題です。これでは<教団>と機関の今までの努力が全て無駄になります。何とぞ御再考を」
何物にも止めさせないという気迫を、老いた相貌にたぎらせた教主が体をゆっくりと起こす。
「佐々森が<統法機関>の行っている『研究』に関して何を証言しようが、<教団>が揺らぐことはない。カネと力で落とし所はいくらでも作り出せる。今までもそうしてきた」
激しく咳き込んだ教主が、ベッドの上で体を折り曲げる。沙久耶がシーツの上から父親の背中に手を当てて、その体を気遣うような表情を見せた。
教主の落ち窪んだ目がぎょろりと仰木を睨む。
「折を見て竜は<教団>の手で殺させる」
枯れ枝のような手が仰木に指を差す。教主は呼吸をかすかに荒げながら、死の恐怖と生への執着が入り交じる視線を仰木に向けた。
「お前は一刻も早く研究を完成させ、儂の体を癒やすことだけを考えていればよい」
4
万全な警戒体制が敷かれる公安施設の一角。
その部屋は窓のない小さな会議室のようなレイアウトで、長テーブルを囲むように五、六人の人間が席に付いている。ホワイトボードの前に立ち、そこに所狭しと貼り付けられたプリントアウトを見ていた鷹城が振り向いた。
「つまり、<統法機関>は『教主』の病気を治療するために、信者の体を使って魔法の実験をしていた、と?」
佐々森忠成がうなずく。表情にやや疲労が浮かぶものの、視線に込められた力は強さを失っていない。連日の聴取に対しても、彼は嫌悪の色も浮かべずに全面的な協力の意思を示していた。
同席している公安職員らはめいめいに考えにふけっている。
彼が語った内容は鷹城をはじめとした公安関係者の興味を強く惹きつけた。疑問を抱いた彼らから次々と投げかけられる質問に対しても、佐々森は誠実な態度で知りうる知識を噛み砕いて伝えようとしている。その応答に論理的な矛盾は無く、彼の姿勢は信用に値するものだと思えた。
一通りの説明を終えた佐々森が、紙コップのコーヒーに口をつけて喉を潤す。彼は誰に対するともなくぽつりと呟いた。
「互いを愛し、助け合い、魂と世界を更なる高みへと。<教団>が運営する学校で、私は子供の頃からそう教えられてきました」
鷹城は黒背広のネクタイをゆるめて、佐々森の隣に座る。佐々森は震えをこらえるような声で言葉を続けた。
「私は教義を信仰しています。そこに含意される『人が在るべき姿』は、世界を平安に導く物だと信じています。でも、『これ』は違うんです。信仰を利用して人の命を無為に奪うのは教えに背くものです」
シルバーフレームの眼鏡を外した鷹城が、布でレンズを拭く。ちらりと佐々森を見やり、元気づけるように首肯してみせる。
「君のその良心が、この先たくさんの人を救うことになるかも知れない。法律に則った社会安全を維持する我々と、君の信仰が進む道は互いに矛盾したりはしない……と思う」
胸のつかえが取れたように息をつき、佐々森は弱々しく笑みを浮かべた。
「私の言葉だけで状況が好転すると良いのですが……何か物証のようなものを持ち出せれば、と今でも思っています」
『物証』という言葉に、眼鏡をかけ直した鷹城が数瞬の思案をしてから口を開く。
「君たちを襲ったあの『人形』の残骸を調べていたんだが、妙な痕跡が見つかった」
あっさりと手札をさらそうとした鷹城に慌てて口を挟もうとする部下。鷹城はそれを手で制しつつ、大丈夫だとでも言うように小さくうなずいてみせた。
訝しげな顔で鷹城を見る佐々森。その後、一時間近くかけて行われた彼らの会話は一つの結論に至る。
これはタマメに意見を求めるべきであると。




