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第一話  そして、嵐が舞い降りる



 『それ』は部屋の中央に横たわり、閉じられたまぶたは微動だにせず、深い眠りについているように見える。


 そこは薄暗い天然の地下洞窟を、ほぼ半球形にくり抜いたドーム型の部屋だった。

 

 十メートルを優に超える体躯が、遥かな過去に造られたこの空間の大部分を占有している。

 

 体表は黄金色の硬質そうな皮膚に覆われ、大樹と見まがうような骨太の四肢の先に鉛色の巨大な爪が鈍く光っている。


 また、それは胴体の数倍の長さがある尾を、自身を何重にも囲う結界のように地を這わせていた。

 

 菱型の突起物が等間隔に生えているそれは、軽く振り回すだけで人間など紙切れほどにも感じずに吹き飛ばせるように思える。


 『少年』はリュックサックを背負い直し、濃紺のジャージの襟元をほんの少しゆるめる。そして自分の心を捉えて離さないそれの顔に視線を投じた。


 なめらかな曲線で形作られた、キツネにも似た面立ち。その額の中央から斜めに突き出した一本の短い赤色の角が、鮮明な印象を彼の胸に刻み付けた。


 少年は静寂に満たされた丸部屋の入り口で立ち尽くす。彼はその巨大な生物のまぶたの下に隠された瞳の色を想像する。

 

 その時、少年の心を読んだかのように、それが身じろぎをした。


 まぶたがぴくりと震え、ゆっくりと開く。深く青い光をたたえた瞳が、少年の顔をゆらりと捉えた。その視線が放つ美しさに、心臓を掴み取られるような感覚が少年の中に湧く。


 そして、それの口元がわずかに動いた。


「去れ」


 『竜』が発した、短く低い静かな声は、少年がかつて耳にしたどんな生物の咆哮よりも力強く、そして儚かった。


 少年はその言葉に応えず、竜の前に進み出ていった。歩きながらウエストポーチから小さなナイフを抜き出す。

 

 竜は少年の行動に何の反応もせず、ただ彼の瞳に浮かぶ憎悪にも似た色をじっと見つめていた。

 

 やがて竜の眼前で立ち止まった少年は、ナイフの刀身を自身の左手でぐっと握りこんだ。

 

 わずかに呼吸を荒げながら、彼はそのままナイフを引き抜く。じゃりっ、という音にやや遅れて、赤い雫が湿り気のある地面へと一つまた一つと吸い込まれていった。

 

 一直線に裂かれた皮膚からとめどなく溢れる血。赤く染まる自分の手のひらを、少年は竜の鼻先に近づけた。竜はわずかに頭をもたげると、匂いを確かめるように小さく息を吸い込んだ。

 

 不意に、少年の左手にざらりとした感触が走る。竜がその巨大な舌で血を舐めとったことに、彼は数瞬遅れて気付いた。反射的に引っ込めた手には生々しい温かさが残っている。

 

 無意識に傷口を押さえようとした指先が、するりと空振った。少年がはっと手を見ると、出血はすでに止まり、傷が開いていたはずの場所には半透明の薄膜が蓋をしている。

 

 それは見るまに少年の皮膚の色と同化し、数秒前まで存在していた傷を夢かと思うほどの滑らかさで塞ぎきった。

 

 少年は刹那の驚愕の後、嫌悪をにじませた視線を竜に向けた。やはり何の感情も読み取れない、青く大きな瞳が少年をじっと見つめている。彼は渦巻く感情を吐き出そうとするように息を大きく吸い込んだが、結局はただ静かに息をつくことしかできなかった。


 心を落ち着けるようにゆっくりとまばたきを一度だけする。そして少年は、物心ついた時から厳しく教えこまれた言葉をゆっくりと正確に発音した。それはこの時代ではごく一部の人間にのみ口伝されてきた、極めて特殊な言語体系に基づく言葉だった。


『血の盟約により、その力と知恵を求める』


 その言葉を予期していたかのように、ためらいなく竜が応える。


『血の盟約により、この力と知恵を捧げる』


 竜が目を閉じて頭を垂れる様を見つめながら、少年は自分の行為に含まれた大いなる矛盾を自覚する。そして、それに対して答を出せずにいることにわずかな苛立ちを覚えていた。


 やがて沈黙を破るように、竜が目を開く。


『人よ、その望みを聞こう。我が力は億万の兵をなぎ倒す物である。我が知恵は真理への道を示す物である』


 石造りの簡素な部屋に深く響き渡る声が、少年を沈思から引き戻した。彼の瞳は、人類を超越する存在を前にしてもなお、怯みのない意思の光を示していた。


『僕の望みは』


 少年は決然とした口調で、竜に告げる。


『この世界からの『魔法の根絶』です』






 小石を積み寄せて作った即席のスタンドに立てかけられた懐中電灯。その光が少年の顔を淡く照らしている。

 

 地面に敷いた断熱シートの上で膝を抱え、少年は携帯ガスバーナーの炎を見つめていた。上に載せたケトルの中の水が沸くまでは、まだしばらくかかるだろう。

 

 竜は相変わらず丸部屋の中央で寝そべり、少年はその頭の横で食事の準備をしていた。

 

 彼はちらりと腕時計に目をやる。外界からの光がない地下にいるせいで、時間の感覚がずれはじめていた。それでも、陽が落ちている時間がとうに過ぎていることはおおよそ直感できる。

 

 少年は目的の大部分を達成していた。であれば、わざわざ夜の森を慌てて戻ることもないだろうと、彼はこの地下空間で一泊することを早々に決めた。竜も特に異議を唱えることはなく、彼の意思を全面的に尊重するようだった。

 

「妙な、道具だ」


 ガスバーナーの炎を片目で興味深げに眺めていた竜が、たどたどしく古めかしいイントネーションの日本語でつぶやいた。

 

 竜と会話をするなど人類史上でも数百年ぶりの行為だろうという事実を少年は思い返す。

 

 彼が幼い時から受けてきた、わずかな発声ミスも許されない厳格な修練。それが無駄にならないことを祈りつつ、少年は咳払いを一つしてから口を開いた。


『僕は<竜言語>で構いませんが……お聞き苦しくなければ』


『心遣いに感謝する……なかなか達者な発音だな。我らの言語が人の世に残っているかは半信半疑だった』


『会話が出来るほど体系的に子孫に伝えているのは、僕の家くらいかも知れません』


 感心したとでも言うように、竜は目を心持ち大きく開く。


『随分と、世界は様変わりしたようだな……生まれは日本だな?』


『ええ……よく分かりましたね?』


 大きな目が少し細められた。これは笑顔のつもりなのだろうかと訝しく思いながら、少年は言葉を継いだ。


『いつからこの場所にいるんですか?』


『さて……人の暦にはさほど明るくないので、何とも言えんが。日本でオダとかいうのが暴れまわっている、と聞いた時期ではある』


『四百年くらいでしょうか……では、その後のことは何も知らないのですね』


 彼の声に含まれる諦めにも似た色に、竜は敏感に反応した。


『……何があった?』


 そう覗きこんでくる竜の瞳には、どことなく無邪気さが浮かんでいるように思えた。少年は顔をそむけ、ガスバーナーの炎に視線を戻した。


『今から三百年ほど前に、世界から魔法が失われました』


『ほう……『失われた』とは、どういう意味合いかな?』


『ある時期を境にして、全ての呪文、術式、それらに類する様々な手法。それが効力を失いました。人が何をどう努力しても、魔法が発動しなくなったんです』


 魔法は人が言葉を持った時から、その存在を露わにした。それは天から与えられた力ではなく、世界に満ちる普遍の法則だった。

 

 神話と現実を区別する必要は無く、神の祝福と呼ばれる物は目に見える確かな形で人の社会に溶け込み、まじないとは原因と結果を唯物論的に繋ぐ生活の知恵であった。

 

 それは世代を越えて継承され、無数の帰納と演繹、さらなる検証をもって体系化され、洗練された技術として魔法とよばれる力となった。かくして人々が猛獣を恐れる夜は去り、病に倒れる同胞を無為に見送る日々は過去となった。


 人は、魔法によって数多ある動物の末席から、世界に君臨する存在へと駆け上がった。


 魔法は人々の生活に広く深く根ざしたものであり、一部の人間が秘匿できるものではなかった。魔法は常に全ての人の隣に在り、王も農民も、定められた手順を踏めば定められた結果が得られるのだから。


 身分や貧富に左右されることのないその法則は、支配層の道具にはならなかった。どれだけの権力や威光をもってしても空気を独占することができないのと同じように。

 

 魔法は全ての人へ平等に恵みを与え、歴史と文化の彩りとして欠くことのできない柱の一つだった。


 そして、その『喪失』もまた、全ての人へ平等に災厄をもたらした。

 

 最初にそれに気付いたのは恐らく医者だったろう。

 

 彼らは人体への深い理解と高度な魔法術式が要求される専門職であり、同時に人々の尊敬の対象でもあった。知による洞察に優れた彼らは、患者に対する治療魔法の効き具合の変化から、世界に訪れた異変を敏感に察知したに違いなかった。


『現代の歴史研究によると、<大喪失>は二十年ほどかけて段階的に進行した、とする説が主流です』


 少年はガスバーナーの火を止めた。ケトルを取り上げ、湯を金属製のカップに注ぐ。湯を吸ったキューブ状のフリーズドライ食品がカップの中であっという間に膨らみ、香ばしい匂いがあたりに立ち込めた。


『特に医療方面への打撃が深刻だったようです。当時の欧州において、出産前後の妊婦と新生児の死亡率が数十倍に跳ね上がった、とも言われています』


 そう言って、少年はカップに口をつけた。栄養学的には文句なしの製品なのだが、毎日毎食これではさすがにそろそろ飽きてくる頃合いだった。彼は苦い薬でも飲むような顔で、それを一気に腹へと流し込んだ。


『五十年間で、世界人口が半減したという概算もありますが、正確な記録は残っていません。まさに暗黒時代の到来だったようです』


『だが、人は滅びなかった』


 ぽつりと呟く竜に、少年は頷いた。


『はい。むしろ<大喪失>は更なる人の繁栄をもたらした、と主張する立場もあります……僕もそう思います』


『魔法が介在しない自然現象。その理解と制御、だな』


 竜が少年の腕時計や、傍らに置いた懐中電灯にちらりと視線を落とす。


 言葉を先回りされたことによる恐怖が、少年の胸をざわつかせた。

 

 人を大きく凌駕する力と知恵を持つこの生物は、少年のわずかな所持品や言葉の端々から読み取れる情報を元にして、現在の人間の技術レベルをかなりの精度で推測しているはずだった。畏怖と好奇心の混ざった思いが少年の心をかすめる。


『……ええ。人間はそれを『科学』と総称しています。これは僕個人の想像ですが、科学が発展するための下地……論理的な手続きを重視する考え方は、<大喪失>当時の人々にも馴染み深かったのではないでしょうか』


『そう……かも知れんな』


 そう言って、竜は記憶をたどるように瞳を揺らした。少年はカップを持つ手に軽く力を込めて言葉を続ける。


『でなければ、魔法が複雑かつ、高度に発展することは無かったはずです。仮説と検証の反復で理論を補強する過程は、魔法も科学も本質的に差異は無いのですから』


 竜は、少年の言葉に対して押し黙ったまま、眠るように目を閉じた。

 

 しばし待っても竜からの反応が無いのを見た少年は、ため息を一つついて肩をすくめた。ケトルに残った湯を空になったカップに注ぎ、回しながら再び中身を飲み干す。味気は無いが、カップを洗う手間を省くためには仕方がない。


『一つ疑問がある』


 いつの間にか竜は目を再び開き、少年を貫くように見据えている。次に発せられた言葉は、少年が予想していたものと完全に合致していた。


『魔法を『根絶』するのが願い、と言ったな。だが、魔法がすでに失われた世界で『何』をどう『根絶』しようというのだ?』


 少年は竜に背を向け、リュックを引き寄せてチャックを開いた。


『……貴方には関係のないことです。さっきの盟約の儀式も、貴方を他の人間に渡さないための方便みたいなものです』


 リュックの中を探りながら、少年がぶっきらぼうに返す。薄手の毛布を取り出した少年の背中に、竜が穏やかに語りかけた。


『竜の力を不要と言うか? 『竜の血を引く人』よ』


 竜に目を合わせることもせず、彼は逃げるように毛布を頭からかぶって横になった。少年のくぐもった声が響く。


『千年前の先祖が竜と交わった。だからといって、その歴史に今の僕を縛られたくないんです』


『自分で自分を縛っているだけだな』


 挑発的な調子を含ませた竜の言葉に、少年は黙殺を決め込んだ。

 

 竜はその頑なな様子を見て取ると、毛布の下で丸くなる少年の体に自らの大きな頭をそっと寄せ、静かに言葉を続けた。


『竜と人の間に生まれた血族に、竜の力を捧げる。これは単なる盟約ではなく、竜族の信念であり矜持でもあるのだ。それだけは心に留めておけ』


 少年は何も応えず、毛布から手だけを出して懐中電灯のスイッチを切った。






 優しく体を揺すられ、少年は目を覚ました。


 ぼんやりとした闇の中で彼は体を起こす。まだ夜は明けていないのにと腕時計に目を向けた少年は、針が昼近くを指していることに一瞬うろたえた後、自分がまだ地下にいることを思い出した。

 

 竜は上体を持ち上げ、その頭を丸部屋の天井に向けている。まるで感覚を研ぎ澄ませて、地上を見通そうとしているようにも見えた。


『何です?』


『しばらく前に、上から妙な音がしていた』


『上? 地上ですか?』


 少年も耳を澄ますが、時折水滴が地面を叩く音が虚しく聞こえるだけだった。


『うむ、人の耳では捉え切れん音だったな。自然の物では無さそうだ。何かを探っているようにも思えたぞ。そういう技を持つ生き物は珍しくないが、どうも妙だ』


 ざわざわとしたものが少年の意識の裏から這いよってきた。竜は更に言葉を続けた。


『一旦収まったあと、またすぐに土を削る音があちこちから聞こえていた。音の源を繋ぐと、この部屋の外周に沿って正確な円になる』


 言い知れない寒気が少年を包んだ。彼はすぐさま立ち上がると、リュックサックを背負い、帽子をかぶった。身支度を手早く済ませながら、少年が尋ねる。


『天井の厚みはどれくらいです?』


『大したことは無い。人の背丈二つ分ほどの岩盤と、その上に多少の土壌が載っているだけだ』


『ちょっと見てきます。貴方はここで待ってい……』


 少年が言い終わらない内に、部屋全体を殴りつけるような音が連続してこだまし、地鳴りのような震動が辺りを包んだ。


 反射的に見上げた石造りの天井に亀裂が入る。次の瞬間、自重に耐えられず一気に崩壊したそれが、大小の岩石となり轟音と共に彼らへと降り注ぐ。それは少年の視覚と聴覚をあっさりと麻痺させた。


 竜が寝所として数百年を過ごしていた場所は、一瞬で土砂と樹木と岩が混じり合ったものに埋め尽くされた。






 崩落が収まるのを待たずに、森の中から人影がわらわらと現れた。


 少しばかり爆薬を使いすぎていたが、そこにこだわる人間はほとんどいなかった。


 東南アジア系の風貌をしたその男達は、統一性の無い迷彩服と自動小銃で身を固めていた。彼らは仲間同士大声でわめき合いながら、崩れ落ちた部屋の内部へと降りていく。その様子を後方から観察していた指揮官と思しき男は、無線を通じて兵達に周囲の警戒を再度命じた。

 

 半ば間に合わせ的に小銭でかき集めた人員のせいか、練度は総じて低く、指揮官はわずかな苛立ちを内心に抱えていた。

 

 一人の兵士の視線が、ふと地面の一角に向いた。彼はそれをはじめは土に埋もれた生木の残骸だと思った。


 しかし、その表面から等間隔に生えている突起に気付いた兵士は、報告を上げるべく無線のスイッチに指を伸ばした。


 その瞬間、生木に見えたそれがバネ仕掛けのように地面から跳ね上がり、荒れ狂いのたうち回る大蛇のように、その不運な兵士の立っている場所を横殴りにした。


 巨大な衝撃をまともに受けたその兵士の頭蓋骨は一瞬で圧潰し、水風船が弾けるように細かく赤い血飛沫を撒き散らした。意思を失った体はゴム人形のように脱力し、その場にどうと崩れ落ちる。


 その光景に、指揮官が無線越しに激しい口調で指示を飛ばした。


 兵達は慌てて岩や木の陰に伏せ、銃口を仲間が屠られた方向に向ける。それとほぼ同時に、死体が転がっている場所から岩混じりの土砂が轟音と共に吹き上がった。


 地中から飛び出した巨大な影が地表すれすれを滑空し、兵士が隠れる手近な岩へと肉薄する。

 

 圧倒的な質量の体躯と、それを支えうる四肢と高い硬度を持つ爪。その着地によって生じた無慈悲な衝撃は、もののついでと言わんばかりの容易さで、岩とその後ろに隠れた人間数名を肉塊と土くれの混ざり合う物体へと瞬時に潰し変えた。


 恐慌に陥りかけた兵達に、指揮官が更に大声で命令を与える。態勢を整えなおした兵達の銃口からようやく発砲音が響き渡った時には、影はすでに二度目の跳躍を果たして、その巨体を密林の中へと飛び込ませていた。


 竜は凄まじい速度で木々の間を縫うように疾走しながらその口の中、体を胸元辺りまでくわえ込まれた少年に言葉を向けた。


『無事か?』


『ありがとうございます。命拾いしました』


 どうやって人間の体を口の中に保持しながら声を出しているのか、少年には不思議に思えたが、知的好奇心をのんびり満たそうとしていい状況ではなかった。

 

 飛ぶような勢いで駆ける竜にくわえられているというのに、少年が感じるはずの振動は不思議なほど抑制されていた。これでも竜にとっては散歩と大差ない速度なのだろうか、と少年は考える。


 ともすれば呑気ともとれる調子で、竜が言う。


『ここは逃げるのが上策だろう。あやつらの鉄砲は儂の記憶にある物よりかなり剣呑に思える』


『そうでしょうね』


『あやつらは敵なのか?』


『それは何とも』


 少年はポケットを探り、小さく折りたたまれた地図を取り出した。竜の視界を遮らないように地図を開き、彼はある一点を指し示した。


『海岸に出ましょう。この島に来る時に使った船があります』


『うむ。ああ、その地図を少し近くで見せてくれ』


 この一瞬の会話が、竜が周囲の気配に向けていた集中力を削いだようだった。


 そして彼らはそれに出くわした。

 

 その兵達は総数で言えば三十人ほど。彼らは三人一組に分かれ、円に近い等間隔の陣形で森の中を進んでいた。

 

 その陣形のど真ん中へ割りこむように竜は飛び込んでいた。

 

 手を伸ばせば届くほどの距離で彼らと突然対峙した竜は、一瞬動きを硬直させた。その寸隙を突くように十以上の自動小銃の銃口が先手を取り、セーフティを外す音と同時に素早く竜の頭に向けられる。


 兵士たちは眼前の異形にそれぞれ驚愕の色を見せていた。しかし、日々の苛烈な訓練が、彼らの心と体を生半可なイレギュラーでは微塵も揺らがない戦士のそれに変えていたことも、また事実だった。


 隊列のほぼ中央、この密林にそぐわない黒い背広。それを細身の体に身につけた三十代前半かそこらの男が、竜にくわえられた少年の顔を見て目を見開く。黒背広の男を守るように、数人の兵士が自動小銃を構えながら前に出た。


「待て! 撃つな!」


 黒背広の男が大声で叫ぶ。彼が両手を広げて兵士を制した瞬間、高速で迫る巨大な鞭にも似たシルエットが男の視界いっぱいに広がった。

 

 男はそれが自分に確実な死を与える物だと気付いたが、それに対してなす術がないことも同時に理解した。


『待って! 味方です!』


 少年が<竜言語>で叫んだ。

 

 その巨大な凶器は黒背広の男の喉元数センチ手前でぴたりと静止し、風圧が彼の髪と衣服をはためかせた。

 

 竜の巨大な尾とそこから生える鋭い突起を突きつけられた男は、数秒の間凍りついてから、ずり下がったシルバーフレームの角眼鏡をゆっくりと細い指で押し上げた。


「す、すいません、鷹城たかしろさん。大丈夫ですか?」


 少年が竜の口から身を乗り出し、申し訳無さそうに言った。






 水平線に太陽が半分ほど隠れ、夕焼けが辺りを染めていく。


 迎えの揚陸艇が来るまではあと三十分近くある、という話だった。


 周囲を兵達に警戒させ、鷹城は少年と竜を連れて海岸近くの岩場に囲まれた場所に来ていた。それなりに見通しは良く、不心得者に聞き耳を立てられる心配は無かった。


 さて、と呟いて黒背広の乱れを直しながら、鷹城は手近な岩に腰掛けた。


 潮の香りが微かに混じる風は、亜熱帯に近い気候がもたらした少年の汗をゆるやかに引かせていった。しかし、鷹城のじろりとした視線は、少年に間髪入れず冷や汗を吹き出させ始めた。


 鷹城はほっそりとした指を膝の間で組み合わせ、少年と竜の中間に視線を彷徨わせた。


篠崎しのざき八潮やしおくん」


 名前を呼ばれ、ぎくりとした少年の背筋が伸びる。


「この島は厳重な入島規制が敷かれているのは知っているな?」


「はい」


「君のお父上から連絡がなければ、我々の部隊の展開は遅れていたかもしれない。まかり間違えれば、君は死んでいたぞ」


「……はい」


 八潮は殊勝な顔で頷く。鷹城の目が、些細な情報も見逃すつもりは無いと言わんばかりに細められ、のんびりと地に横たわり居眠りをしている様子の竜に刺すような視線を投じた。

 

 鷹城は、慎重に言葉を選んで、少年に問い掛けた。


「君は……『篠崎家』は知っていたのか? 竜が現存している、という事実を」


「確証はありませんでした。竜にまつわる遺構があると聞かされていただけです」


 小さくため息をついて、鷹城が腕組みをする。


「君を幼い頃から知っている立場として言わせてもらうが、お父上にあまり心配をかけるな」


 微かに表情を険しくした八潮はそれに直接答えることはせず、別の質問を投げ返した。


「あの……僕らを襲ってきた人達って……」


「……現段階の情報から推測する限り、民兵に毛の生えたような連中だが、あの爆破の手際を見ると行き当たりばったりの宝探しというわけでもなさそうだ」


 仏頂面になった鷹城は、もう少し早めに部隊を動かせれば確保もできたんだが、などとぶつぶつ呟きながら眼鏡を外す。胸ポケットから取り出した不織布でレンズを几帳面に拭きながら、鷹城は少年の不安そうな表情に気付き、苦笑いを向ける。


「国籍不明の武装集団が日本領土内へ侵入、というのも非常にまずい案件ではあるし、連中の目的も気になる。が、そこを考えるのは我々役人の仕事だ。君のような学生が気に病む必要は無いさ」


 ほっ、と息をついた少年の体から力が抜ける。


「ただし、君に関してはお咎め無しというわけにはいかん。それなりに覚悟しておくように」


 ぴしゃりと下された残酷な裁定に、八潮はげんなりした顔を隠そうともしなかった。鷹城はいい気味だと言わんばかりの笑みを口元に浮かべた。


 気持ちを切り替えるように眼鏡をかけ直した鷹城は、さっと表情を引き締め、その氷のような視線を竜に向けた。

 

 竜は二人が話している間、巨体を寝そべらせたままずっと目を閉じていたが、鷹城の視線を感じでもしたのか、ゆっくりとまぶたを開くと彼の言葉を待つように頭をもたげた。


「さて、竜殿。お目にかかれて光栄だ。早速だが、いくつか確認したい事がある」


 八潮が気を利かせて日本語と<竜言語>の通訳を申し出ようとするよりも早く、竜が言葉を紡いだ。


「構わんよ。何なりと聞いてくれ」


 昨夜とは見違えるほど流暢な現代風の日本語だった。あっけにとられる八潮に竜が小さく頷く。


「竜の耳がいいのは教えただろう。先程からお前さんたちを含め、周囲の連中の会話は言葉を覚えるための良い参考になった……ところで、崖の上にいる二人組は儂を狙っているのかな?」


 茶化すように竜がウインクをする。八潮がはっと振り返り、背後の崖を見上げた。目を凝らした先、崖縁からほんのわずかにのぞく不自然なシルエットが、銃身のそれであることに気付き、八潮は鷹城にこわばった面持ちを向けた。


 鷹城は竜の問いには答えず、異形の生物と相対する動揺など感じさせない声色で、矢継ぎ早に質問をぶつけ始めた。対する竜も淀みなく答えを返していく。


「貴方の他に竜の生き残りはいるのか?」


「いない。儂が最後の一人だ」


「竜族は魔法を使えなかった、という言い伝えがあるが?」


「事実だ。およそあらゆる術式を何度と無く試したが、魔法は発現しなかった。理由までは知らん」


「今の貴方の行動を規定するものは何だ?」


「盟約だ。竜と人の血を併せ持つ者への絶対的な献身。それが全てだ」


 その断固とした言葉の終わり際、竜の視線は確かに八潮の瞳を捉えていた。少年は、自身に向けられた青い瞳の純粋な輝きに、わずかに鼓動が速まるのを感じた。


 値踏みするように、鷹城はしばらく竜を見つめていた。やがて彼は内ポケットから無線を取り出して、視線は竜に向けたままスイッチを入れた。


「もういい。周囲の警戒に戻れ」


 了解の旨を伝える声が無線機から漏れ聞こえる。再び八潮が背後の崖をちらりと見上げると、今しがたまであった狙撃手の気配は無くなっていた。


 竜は目を閉じて軽く頭を下げた。


「感謝するよ、タカシロ殿」


「全面的に信じたわけではない。貴方にはこれから、日本政府の管理下に入っていただく。現存する唯一の竜が、他国の手に落ちる事態は避けたい」


「承知した。一つだけ条件をつけたいのだが」


「私の権限にも限界がある。それで良ければ」


 竜がちらりと少年の方を見やり、こう言った。


「今後も、シノザキ・ヤシオと可能な限り行動を共にすることを許してもらいたい」


「……約束は出来ないが、善処しよう」


「十分だ。改めて礼を言う」


 いきなり勝手に自分を巻き込んだ二人の会話に、八潮は声を上げて抗議をしようとした。だが、示し合わせたかのようにじろりと向いた二組の視線は少年をあっさりと射すくめ、吐き出そうとした言葉は腹の中で不本意の渦となって行き場を失った。


 八潮の鬱屈を大して気に留める様子もなく、竜は自身の体をぐるりと見回した。


「となると、この体では色々と不都合がありそうだな」


 少年がその言葉の真意を竜に尋ねる暇は無かった。


 何の前触れもなく、竜の巨体から凄まじい熱気が湧き上がった。

 

 穏やかだった夕暮れの気配は一瞬でその装いを一変し、周囲の大地は雄叫びを上げて激しく震える。不可視の力に引きずり回される辺りの空気は、それらを容赦なく巻き込んだ熱気と共に上空へ高々と螺旋を描く。

 

 猛烈な大気の渦と轟音の中心で、竜の体が輝きに包まれ始めた。

 

 目を開けることさえ難しいその嵐の中で、少年の心は竜の姿に釘付けられた。鷹城が何事かを叫んでいたが、今の八潮にはそれを聞き取ることは出来なかった。

 

 風と光が目まぐるしく竜の体を舐めるように走り回る。黄金光を放つ体躯の輪郭が陽炎に包まれ、幻のように、夢のように現実との境界を揺らがせ曖昧にしていく。

 

 とどまることを知らぬ圧倒的な輝きの連鎖は、その場にいる者から貪欲に視界を奪い続け、光はもはや闇と同質の恐怖を内包している。

 

 そして。

 

 閃光と嵐は突然に消え去り、代わって世界に舞い降りた静寂。

 

 それは時間が止まったかのような錯覚を少年にもたらした。

 

 自分が目の当たりにした光景の衝撃に、八潮はその場にぺたりと尻餅をついた。そして、自分が見ている物の非現実性が、強烈な実在感をもって心に刻み込まれるのを感じる。それは、生涯決して忘れ得ぬ記憶になると確信できた。


 『少女』の後ろ姿は夕陽を背景に、小さな体躯に似合わない堂々たる仁王立ちの背中を少年に見せつけていた。

 

 年の頃なら十を越えるかどうか、という華奢な肢体を惜しみなく外気にさらしている。


 絹のように白く艶やかな肌を隠すものは何も無い。

 

 少女の体を構成する曲線の極致。それらが織りなす至高の陶器がごとき崇高さは、恥じらいなど微塵も感じさせることは無い。

 

 指先から肩、背中から腰、足の爪先に至るまで、全ての造形は互いに調和し合い、生命の本質を讃える叙情詩の体現だった。

 

 その長く豊かな金色の髪は、なめらかな背を大河のように流れ、時折吹く海風に小さく揺れている。

 

「ヤシオ……か。良い名だな。気に入った」


 涼やかな声が歌うように流れ出し、地面にへたり込んだままの八潮の耳に届いた。少女は背を向けたまま、金色の長髪を軽く指で梳く。


「まだ、儂の名を教えていなかったな」


 そう言って、少女が振り向く。いたずらっぽい色の浮かぶ青い瞳が少年を見つめる。

 

 少女は自身の腰に両手を置くと、端正な面持ちに不敵な微笑を浮かべ、ささやかな起伏のある胸を誇らしげに張る。何一つ身につけていないその体は、飾り付ける必要などまるで感じられないほど、美のエッセンスに満ちあふれていた。


「儂は世界最後の竜、『タマメ』である」


 凛々しさと愛らしさを兼ね備えた笑顔で、少女は高らかに告げた。


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