エピローグ:『起始停止』
あれから、十年の月日が流れた。
かつて「精霊の気まぐれ」とされていた魔法は、今やレイが体系化した「魔道栄養学」と「筋機能理論」によって、万人が再現可能な学問へと変貌を遂げていた。
王国の兵士たちは、ただ祈る代わりに計算された栄養を摂取し、効率的な負荷を肉体に課す。その結果もたらされた圧倒的な軍事力は、周辺諸国のパワーバランスを根底から覆していた。
「――レイ閣下。また他国からの『視察』の打診が来ています。彼らもようやく、祈祷よりもスクワットの方がマナの出力を上げると理解し始めたようです」
執務室に現れたのは、精悍な顔つきになったゼノムだ。かつての傲慢さは消え、今や新時代の理論を最前線で支える実務家としての誇りがその背中に宿っている。
「許可しなさい、ゼノム。理論は独占するものではなく、普及してこそ価値がある。……だが、少し気になるな」
レイは窓の外、訓練に励む兵士たちを眺めながら呟いた。
「私の理論が、これほど早く世界に受け入れられるとは思っていなかった。あまりに……順調すぎる」
そこへ、一歩一歩が地響きを立てるかのような、力強くも優雅な足音が近づいてきた。
「それは貴様の考えすぎだ、レイ」
現れたのは、女王となったラティシマだ。十年の歳月は彼女の美しさを損なうどころか、鍛え抜かれた肉体という鎧を纏わせ、絶対的な君主としての風格を完成させていた。
「他国とて愚かではない。彼らも薄々、魔法が精霊などという不確かなものではないと勘付き始めていたのだ。ただ、その仮説を立証する術も、確信を持たせる理論もなかった。……土台が出来上がりつつある戦場に、貴様という怪物が正解を叩きつけた。だからこそ、時代はこれほど鮮やかに上書きされたのだ」
彼女の明快な考察に、レイはふっと表情を緩めた。
「……納得しました。土台を整えていたのは私ではなく、真理を求めようとした人間たちの歴史だったというわけですね。さすがです、殿下」
「ふん、当然だ。それよりも……例の婚姻の話、また断っておいたぞ」
レイが話題を切り替えると、ラティシマは面白くなさそうに肩をすくめた。他国の王子から届いた熱烈な求婚。それを彼女は、一顧だにせず跳ね除けていた。
「理由は、やはり『政治的判断』ですか?」
「いや?」
ラティシマはレイの目を真っ直ぐに見つめ、いたずらっぽく片目を閉じて見せた。
「私基準で言わせれば、あまりに『貧弱』だった。あのような細い腕の男に、私の人生のセットを任せるわけにはいかぬ」
そのウィンクは、物理的な衝撃となってレイの胸を打った。
十年経っても慣れることはない。心拍数が跳ね上がり、胸の奥で制御不能な「蠕動」が暴れ出す。
「……っ。心拍数、160。……殿下、その攻撃は私の心臓には負荷が強すぎます」
「ははは! まだまだ鍛え方が足りんな、レイ。……よし、休憩は終わりだ。トレーニングに行くぞ」
彼女が背を向け、歩き出す。
かつてレイが「ラティシマ(広背筋)」と名付けたその背中は、今や一国の安寧を背負い、世界の常識を塗り替えるほどに大きく、気高く広がっている。
古い慣わしは停止し、新しい連動が起始する。
「分かりました。……殿下」
レイは微笑み、最愛の、そして世界で最も美しい背中を追って、その一歩を踏み出した。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
タイトルの**「起始停止」**は、解剖学で筋肉の付着部を指す用語です。
本作では以下の三つの意味を込めて、この言葉をフィナーレに選びました。
* 構造の起始停止:プロローグ(起始)からエピローグ(停止)まで、一本の筋道を描き切ること。
* 時代の起始停止:非効率な旧時代の魔法が「停止」し、理にかなった新時代が「起始」すること。
* 関係の起始停止:レイとラティシマが分かちがたく結びつき、世界を動かす最小単位となったこと。
効率と理屈を愛するレイの物語はここで幕を閉じますが、彼らの「セット」はこれからも続いていくはずです。
これまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
ですが、彼が世界に遺した「魔道栄養学」という種は、この後、さらに巨大な歴史のうねりとなって世界をビルドアップしていきます。
彼が生きた時代の先に何が起きたのか。
なぜ世界は一度「自食作用」を起こし、そして「平和の祭典」へと辿り着いたのか。
本編では語りきれなかった「歴史の断片」については、別途公開しております**【設定資料集 1・2】**に詳しくまとめました。
本編を読み終えた皆さんの脳内で、この世界の「起始」から「停止」までの空白が、鮮やかに補完されることを願っております。
これまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!




