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第10話(最終回):『理外の蠕動、あるいは愛という名の不合理』

 ゼノムたちが去り、静寂が戻った訓練場。夕刻の光が、王女の肌に刻まれた激しい鍛錬の跡を黄金色に染めていた。

 ラティシマは、荒い息をつきながらも、その巨大な背中を俺に向けて立っていた。


「……レイ。今の私は、かつてないほどに、自分の内側が騒がしい。……筋肉が、血管が、マナが。私の意志とは無関係に、まるで別の生き物のように蠢いている」


 彼女は自分の腕を見つめ、不思議そうに言葉を続けた。


「……疼くのだ。もっと重いものを、もっと強い衝撃を、もっと高い高みを。……この肉体が、命そのものを求めて暴れている。……貴様は、この『うねり』を何と呼ぶ?」


 彼女が振り返る。その瞳には、自分の身体を支配した全能感と、それをもたらした俺への、剥き出しの信頼が宿っていた。


「……それは『蠕動ぜんどう』です、殿下。……意図して動かす範疇を超え、肉体そのものが命を繋ごうと波打っている。……今のあんたの背中は、この世界のどんな魔法よりも雄弁だ」


 俺の言葉に、彼女が満足そうに、不敵に笑う。

 その瞬間、俺の視界が歪んだ。


(……待て。心拍数、140。……いや、150を超えたか?)


 手首を掴むまでもない。自分の胸の奥が、制御不能な律動を刻んでいる。

 骨格筋のように自分の意思で制御できるものではない。内臓と同じ、不随意の動き。


(……そうか。俺のここも、今、同じように『蠕動』しているのか)


 かつてすべてを代償に捧げ、知識という牙だけを残したはずの俺の「空白」が、彼女の笑顔に呼応して、勝手に波打っている。

 俺は、思い出せない母の顔を追うのをやめた。

 失った過去データなんて、もうどうでもいい。今、この胸の中で狂ったように蠕動する不合理な鼓動こそが、俺がこの世界で「人間」として生きている、唯一の証明なのだから。


「……ラティシマ。あんたのその名は、世界で最も広く、美しい背中の筋肉と同じ響きだ。俺は、その背中をどこまでも大きく、強くするために……ここにいる」


「……っ。ふん、相変わらず理屈っぽい男だ。だが、嫌いではないぞ」


 彼女の大きな手が、俺の痩せた肩を掴む。

 その熱が、俺の空っぽな空白を、心地よい重さで埋めていった。


 ◆


 数ヶ月後。

 王宮の廊下を、かつてない威厳を纏った一人の男が歩いていた。

 以前のような骨張った姿ではなく、適正な栄養と鍛錬によって得られた、機能的でしなやかな肉体バルクが宿っている。


「――レイ閣下、本日の新軍訓練の査定表です」


「ゼノムか。……効率の悪い精神統一は禁止したはずだ。やり直しなさい」


 かつてレイを蔑んだ宮廷魔道医ゼノムは、今や深く頭を下げ、平民出身の「魔道栄養主管」であるレイの顔色を伺っている。

 レイがもたらした「筋肉の革命」は、王女を起点に国中に広がり、隣国が戦慄するほどの軍事バランスの逆転を引き起こしていた。


 王宮の最上階。玉座に座る王女の隣に、レイは当然のような顔で立つ。


「レイ。次のセットはどうする?」


「決まっています。……世界中の理屈を、あんたのその『生命のうねり』で上書きしに行きましょう」


(完)


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