第0話:『消失の特異点、あるいは理想の肉体という名の供物』
すべての始まりは、物心ついた頃に偶然目にしたテレビ画面だった。
極限まで絞り込まれ、舞台照明の下で鈍い光を放つ筋繊維の奔流。それは人間という生物が到達し得る、究極の「造形美」だった。
(……綺麗だ。なんて、無駄のない形なんだろう)
他の子供たちがヒーローや乗り物に憧れる中、俺だけは「自らの意志で肉体を彫刻する」という神業に心を奪われた。あの日から、俺の自由研究は常に人体解剖図になり、小遣いはすべてプロテインと参考書に消えた。
「レイ、またそんな難しい顔をして鶏肉を量って。たまにはお母さんの作ったケーキも食べなさいよ」
苦笑いしながら皿を差し出す母。隣では父が新聞を広げながら、「まあいいじゃないか。あいつなりに『正解』を探してるんだろ」と穏やかに笑う。
俺の異常なこだわりを、両親は決して否定しなかった。むしろ、俺が毎日鏡の前でポージングを練習する姿を、まるで高名な芸術家を見守るかのような優しい眼差しで肯定してくれた。
だからこそ、俺の知識は「孤独な独学」ではなく、愛された記憶と共に積み上げられたものだった。
大会前夜、深夜二時。
三日前から水と塩を断ち、意識が霧散しかけている更衣室で、俺はふと両親の笑顔を思い出す。
(……見ててくれよ。明日、俺は最高の『美』を完成させてみせるから)
だが、その誓いが果たされることはなかった。
脳内のグリコーゲンが底を突き、視界が歪んだ瞬間、俺の意識は「個体」という枠組みから剥離した。
◆
その少年は、辺境の狩猟民の村で「奇跡」と呼ばれていた。
名は、レイ。
「……っ、はあぁッ!!」
少年が巨大な薪を担ぎ上げると、その細い肢体からは想像もつかないような、しなやかで力強い筋肉が躍動した。
彼は訓練などしたことがない。ただ、山を駆け、獣を追い、生きるために動いているだけで、その肉体は神に愛されたような「機能美」を宿していった。
転機は、森の主である巨大な牙猪に遭遇した時だった。
死を覚悟した瞬間、少年の内側から「熱い何か」が溢れ出した。無意識のうちに発動した魔法が、一撃で巨獣を仕留めたのだ。
「平民からこれほどの魔力、それもこの強靭な『器』を持つ者が現れるとは……」
噂を聞きつけた王都の査察官が、驚愕と共に彼を「選抜試験」へと招き入れた。
村始まって以来の英雄。両親は涙を流して喜び、少年は村の期待を背負って、きらびやかな王都へと旅立った。
「僕が、みんなを楽にさせるんだ。この力が、それを約束してくれている」
選抜試験、当日。会場の広場で、少年は自分の出番を待っていた。
彼の中には、確かな「自信」があった。この筋肉という器がある限り、どんな試練も乗り越えられると信じて疑わなかった。
だが、運命の針が重なる。
試験官が彼の名を呼ぼうとした、その刹那――。
少年の視界から色が消え、全身を耐え難い「熱」が襲った。
自分の肉体が、内側から凄まじい勢いで燃焼し、エネルギーとして蒸発していく感覚。
昨日まで誇らしかった腕が、脚が、胸のバルクが、得体の知れない「情報の奔流」をこの世界に繋ぎ止めるための「燃料」として、世界そのものに喰らい尽くされていく。
(……あ、れ……。力、が……)
少年が意識を失い、崩れ落ちたその場所。
数秒後に目覚めたのは、エネルギー保存則の代償として一絞りの筋肉すら残っていない、ガリガリに衰弱した「別の魂」を持つ男だった。




