本と花
【三週間目】
花屋を始めて三週間。
店は、ようやく地域に馴染み始めた。
朝の常連客が何人かでき、花を買いに来る人も増えた。
筋骨隆々の元騎士が花を売る、という噂も、少しずつ広がっているらしい。
そんなある日の午後、一人の女性が店を訪れた。
華奢な体つき。
落ち着いた雰囲気。
手には、古い革装丁の本を抱えていた。
「あの……失礼します」
彼女は、少し遠慮がちに店に入ってきた。
「いらっしゃい」
「ここ、花屋さんですよね?」
「ああ、そうだ」
彼女は、少し安心したように微笑んだ。
「実は、この本に載っている花を、実物で見たくて」
彼女が差し出したのは、古い植物図鑑だった。
ページを開くと、精密な手描きのイラストが並んでいる。
「これは……」
「王都図書館の専門書担当をしています。エレナと申します」
エレナ。
静かな名前だった。
「ガレスだ」
「ガレス……さん。この本に載っている『ラベンダー』という花、実物を見たことがありますか?」
俺は、頷いた。
「ああ、ある。店にもある」
俺は、店の隅に置いてあったラベンダーの鉢植えを持ってきた。
紫色の小さな花が、穂のように連なっている。
「これが、ラベンダーだ」
「まあ……」
エレナは、目を輝かせた。
「本当に、本の通り……いえ、実物の方がずっと綺麗です」
彼女は、そっと花に触れた。
「香りも……こんなに良い香りがするんですね」
「ラベンダーの花言葉は『沈黙』『私に答えてください』『期待』」
俺が言うと、エレナは少し驚いたように俺を見た。
「花言葉も、ご存知なんですね」
「まあ、な」
「どこで学んだんですか? こんなに詳しいなんて」
俺は、少し間を置いて答えた。
「戦場で、見た」
「……戦場?」
エレナは、不思議そうに首を傾げた。
「俺は、元騎士だ。王都第一騎士団にいた」
「元騎士……」
彼女は、少し驚いた様子だったが、すぐに納得したように頷いた。
「確かに……その体格なら、騎士だったと言われても不思議じゃないですね」
「戦場には、色々な花が咲いていた。血と泥にまみれた場所でも、花は静かに咲いている。それを見るたびに、心が少し軽くなった」
エレナは、静かに俺の話を聞いていた。
「だから、花のことを覚えた。名前も、花言葉も」
「……素敵ですね」
彼女は、優しく微笑んだ。
「本で読む知識と、実際に見て感じた知識。どちらも大切ですね」
「そうだな」
しばらく、店の中に静かな時間が流れた。
「あの……このラベンダー、買えますか?」
「ああ、もちろん」
俺は、ラベンダーを丁寧に包んだ。
「ありがとうございます。また、来てもいいですか? 他にも、見たい花がたくさんあるんです」
「いつでも来てくれ」
エレナは、嬉しそうに花を抱えて店を出ていった。
俺は、彼女の後ろ姿を見送った。
図書館司書か。
本で学んだ知識を、実物で確認したい。
真面目な人なのだろう。
また来ると言っていた。
次は、どんな花を見たいと言うのだろうか。
◆◆◆
【数日後】
エレナは、本当にまた来た。
今度は、別の植物図鑑を持って。
「ガレスさん、こんにちは」
「ああ、いらっしゃい」
「今日は、『勿忘草』を見たくて」
俺は、店の中から忘れな草を取り出した。
青い小さな花。
「これだ」
「綺麗……本当に、青い花なんですね」
エレナは、嬉しそうに花を見つめた。
「花言葉は『真実の愛』『私を忘れないで』」
「『私を忘れないで』……切ない花言葉ですね」
「ああ。だが、それだけ大切な想いを込める花でもある」
エレナは、じっと忘れな草を見つめていた。
「ガレスさんは、この花、お好きなんですか?」
「……母が好きだった」
俺は、少しだけ昔を思い出した。
「母は花が好きで、特に勿忘草を大切にしていた。戦場でこの花を見つけると、母のことを思い出した」
「そうだったんですね……」
エレナは、優しく微笑んだ。
「じゃあ、この花も買います。大切に育てますね」
「ああ」
俺は、勿忘草を包んだ。
「また、来ます」
「ああ、待ってる」
エレナは、花を抱えて帰っていった。
また来る、と彼女は言った。
俺も、また来てほしいと思った。
不思議なものだ。
騎士をしていた頃は、こんな穏やかな時間はなかった。
今は、花と共に生きている。
そして、花を通じて、人と繋がっている。
悪くない。
本当に、悪くない人生だ。
◆◆◆
【日誌】
エレナという図書館司書の女性が、店に通うようになった。
彼女は、本で読んだ花を、実物で確認したいと言って訪れる。
真面目で、静かで、花を愛する人だ。
俺が花言葉を教えると、彼女はいつも嬉しそうに微笑む。
そして、大切そうに花を抱えて帰っていく。
店に客が来るのは、いつも嬉しい。
だが、エレナが来ると、少しだけ特別な気分になる。
――それが、なぜなのかは、まだわからない。
ただ、また来てほしいと思う。
また、花の話をしたいと思う。
花屋を始めて、三週間。
この店には、少しずつ、色々なものが集まり始めている。
人との繋がり。
静かな時間。
そして――
まだ名前のつかない、穏やかな感情。
俺は、花と共に生きていく。
この小さな花屋で、静かに。




