〜第九章〜手術と後悔
■ 医療棟へ運ばれたダークファントム
馬運車が競馬場裏の医療棟へゆっくりと停まり、
スタッフが慎重にスロープを開くと、
ダークファントムは痛みをこらえながら姿を現した。
その歩様はどう見ても正常ではなかった。
それでも彼女は、
自らの脚で一歩ずつ前へ進もうとしていた。
その健気な姿に、オルブライト調教師は言葉を失った。
「……すまない。
本当に……すまない。」
厩務員は震える指先でファントムの首筋を撫でた。
「頑張ったな……。
本当に、よく頑張った……」
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■ 診断が告げた現実
医療棟に入ると、
複数の獣医師による迅速な検査が始まった。
レントゲン撮影。
患部の触診。
全身の状態確認。
静かな作業が淡々と続く中、
オルブライトの胸は重く沈んでいた。
やがて獣医師がゆっくりと口を開いた。
「骨に深刻な損傷が認められます。
強い負荷がかかった結果でしょう。
今後は患部を固定し、できるだけ動かさないようにします。」
その説明は丁寧だったが、
言葉の端々から“危険な状態”であることがにじみ出ていた。
厩務員が必死の声で問いかけた。
「助かる……可能性は、ありますよね?」
獣医師は一呼吸置いて答えた。
「ゼロではありません。
ただ……とても厳しい状態です。」
その瞬間、厩舎の空気が重く沈んだ。
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■ 厩舎へ戻るファントム
患部を固定し、痛み止めを調整した後、
ダークファントムは再び馬運車に乗せられ、厩舎へ運ばれていった。
移動の間、ファントムは汗をにじませながらも、
必死に立ち続けていた。
その姿は痛々しく、しかし強かった。
「まだ……戦おうとしているんだな」
オルブライトはその気高さを見て、
ほんの小さな希望を抱いた。
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■ 闘病の始まり
厩舎に戻ったダークファントムには、
獣医師と厩舎スタッフが途切れることなく付き添った。
痛み止めの調整、
患部の固定状態の確認、
姿勢の維持とストレスの軽減。
夜になっても看病は続き、
厩務員はほとんど休みなくファントムのそばにいた。
「大丈夫だからな……
お前は強い馬だ……
また外に出られるようにしよう……」
ダークファントムはその声に答えるように
かすかに鼻を鳴らした。
そのわずかな反応が、
彼らの心を支えていた。
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■ ファンの祈り
レース映像は瞬く間に広まり、
多くのファンが事態を知った。
SNSやニュースは
「ダークファントム重症」と大きく取り上げたが、
そこにあったのは批判や不満ではなく──祈りだった。
「ファントム、どうか助かって」
「奇跡の女王よ、もう一度立ち上がってくれ」
「まだ終わらないでくれ……」
数え切れないほどの願いが、
夜のうちに厩舎へ届けられていった。
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■ オルブライト調教師の夜
厩舎の隅、椅子に腰かけたまま、
オルブライト調教師は深く俯いていた。
「本当に……これで良かったのか……」
何度も自分に問いかけた。
レース選択。
ハンデの重さ。
そして止め時。
「小さな身体で……よくあんなに走ってくれた。
守りきれなかったのは、俺だ。」
彼は両手で顔を覆い、
長い時間、動かなかった。
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■ ダークファントムは立ち続けていた
深夜になっても、
ダークファントムは立ち続けていた。
時折体勢を変えるたびに痛みに震え、
獣医師が支えに入る。
厩務員は涙をこらえながら、
馬の首筋にそっと手を添え続けた。
「頑張らなくていい……
でも……生きてくれ……」
その声は震えていたが、
愛情と願いに満ちていた。
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■ 朝が来る
長い夜が明けたころ、
ダークファントムはまだ立っていた。
しかしその姿には、
前夜の数倍の疲労と痛みが滲んでいた。
奇跡が起きるのか。
あるいは──
残酷な現実が待っているのか。
その答えは、
まだ誰にも分からなかった。




