〜第八章〜重ハンデと運命の3コーナー
■ 冬を越え、ダークファントムは再び走る準備を整えた
3歳最後の大舞台・カルフォルニアSを脚部不安で回避してから数ヶ月。
厩舎での静養と慎重なケアが続けられ、春には再び軽快な動きを見せ始めていた。
馬体は相変わらずの 320kg台。
常識的には“細すぎる馬”だが、
その走りのしなやかさは、誰もが三冠牝馬の帰還を確信させるものだった。
厩舎スタッフたちは彼女を見るたびに表情をほころばせた。
「女王が戻ってきた」
「今年も、また魅せてくれる」
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■ アメリカ古馬ダート路線の宿命
アメリカの古馬ダート路線には、
活躍した馬ほど重いハンデを課されるという独特の制度がある。
競走としての公平性を保つため、という名目ではあるが、
細身のダークファントムにとっては、
その“公平”が極めて不利に働く現実でもあった。
320kg台の身体で大型牡馬と同じ、
あるいはそれ以上の負担重量を背負う可能性さえある。
彼女は復帰早々、その宿命を突きつけられることになった。
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■ 4歳初戦──ローカルG3
復帰戦として選ばれたのは、やや手薄なメンバーが揃うローカルG3。
本来であれば、三冠牝馬が“通過点”として当然に勝つべき舞台だった。
しかし斤量発表の日、厩舎に微かな緊張が走った。
ダークファントム:トップハンデ。
牡馬より重い負担重量。
小柄な馬体には明らかに過酷な条件だった。
レースが始まると、その影響はすぐに現れた。
スタートこそ悪くなかったものの、いつものような伸びやかさがない。
直線では鞍上が全力で追い、
なんとか アタマ差の辛勝 を拾った。
勝ちはした。しかし強い勝ち方ではなかった。
それでもファントムは勝利した──その事実だけが、
小さな身体の健気さを物語っていた。
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■ 4歳二戦目──古馬G2
次に挑むのは、古馬路線で重要視されるG2戦。
ここで再び、ハンデキャッパーの判断は容赦がなかった。
ダークファントム:またしてもトップハンデ。
相手は体格に恵まれた牡馬の強豪たち。
その中で最も身体の小さな馬が、最も重い荷を背負わされる形になった。
オルブライト調教師は、鞍上に静かに言葉をかけた。
「無理はしない。
もし異変を感じたら、すぐに止めてくれ。」
その声音には、
長く馬を見てきた者だけが持つ微かな不安がにじんでいた。
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■ スタート──
ゲートが開くと、ダークファントムは懸命に先団へ取りついた。
1コーナー、2コーナーは持ちこたえたが、
動きは明らかに重く、反応も鈍い。
そして──
悲劇は3コーナーで訪れる。
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■ 運命の3コーナー
3コーナーに差し掛かった瞬間、
ダークファントムの脚がふっと止まった。
内から来た一頭の牡馬にあっさりと交わされる。
普段の彼女では考えられない姿だった。
その瞬間、鞍上はすべてを悟った。
「これ以上走らせてはいけない……」
迷いはなかった。
伸びる気配がないどころか、脚そのものに異常がある。
追えば壊れる。
このままでは取り返しがつかない。
鞍上は即座に手綱を強く引き、
ダークファントムを外へ誘導した。
競走中止の合図が掲げられる。
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■ 静まり返る観衆
スタンドは、瞬く間に沈黙に包まれた。
ダークファントムの歩様を見た瞬間、
観衆は皆、理解してしまった。
これは軽傷ではない。
どう見ても、重症だ。
どよめきは悲鳴に近かった。
「嘘だろ……」
「ファントムが……?」
「頼む、助かってくれ……」
誰も、勝ち負けなど問題ではなかった。
ただ――
彼女が生きてくれること。
それだけを祈っていた。
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■ ダークファントム、馬運車へ
関係者が駆け寄り、慎重に馬を支えながら歩かせ始める。
ダークファントムは痛みに耐えながらも、
自ら小刻みに脚を前へ運んでいた。
何度かよろめき、立ち止まりそうになりながらも、
倒れはしなかった。
馬運車のスロープの前に立つと、
彼女はゆっくりと首を下げ、
自分の意思で一歩、また一歩と進んでいった。
そのまま、
自らの脚で馬運車へ乗り込んだ。
観衆の中から、
わずかに安堵の声が漏れた。
「歩けている……」
「まだ大丈夫かもしれない……」
しかし、その胸の奥底には、
拭えない不安が残っていた。
誰も知らなかった。
この瞬間の姿が、
砂の女王ダークファントムの“最後の健気な歩み”になることを。




