〜第五章〜二冠達成
■ マティルダ離脱後の空気
エイコーンSが終わったあと、競馬界は妙な静けさに包まれていた。
トリプルティアラ第一戦で唯一牙をむいたマティルダが、
レース後に放牧へ向かい、第二戦・第三戦の出走を回避。
これにより、
ダークファントムの前に立ちはだかる牝馬は
“名目的には存在する” が、実質的にはいなくなった。
記者たちの見出しも明確だった。
「最早、敵なし。」
「三冠へ向けて止まらぬ影。」
「歴史を変える存在か。」
ただ、その中でひとつだけ残ったテーマがあった。
──距離1800m。
マザーグースSはエイコーンSより200m長い。
ダークファントムは体重が増えないタイプで、
320kg台の細身のまま。
力量には誰も疑問を持っていなかったが、
専門誌は慎重にこう書いた。
「ファントムはスピード型。
1800mが“限界点”となる可能性はゼロではない。」
とはいえ、前売り単勝はまたしても
1.1倍の断然人気。
人気に陰りは微塵もなかった。
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■ レース前──
1800mという数字を前にしても、
ダークファントムはいつも通りの気配を見せていた。
パドックでは落ち着き、
首を適度に動かし、
周囲の喧騒をまるで気にしない。
その姿を見たベテラン記者の一人は言った。
「距離を走るのは馬体じゃない。
中身の“質”だ。あの馬は異質だよ。」
一方、対抗馬たちは目立った存在ではなく、
「ワンチャンスあるかもしれない」程度の扱い。
競馬場の空気は、
“勝つのはダークファントムで当然”
という一色に染まっていた。
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■ スタート──
ゲートが開くと、ダークファントムは軽く跳ねるように飛び出した。
無理のないスタート。
前へ行く意志を示しながら、
押さえれば控えてもいい、という余裕の動き。
しかし競りかける馬は誰一人いなかった。
「ハイペースにはしない」
「前に行くのは危険すぎる」
そんな空気が他陣営に広がっていた。
結果、ダークファントムは
自然と先頭、あるいは先頭の外に位置する形となった。
■ 3コーナー──
手応えがまったく揺らがない
距離不安という言葉が消えていく
1000mを通過しても脚色は変わらない。
軽いリズムを刻むだけで、
周囲の馬たちが苦しくなるのとは対照的に
ダークファントムの呼吸は一定のまま。
スタミナ不安を囁いた専門家も、
この地点で表情を変えていたという。
「持っている……
これは1800でも問題ない。」
2番手、3番手の馬たちはすでに
手綱を動かし始めていたが、
ダークファントムだけは“まだ調教の手応え”を保っていた。
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■ 4コーナー──
いよいよ勝負どころにさしかかる。
ダークファントムは、
鞍上が軽く手綱をしごいた瞬間、
スッと加速した。
対する後続馬はもう反応できない。
離れた位置にいた馬が1頭仕掛けに出るも、
ダークファントムとの差は縮まるどころか
少しずつ広がっていった。
3、4馬身、
そして5馬身──。
4コーナーを回った時点で、
勝負は事実上終わっていた。
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■ 直線──
ダークファントムは
完全に“走るだけ”の状態に入っていた。
鞍上が強く追う必要はなく、
軽いアクションだけで伸び続ける。
後続馬は懸命に食らいつこうとするが、
距離は離れるばかり。
観客席は熱狂と静寂が交じり合った奇妙な空気に包まれた。
「強すぎる……」
「これがG1か……?」
そんな声が漏れ始める。
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■ ゴール──
最後の50m、ダークファントムは
ほとんど“流す”ような走りになっていた。
それでも後続との差は
目測で8馬身、いや10馬身近くあるように見えた。
掲示板に数字が灯る。
──10馬身差。
圧勝。
完勝。
支配と言ってもいい内容だった。
3歳牝馬として、この舞台でこれほどの差をつけることは滅多にない。
競馬場はしばし静かになり、そのあと大歓声が返ってきた。
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■ レース後──
砂の三冠へ期待が一気に膨らむ
オルブライト調教師は、
レース後のインタビューで淡々と話した。
「距離?
心配していなかったよ。
この馬は数字よりも、中身が強い。」
記者たちは、ダークファントムの体重が
依然として320kg台であることに驚きを隠せない。
しかし、強さは誰よりも大きかった。
「トリプルティアラは、もう決まったようなものだろう」
という声がレース直後からあちこちで聞こえる。
ダークファントムは
残る第三戦──
コーチングクラブオークス(G1)
へ向かっていく。




