〜第一章〜黒鹿毛の小柄な牝馬の誕生
■ 1965年、ケンタッキーの闇に生まれた影
1965年の早春。
ケンタッキーの夜明け前の空気はまだ冬の名残を強く残し、冷えた風が牧草地を切り裂くように吹いていた。
その静まり返った闇を震わせたのは、かすかな蹄の音だった。
黒い牝馬──
ダークファントム(Dark Phantom)
がこの世界に足をつけた瞬間である。
だがその誕生は、祝福よりも戸惑いを生んだ。
彼女はあまりにも小さく、細く、生まれた直後から“競走馬としての将来は厳しい”と判断されてしまったのだ。
「小さい……」
「これは相当に厳しいぞ」
牧場スタッフの誰もが、彼女の体格を見てため息をついた。
ただ、牧場主レイモンド・クレインだけは、日誌にこんな言葉を残している。
「体は小柄。脚も細く、迫力には欠ける。
だが……あの目だけが異質だ。
まるで遠く別の世界を見ているかのようだ。」
黒い影──ダークファントム。
彼女の名は、まだ誰にも意味を持たなかった。
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■ 成長期──誰にも期待されない小さな存在
1966年、1歳になったダークファントムは、依然として「とても小さい馬」のままだった。
同世代の牝馬と比べても一回り以上細く、筋肉がつきにくい体質をしていた。
牧場スタッフが評価すると、いつもこうだった。
•馬格が足りない
•競走馬としての迫力がない
•繁殖牝馬としても価値は低い
ただ歩かせるだけでも、彼女は軽すぎて風にふわりと揺れるように見えた。
それでも、彼女の黒い瞳は静かで、どこか意志を秘めていた。
「……あの子だけは、騒がない」
「妙に賢い感じがするんだよな」
一部のスタッフは、そこに不思議な魅力を感じ取っていたが、それでも“期待”には程遠かった。
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■ 1歳9月──ケンタッキー・セプテンバーセールでの屈辱
1966年9月。
ダークファントムは1歳馬たちの中に混じり、ケンタッキー名物のセプテンバーセールに出された。
だが、その姿を見た瞬間、バイヤーたちはざわついた。
「……小さすぎる」
「これで1歳? 1966年生まれじゃないのか?」
「いやいや、こんなのはポニーだろ」
嘲笑混じりのひそひそ声が彼女の周りに渦巻いた。
そして現実は残酷だった。
誰も札を上げない。
競りは沈黙のまま時間だけが過ぎる。
そして──
「売れ残り」
という烙印が、ダークファントムに押された。
会場の片隅に追いやられた彼女を、バイヤーたちは見向きもしない。
“失敗作”というレッテルが貼られた瞬間だった。
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■ 裏で交わされた“影の取引”
セールが終わりかけた頃。
牧場側は売れ残った馬を安価で処分するため、裏での個別取引を始めていた。
その中に、ひとりの調教師が姿を見せた。
ジョン・オルブライト──
若くして頭角を現しつつある有望な調教師である。
彼は表舞台の競りでは一度も手を挙げなかった。
だが、裏手の馬房でダークファントムを目にした瞬間、歩みを止めた。
小さな黒馬が、静かに彼を見つめ返していた。
その瞳は、挫折にも無視にも染まっていない。
どこか達観したような深さと静けさを宿していた。
「……この子は、私が預かりたい。」
スタッフは驚き、念を押す。
「よろしいんですか? この子は……正直、骨格も成長も厳しいですよ。」
「構わない。売れ残ったからこそ、私が見たい。」
こうして、ダークファントムは裏取引での激安価格で購入され、なおかつ**調教師が“直々に指名して引き取った異例の馬”**となった。
その判断が、数年後のアメリカ競馬界を震わせることになることを、当時誰も知らなかった。
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■ 2歳──デビュー時わずか 320kg
1967年、2歳。
オルブライト厩舎で本格的に調教が始まったダークファントムの体重は、なんと 320kgだった。
これは通常の牝馬より 70〜110kg軽い異常数値 であり、競走馬としては“極端に小柄”と言っていい。
「……320!? 本当に?」
「歴代レベルで小さいぞ」
調教助手たちは驚いた。
だが、オルブライトだけは動じなかった。
「軽い身体が悪いとは限らない。
この子は息がまったく乱れないんだ。」
実際、調教タイムは遅い。
並走すれば簡単に遅れる。
しかし──
“異様なほど疲れない”
それは320kgの軽さゆえの武器だった。
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■ 誰にも注目されないデビュー戦
ダークファントムのデビュー戦。
パドックに出てきた彼女を見て、観客から笑いが漏れた。
「ちっさ……」
「ほんとに320キロ?」
「これは勝負にならん」
その評価通り、レースでは後方のまま敗れた。
二戦目も大敗。
三戦目も大敗。
四〜八戦目も“後ろのまま”。
新聞にはこう書かれた。
「セプテンバーセールで売れ残った理由が、そのまま結果に出ている。」
周囲はもう誰も期待していなかった。
だが──
オルブライトだけは、彼女の最大の特徴を見ていた。
「どれだけ走っても息が乱れない」
小さな身体のどこに、これほどの持続力があるというのか。
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■ 十連敗目──見逃される“小さな変化”
10戦目のレース。
結果はまたも惨敗だった。
だが直線で──
ダークファントムは、今までにない伸びを見せた。
100メートルだけ。
順位は変わらない。
誰も気づかない。
しかしオルブライトは確信した。
「……ついに“競走馬の走り方”を覚えた。」
320kgの身体が、ついに“走るという行為”を理解し始めたのだ。
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■ 未勝利戦前夜──調教師の残した一言
11戦目、未勝利戦を前に。
オルブライトはダークファントムの首を撫でながら、厩舎に一人残った。
「明日、お前は……世界を変え始める。」
その夜、彼の厩務手帳にはこう記された。
「ダークファントム──
この馬は、とてつもない存在になる。」
まだ誰も信じていなかった。
だが、この小さな黒影は、もう“眠れる怪物”になりつつあった。




