最終話.きいろいやくそく
過去の思い出が一気に蘇ってくる――車に乗ったまま少し眺めて帰るつもりだったのに。
予定した駐車場付近に到着したのだが、目の前には『この先通行止め』の看板が立っていた。
誰も来ない一方通行の道路。涼しくなる時期にまた工事を再開させるつもりなのだろう。道は鎖で封鎖され、誰もいない道がのびているだけで手入れも何もされていない。
窓を開けると、微かに草の匂いが入りこむのを感じて、私は静かに車を降りた。
でこぼこだった道はアスファルトに舗装され、松と道路の間には反射板付きのポールが整然と並んでいる。
夏の日差しと蝉の声が容赦なく降り注ぎ、汗が額ににじみだした。
それでも私は四十年前の〝思い出の場所〟を求め、GPSを頼りに歩き続けた。
「このあたりの……はずだけど……」
覚悟はしていたはずだった。
暑さで朦朧として辿り着いた場所には、かつてのお爺さんの家も旅館も跡形もなく、売地の看板だけが無造作に立っていた。
海の方に目を向ければ、あの見事に並んでいた松並木は、マツクイムシのせいで歯抜けのように枯れ、伐採された跡ばかりが残る。
幼い日見た風景は、どこにもなかった。
すっかり変わってしまった場所に、私はただ呆然と立ち尽くす。
――ずいぶん変わったな。
もしかしたら、空の青さも、波の音さえ、昔とは違ってしまったのかもしれない。
あの日から何もない人生の始まりだった。環境も性格も何もかも無くなったかのようになって、新しく不幸な自分が作られたとさえ思っていた。だから、せめて幸せだった思い出だけでもあれば生きていてよかったと思えると戻ってきたのに……。
「これじゃ……この先の、つまらない人生を再確認しにきただけじゃないか……」
喪失感が風とともに頬を撫で、胸の奥に広がっていく。
「……もういいや、帰ろう」
海をぼんやり眺めながら、歩き出したその時だった。よそ見をした拍子に、盛り上がった松の根っこにつまずき、勢いよく転んでしまう。両手を前に出して何とか顔をぶつけずにすんだ。
「いててて……そういや、昔もよく転んだな……あれ……?」
四つん這いのまま顔を上げると、風に揺れる松の葉の隙間からキラキラと光が漏れ、頬にあたるのを感じた。
そのまま立ち上がり、顔を横に向けると同じように、海もまぶしく輝いていた。
これがデジャヴ、というものか……。
いや、違う。
――私は、この場所を、よく知っている。
四十年前、一番大きかった松は、成長が止まり、他の木に追い越されてしまったのだろう。
だから気づかなかった。
でも、この松の根元で、ゴザを敷いて、お菓子を食べてジュースを飲んで――お爺さんが泣いたあの日まで、確かにここにいたことを。
胸が高鳴っていくのが、自分でもわかる。
「ここで座って、ジュースを飲んで……ここで……」
幼少期の動作を思い出すように体を動かすと風が頬を撫でた。
「……そうだ。もしかしたら!」
海岸に打ち上げられた木片を拾い、スコップ代わりに松の根元を掘り始める。
核心は無かった。
土の塊が他よりも随分固いことに気づく。
指先で土を崩して払うと、小さなガラス玉がひとつ。
唾を呑む――。
ガラス玉を脇に置き、さらに掘るとゴツンと石に当たる音。
潮の香りも、目に沁みる汗も気にせず、汚れることをいとまずに土を掘るだけに集中する。
息を呑む――。
蓋のように重なった石のふちを慎重になぞり、汗でぐっしょりになった腕で、木を差し込んで持ち上げる。
――早く、この下を。
現れた、見覚えのある輪郭。
ゆっくりと周りの土を払う。
「あった……」
あの時ーー四十年前に飲んでいたジュースの瓶が目の前に現れた。
ジンジンと痺れた手で持ち上げた瓶の中には、土にまみれながらも黄色い石がびっしり詰まっている。
――あの日の僕とお爺さんの声が聞こえる。
『他にも変わらない物ってあるの』
『そうやなぁ、またこの根っこの下にでも隠しておいたらぁ』
四十年目にして初めて知る事実。後ろ指を刺されながらも、この場所で私を待ち続けてくれていた。
「お爺さん。私が戻ると信じて、ここで一人、石を集め続けてくれていたんだ……。なのに、俺は……ずっと逆恨みして……」
瓶を額に当て、子供のように声を上げて泣く。涙は、ぽたぽたと瓶に落ちすぐに乾いていく。
「約束を守ってーー」
暫くして、海に瓶を浸けて無心で土を洗い流した。
こすればこするほど、汚れはすぐに落ち、瓶はどんどん輝きを増して、まるで心の泥まで一緒に洗い流されていくようで胸がスーっと晴れ渡っていく。
瓶が見つかったからじゃない。心の中でお爺さんと折り合いがついたからだ。
街並みも海沿いの景色もすっかり変わってしまった。
けれど、私は確かに“変わらないもの”を受け取った。
お爺さんは悪いことをしたし、私たち家族はこの街を離れることにもなった。
あの幼い頃の私は、泣いていたお爺さんの涙は、孫への後悔か、自分への嫌悪感か分からなかったが、今の私なら分かる気がする。
言葉が涙ともに一粒零れ落ちる。
「お爺さん……今までごめんなさい」
もう一粒、母へ。
「母さん……連れてきてくれてありがとう」
愛する人たちは、もういない。
それでも、愛されていた事実に気づいた私は、もう寂しくなんかならない。
私は瓶に向かって話しかける。
「俺も……最後まで“生ききって”みせるよ」
西に傾き始めた太陽が優しく色を変えるように、濁っていた瓶の海水も澄んでいく。
私はそこに瓶をかざしてみる。
黄金色の夕焼けに照らされた黄色い石は、瓶の中で光の乱反射を繰り返し『きいろいジュース』そのものとなった。