第五話.「く」のむき
玄関にでて顔を背けながら熊の剥製を通り、やっと小さなロビーにたどり着く先に、お爺さんが私を見つけ手招きしてくれたので急いで駆け寄っていった。
「賢治……」
やっと知っている人に会えて嬉しくなり、小さくジャンプして隣に座る。
机を挟んだ向かいにはラグビー選手みたいに大きな体をしたスーツマンが座っていた。
――また違うスーツマンがいる。
今朝から色んなスーツマンを見てきたけれど、この人は初めてだ。顔いっぱいに髭が生えていたので、私はこっそり〝ヒゲヒゲマン〟と呼ぶことにした。その隣にジュースマンが座って、私を見るとニコッと笑ったので、恥ずかしくなり目を伏せてしまう。
ヒゲヒゲマンは、お爺さんと全くわからない話をしていた。
机に紙を広げ「ここに名前を書いてください」と、野太い声を出して指差す場所に、お爺さんは何も言わず名前を書いていく。
ヒゲヒゲマンは私をチラッと見たあと一呼吸して「この子にも名前を書いてもらえ」と言った。
その言葉に、お爺さんの手が止まる。
驚いた顔でジュースマンが「こんな子供にも必要でしょうか?」
その問いかけにヒゲヒゲマンは、腕を組みながら表情を変えず「ああ、そうだ」とだけ答えた。
私は何か戦いが始まるのかと思い怖くなって、お爺さんの服を掴み、二人の話を黙って聞いていた。
するとジュースマンは無言で鞄の中から紙を取り出して、私に見やすい様に向きを変えて広げだした。
「賢治くん……、ひらがなでいいから、ここにお名前書けるかな?」
どうしたら良いか分からなくなって、お爺さんの顔を見ると、目を瞑って頷いたので名前を書くことにした。
ーー私の名前は奥田賢治。
鉛筆をグーにして持つと平仮名で、おくだの〝お〟を書いた所で手が止まる。
何故なら次の〝く〟の向きが分からなかったからだ。
――右に曲がっていたかな、それとも左?
お爺さんに聞こうと顔を見ても、まだ目を瞑っているので、仕方なくジュースマンに聞いてみた。
「〝く〟ってどっち向きに書くの?」
その言葉を言った時、三人とも目を一瞬だけ大きく開いたのが、とても印象的だった。
お爺さんを見ると皺のある顔をさらに、くしゃくしゃにしている。
「手を出してごらん」ジュースマンは、私の手のひらに指で書いて教えてくれた。
――さすがジュースマンだ。また私を助けてくれるなんて。
「ありがとぉー」というと今度は何故かジュースマンが顔を、くしゃくしゃにした。
――今日は、いろんな人が皺くちゃな顔をする日だな。
残りの名前を書き終えると、お爺さんがいつもより小さな声で私に話しかけた。
「賢治、今日は見ての通り忙しいから帰りなさい」
驚いた。お爺さんが弱々しい小さな声で、私と遊ばずに「帰りなさい」なんて、今まで一度も言われたことがない。
――何か嫌われる事でもしたのかな。そういえばさっきから、ずっと笑顔をみせてくれないし目もあわさない。
「うん……わかった」
ソファーを下りて玄関に向かう。
お爺さんが気になったので三段だけの階段を降りきると、背伸びしてロビーを覗いた光景に「えっ!」と思わず声が漏れた。
いつも堂々としているお爺さんが、肩を振るわせ手にハンカチを目元に当て泣いているのだ。
私は見てはいけないものを見た気がして、直ぐに顔を反対に向けると受付の部屋へジュースを取りに向かう。
――見間違いだったのかもしれない。
机の上のジュースを手に取ると、そのまま走り出す。いつもの帰り道がこんなに長く感じたのは、あれが最初で最後だった。
自宅まで数十メートルのところでようやく立ち止まり、息を整えながら片手を額に当てて旅館の方を見渡す。喉はカラカラに渇いていた。
残っていた、きいろいジュースを一気に飲み干したが、生ぬるくて、どこかへ味が消えちゃったみたいだったーー。