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第四話.スーツマン


 忘れもしない。私はマジックテープの靴を履いて、いつものように玄関で振り返って母に叫んでいた、あの日。


「早くお爺さんの家に電話かけてよー!」


「もう行くの? 今日は、やけに早いわね」


「うん、お爺さんと海に石拾いに行くの。前は赤い石を拾ったから、今日は黄色の石を集める約束なんだ。」


「はいはい、わかりました」


 お母さんは洗面所で顔をタオルで拭きながら電話をかけて、「賢治が今から行くって」と伝えてくれる。


「気をつけて行ってらっしゃい。洗濯が終わったら迎えに行くからね」


 私は返事を全部聞かずに玄関を飛び出す。

 お爺さんの家は旅館の駐車場を挟み、並んで建っている。家からは百メートルくらい離れていて目と鼻の先だ。


 道には何も隔てるものがなくて、走る私の姿はどこからでも見えるし、車もほとんど通らない未舗装の道路だから、子ども一人で駆けていっても、誰も気にしない時代だった。


「賢治、今日も速いなあ。二分で着いたぞ」


 私はお爺さんに何でもいいから褒めてもらえるのが嬉しくて、毎回全力で走る。


「おはよう! 早く石拾いに行こうよ!」


「おはようさん。もうちょいで終わるから待っとってな」


 お爺さんはニコッと笑って、ラジオ体操の第一の動きを続ける。

 腕を大きく伸ばし、深呼吸を終えたそのとき旅館の駐車場に、黒い車が何台か入ってきた。


 こんな朝早くにお客さんが来るなんて珍しいな、と思っていると、車から降りてきたのはスーツ姿のお客さんたち。

 足早にお爺さんの前に立ち、広げた紙を突きつけるように見せ始めた。

 

『お客さんといる時は話しかけないこと』


 そう言われて、何度も叱られていた私は、ちゃんと約束を守って、お爺さんを待つことにした。


 旅館の前にある、サッカーボールくらいの石を積み上げた花壇に腰を下ろす。


「何人いるんだろう。いーち、にーい……」


 スーツマンたちを数えてみたけれど、すぐに指が足りなくなって、途中でやめる。

 暇だから花壇の上に立って、端から端まで行ったり来たりして石の上で遊んでいると、お爺さんがこっちに歩いてきた。


「賢治、先に休憩室行ってジュース飲んで待とってくれんか」


「うん! 今日はスーツマンがいっぱい泊まりに来たね!」


 お爺さんは無表情のまま、小さく頷いて、またスーツマンたちの方へ戻っていく。


「ジュースだ、ジュース! いそげ、いそげ!」


 私は何も気にせず、石の上からピョンと飛び降りて旅館にに向かうと、玄関にも沢山のスーツマンが歩いていて、私の存在に目もくれずに何か忙しそうに行ったり来たりしている。

 

 ――お部屋……わからないのかな?


 熊の剥製の前を駆け抜け、調理場の前の薄暗い道を通ると、いつも料理を作るお喋りおじさんが見えた。

 話しかけようと思ったが、何故か、おじさんはいつもの笑顔はなくて、固い顔をしてスーツマンとどこかへ歩いて行った。


「なんだろう……」


 そう思いながらも、赤い冷蔵庫の前まで来る頃には、もう頭の中はジュースのことでいっぱいになっている。ガラス戸をスライドさせ、中に並んだ飲み物から、きいろいジュースを取り出す。瓶は冷たく、温度差によって汗のような水滴が付きだした。

  

 いつもなら、お爺さんやお喋りおじさんが、冷蔵庫の横の栓抜きで『カチャン』と開けてくれるのに、今日は誰もいない。仕方なく自分でやってみるけど、やっぱり上手くいかない。

 “ガチャガチャ”と音を立てながら何度も試していると、出入り口から、人の良さそうな若いスーツマンが顔を出した。


「栓を抜きたいの? やってあげようか」


 そう言って、私から瓶を受け取ると、一瞬で『カチャン』と栓を外してくれた。


「うわー、すごーい!」


 あまりに簡単に開けるから、この人のことは〝ジュースマン〟と呼ぶことにした。

 もちろん、心の中だけで。


「ありがとぉー!」


 お礼を言って、瓶を両手で大事に抱えながら来た道を戻った。

 前に何度かこぼしたことがあるからと、今日は慎重にゆっくり歩いたため、休憩室に着く頃には瓶のフチから水滴が服に伝わって湿っていた。


 休憩室には誰もいなくて、柱時計のカチコチという音がよく聞こえるほど静かだった。自分の冷たいジュースをゴクリと飲む音さえもがわかるほどに。


 ふと、壁際に置かれたテレビが目に入った。

 ドアノブみたいなつまみを回すと映ると聞いてはいたけれど、私は触らせてもらったことがない。私がやると画面が砂嵐になってしまうからだと言われていたからだ。


 ――今日は、誰も見ていない。

 

 そっとつまみに手を伸ばして、押したり引いたりしてみると突然「ブーン」と音がして、私はびっくりして後ろへ飛び退いた。

 画面を“じっ”と見つめているとーーだんだん人の姿が浮かび上がってきて、ワクワクする。

 

「ついた、ついた! あー、ここにもスーツマンがいっぱいだ!」

 

 初めて自分でテレビをつけられたことが嬉しくて、興奮して画面に近づこうとした、そのとき。


「賢治くん。奥田賢治くんは、いるかい?」

 

 名前を呼ばれて、思わず体をすくめて振り返る。

 さっきジュースを開けてくれたジュースマンが立っていた。


「ごめんね、驚かせたかい? 君はさっきのジュースの子だね。お名前は奥田賢治くんでいいかな?」


「ご……ごめんなさい……」


「どうしたのかな?」


「あの……テレビ……」

 

「ああ、そうか。テレビを触ったのを怒っている訳じゃない。君のお爺さんがロビーで待っているから、呼びにきただけだよ」

 

 そう言うと、ジュースマンは笑顔を見せてテレビのつまみを押して消してしまった。

 すぐにお爺さんのところへ行きたかったけれど、テレビを勝手に触ったことを言われたらどうしよう……と、足がすくんでしまう。

 

 そんな私を見てジュースマンは、もう一度ニコッと笑って言った。


「誰かがテレビをつけっぱなしにしていたのを消そうとしてくれていたのだね。ありがとう」


「うん、うん!」と答え、ロビーに向かう。


 ――あと一口、残っていた。


 一瞬、そんなことが頭をよぎったけれど、自分に嘘をついたことが恥ずかしくなって、大好きなジュースを置き去りにして走った。

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