第二話.きいろいジュース
一九八十年、夏。
四歳の頃、私は幼稚園の休園日や帰宅後、必ず向かう場所があった。
それは家から幼児の足でも、数分で辿り着ける距離に立つ、お爺さんの家だ。
目鼻立ちがはっきりした顔に、背が高くスマートな体型をしていて、いつも白いワイシャツにネクタイ姿で過ごしていた、お爺さん。
私が一番好きだったのは、日本画に描かれた龍のような長い眉毛。タバコをくゆらせる姿も、大人のかっこよさに見えて憧れていたっけ。
そんな、お爺さんは「海水浴場まで徒歩一分」が売り文句の大きな旅館を営み、家族やパートさんたちと切り盛りしていた。
それなのに、私が遊びに行くと、仕事を誰かに任せて必ず笑顔で迎えてくれるのだった。
「賢治、また木の下で涼もうか」
お爺さんは額の皺に溜まった汗を、手で拭いながら少し先を指さす。
そこには海風を防ぐために植えられた松の木が、未舗装の道沿いに綺麗に並んでいた。
「このゴザ持って、一番大きな松の下で待っとれ。わしは飲みもん取ってくるで」
「うん。お気に入りの場所だね」
私は両手でゴザを抱え、小さな砂ぼこりを巻き上げながら駆け出した。
目指す松は家よりも高く、抱きついても両手が届かないほど太い幹だから一人でも間違えようもないのだ。
お気に入りの木の下に着いて、背丈よりも大きなゴザを広げると靴を脱いで裏返す――こぼれ落ちる砂利や砂。
そのまま寝転び、松の根っこの膨らみを枕にして、もう一度、湿った足裏についた砂を払った。
「よし、これでバッチリ!」と思いきや、お尻に何か当たるのを感じゴザを捲るが、それらしい物は何も見当たらない。
もしかしたらーーと、ポケットを探ってみると、洗濯された個包装のアメ玉が奇跡的に破れず出てきた。
それを見て私はにんまり笑うと、何も考えず口に放り込んで大の字になり、風を全身で受ける。
「涼しいぃー」
思わず声が漏れてしまう。
海からの風が木々をすり抜け、心地よいリズムで髪を撫でていくのが、なんだかくすぐったい。
お日様に照らされて輝くのは水面だけじゃない。松葉の隙間から差し込む陽射しも、キラキラと輝きを放っている。
海猫の鳴き声、蝉の声、波の音と潮の匂い――それらすべてを全身で感じながら、アメ玉が舌の上で溶けてなくなるまでに、お爺さんが姿を見せないかと、今か今かと待っていた。
不意に、太ももに“サワサワ”とした感触が走った。
見ると、半ズボンから出た白い太ももに黒い胡麻粒がついて……いや――違う。
「アリさんだ!」
慌てて立ち上がり、手で払いのける。
目を凝らして見ると、葉っぱをつたいゴザへと侵入したアリたちが、破れたアメ玉の袋を目指して行進していく。
「ここはダメだよ! 入ってこないで!」
四つん這いになって頬を膨らませると、規則正しく並んだアリさんを、勢いよく吹き飛ばす。
「ふぅー、ふぅー!」
一匹、また一匹。
無我夢中でアリたちをゴザの外に追いやっていく最中――背後から突然、冷たいものが頬に当たって、思わず声を上げた。
「うわぁ!」
「ホーホッホッ! 冷え冷えのオレンジジュース持ってきたぞ」
「もぉー、つめたい!」
頬をぷくっと膨らませる私に、お爺さんは皺くちゃな笑顔で瓶を差し出す。
透明な瓶の中、黄色い液体が揺れているのを見た瞬間、私は表情を一変させた。
「やったー! きいろいジュースだ!」
すでに蓋が外れていて、両手で瓶を受け取ると、私は迷わず『ごくっ、ごくっ』と一気に飲み込む。鼻から息を吸うと甘い匂いが一気に広がって自然と笑顔になっていく。
その姿を見ながら、お爺さんは自分の瓶を揺らし話しだした。
「賢治、よく見てみぃ。この色は黄色じゃなくてオレンジ色や。だからオレンジジュースなんやで」
「えー、きいろいのになぁー。きいろいジュース!」
「ホッホッホッ。そうかそうか、賢治にはそう見えんのか。まあ、そんなことはどうでもええ」
ムキになって言い返す私だったけれど、お爺さんの笑顔につられて、一緒に笑ってしまう。
「で、何しとったのじゃ?」
「アリさんを“ふぅー”って息で吹き飛ばしてたんだ。お菓子を取りにきたのかな?」
お爺さんはにっこり笑って言った。
「アリもな、自分の仕事をしとるだけじゃ」
「アリさんの仕事?」
「ああ、協力して食べ物を巣に持ち帰る。それが彼らの大事な仕事じゃ」
「そっか、アリさん働いてたんだ」
「小さな存在でも、一生懸命に仕事するのが大事なんやで」
お爺さんに認められたアリたちが、少し羨ましくなって「僕もお手伝いしてるよ!」と伝える。
「ホッホッホッ。賢治も頑張り屋さんや」
そう言って、私の頭をくしゃくしゃっと撫で褒めてくれるのが、とても嬉しい。
「賢治がアリやったら、先頭に立ってみんなを引き連れとるかも知れんのう」
「うん、僕が先頭に立って、お菓子の場所を教えるよ!」
「そうかそうか。大変やろうけど、そうなってくれたらええのぉ」
お爺さんはゴザの上で煙草に火をつけ、ゆっくりと煙をくゆらせる間に、私はジュースを飲み干して、また他愛もない話を続ける。
暖かい光と、心地よい風に包まれた、ほんの小さな冒険の毎日。お爺さんのそばで過ごす時間は、いつも新たな気づきと暖かさに満ちていた。
涼しい風に吹かれ、まだ若い緑色の松葉が小さく揺れているのを眺めて、この風も松葉を揺らすために働いている――そう思い込むほどに私は純粋だった。