9 隠し部屋
村田さんが言った通り、やまさくには本当に隠し部屋が存在した。
そこは五畳ほどの狭い部屋で、埃っぽい書斎のようになっていた。
部屋の壁に沿って置かれた古い木製の棚には、色褪せた本と大量のフォルダーがびっしりと詰められている。
室内の空気は湿っぽく重く、古紙特有のカビ臭さが鼻をついた。
部屋の中央には、年季の入った大きめのデスクが鎮座していた。
天板には古びたテーブルライトが置かれ、机の足元から延びる延長コードにはそれだけが繋がれているようだ。
他の機器は見当たらない。
柚葉と目を合わせて頷き合い、私は慎重に棚から適当なフォルダーを取り出してみた。
――2008年2月
他のフォルダーにも視線を走らせる。
背表紙には『2006年12月』から『2020年2月』まで、月ごとに分けられた年月が克明に記されていた。
手にしたフォルダーのページを開くと、私の背筋に冷たいものが走った。
「ゆず……!これ、見て!」
私は震える声で柚葉を呼び、ページを指差す。
柚葉が私の横に駆け寄り、その記録に視線を落とした瞬間、息を呑んだ。
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【2008年2月1日】
名前:白瀬愛梨
誕生経過日数:1150日
体重:13.8kg
血液検査:正常
オムニリンク:なし
認知テストスコア:883
観察記録:
今日も食欲旺盛で、三食を残さず食べる。
昨日作った擦り傷は、人間の一般的な自然治癒速度で回復傾向にある。
今日は成海柚葉におもちゃを取られ、『悔しい』という感情を初めて鮮明に示した。
認知テストの結果、一般的な同年齢児童の平均以上の認知能力を示し、標準分布に照らしてIQ112程度であると推定される。
また、食べ物の好き嫌いに関する主張をするとき、味を言語的に的確に表現していた。
これは高い認知能力を裏付けるものである。
住所について質問された際、一瞬オムニリンクの可能性を疑った。
しかし自分自身の認識コードを明確に答えられたため、オムニリンクはないものと判断する。
また、住所を知りたがった動機は「友達に自慢するため」と述べており、この動機は白瀬愛梨の人格に矛盾しないものであることから、オムニリンク無しと最終的に評価する。
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これは――私の観察記録だ。
幼い頃の私の行動、感情、さらには思考までもがまるで実験動物のように記されている。
フォルダーを掴む指先が震え、自分の意思とは関係なくページがガサガサと音を立てた。
「……これ、私たちずっと監視されてたってこと?」
私は思わず口に出す。
柚葉の表情が蒼白になる。
唇が小刻みに震え、目が潤んでいた。
私は急いで隣のフォルダーを掴み、開いて確認する。
そこにも柚葉の名前が記されていた。
私たちはまるで動物のように一日も欠かさずに『観察』されていた。
「オムニリンクって…」
柚葉の声はかすれていた。
私は突然、胃の奥から吐き気がこみ上げ、私はとっさに外へ駆け出した。
*
――オエェッ……。
今朝、旅館で食べた朝食を全部吐き出してしまった。
それでも、気分は一向に晴れない。
背後から急いで駆け寄る足音が聞こえ、柚葉が私の背中を優しくさすりながら心配そうに声をかけてきた。
「愛梨! 大丈夫!? ほら、これ使って」
柚葉は私にウェットティッシュを差し出してくれる。
「ありがとう、大丈夫だよ」
私はウェットティッシュで口元を拭きながら答えるが、自分でもその言葉が空々しいと分かっていた。
全然大丈夫じゃない。
だって今見たあの記録は、村田さんの突拍子もない話の信憑性を一気に高めてしまった。
――オムニリンク。
確か村田さんも言っていた。
『君たちはオムニリンクが断たれた特別な存在』だと。
オムニリンクという言葉の意味はよく分からないけど、もし村田さんが言うように、それが人造人間に関係するものだとしたら……。
(私たちは本当に……人造人間ってことになってしまうの?)
人造人間。
言葉にするだけでもリアリティがない。
ロボットやアンドロイドなんて映画や漫画の中だけの存在であって、現実にはありえないと思ってきた。
そもそも私は普通に成長した。
病院での血液検査やレントゲン撮影でも異常なんて指摘されたことがない。怪
我をすれば血だって流れるし、心臓もきちんと動いている。
機械仕掛けなはずがない。
――ゲノム編集ベビーとか、そういう技術なら、あるいは……。
私と柚葉は自分で言うのもなんだが、顔はとにかくいい。
もしもそれが自然ではなく、何かしらの操作の結果だというなら……まだ納得できなくもない気がする。
少なくとも機械の身体であるよりはずっとマシだ。
「……よし、戻ろうか」
私は重い身体を何とか立ち上がらせた。
「本当に大丈夫?」
柚葉が再び心配そうに訊ねる。私は頷いた。
「うん……大丈夫だから」
私たちは再び隠し部屋に戻った。
部屋の棚には相変わらず膨大なファイルが整然と並べられている。
ふと目をやると、『従業員データ』とラベルの貼られたファイルが目に留まった。
私はそれを手に取り、中を開く。
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【名前】山田孝雄
【役職】理事
【生年月日】1955年6月20日
【経歴】
1974年 東北大学入学
1978年 東北大学卒業
1978年 東北大学大学院理学研究科 修士課程
1982年 東北大学大学院理学研究科 修士課程修了
1982年 東北大学大学院理学研究科 博士課程
1985年 東北大学大学院理学研究科 博士課程修了
1985年 BioTransformatics Ltd. 入社
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院長先生の経歴だった。
私は息を呑んだ。
博士号を持っているなんて初めて知った。
東北大学を博士まで修了しているような人が、どうしてこんな片田舎で小さな児童養護施設を営んでいたんだろう。
BioTransformatics Ltd.という会社も聞いたことがない。
「愛梨、それ何?」
柚葉が私の肩越しに覗き込みながら訊ねてくる。
「院長先生の経歴みたい。東北大の博士号持ちだって」
「え……? 院長先生が?」
柚葉も驚きを隠せない様子だ。
優しくて温厚で、ごく普通のおじいちゃんだった院長先生。
確かに子供心にも、どこか頭の良さそうな雰囲気をまとっている人ではあったけど、まさかそんな学歴と研究歴があるとは。
それがまた、この隠し部屋に並ぶ異常なほど詳細な観察記録と無関係とは到底思えない。
読み進めると、村田さんのページも見つかった。
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【名前】村田治彦
【役職】研究員
【生年月日】1981年2月1日
【経歴】
2000年 東京大学入学
2004年 東京大学卒業
2004年 東京大学大学院理学研究科 修士課程
2006年 東京大学大学院理学研究科 修士課程修了
2006年 東京大学大学院理学研究科 博士課程
2008年 東京大学大学院理学研究科 博士課程修了
2008年 BioTransformatics Ltd. 入社
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村田さんもまた、驚くほどの経歴を持っていた。
確かに研究職っぽい雰囲気がなくはなかったけど、東大で博士号を取っていたなんて初耳だ。
しかも村田さんまで、院長と同じ『BioTransformatics』という会社に入社している。
さらに気になるのは、その役職だ。
「研究員……? 村田さんって職員として働いてたんじゃないの?」
柚葉が私の心を代弁するかのように口にした。
自分が信じてきた世界が音を立てて崩れていく。
ここまで証拠が揃ってしまうと、もう村田さんが言っていた突飛な話を妄言として片付けることはできない。
私が育ってきたこの施設、親代わりに信じていた人たち、すべてが『嘘』だったということになる。
一体、自分の人生をどこから信じ直せばいいのか……。
*
私たちはその後、ファイルを全て外へ持ち出して、草が伸び放題になった前庭の芝生の上で、日が暮れるまで一つ一つ目を通していった。
ファイルは大きく分けて四種類あった。
観察記録、従業員情報、心理テスト記録、そして身体成長記録。
『オムニリンク』という謎の単語は頻繁に登場したが、実際それがどのような作用をもたらすのか、具体的な記述はなかった。
ただ文脈から察するに、オムニリンクとは症状のように『発症』するもので、決して良いものではなさそうだ。
『人造人間』という言葉そのものはどこにも使われていなかったけれど、記録には私たちを指して『一般の人間』とは区別するような記述が繰り返されていた。
私たちは人造人間だと明確に断言されたわけではない。
しかし、少なくとも『一般の人間』ではないことだけは、否応なく突きつけられてしまったのだ。
時刻を確認すると、もう17時を過ぎていた。
夕陽が山の稜線を染め、空はゆっくりと柔らかなピンク色に変わりつつある。
「あ、ちょっと待って……今日の宿、取ってないよね?」
「えっ……?」
昨日は村田さんのことで頭がいっぱいで、今日泊まる場所を予約することを完全に忘れていた。
だがこの辺りにはネカフェなどという気の利いた施設はない。
一番近いネカフェとなると江津、悪ければ出雲市まで出ないと見つからないだろう。
「そういえば寝袋、なかったっけ?」
柚葉がぽつりと思い出したように言う。
そうだった。
村田さんが用意してくれたトートバッグの中に、寝袋が二つ入っていた。
その記憶を思い出すと、妙な興奮が胸をくすぐる。
「ここで野宿してみちゃう?」
何か悪いことをしているようで、少しだけワクワクした。
その瞬間。
プルプルッ
村田さんから渡されたスマホが震えだした。
画面に表示された名前は――『Anvls』だった。
持ち物
・ノートパソコン
・使えるスマホ
・充電器
・ノートと教科書
・ペッパースプレー
・着替え(シャツ、ズボン、下着、靴下x2)
・帽子
・メイク用品(化粧水、日焼け止め下地、パウダー、アイブロウ)
・持ち運びWIFI
・タブレット
・太陽光充電器
・ポケットナイフ
・寝袋
・懐中電灯
・ペン型録音機
・GPSタグ
・センサー式アラーム
・手袋
・お弁当
・財布(貯金:337,787円