8 やまさく
今日は4月17日。
雲ひとつない青空が、障子越しの光となって部屋に差し込んでいる。
「おはよう、愛梨」
柚葉の声に目を覚まし、枕元の小窓から見える新緑の山々に一瞬だけ安らぎを覚える。
時計は朝の8時を指していた。
私たちは硝子戸を開け放った先の露天風呂へ向かう。
まだ朝露が残る庭園を通り抜けると、薄い蒸気とともに土と苔の匂いが鼻をくすぐる。
湯気に霞む檜の湯船にゆっくり腰を下ろし、肌を撫でる温泉の熱が体中にじんわり広がる。
「はぁ……やっぱり温泉はいいね」
柚葉がぽつりとつぶやきくが、自分に言い聞かせるために言ってるように聞こえた。
やがて浴衣に着替え、食堂へ。
木製の長い廊下には、朝の静寂を切り取るように鳥のさえずりが響く。
朝食の間は窓際の席に通され、山菜と焼き魚、ほかほかの白ご飯に香り高い味噌汁、色とりどりの漬物が並ぶ。
湯上がりの身体に、塩気の効いた焼き魚の旨味が心地よかった。
けれど――箸を置くたびに、胸の奥のざわめきが大きくなる。
本来なら爽やかな朝のはずなのに、明るい気分にはなれない。
村田さんがもうこの世にいないこと、そして『人造人間』の真実。
それを思い返すたび、温泉の湯気も、山菜の香りも、遠い世界の出来事のように感じる。
*
朝の用意を諸々済ませると、時間はもう9時半だった。
チェックアウトまで30分ほど時間がある。
柚葉は部屋の隅に置かれた村田さんからの皮のトートバッグをそっと抱え寄せた。
彼女は中身を一つずつ畳の上へ並べていく。
最初に取り出されたのはスマホが二台。
つづいて、薄型の持ち運びWi-Fiルーター、手のひらサイズのタブレット、折り畳み式の太陽光充電器。
さらに、小型のポケットナイフ、懐中電灯、ペン型録音機、GPSタグと、小さなブザーを内蔵したセンサー式アラームが出てきた。
私はひとつめのスマホを手に取り、裏面には小さな付箋が貼られてい流ことに気づく。
『別名義で契約中、追跡リスクなし』
太めの黒いペンでぎゅっと書き込まれていた。
私はスマホを起動してみると、デフォルトアプリしか入ってない。
まるで新品そのものだ。
だが連絡先を開くと、自分の番号、柚葉用の番号、そして見慣れない一件が並んでいた。
ラベルはローマ字で〈Anvls〉。
「あんゔるす?あんゔぃるす?」
読み方に戸惑う私の肩越しに、柚葉が覗き込む。
「なんだろう、それ」
少し困惑しながら、顔を見合わせた。
*
私たちはさわやかな朝風を浴びながら、チェックアウトをするべく旅館のフロントに向かう。
「ここからは任せて」
柚葉は得意げな顔で会計を済ませる。
「おっ、あざす!」
私たちは旅館を後にして、桜江町の北へと歩き出す。
目指すは、山田桜江孤児院だ。
ほどなくして江の川を渡る橋が見えてくる。
川面には早朝の光がちらちらと踊っている。
私たちは川を渡り切り、国道沿いの歩道をまっすぐおよそ15分進む。
やがて、青いローソンの看板が目に入る。
店内に入ると、ずらりと並ぶお弁当やお総菜が目を引く。
私は真っ先に大好物の三色そぼろ丼を探したが、代わりに見つけた二色そぼろ丼をカゴに入れる。
さらに、長い1日に備えて使い捨ての手袋とウェットティッシュも手に取る。
*
コンビニを出てからさらに5分ほど歩き、右手に深い緑の山影、左手にゆったり流れる江の川を見送りながら、国道を外れて細い市道へと入る。
国道からひと筋それた市道は、アスファルトの継ぎ目に苔が生え、ところどころに小石が転がる。
やがて、木造2階建ての廃屋が視界に入る。
崩れかけた瓦屋根の隙間からは空が覗き、引き戸は半ば外れ、板張りの床が家の奥へと続く。
前庭の錆びた門には、『山田桜江児童養護施設』とペンキがかすれた看板が打ち付けられていた。
「よいしょっと」
柚葉は門の裏に手を伸ばして錠を外し、軋む鉄の扉をゆっくり引いて見せる。
私たちは網目模様に絡まるつたをかき分けながら門をくぐり、広い前庭へと足を踏み入れた。
目に飛び込んできたのは、一見して民家のような建物と釣り合わない、本格的な遊具たち。
小ぶりながらも堅牢に作られた滑り台、木製の砂場、ブランコの支柱
――かつてここで遊んだ私たちの笑い声が、今にも聞こえてきそうだ。
幼い日の思い出が胸に迫る。
院長先生は、いつも優しく微笑んでくれた。
嘘をついたり危ないことをしたりしたときだけ、本気で叱ってくれる、お父さんのような存在のおじいちゃんだった。
しかし今は、つたに覆われた遊具が、残酷な時の流れを醸し出している。
やまさくは、私たちが高校に進学する前に、院長先生が亡くなって閉鎖された。
それ以来このような廃屋になってしまっている。
「誰かいますかー?」
柚葉が先陣を切り、小声ながらもはっきりと呼びかけた。
廃墟の静寂を破るような声が、軋んだ木の床にこだまする。
「…誰もいないみたい」
私のほうを振り返り、柚葉は肩をすくめた。
躊躇いながらも建物の中へ足を踏み入れると、床がキィキィときしんだ。
薄暗い廊下は、子どもの頃のままに絨毯が敷かれている。
私はその端をめくり、落とし戸がないか念入りに探すが、特に何もなかった。
「うーん、同じだね」
柚葉は外と中を行き来しながら、どこか不自然に部屋割りが合わないところはないかを確認する。
そのとき、私はふと閃く。
「あ、院長先生の部屋かもしれない」
10年以上住んでいたのに、あの部屋だけは厳重に立ち入り禁止で入ったことがなかった。
もしそこに隠し部屋があるなら、気づかなかった理由に合点がいく。
私たちは一階のリビング脇、最も奥まった扉へ向かった。
扉は古びた木製で、ドアノブがくすんでいる。
緊張と期待が入り混じる中、私はゆっくりと手をかけた。
だが確かに鍵がかかっている。
「蹴り開ける…?」
柚葉は眉を上げながら横目で私を見て言う。
「やっちゃいますか」
「じゃあせーので」
「せーの!」
――ドンッ!
二人で息を合わせ、扉の右側をめがけて勢いよく体重を乗せた。
扉は開かなかったが、ロック部分からはいかにも乾いた『メキッ』という音がした。
「もう一回!」
――ドンッ!
木材が軋み、ついに扉は勢いよく押し開かれた。
暗闇が吹き抜け、外側の光が埃を浮かび上がらせる。
院長先生の部屋は狭く、窓が一つもないためなおさら闇が濃い。
壁紙は色あせ、ところどころ剥がれ落ちている。
私たちは村田さんから預かった懐中電灯を取り出し、スイッチを入れた。
柔らかな光が部屋の隅々を照らし出す。
右手には天井まで届きそうな押し入れ。
手前の隅には、小さな仏壇が静かに佇み、院長先生の妻の位牌が並んでいる。
正面の壁には横幅1メートルほどの棚が掛けられ、本やレコード、古い写真立てが無造作に置かれている。
左側の壁には、人ひとりがようやく横たわる程度の小さなソファが寄せられ、その前にはひとつのサイドテーブルだけが置かれていた。
「なんか、不気味だね」
「うん」
確かに窓がないからか、不気味な感じがする。
「まずは地下室がないか確かめよう」
そう言い、私はわざと足音を響かせながら部屋の周囲を一周した。
木の床をコンコンと叩くが、空洞を感じさせるような反響は一度も返ってこなかった。
「地下室とかはなさそう」
「そうっぽいね…」
「あそこは?」
柚葉は押し入れの前へ歩み寄り、指を差しながら言った。
そして引き戸を開けると、中には工具箱や登山用の小物、使い古されたキャンプ用品が雑然と積まれていた。
下段には、年季の入った布団が丸めてある。
「うわっ、これ…カビ生えてるよ!」
柚葉はそう言いながら、思わず口元を手で覆い、少し後ずさった。
「それはなかなかの強敵だな」
私は先ほどコンビニで買った手袋を取り出し、自分の手にはめる。
ついでにTシャツの襟元をグッと引き上げて鼻と口を覆い、カビの胞子を吸わないようにする。
「布団を出して、奥の壁を叩いてみるね」
そう言うと、柚葉柚葉は『頼む!』みたいな合掌ポーズを取る。
柚葉は若干潔癖症みたいなところがあり、対して私は全く抵抗がない。
昔、やまさくでゴキブリが出た時も同じように柚葉は合掌ポーズを取り、私が特に気にすることなくゴキブリを捕まえたことを思い出す。
私は布団をそっと引きずり出し、横に置いた。
そして足だけを押し入れの中に滑り込ませ、壁と床をコンコンと叩く。だが、そこからも空洞がありそうな反響は返ってこなかった。
「うーん何もなさそう」
「ないかー…」
次に柚葉がソファを動かし始めた。
彼女も手袋をはめ、ゆっくりと重いソファをずらしていく。
「こっちも、ないなー」と呟く。
私は棚のほうへ近づいた。
そこには、幼い頃の私、柚葉、院長先生が仲良く写った写真立てが並んでいる。
懐かしさで手を伸ばし、そっと縁に触れると、写真立てがネジでがっちり固定されていることに気づく。
レコード立ても全てが固定されている。
「ゆず、この棚の全部固定されてるみたい」
「え、どういうこと?」
柚葉も近寄り、ネジ止めされた金具を確かめる。
「ちょっと、棚ごと動かしてみようか」
「わかった」
私が棚の右側から体重をかけ、柚葉が左側を引っぱる。
すると、棚の裏から隠された扉が現れた。
「隠し部屋…本当にあった」
これは朗報でも悲報でもない。
私は埋め込み式の小さな取っ手を握り、そっと扉を押し開ける。
鍵がかかっていない扉は、ぎい、と音を立ててゆっくりと開き、その向こうに真っ暗な空間をのぞかせた。
持ち物
・ノートパソコン
・使えるスマホ
・充電器
・ノートと教科書
・ペッパースプレー
・着替え(シャツ、ズボン、下着、靴下x2)
・帽子
・メイク用品(化粧水、日焼け止め下地、パウダー、アイブロウ)
・持ち運びWIFI
・タブレット
・太陽光充電器
・ポケットナイフ
・寝袋
・懐中電灯
・ペン型録音機
・GPSタグ
・センサー式アラーム
・手袋
・お弁当
・財布(貯金:337,787円)