7 妄言
「ゆず…!」
私はベンチから飛び上がり、風に揺れる柚葉の後ろ髪をぎゅっと抱きしめた。
柚葉は「おかえり」とでも言うように、やれやれとした笑みで私を受け止める。
再会の余韻が消えかけた頃、柚葉はぷいっとドア横の隅へ視線を移し、黒く光る小さな機器を手に取った。
消しゴムほどの大きさで、側面のわずかな隙間から緑のLEDが瞬いている。
「それ、何?」
「動体検知センサーだよ。愛梨が来たら、すぐに私に通知が届くように仕込んでおいたの」
まるでスパイ映画のワンシーンのような仕込みに、私は思わず声を詰まらせた。
そのまま柚葉は駅舎の外に向かう。
「部屋、もう抑えたからついてきて。積もる話はそっちでしよう。」
*
私たちは川戸駅を出て道路の向かい側にある旅館に入る。
駅の目の前ということもあり、ずっと前から認知はしていたが、実際に中に入るのは初めてだ。
私たちは下駄を脱ぎ、木製の廊下をキュッキュと音を立てながら進んだ。
202号室の前に来ると、柚葉が静かに扉を押した。
畳敷きの部屋は障子越しの朝日で淡く染まり、座卓の上にはぽってりとした急須と湯のみが並んでいる。
掛け軸の梅の絵が、室内の凛とした空気を引き締めた。
それから私たちは長い話をした。
二日前の夜からの出来事を一つ一つ説明した。
部屋に追手が侵入したこと、空港での逃亡、霊に乗っ取られたよな老婆
──一つひとつが、静かな和室に重く、しかし確かに刻まれていった。
語り終えた頃には、空は茜色に沈みかけていた。
「本当に無事でよかった……」
柚葉は涙ぐみながら言う。
「ゆず、どうして私が狙われるってわかったの? それに警察に連絡しちゃいけないなんて……一体、何が起こってるの?」
すると柚葉は呼吸を整えるように一度だけ目を閉じ、震える声で口を開く。
「愛梨……あのね、私の目の前で、やまさくの村田さんが――殺されたの」
その言葉は、風鈴の残響をも呑み込むように、しんとした和室の空気を切り裂いた。
*
二日前:4月14日(月曜)
専門学校の授業が終わり、帰り支度をしていた矢先だった。
スマホに〈ピンポン〉とLINE通知が届く。
差出人は――村田さん。
村田さんは、私と愛梨が育った山田桜江児童養護施設で1年ほどスタッフをしていた、ちょっと変わったお兄さんだ。
――――――――
柚葉ちゃん、久しぶり。
急で本当に申し訳ないんだけど、今から会えないかな?
本当に緊急の話なんだ。
場所は梅田でも、君の都合のいいところで。
――――――――
胸騒ぎを覚えつつ、私は返信する。
鶴橋の路地裏にひっそり佇む、小さなカフェ――知る人ぞ知る隠れ家だ。
到着すると、村田さんはすでに席についていた。
以前の朗らかな笑顔はなく、眉間には深い影。
テーブルの上のカフェラテは一口も減っていない。
「村田さん、お久しぶりです!」
私は声を張り上げた。
数年ぶりの再会に心が躍るはずが、緊張で胸が引き締まる。
村田さんは苦笑いを浮かべながら応じた。
「ああ、久しぶり(苦笑い)」
緊急の話ということで、悪い知らせなのだろうとは思っていたが、この反応で確信する。
席に着きながら店員さんにブラックコーヒーを頼み、私は村田さんの方を向く。
「どうしたの? 緊急の話って…?」
村田さんは真剣な眼差しで言う。
「柚葉ちゃん、今から話すことは決して冗談や悪いイタズラではない。
信じられないかもしれないけど、全部本当なんだ」
「うん…」
私は眉をひそめて頷く。
「日本では2000年ごろから人造人間が数万人規模で社会に紛れ込んでいる。
彼らは自分が人造人間だとは思わない。
普通の人間と同じく成長し、感情を持ち、食事をし、痛みすら感じる。
で、君と愛梨ちゃんもその一人だ」
「えっ…ちょっと、何言ってるの…」
だが言葉を遮りながら村田さんは続ける。
「君たちはオムニリンクが断たれている特別な存在だから、奴らに狙われているんだ。
今日はその警告と、これを渡すために呼び出した」
そう言って、村田さんは皮のトートバッグを差し出す。
「中には色々と役に立ちそうなものをたくさん入れてある」
私は圧倒されたままバッグを受け取る。
村田さんは肩に両手を置き、震える声で言った。
「山田桜江児童養護施設には隠し部屋がある。
愛梨ちゃんと一緒にそこに行くんだ。
誰にも頼ってはいけない。警察もだ。
オムニリンクを持つ人造人間が、どこに潜んでいるかわからないから」
「えっ…いや、意味がわからない…」
私は村田さんが何かに取り憑かれたのかと思った。
すると村田さんは席を立ち、千円札を2枚テーブルに置いた。
「さあ、柚葉ちゃん。ここで長居はできない、いくよ。」
私の頼んだブラックコーヒーが届く間もなく、強引に席を立った。
外の路地裏に出ると、すっかり暗くなっている。
「じゃあ、僕はあっちだから。気をつけるんだよ」
村田さんはそう言い残し、私と反対方向へ歩き去った。
「う、うん。じゃあね…」
今何が起きたのか、全く理解できないまま私は呟いた。
しかし別れから5秒後――
『ドテッ』
鈍い音が後ろから響いた。
振り返ると、村田さんは倒れ、その傍らには赤い血の滴るナイフを手にした黒スーツの男が立っていた。
言葉にならない息が出る。
「えっ……?」
男はゆっくり、一歩ずつこちらへ向かってくる。
全身から血が引ける。
息が荒くなるが足は竦む。
そのとき村田さんがかすれ声を絞り出しながら叫んだ。
「ゆ…ゆずは…ちゃん…逃げろ!!」
脳が状況を理解しないまま、『逃げろ』の言葉だけが胸に突き刺さった。
*
柚葉は言葉に詰まりながら、2日前の出来事を説明する。
声は震え、嗚咽が混じって聞き取れない箇所も所々あった。
私は思わず立ち上がり、柚葉の背中をそっと抱きしめた。
「大丈夫、今は私もいるよ……」
私は慰めるように声をかけるが、本当は自分ですら平静を保てていなかった。
私は人造人間だと言われたのだ。
そんな存在がいるはずがないし、信じられるわけがない。
やり場のない苛立ちに胸が締め付けられ、思わず歯を食いしばる。
今まで信じてきた自分の人生の全てが、崩れ落ちていく気がした。
持ち物
・ノートパソコン
・スマホ
・充電器
・ノートと教科書
・ペッパースプレー
・着替え(シャツ、ズボン、下着、靴下x2)
・帽子
・メイク用品(化粧水、日焼け止め下地、パウダー、アイブロウ)
・財布(貯金:339,107円)