5 ドアの向こう
私は改札口を駆け抜けながら後ろを振り返った。
老婆が追いかけてくる様子はなかったが、決して安心できる状況ではなかった。
あの老婆は一体何者だったのだろう?
まるでホラー映画によくある、霊が一瞬だけ人間を操ってメッセージを伝えるような、異様な感覚が胸に広がっていた。
改めてもう一度背後を確認し、誰にもつけられていないことを確認すると、私は徐々に走る速度を落として歩き始めた。
息が上がり、胸が激しく上下している。
だが、今は呼吸を整えている場合ではなかった。
私はなんとなく先ほどGoogleマップで見た路面電車の乗り場の方向を思い出し、その方角に向けて歩を進める。
途中、駅構内のインフォメーションセンターで路面電車の乗り場の方向をスタッフに確認し、なんとか乗り場へと辿り着いた。
心の中の不安を振り払うように電車に乗り込み、揺られながら八丁堀駅へと向かった。
*
5分ほどで八丁堀駅に到着した。
路面電車を降りると目の前には広島市中心部の賑やかな街並みが広がっていた。
駅からすぐのところには活気ある金座街商店街が見え、人々が行き交い、日常的な雰囲気が漂っている。
「あのネカフェ、確かこの商店街にあっただったはず」
ネカフェの看板を探し、商店街の中を歩き回った。
飲食店や雑貨屋、洋服店など、色とりどりの店舗が並ぶ中を数十分ほど歩き続けたところで、見覚えのあるネカフェチェーン店の看板が視界に映る。
*
私は受付でリクライニングチェア付きの鍵付きの個室を選ぶ。
料金はそれなりにかかってしまうが、安全と休息を買ったと思えば仕方がない経費だ。
キーに書かれた番号の部屋に入ると、大きいリクライニングチェアとデスクトップパソコンが備え付けられていた。
快適に過ごせる空間がたった1畳ほどのスペースに収められていることに感心する。
リクライニングチェアに腰掛けると、目の前のモニターに自分の姿が反射した。
「げっ、ひっどい姿……」
部屋着のまま逃げてきたせいで服装は乱れているし、何よりも化粧を全くしていない。
私は日本の半分をすっぴんで横断していたのか。
幸いなことにここは商店街の中。
メイク用品や服ならすぐ近くで揃えられるだろう。
私はリュックを置き、財布だけを手に取ると、一度ネカフェを出ることにした。
*
商店街を数分ほど歩いていると、大通りに面したドンキホーテが目に入った。
ここなら服も化粧品も一気に低予算で揃えられる。
店内に入るとすぐに衣料品コーナーへ向かい、動きやすそうな黒のスウェットパンツ、シンプルな男性用の無地白Tシャツ、下着、靴下をカゴに入れた。
結局、無難な白Tシャツと黒パンツに落ち着いてしまうのだ。
ついでに顔を隠すための黒い帽子もカゴに追加した。
次に向かったメイク用品コーナーでは、必要最低限のアイテムだけを選ぶ。
酒粕の化粧水、オールインワンの日焼け止め下地、パウダー、それにアイブロウペンシルを手に取った。
これで最低限の身だしなみは整えられるはずだ。
買い物を始めると次から次へと欲しいものが目についてしまうが、ぐっと欲求を抑えてレジへと向かった。
合計金額は14,962円。全然悪くない。
私はまたカードで支払い、ついでにふくや靴下のタグ外しもお願いした。
*
ドンキホーテを出てネカフェに戻る途中、コンビニのファミリーマートが視界に入った。
気がつけば自然と店内へ足が向いていた。
迷わず『3色そぼろ&チキン南蛮弁当』を手に取る。
数年前、この弁当に初めて出会った時から一口惚れしてしまっており、それ以来私はファミマで弁当を買う時は、必ずと言っていいほどこれを選ぶのだ。
*
ネカフェの個室に戻り、買ってきた荷物を整理する。
新しいTシャツとロングパンツに着替えると、汚れた服を洗濯するために洗濯機へ向かった。
洗濯機をセットし、その間にシャワールームで汗と疲れを流した。
熱いシャワーが体を伝い、気分もすっきりする。
シャワーの後、日焼け止めを顔全体に塗り、軽くアイブロウを描くだけの簡単なメイクを施す。
鏡に映った自分の顔は随分マシに見えた。
手抜きメイクだけでも、するだけで結構変わる。
個室に戻ると、明日の目的地への行き方をパソコンで調べ始める。
路線情報アプリに現在地と目的地の住所を入力し、乗り換え情報を表示させる。
「明日の10時頃に出発するとして……」
徒歩 現在地 → 八丁堀駅 (9:58 → 10:03)
広島電鉄 八丁堀駅 → 紙屋町東駅(10:03 → 10:07)
徒歩 紙屋町東駅 → 広島バスセンター(10:08 → 10:11)
高速バス 広島バスセンター → 道の駅かわもと(10:15 → 12:02)
江津川本線バス 道の駅かわもと → 桜江総合センター(13:38 → 14:07)
私は乗り換え情報を忘れないようにPDFで保存し、周辺のマップ情報もすべてプリントアウトする。
念には念を入れないと、途中で迷子になったり乗り遅れたりしたら致命的だ。
私はパソコンを片手に、ネカフェのプリンターに向かう。
プリントアウトを待ちながら、急いで高速バスの予約も済ませた。
今まで必死に貯めてきた貯金が減っていくことに、謎の罪悪感が胸を痛めた。
ふと、バイト先に連絡しなければならないことを思い出す。
直近で予定を組んでいた人たち全員に連絡を入れないといけないことに気づく。
プリントが終わって部屋に戻ると、私はパソコンのLineを開いて淡々と連絡を済ませていった。
トップにピン留めされている柚葉とのチャットを確認したが、やはり既読はついていない。
*
ようやく連絡作業が終わり、ひと段落した頃には午後4時になっていた。
私はさっき買った『3色そぼろ&チキン南蛮弁当』を食べながら映画でも見て休もうと考えていた。
リクライニングチェアに深く腰掛け、ゆったりと弁当を頬張り始めた時だった。
ネカフェ内に突然言い争うような声が響き渡る。
「お客さん、困りますって。ちょっと、お客さん!」
「……」
店員と客が揉めているようだ。店員の焦ったような高い声が耳に届く。
「お客さん、会員登録してプランを選ばないとこちらには入れません!」
重い足音と、それについてくるような軽い足音の二つが次第にこちらへ近づいてくる。
「ちょっと、お客さん!ちょっと、いい加減にしてください、警察呼びますよ!?」
「……」
重い足音が私の部屋の目の前あたりで止まった。
その直後、低く渋い、心臓を直接掴むような重厚な声が響く。
「この女、ここにいなかったか」
ネカフェ内が静まり返る。
多分、個室にいる人たち全員が息を殺していた。
私は息どころか、心拍さえ抑えようと必死になった。
「し、知りません!警察でもない方にそのようなことはお答えできません!」
店員の声が頼りなく響く。
しばらく沈黙が続いた後、重い足音がゆっくりと遠ざかっていった。
店員のため息が小さく聞こえ、軽い足音も遠ざかっていった。
*
あの男が去ってから5分ほど経った。
ネカフェ内は再び静かだ。
私は帽子を深く被り、個室をそっと出て受付の方まで様子を確認しに行った。
受付付近にも行ったが、怪しい人物はいなかった。
ふと耳に入ってきた受付の店員同士の会話に、私は息を呑んだ。
「え?広島本通店にも不審者が来たんすか?」
「ああ、でもあっちはグラサンをかけた男だったって」
「じゃあ別人なんすかね」
「多分な。ただ、向こうでも女の人を探してたって」
「あんな怖い人たちに追われてるなんて、何したんすかね。気の毒っすわ」
私も、あんな人たちに追われるために何をしたのか知りたい。
別店舗にも現れたということは、まだ正確な場所は特定されていないようだ。
あの老婆が「広島駅で見た」と報告したのだろうか。
いずれにしろ、やはり油断できない。
私はその日、極力人目を避けて静かに夜を過ごした。
持ち物
・ノートパソコン
・スマホ
・充電器
・ノートと教科書
・ペッパースプレー
・着替え(シャツ、ズボン、下着、靴下x2)
・帽子
・メイク用品(化粧水、日焼け止め下地、パウダー、アイブロウ)
・財布(貯金:343,677円)