3 追跡
深夜の冷気がわずかに和らぎはじめ、空港のガラス張りの壁からうっすらと朝の光が差し込んできた。
時刻は午前5時前後だったと思う。
薄桃色の光がロビーの床に淡い影を描き、眠りについていた旅行者たちが、徐々にざわめきとともに目を覚まし始めていた。
私は、出発ロビーの片隅にあるベンチに身を潜めるように腰掛けていた。
「カツ…カツ…」――ハイヒールではない、重たく硬質な革靴の足音。
エスカレーター側の通路から聞こえてきた。
最初は誰の足音かまでは分からなかった。
ただ、その響き方に異様な冷静さを感じた。
ざわつき始めたロビーのなかで、誰もいないエスカレーターの方向から近づくその音は不自然に際立っている。
嫌な予感が胸をつき上げ、私は恐る恐るエスカレーターの方を見る。
ーーあの男だった。間違いない。
男のスーツは袖口までぴしりと皺ひとつなく、まるで仕立てたばかりのように整っていた。
手には小型の端末を握りしめ、その画面を覗き込みながら、ときどき顔を上げては左右に視線を走らせ、周囲の人影を一つ一つなぞっていく。
目元は、あのときのペッパースプレーの影響だろう。
赤く腫れ、完全には開いていない。
幸い、私は通路からは死角になる位置――ロビーの柱陰に隠れたベンチの奥側にいたため、今のところ男はこちらに気づいていない。
それでも、全身の筋肉が強張り、手のひらにはじっとりと汗がにじむ。
――どうしてここにいることがバレた?
電車に乗った時点で尾行されていた?
いや、それならもっと早く姿を見せていたはず。
私の考えが読まれていた?
そんなはずはない。
空港で夜を明かすなんて天才的な発想を当てられるわけがない。
まさか……スマホの位置情報?
私は全身に戦慄を覚えながら、ゆっくりとスマホを取り出し、画面を見つめた。
男の持つ端末が、私のスマホの信号を追っているのだとしたら、それこそ居場所が筒抜けだ。
急いで電源ボタンを長押しする。
画面が消え、ディスプレイが完全に暗くなるまで、数秒が永遠のように長く感じられた。
その直後、男がぴたりと足を止めた。
手に持つ端末から視線を外し、周囲を警戒するように見渡す。
恐らく、端末の位置情報が途絶えたのだろう。
男はゆっくりと顔を上げ、ロビーの中央へと進んでいく。
私は息を呑みながら、彼から目を離さずにズボンの右ポケットへと手を滑り込ませ、ペッパースプレーのキャップを静かに外した。
私の背後には、別の下りエスカレーターがある。
そこから逃げることもできるはずだ。
ただ、そこまでは少し距離があり、今動けば男に気づかれる恐れがある。
私は身体を低く屈め、ベンチの影に完全に身を隠す。
そして、僅かな隙を見極めるために、じっと気配を潜めて男の動向をうかがった。
これは決して、恐怖で動けなかったわけじゃない。
戦略的様子見と呼んでほしい。
私はあらかじめ、空港ロビーに並ぶ左右のベンチスペースのうち、あえて左側を選んで身を潜めていた。
それには理由がある。
以前、大学の講義で教授が語っていた、ある雑学をふと思い出したのだ。
「人は、左右に分かれる道を選ばなければならないとき、無意識に利き手側へ進む傾向がある」
その言葉を聞いたとき、私は頭の中で実際の場面を想像してみた。
確かに、何の意識もなければ右を選んでいた気がした。
面白い雑学だと思うとともに、妙に納得感があったから覚えていた。
だから私は、男が利き手である右側に自然と向かうことを見越して、あえて左側のベンチスペースを選んだ。
そして思惑通り、男は右側のベンチエリアに進んだ。
――よし
相手の行動を読めた時の快感は半端ない。
緊迫した状況で感じるこの快感はすごく不思議なものだった。
雑学に命を救われる日が来るなんて、夢にも思わなかった。
もちろん、もし彼がこちらに来たとしても「拳銃!」と叫べば、空港の警備員が駆けつけてくれるだろう。
でも、リスクは限りなくゼロに近いほうがいい。
男がこちらに背を向けた瞬間、私は行動を開始する。
膝を軽く曲げたままベンチの影を離れ、静かに音を立てず、小走りで後方のエスカレーターへと向かった。
エスカレーターはまだ稼働前のようで、近づいても動かない。
好都合だ。
音を立てずに階段のように下りることができる。
ーーよし、このまま一階下へ
私は慎重にステップを踏み、三段ほど下ったところで、そっと頭を上げて男の様子を再度確認する。
彼はまだ右側のベンチを丹念に調べているようだった。
私は小さく安堵し、目を離さずにそのまま静かにエスカレーターを下りきった。
エスカレーターを降りた右手側にはガラス張りの壁越しにタクシー乗り場が見えた。
すでに何台ものタクシーが列を成して待機している。
今は金の心配をしている場合ではない。
とにかく一刻も早く、この空港から離れなければ。
私は迷わずターミナルの大きな自動扉をくぐり抜け、止まっているタクシーの運転手に手で乗車の合図を送る。
運転手は無言でうなずき、後部座席のドアが自動で開いた。
私はリュックをぎゅっと抱え込むようにして後部座席へ滑り込み、息を整えてから伝える。
「……品川駅まで、お願いします」
「品川駅、承知いたしました」
運転手は淡々と復唱し、車は静かに動き出す。
タクシーの窓の外を、羽田空港の巨大なガラスの外壁がすうっと流れていく。
張り詰めていた緊張が、車の振動に揺られるうちにふっと解けていくのを感じた。
まぶたが重くなり、呼吸が浅くなる。視界がじわじわと滲んでいく。
私はリュックにしがみついたまま、気絶するように眠りに落ちていった。
持ち物
・ノートパソコン
・スマホ
・充電器
・ノートと教科書
・ペッパースプレー
・財布(貯金:365,087円)