2 初夜
電車がカタン、カタンと小さく揺れる。
その揺れに合わせて、私の心臓も不安に押されるように小刻みに震えていた。
とにかく急いで電車には乗ったはいいものの、どこで夜を明かすのか、まだはっきりとは決まっていない。
だが終電までの時間に余裕があるわけでもない。
この時間からでも安全に過ごせる場所を、頭の中で必死に探した。
最初に頭に浮かんだのは、新宿や渋谷、六本木といった夜でも明るい繁華街だ。
派手なネオンが夜空に瞬き、スクランブル交差点には、深夜でも多くの人が溢れている。
だが治安が良いとは言えない。
仮にさっきの男が現れて襲われたとしても、誰も助けてくれない可能性もある。
次に浮かんだのはインターネットカフェやカラオケボックスだった。
個室で夜を明かすことはできるが、もし何らかの方法であの男に居場所を掴まれた場合、狭い個室からでは逃げる方法がないだろう。
ーー明け方まで人が多くてセキュリティもいいところ…
そのとき、ふと脳裏をよぎったのが羽田空港の国際線ターミナルだった。
以前旅行で利用した際、終電後でもターミナルの中は、早朝便や深夜便を待つ旅行客で賑わっていたのを覚えている。
ロビーのベンチで仮眠を取る人も多く、深夜でも明るく開放的な雰囲気だった。
さらに、空港内には監視カメラが至る所に設置されており、定期的に警備員が巡回しているはずだ。
人目とセキュリティ。
二重の安全性が確保されれば、さすがにあの男も簡単には手を出せないだろう。
決心した私は、ポケットからスマホを取り出し、路線情報アプリを開いて急いで経路を検索する。
1.目黒線 目黒駅 → 三田駅(23:16 → 23:25)
2.浅草線 三田駅 → 泉岳寺駅(23:28 → 23:30)
3.京急線 泉岳寺駅 → 羽田空港第3ターミナル駅(23:30 → 23:54)
終電ギリギリだが、今乗っている目黒線から京急線直通の特急にうまく乗り継げば、羽田空港まで間に合う。
私はスマホを握りしめながら、羽田空港へ行くことを決意した。
*
行き先がようやく定まったことで、胸のつかえが一つ取れた。
だが、次の問題が頭に浮かぶ。柚葉との待ち合わせ場所だ。
彼女が指定したのは「三月の零番線」。
それは私と柚葉にしか通じない、とある思い出の場所だった。
だがそこは、東京からはかなり離れた遠い土地にある。
再び路線情報アプリを開き、出発地を「羽田空港第3ターミナル」、到着地をその場所の住所に設定して検索をかける。
・飛行機:片道 48,820円
・新幹線:片道 21,957円
・在来線のみ:片道約13,353円(所要時間27時間)
貯金は現在38万円ほどあるが、今後いつになったら元の日常に戻れるかもわからないため、なるべく節約しておきたいところだ。
飛行機は便利だが高すぎるし、在来線のみで移動すると時間がかかり過ぎて現実的ではない。
結局、品川から広島までは新幹線を使い、その先はローカル線を乗り継いで行くのが最も合理的な方法だと判断した。
「明日の始発で行こう」
決意を口にしながらスマホで新幹線のチケット予約アプリを起動し、4月13日 6時発の品川から広島行きの指定席をすぐに押さえる。
新幹線代は学割が適用でき、約17,000円ほどだった。残高からこの金額を差し引いても、まだ十分に余裕はある。
*
明日の予定が決まったことでわずかに安心した私は、ふと柚葉からのメッセージを思い出した。
あの妙に冷静な文面から察するに、彼女は私よりもずっと事態を把握しているようだ。
私はLineを開き、指が震えるのを抑えながらメッセージを打ち始める。
『柚葉、一体どうなってるの!?
さっき私の部屋に拳銃を持った男が入ってきて、なんとか逃げ出せたけど、何がどうなってるのか全然わからない。
警察に連絡するなってどういうこと?
とりあえず今から三月の零番線に向かうから。
どこのことか大体想像つくよ。』
送信ボタンを押す指に力を込めた。
*
目黒線から浅草線へ、そして京急空港線へと乗り継ぐ。
深夜の電車は終電を逃した人、深夜便を待つ人、工事現場に向かうような作業着姿の男性たちが混ざり合い、独特な空気を醸し出していた。
私は座席に腰を下ろし、じっと駅名表示が『羽田空港第3ターミナル』に切り替わるのを待つ。
ガタン、ゴトン。
「間もなく、羽田空港第3ターミナル…」
無機質なアナウンスを聞きながら、電車がゆっくり減速した。
ホームに降り、乗客の流れに従って進む。
改札を抜けエスカレーターで2階に上がると、そこは国際線の到着ロビーだった。
エスカレーターを降りて右に進むと、そこには広々とした空間が広がり、思ったよりも多くの人が歩いていた。
だがほとんどの人はタクシー乗り場へ向かう様子で、ここで一夜を明かそうという人影は少ない。
私は引き返し、さらにエスカレーターでもう一階上がった。
3階は本命の出発ロビーだ。
到着ロビーと同じように右へと進むと、今度は目の前に国際線のチェックインカウンターがずらりと並ぶ開放的な空間が広がっていた。
そして、その空間の左右に目を向けると、横に複数列のベンチが並ぶ休憩スペースがあった。
そこには多くの人が横になったり座ったりしていた。
ーー思ったより人が多い……!
ほっと胸をなで下ろす反面、リュックサック一つでここにいる自分が異質な『逃亡者』であることを改めて自覚した。
「このあたりが、いいかな」
私は左側の20人ほどが休んでいるベンチスペースへ足を運び、通路から見えにくい真ん中のベンチを陣取った。
*
しかし、眠気はまったく訪れなかった。
ロビーには静寂が漂い、淡い夜間照明が静かに周囲を照らしている。
ときおり床清掃ロボットのゴーッという低い機械音だけが、規則的に響いていた。
私は目を閉じ、今日起きた異常な出来事を頭の中で整理しようと試みる。
――まだ信じられない。
あの男が持っていた温度ガンのような機械、あれは一体なんだったんだ?
私の身体に、何かのチップが埋め込まれているとか?
それに、あの男は確か私を「2番」と呼んだ。
人を番号で呼ぶのは、囚人か実験体ぐらいのはずだ。
私は知らない間に何らかの実験体になっていたというのか?
「警察に連絡するな、って……」
柚葉のメッセージが頭の中をぐるぐると回る。
警察に連絡するな、ということは、もしかするとあの男は警察関係者なのだろうか?
以前見たドラマで別班とか言っていた、ああいう人間かもしれない。
いや、拳銃を一般市民に向けるような人物が警察だとは到底思えない。
あの男の冷徹な目――きっと、彼は人を殺したことがある。
もし警察でないのなら、警察内部に情報が漏れているとか。
そんな陰謀じみた想像を巡らせている自分が馬鹿らしく思え、私は深くため息をついた。
ーー柚葉は、なぜ知っていたの?
既読がつかないままのスマホ画面を眺めていると、胸の奥がちくりと痛んだ。
持ち物
・ノートパソコン
・スマホ
・充電器
・ノートと教科書
・ペッパースプレー
・財布(貯金:365,087円)