1 グッバイ、私の日常
三度目のアラームが「ピピッ、ピピッ」と静かな六畳のワンルームを震わせた。
窓辺のレースカーテン越しに柔らかな光が床を照らし、木目調のフローリングがぼんやりと浮かび上がっている。
携帯画面には〈16:30〉の文字。――バイトまで、あと30分。
「やっべ……」
私は寝ぼけ眼でふらつきながらベッドから転げ落ちるように起き上がり、そのまま洗面台へ駆け込む。
鏡の中に映った大きく開いた寝癖を見て、深くため息をついた。
こりゃ強敵だ。
蛇口をひねると、ひんやりとした水が手のひらを伝い、指先まで冷たさが染み渡る。
その濡れた指先で寝癖を何度かぐいっと撫で付けるが、髪を整えたというよりも強引に押し倒しただけの状態だ。
「直した、ってことで!」
自分に言い聞かせるように呟き、ミントの残り香を感じながら歯を磨き終える。
両手が空くと、私は洗面台の棚から日焼け止めを取り出し、慣れた手つきで顔に塗る。
そしてアイブロウペンシルを取り出し、シャッシャッと眉毛を描く。
私はリビングに戻り、クローゼットを開けると、中には適当に畳まれた衣類の山が雑然と積まれている。
一番上に置かれた白いTシャツとダークグレーのストレッチジーンズを引っ張り出し、ささっと身にまとった。
どちらもアイロンをかけた形跡は皆無だったが、バイトで動きやすいことを優先した結果だ。
ローテーブルの上は、プリントと教科書の山脈が形成されている。
私はPCなどが入ったリュックを片手で持ち上げ、財布を放り込んでおく。
「忘れ物、たぶんなしっと」
自信はゼロだが、確認している時間もゼロだ。
私はリュックを背負い、靴を履き、ドアノブを回す。
*
私は白瀬愛梨。
都内の大学に通う2年生だ。
私の朝のルーティンを知ってわかっただろう。
社不だ。
自他共に認める、テキトーの申し子として生きてきた。
だが可愛い。
この顔のおかげで今までの20年を乗り越えられたみたいなところはある。
もしイラっとしたなら、あらすじに貼った私のインスタでも見てみるといい。
それでも納得しないなら、文句はDMで受け付けよう。
そんな私は居酒屋〈三日月水産〉で週5バイトをしている。
最寄り駅の武蔵小山のロータリーの角を曲がったところにある。
身寄りがなく、一人で都内の小さなアパートに暮らしながら大学にも通っているため、生計はバイトの稼ぎと給付型奨学金でなんとかやりくりしている。
「お疲れ様でーす」
私は軽く息を弾ませながら厨房へ向かい、胸元の黒いエプロンの位置を素早く整えて、小さく丁寧に会釈した。
「愛梨ちゃん、今日は出し巻きリベンジする?」
店長はステンレスの包丁を軽快なリズムでカンカンと研ぎながら、楽しそうに意地悪な笑みを浮かべる。
「えっと……接客と皿洗い、極めます!」
半年前、キッチン担当をチャレンジさせてもらったことがある。
その時の出し巻き卵がスクランブルエッグ未満の悲しい姿になったため、それ以降『ホール専任』が私のポジションとして暗黙の了解になっていた。
今日は月曜日の早い時間帯ということもあり、店内にはカウンター席でくつろぐ二人組のサラリーマンと、窓際で静かに酒を楽しむ常連のおじさんだけ。
注文のペースは穏やかで、皿洗いの山もまだ現れていない。
私はゆったりと伝票を束ねて、カウンターの片付けに取り掛かる。
すると背後から、二つ年上のバイトリーダー・茜先輩が穏やかな声で話しかけてきた。
「今日、もしお客さん少なかったら22時にあがっていいよ~」
「ありがとうございます!」
月曜は閉店のラストまで入ると日付が変わってしまうことも珍しくないため、先輩のこの一言は私にとって貴重な『楽勝デー』がほぼ確定した。
厨房の床に散った小さな水滴が、柔らかなランプの光を受けてささやかにきらめいている。
*
その日は予想通りお客さんが少なく、私は先輩のありがたい言葉に甘えて、22時ちょうどにタイムカードを押して裏口から外に出た。
夜風がTシャツにじっとりと残った汗をさらりと拭い去り、ジーンズのひざ部分を冷たく撫でた。
「さあ、課題の続きは……まぁ明日やればいいか」
誰に言うでもない独り言をぽつりと呟いて、ゆったりとした足取りで自宅へ向けて歩き出した。
平日は22時でも駅前にはまだ大勢のサラリーマンが行き交っている。
「皆さん本当に大変そうだな……」
他人事のようにぼんやりと眺めつつも、自分自身も数年後にはこうして深夜まで働いているのだろうと、ふと自覚してしまう。
店を出てから十分ほど歩いた頃、静寂の中で突然背中の皮膚がざわりと粟立った。
「誰かにつけられてる……?」
こういう勘で当たった試しはないものの、不安を拭い去れない。
私は自然を装いながら、そっと振り返った。
すると15メートルほど後方、薄暗い街路灯の下を細長い影がすっと横切り、次の瞬間にはビルの壁際へ滑り込むようにして消えてしまった。
「気のせい、気のせい……」
自分自身に言い聞かせてみるものの、単なる気のせいとして済ませるにはあまりにも怪しい。
自宅のアパートは次の角を曲がった先で、二階までなら全力で走れば30秒もかからない距離だ。
私はそっとイヤフォンを外し、角を曲がって相手から死角に入った瞬間に音を立てずにダッシュした。
二階の踊り場までたどり着くと、壁に背を預け、顔の半分だけをそっと覗かせて階段下を伺った。
するとちょうどその瞬間、例の人物が角を曲がり姿を現した。
背は高く、黒いスーツに身を包んだ男性だ。
短く刈り込まれたスポーツ刈りの髪が街灯の光をわずかに反射している。
男はその場で立ち止まり、左右をキョロキョロと見回す。
その不自然な動きは偶然通りかかっただけの通行人にはとても見えない。
「あれ、本当にストーカーなんじゃ……」
そう直感した瞬間、私は再び階段を駆け上がり、自室へと滑り込むように入った。
*
「今日は、ほんと災難だった……」
心の中で呟きつつ、私は玄関マットの上で靴を静かに脱ぎ、丁寧にかかとを揃えた。
ドアをロックしても、なかなか胸の動悸がおさまらない。
念のため洗面所の吊り戸棚の奥を探り、小さなスプレー缶を取り出した。
鮮やかなオレンジ色のラベルには“PEPPER DEFENSE”と書かれている。
深夜番組の通販で『女の子の一人暮らしにおすすめ!』と煽られ、つい衝動買いしたものの、一度も使わずに放置していた。
缶の側面に刻まれた消費期限を確認すると、まだ十分余裕があり、少しだけ安心する。
スプレー缶を握りしめたままリビングへ戻り、部屋の電気を点けて、ベッドサイドのテーブルにそっと缶を置いた。
その隣の木製の写真立てに視線が移る。
写真立ての中には中学卒業式の日に撮った一枚――制服のブレザーの袖を引っ張り合いながら、私と幼なじみの桜井柚葉が満面の笑みを浮かべている。
柚葉の頬に貼られた絆創膏まで鮮明に写っていて、見るたびに胸がじんわりと温かくなった。
*
その後は普通にいつもの日常を続けた。
シャワーを浴び、Tシャツ地の部屋着に着替え、フェイスパックをつけながら、ベッドに座ってテレビをつける。
テレビの音があるだけで部屋が一気に賑やかになり、少しだけ安心感が戻ってきた。
しかし、その安心感も長くは続かなかった。
〈カチャカチャ〉
玄関から短く不規則な金属音が響き、私の背筋が一瞬で凍りついた。
ーーまさか
私は息を止め、ベッドに座ったまま通路越しの玄関の方をじっと見つめる。
続けて「ガチャッ」と乾いた衝撃音が響く。
ドアノブのラッチが外れる音と共に取っ手が反時計回りにゆっくり回り、縦の位置で止まった。
私はチェーンを掛け忘れていたことを激しく後悔する。
ドアがゆっくりと押し開かれ、黒に近い紺色のスーツを着た無表情な男が姿を現した。
30代ぐらいで私より頭二つ分ほど背が高く、がっしりした肩幅、短いスポーツ刈りの髪
――先ほどのストーカーと思しき男だ。
私は本当に怖い時は体が動かなくなると言うが、体が動かないというか、体の動かし方を忘れる。
立ちあがろうにも、足への力の入れ方が分からない。
叫ぼうにも息が吸えないし喉を動かせない。
恐怖や絶望すらも塗りつぶすように頭が空白になる。
男は無言で玄関に入り、迷いもなく部屋の中へと進んでくる。
男は私の前まで来ると、ポケットから温度ガンのような小型機器を取り出し、私に向けて〈ピッ〉と鳴らす。
その画面を見た男はぎこちなく微笑んだ。
「2番か。大人しく来れば、痛い思いはしなくて済む」
淡々とした口調だったが、その言葉は明らかな脅迫だった。
男は反対側のポケットからサイレンサー付きの拳銃を取り出した。
――こいつはストーカーなんかじゃない。
その生気のない瞳からは冷酷さと躊躇いのなさがはっきりと伝わってきた。
男は拳銃を片手に、手を前で組んだ丁寧な姿勢を取っている。
銃口は床に向けられているから、私を殺すことが目的ではないことが本能的にわかった。
頭が動き出し『逃げる』『従う』『抗う』の選択肢が浮かぶ。
しかし体はいずれも実行しようとしない。
〈ピピッ、ピピッ〉23:00――明日提出の課題用にセットした大音量のアラームが、ベッドのサイドデスクで充電していたスマホから鳴り響く。
あまりにも緊迫した空気感を横切るアラーム元に私と男の目線が向かう。
ーー今しかない!
アラームでハッとさせられ、身体が脳からの指令を受け付けるようになった私は、スマホの横にあったペッパースプレーを掴んだ。
その一連の動作を続けながら、親指でペッパースプレーのキャップを弾き、男の顔に向かって思い切り噴射した。
「――っ!」
赤茶色の霧が男の目を襲う。
男は言葉にならないうめきを漏らしながら、両手で顔を覆った。
握っていた拳銃が力を失った手から滑り落ち、鈍い音を立てて床に転がった。
その瞬間を逃さず、私は全身の力を込めて男の股間を思い切り蹴り上げる。
男は苦痛で身をよじり、腹部を抱え込むようにして床に倒れこんだ。
――逃げろ!
心の中で叫び、私は反射的にリュックを背負い、ベッドサイドでアラームを鳴らせ続けるスマホを震える手で掴み、部屋から飛び出した。
*
恐怖に突き動かされるまま、階段を一気に駆け下りる。
バイトで溜まった疲れなど、もはや微塵も感じなかった。
ただひたすら逃げることだけを考えて足を動かす。
叫んで助けを呼ぼうとしたが、喉元まで出かかった声を寸前で抑え込んだ。
拳銃を持っているあの男に、助けに来てくれた人が巻き込まれることは避けたい。
とにかく人の多いところに向かえと本能が叫ぶ。
この辺りで一番人が多く安全そうな場所といえば駅だ。
私は後ろを何度も振り返りつつ、最短の道で住宅街の細い路地を縫うように駆け抜けた。
*
走り続けること数分、徐々に駅前のロータリーが視界に入り始めると、胸の中に安堵が広がった。
時計台の針は23:10を指している。
駅の改札前には制服姿の学生やスーツを着たサラリーマン、酒に酔った人たちが混ざり合い、絶え間ないざわめきが流れている。
人混みの温かな熱気が私を包み込み、無意識のうちに緊張が緩んだ。
ここなら安心できる――本能が強くそう訴えている。
私は改札横のみどりの窓口前に立ち止まり、未だ震える手でスマホを取り出し、〈110〉をタップしようとした。
ピロリン♪
不意にLINEの通知音が響く。
画面を確認すると、幼なじみの柚葉からのメッセージだった。
ーーーーーーーーーーー
【緊急】
愛梨、久しぶり。突然こんな連絡で本当にごめん。
今から言うことをよく聞いて、絶対に冷静に行動してほしい。
あなたは今、何者かに狙われている。
理由は複雑で、ここでは詳しく説明できないけど、あなたの命が危ない。
もし今一人でいるなら、すぐに人目のある明るい場所へ移動して。
あと絶対に警察に連絡しちゃだめ。警察は安全じゃない。
二日後の4月16日、「3月の零番線」で待ってる。
覚えてるよね、私たちだけが知ってる、あの思い出の場所。
今は何が起きているのか、まったく意味が分からないと思うけど、
お願い、私を信じて。絶対に逃げ切って。あなたが無事でいてくれないと困る。
必ず会おう。
ーーーーーーーーーーー
記憶がある頃から中学まで一緒に育てられ、家族同然の親友である柚葉。
いつでも明るく、太陽のような笑顔を絶やさない彼女が、これほど冷静で緊迫したメッセージを送るなんて。
しかもこの状況で一番頼りたい警察が危ないとはどういう事だ。
さっき起こったこと、そしてこのメッセージ、訳が分からない。
しかし、柚葉が警告しているのは、間違いなくあのスーツ姿の男のことだろう。
なぜ彼女がこんな状況を予見できたのかもわからないが、の言葉なら、私は無条件で信じられる。
「10分、遅いよ……」
震える声でそう小さくつぶやきながら、私はスマホをぎゅっと握り締めた。
〈3月の零番線〉
これは私と柚葉にしか理解できない暗号なのだろう。
零番線とは、おそらく実在しないホームを示しているのだろうか。
そして『3月』というヒントから察するに――。
思い当たる場所はある。というか、ほぼ間違いなくあそこしかない。
ただ、2日間で向かうには決して近くない距離だ。
とにかく今夜は、ここからできる限り遠く離れた場所で夜を明かすことに決めた。
私は掲示板をチラリと確認してから、自動改札を通った。
行き先が明確に定まらぬまま、目黒方面行きの目黒線に飛び乗る。
窓ガラスに映った私の瞳は、これから激しく一変するであろう人生を予感しているように、小刻みに震えていた。
持ち物
・ノートパソコン
・スマホ
・充電器
・ノートと教科書
・ペッパースプレー
・財布(貯金:382,467円)