桜塚の影
実家の近所には、桜塚なんてところがある。その名の通り、10坪程の土地に桜が7〜8本植えてある場所だ。もちろん、正式名称ではなく地域の住民が勝手に呼んでいるだけだが。隣に立つボロボロの家とあいまって、そこはかとなくおどろおどろしい雰囲気をかんじてしまう。
帰省の電車の車窓からチラッとそこを見て、なんとなく思い出した。あそこには碌な思い出がない。
今回、実家に帰ってきたのは、先日なくなった実父の相続の話し合いのためだ。気の強い叔母がゴネだしたので、弁護士を同席させることになったからだ。ただただめんどくさい予感しかない。
ああ、やっと駅に着いた。もう疲れた。
大きなため息をつきながら駅から出ると、そこに見知った顔がいた。
「お、シュンヤじゃないか」
「あ、おじさん」
「出迎えか?ご苦労さん。ああ、あと名前呼びでいいぜ?おじさんじゃ多分みんな振り返るからな」
「じゃあ、ナオキ」
「いきなり呼び捨てかよ」
「名前で呼べっつったじゃん」
「それでもちったぁ何か付けるだろ」
親類の子の頭をグリグリなでながら、シュンヤの「なんて呼べばいいんだよ!」という意見は無視した。なかなかかわいいヤツだ。
実家へ向かう途中、シュンヤと歩きながら話していた。桜塚の前を通った時に、とんでもないことを言い出した。
「実はオレ、待ち合わせ中だったんだよ。桜塚の隣のボロ家に探検行こうって約束したんだ」
俺は顔を顰めてしまった。
「俺の出迎えじゃなかったのかよ。探検はやめとけ。不法侵入だ」
「大丈夫だって。バレないって」
気楽そうに答えるシュンヤに俺はますます苦い顔をした。あそこにはあれがいる。
行きたくない いきたくない
そんなこっちの事情をサクッと無視したシュンヤは、得意げにボロ家の一角を指差した。
「ほら、こっから入るのさ」
そこには子供がやっと一人くぐれそうな破れ網戸があった。
「おい、やめとけって」
こちとら必死に止めるのに、あいつは聞く耳持ちやしない。
「な〜に〜?おじさん怖いの?」
「違う、人の家に勝手に入るもんじゃないって言ってるんだ」
「大丈夫だって!あいつら先に行ってるかもしれないし、じゃーねー」
そう言ってシュンヤはスルリと中に入って行ってしまった。
俺は頭を抱えた。
「ああ、もう!だから言わんこっちゃない」
慌てて後を追おうとしたが、網戸は無情にも閉まってしまった。破れてるんだから閉めても意味ない気がするんだが。
「おい、シュンヤー?」
外から声をかけたが返事がない。
やばくないか、これ。
「……シュンヤ?」
もう一度名前を呼んでみる。でも、返事はなかった。さっきまであんなに元気だった声が、ぴたりと止んでしまったのが妙に気味悪い。
まさか、とは思うけど――。
俺は意を決して、破れた網戸をめくって中を覗いた。埃とカビの匂いが鼻を刺す。木材が湿気で歪んで軋んだのか、床は斜めに沈んでいた。一部は剥がれて基礎部分の土が見えている。家具らしいものはなく、ガランとしていた。
「おい、冗談だろ……」
中は思った以上に広く、静かだった。まるで誰かがこちらの気配を伺っているような圧迫感がある。胸の奥がじわじわと冷えていく。
そのとき、奥の部屋の襖が、音もなくスッと開いた。
「……!」
息を呑んだ俺の目の前に現れたのは――シュンヤだった。
ただし、様子がおかしい。
目を見開いたまま、何も言わずに突っ立っている。顔色がひどく悪い。
「……どうした? シュンヤ?」
そっと声をかけると、彼はぎこちなく首を傾けた。ゆっくりと上がった手は、俺を指差した。
「ずっとまってたんだよ」
ぞくり、と背筋が凍った。
反射的にその“うしろ”を見た。だが、そこには誰もいない。ただの空間、ただの襖――
……のはずだった。
襖の縁に、白く細い指がかかっていた。
次の瞬間、バン!と音を立てて襖が閉まった。何かが、目にも留まらぬ速さで動いた気がした。
「走れ、シュンヤ!!」
叫ぶと同時に、彼の手を掴んで引っ張った。破れた網戸を無理やりこじ開け、外へ転げ出る。
「……っ、はぁ、はぁ……!」
息を切らしながら顔を上げると、家の中から、女の声が聞こえた。
「どうして……どうして……」
振り返ると、網戸の向こう。白く浮かぶ女の顔が、じっとこちらを見ていた。
あの顔は、忘れられない。
いや、忘れ去りたい。
あれは、高校卒業前の2月終わりのことだった。俺は大学決まったし、高校は行かなくていいし、気楽な進学準備生活という名のグータラ生活を送っていた。
そこへ彼女からの電話が来た。
至急、会って話したいという。切羽詰まった様子に何かを感じた俺は、桜塚の横の空き家の近くで会おうと約束した。
家族や親類曰く、その頃から桜塚横の空き家は持ち主は不明だし、古すぎて築年数が分からないのものだと聞いていた。
だからこそ、噂話と相まって地元民もその場所を避けてるようだった。
そこへ俺は彼女を呼び出した。何を言われるにしても、人目がないからだ。
あまり顔色が冴えない彼女は、外で話したくない、と言い出し仕方なくボロ家に不本意だが侵入したのだ。
入ってすぐのリビングの跡と思われる、椅子がポツンと一つある基礎剥き出しの部屋について早々に彼女が口を開いた。
「私ね、妊娠したの」
若干震える声で発した言葉を聞いたとき、俺は目の前が暗くなった。
そして、彼女を殴っていた。
ふざけるな、とか、俺の将来真っ暗だ、とか、親にどう説明するんだとか。碌でもない考えしかよぎらない。
俺の邪魔しやがってもう一発、と思い振り返ると、彼女は倒れていた。
部屋にただ一つあった椅子の角を真っ赤に染めて。
倒れた拍子に頭を打ったのだろう。血がジワジワと広がっていっている。
悪魔のささやきが俺をそそのかす。
そのまま彼女を埋めればいいじゃん
と。
地元民も避けて通るような所だ。どうせ誰も見ちゃいない。そのままやってしまえ。
そうして、俺は彼女を埋めた。
あの椅子を墓標として。
俺も事情は聞かれたが、彼女は行方不明扱いとなり、時間は過ぎていった。
這々の体で、空き家から出てきたが、手を繋いで共に出てきたはずのシュンヤがいない。
まさかまだ中に?
こわごわと家の中を覗くと、あの墓標代わりの椅子にシュンヤが座っていた。
「おい、それに座るな」
「何で?」
「それは…」
「オレの母さんの墓だから?」
時が止まった。なんだって?
「なんで…それを…」
「だって、母さんがいってたから」
「だって…それじゃ…彼女は行方不明だって…」
首が締まったように言葉が出ない。
いや、何が冷たいものでゆっくりと締められている。
「母さんは死んでるよ。あの時に」
「じゃあ…おま…えは…」
「母さんが産むはずだった子供だよ」
ありえない。そんなこと、あるはずがない。
「シュンヤ…?」
頭がガンガン鳴り、口の中には土と血の味が混じっている。辺りは真っ暗で、かすかな風が頬を撫でるだけ。どこだ、ここは?体を起こそうとしたが、手足が妙に重い。まるで何かに押さえつけられているかのようだ。
「シュンヤ……?」
声を出したが、喉がカラカラで掠れた音しか出ない。ふと、指先に何か柔らかいものが触れた。土の中から、細い髪の毛のような感触。反射的に手を引くと、指先がべっとりと濡れている。暗闇の中で見えないが、鼻を刺す鉄錆のような匂いが広がった。
「やめろ……冗談だろ……」
心臓がバクバクと暴れ出す。慌てて這うように後ずさると、背中が何か硬いものにぶつかった。振り返ると、そこにはあの椅子――彼女の血で染まった、墓標の椅子が立っていた。
「ずっと……待ってたんだよ……」
シュンヤの声が、すぐ近くで聞こえた。だが、暗闇に彼の姿はない。声だけが、耳元で囁くように響く。ゾッとするほど冷たい息が首筋を這った。
「シュンヤ! どこだ! 出てこい!」
叫んだ瞬間、足元でガサリと音がした。土が動く音。ゆっくりと、何かが這い上がってくるような気配。俺は息を止め、じっとその方向を見つめた。
髪だ。長い、黒い髪が、土の中から這い出てくる。
「やめて……やめてくれ……」
声が震える。彼女の顔が脳裏をよぎる。あの日の、血に染まった顔。這い出てきたのは彼女だった。あの時と同じ服を着て、首を不自然に曲げながら、ゆっくりと立ち上がった。顔は見えない。いや、見たくない。髪の隙間から覗く目は、まるで底なしの闇のように黒い。
「どうして……置いていったの……」
その声は、彼女の声だった。いや、彼女とシュンヤの声が混じり合ったような、不気味な二重の響き。女が一歩近づくたび、地面がミシミシと軋む。まるでこの空間自体が、俺を飲み込もうとしているかのように。
「ごめん……悪かった……許してくれ……」
言葉を絞り出すが、女は止まらない。いや、女だけじゃない。暗闇の奥から、複数の気配が迫ってくる。ガサガサと土を掻く音。低く呻くような声。まるで、俺があの日に埋めた罪が、すべて這い上がってくるかのようだ。どこか遠くで赤ん坊の泣き声も聞こえる。
突然、女の手が俺の腕を掴んだ。冷たく、骨のように硬い感触。悲鳴を上げた瞬間、地面が崩れ、俺は暗闇の底へと落ちていった。
気がつくと病院のベッドの上だった。目を開けると叔母の顔が視界いっぱいにあって、思わず叫んでしまった。
「失礼ね。叫ぶなんて」
「あ…いや…すいません…俺、なんでここにいるんでしょうか…?」
「あんた、桜塚の脇で倒れてたのよ。警察から連絡あってね、救急車で運ばれたって聞いたときには肝が冷えたわ」
「すいません」
「お医者様も別段悪いところはないって言ってたし、謝ることはないわ」
「ありがとうございます」
「あなたのお母さんは入院手続き行っていないけど、もう戻ってくるんじゃないかしら?」
母に泣きつかれながら、医師の診断を受け、退院許可をもぎ取り退院手続きをこなしてから叔母の車に乗った。
桜塚のすぐそばを車で走る。実家への近道とは言え、嫌な気分しかない。気を紛らわせるように隣に座る母に聞いてみた。
「桜塚ってさあ、なんで桜塚って言うの」
「あそこはね、戦時中に亡くなった子供達の埋葬地なの。墓石の代わりに桜を植えたんですって。あの端にはお地蔵さまがあってね。子供を見守るって言われているの」
だからか。だからシュンヤが存在したのか。
あの家も、網戸も、まるで昨夜の出来事が夢だったかのように静かだ。だが、胸の奥に残る恐怖は本物だった。あの女の声、あの目。あれは夢なんかじゃない。
実家に戻ると、叔母や弁護士との相続の話し合いが始まったが、俺の頭は上の空だった。シュンヤの行方がわからない。あの子は実在したのか?だとしたら手の込んだイタズラだよな。じゃあ、あの子は一体どこに?警察に届けようかと思ったが、なんて説明すればいい? 「幽霊が出た」なんて、誰が信じる?
母にそれとなく聞いてみることにした。
「シュンヤって元気かな?」
「誰のこと?」
「え?」
まさか、そんな、
「父さんの葬式の時にいた、十歳位の男の子だよ」
「そんな子みたことないわよ?親類にもそれくらいの年齢の子は居ないし」
あれは、あの時から、出てきていたということなのか?
夜、疲れ果ててベッドに横になると、窓の外でガサリと音がした。桜塚の方からだ。恐る恐るカーテンを開けると、遠くに白い影が揺れている。あの女だ。いや、女の隣に、もう一つ小さな影があった。シュンヤの姿に似ている。
「ずっと……一緒だよ……」
囁き声が聞こえた。窓を閉め、カーテンを引いても、声は頭の中で響き続ける。彼女が、シュンヤが、この家が、桜塚が――俺を許さない。
翌朝、俺は実家を後にした。二度と帰らないつもりだ。だが、電車の車窓から桜塚が見えた瞬間、背筋が凍った。あのボロ家の網戸の向こうに、白い顔がこちらをじっと見ていた。彼女の顔。そして、その隣にはシュンヤが立っていた。二人とも、微笑んでいるように見えた。
電車が動き出し、桜塚が視界から消えても、俺の心は闇の底に沈んだままだった。あの家は、俺をずっと待ち続けている。いつか、必ず、俺を飲み込むために。